気が付くと森の奥まで来ていた。これ以上進むと危険かもしれない。
太い木の幹に手をついて呼吸を落ち着ける。足首が強烈な痛みを訴えている。いつの間にか暗くなっていた。木々の間から夕日がスポットライトのように地面に落ちて、その間を埃が通りキラキラと光る。
ぼんやりと塵を見つめていると、風が体の表面を滑っていくのが分かった。かさかさという乾いた音が響いている。
風と共に気配が届く。全身に鳥肌が立って、辺りに視線を走らせた。
奥に、木の根元が複雑に絡み合いアーチ状になっている場所があった。蔦のような草がカーテンのようにおおっている。近づいて、暖簾をくぐるように草を押し退けると、中が空洞になっていた。
猫のように身を滑り込ませてしゃがみ込む。不安を紛らわせるために刀を抱いた。木の中は小さな洞窟みたいだった。片膝を立てて草の間から向こう側の景色を覗く。藪や木があるばかりで生き物の気配はなかった。
心がざわざわとして落ちつかない。だれも追ってきていないと思うが、嫌な予感がした。見えない腕がのびてきてこちらを掴もうとしている映像が浮かぶ。膝丸が近くにいる気がした。
本当にしつこい。彼は蛇に似ていると誰かが口にしていたけれど、本当にその通りだと思う。
固体差かもしれない。が、私の元に来た彼は少しようすがおかしかった。
無口で、いつも下を向いていた。
演練で同じ刀を見たことがあるけれど、彼らの表情の豊かさに驚いた。通り過ぎたほんの一瞬しか見えなかったが、鋭角的な横顔は優しさで溢れていた。
とはいえ呼び出した膝丸も、戦場に出せばその実力を遺憾なく発揮してくれたので、とくに問題視してはいなかった。
それなのに。ここへきて、彼の異常性が姿を表した気がする。
人の気配が無くなったので、草のカーテンをかき分け外を見渡す。日が落ち切って夜の闇に包まれていた。
腰を折って木の根を潜るようにして外に出るが、やはり誰も居ない。
そのまま軽く走りながら獣道を進む。水の音が聞こえてくると安心した。最近は狼に追いかけられた末にたどり着いた川原で寝泊まりしていた。
寝床に近づくにつれて安心するなんて、野生の動物みたいだ。そんなことを思いながら苦笑した時――がくんと体が後ろに引っ張られる。
刀に手をかけながら振り替える。膝丸がいた。背筋に冷たいものが走る。
彼はもう布を被っていなかった。黒く染めあげられた髪が見える。二つの金色が此方を見つめている。表情に乏しく、何を考えているのか分からなかった。
彼が刀に手をかける。瞬間、捕まれていない方の手を十字に切った。
男の体が硬直する。瞳が猫のように丸くなる。引き抜いた刀に目をやり、数秒遅れて、森の中に絶叫が響いた。
するすると地面から帯のような形をした影がのびる。それは素晴らしい速度で男の四肢を拘束した。
掴まれていた右手首が痛い。挙動を確認しながら一歩ずつ後ろに下がった。
彼は身を捩りながら右手に握っている刀を見つめ、瞳を限界まで大きくさせた。
「ぁ、あ。……嫌だ、嫌だ嫌だ! とまれ!」
充分に距離が取れたので少し余裕を持って眺める。彼は自由にできる部分を懸命に動かして刀身に触れようとしていた。
「錆びていく……そんな。やめてくれ!」
術はちゃんと効いているようだった。これは受けた者が一番恐怖しているものを見せることができる。彼の場合は錆びのようだ。
刀らしいと感心しながら、もう一度左手を振った。身を裂くような絶叫が空気を震わせる。木にとまっていた鳥が、驚いて何匹か飛んでいった。
刀は一ミリも錆びていない。美しい輝きを放っている。彼にはどんな風景が見えているのだろう。
異様な光景だった。男は発狂したように激しく身を捩ったかと思えば、次の瞬間、電気が走ったように体を硬直させ、ぶつりと沈黙する。
何となく怖くなって、近くに寄ってみた。手を伸ばせば触れそうになる距離まで来たところで、まじまじと観察する。
彼は白目をむいていた。口をだらしなくあけ、真っ赤な舌がのぞいている。立ったまま失神していた。
錆びるということは、そこまでの恐怖なのかと、可哀そうに思ってしまう。ちょうど空いている方の手から僅かに血が出ているのが見えて、申し訳なくなった。
視線は固定したままで、ゆっくりと後退し、もう大丈夫だろうという所で踵をかえす。
もうあの川原には行けない。あそこは澄んでいて不浄なものが寄ってこない、お気に入りの場所だったのに。
ため息をつきながら歩いていると、後方から弱弱しい声がした。
「あ、あ。主。……まて、待って」
縋るような声色に、怒りの炎が燃えさかる。
「誰のことを言っているのかさっぱり分からないけど。これに懲りたら元の場所へ帰って」
知っていれば幻想を操ることなど容易い。同じ術を呟くと、今日一番の悲鳴が聞こえた。
少しだけ足を速める。音が止んだと同じタイミングで手をひとつ打った。重いものが地面に崩れる音がする。
それにはかまわずに、森の奥へと足を進めた。