劫火_01 - 4/9

指の間を冷たい水が流れていく。片方だけ立てている膝に頬を付けて腫れている足首を眺めた。
左足をそっとあげる。触れてみると、僅かに熱を持っていた。二階から着地したときにくじいてしまったようだ。指の腹でそっと触れると、内側から叩くような痛みが襲って来る。眉間に皺を寄せ腫れている部分を苦々し気に見つめた。
昨日の男は――間違いなく、太刀、膝丸だった。
どうりで姿勢が良いわけだ。それに、隣に座られたときから何か変だと思っていた。人間離れしていて、隠しきれない気品のようなものがにじみ出ていた。
でも、昨日会った彼はようすが少し変だった。まず、頭。柔らかく淡い色の髪は炭をかぶったような色に変わっていた。次に服。なぜか彼は旅装束を着ていた。どこぞの商人です、と言っても通じそうな、みすぼらしい服に。
遠征で来ていたとしても、ここまで人に近づくことなどあるのだろうか。記憶の中にいる男士達は皆、戦装束を身に纏っていた。遠征について行ったことは無かったが、恐らく彼らは物陰に隠れたりして、敵が出てきたときに倒すのだろう。
月の光に照らされた瞳を思い出す。
身を寄せられた時にお香のような懐かしい匂いがした。そして、鼓膜を震わせた優しい声。
何となく後ろ手をついて空を見上げる。木々が視界を覆っていて、早朝の空気が辺りを包んでいた。川の流れる音がしている。それに混じって、高い鳥の声も聞こえた。
足をぶらぶらさせて水面を叩く。
膝丸は、私の事を恨んでいるのだろうか。
きっとそうだろうと思う。だって、そうでもなければ、こんな所まで追いかけてくるはずがない。
最後に見たのは二年も前で、あの頃私は今よりもずっと弱くて未熟だった。
いつもの昼下がり。たまたま近侍だった膝丸と一緒に買い物をして、帰りがてらのんびりと河原沿いを歩いていたら、不意に後方から悲鳴があがった。
荷物を持っていた膝丸が先に顔をあげる。
彼はいつも地面を見つめていた。それがなぜだかはよく分からない。
はっきり言って仲はあまり良くなかった。廊下で声をかけても反応は悪いし、手が触れそうになると嫌そうに身を捩られることもあった。
しかしそんな間柄でも、彼はきっちりと命を張るべきところで行動した。
河原沿いをのびる一本道は恐ろしく先のほうまで見渡せた。長閑な風景の中、それは異様で、暴力的な醜悪さのまま目に飛び込んでくる。
人影が揺らぐ。空間に生まれた裂け目から現れたのは、体長が五メートルはあろうかという大太刀だった。すだれのような黒い髪から赤い瞳が光っている。
敵は目が合うと、大きな声で何か意味の分からない言葉を発し、真っ直ぐに走ってきた。
みるみる近づいてくる影を茫然と見つめる。術は少し使えたけれど、剣はまるで扱えなかった。だから、人形のように突っ立って眺めることしか出来なかった。
銀色の光が網膜を焼く。
――膝丸が敵の刃を受けて崩れ落ちたときも、ただ見ていることしか出来なかった。
あの日の風景はどんなに時間が経っても消えてくれない。
初夏で、草木が緑色に輝いて、風に葉を震わせていた。美しい景色の中、血濡れになっている男はあまりに非現実的だった。
膝をつき手を伸ばす。血に濡れた頬を撫で少しでも苦痛が和らぐように力を送る。
なんていうのは妄想で、実際の私はあろうことか――今にも折れそうな膝丸を置いて逃げたのだった。
そこまでを思い出し、思考を振り切るように首を振る。
心を襲うのは後悔だった。どうして逃げてしまったのだろう。
理由は分かっている。己の心の弱さからだ。力を失い崩れ落ちる脚。力なく伸ばされた手。
金色の瞳が責めている。きっと彼は恨んでいるだろう。あれからすぐに過去へと飛んでしまったから。
刀というものは、所詮は物。だから、基本的に持ち主以外の人間に好意はない。膝丸は私が居なくなったあと、新しい主に霊力の上書きをされているだろう。
耳の奥で懐かしい音がする。
やっと会えた、と言っていた。今仕えている主の命令で来ているのか、独断なのか全く分からないけれど、もし私に会おうと思って過去へ来たのだとしたら、その執念には舌を巻く。
まるで蛇だ。
温度のない冷たい生き物。狡猾で残忍。狙った獲物はどこまでも追いかけ、仕留めて丸のみにする。
遠くのほうで動物の鳴き声がし、意識を現実に戻した。
足を水から引き抜いて、薄い布でぐるぐる巻きにする。水がしたたり落ちて砂利の色を黒くしていく。濡れている部分を軽く拭きとり、足首をきつく縛って固定した。
最初の頃よりだいぶ痛みがましになっていた。
刀を杖の代わりにしてよろよろと立ち上がる。少し立ち眩みがするので、瞼をとじてやり過ごした。
やっぱり固定しただけでは完全には良くならなくて、足を地面につけるたびに刺すような痛みが走った。
でも、歩き続けるしかない。止まることなんて出来ない。

一度村に戻って聞き込みをすることにした。
最初に目をつけたのは食事処だった。小さな店に入る。右側に一人用の席があり、奥には四人掛けの机が二つあり、迷わずカウンターの席に座ると、運よく隣の男二人がそれらしい噂話をしていた。適当に近くにきた店番の女性に声をかけて、団子とお茶を注文しながら耳を澄ませる。
「最近ここらで物の怪が出るらしい」
「そんなわけあるか。あれは人里には出ない。嘘に決まっている」
早くも話の本題に入ってくれてほっとする。
男はどちらも店の中に響くような声で話をしていた。体ががっしりとしていて、両足を大きく広げている。
こういう姿勢は自分に自信が無いと出来ない。
足のあたりに柔らかい感触が走り、驚いて机の下を覗くと、太った三毛猫がいた。体当たりをするようにして、しきりに脹脛へ腹をこすりつけている。そっと抱き上げて膝に置くと、猫は人慣れしているようで、足をたたんで箱のような形になった。
「屋敷の周辺で人が消えるらしい。女、子供、関係なく。昨日は裏のじいさんが消えた。あれは酷く年を取って、骨と皮ばかりだったにもかかわらずだ」
丸くなった猫の背中を撫でながら、それは変だと思った。物の怪はなぜか若い女や子供を狙う。先日森で襲ってきた狼がいい例だ。私が若い女と知った瞬間、目の色を変えていた。あんまり想像はしたくないけれど、味に違いがあるのかもしれない。
カタンと目の前にお皿が用意されて、猫から視線をあげる。にっこりと笑った店の女性が「おまちどさま」と言う。ぎこちなく会釈で返すと、視界の端に光るものがあった。
「あの、すみません」
「どうしました?」
「もう一種類、お願いしていいですか」
団子を注文するふりをして少しだけ体を寄せる。気が付かれないように注意しながら、腰の辺りに指先を滑らせた。視線は前に向いたまま手を動かすと、なんだか痴漢をしているような気持ちになってしまう。
だが女は何も気が付かなかったようで、にこりと笑って踵を返した。愛想笑いを浮かべたままさりげなく人差し指を確認する。爪の先に銀色の何かが付いていた。
切れないように慎重に引っ張り眼前にかざす。粘性があるそれは、一本の蜘蛛の糸だった。
違和感が駆け巡る。懐から、紙で出来た人型を取り出し雲の糸の端に括りつけ、テーブルの下に忍ばせた。
ふと視線を感じて猫に目を向ける。彼――彼女、かもしれないが、猫は瞳を細めてこちらを眺めていた。なにもかもお見通しだ、というような表情に苦笑いを浮かべつつ、丸くなっている背を撫でた。手のひらを滑る、つるつるとした感触に気分を良くする。
そのまま窓の外を何となく眺めていると、視界の端に黒い影が過り、膝に乗っていた猫を落っことしてしまいそうになった。
すぐそばの通りに布を被った男がいた。彼はなんでもない風を装いながら、しきりに辺りへ目を配っている。誰かを探しているみたいで、きょろきょろと挙動不審な動きをしていた。
心臓の鼓動が大きくなる。そっと猫を床に下ろし、団子を持ってきた女に頭を下げた。
「ごめんなさい。急用ができてしまって。それ良かったらあなたが食べて」
問答無用とばかりにお金を机に置く。困惑したようすの女性には構わず、その場を後にした。
裏口から静かに顔を出す。それらしい男は見えなかった。心臓が早鐘を打っている。体は油断するなと警鐘を鳴らしている。しばらく息を詰めて、人の気配をさぐった。
穏やかな昼下がりだった。そこかしこに人の笑い声と、時折怒ったような声が響いている。
一歩足を踏みだし人の流れに乗った。そのまま数十メートルを歩き、流れる木枝のように人込みから抜ける。
土手を下り、森の入り口を目指した。木が丸くくりぬかれたような場所に向かう。昼間なのに森は暗く、闇が口を開いて待っていた。
藪をかき分けて奥に進むとすぐに獣道に出た。朝に通った道をつき進む。
頭の中でついさきほど耳にした言葉を反芻した。屋敷の周辺で人が消えるということは、きっと物の怪――か、化け物かはよく分からないけど、それは屋敷を起点に行動している。
でも、それだけでは情報がまるで足りない。そこまで考えると下唇を噛んだ。もう少し話を聞いていたかった。
「痛っ」
左足に刺すような痛みが走って、咄嗟に屈んで皮膚にふれる。少し腫れが酷くなっていた。
ち、と軽く舌打ちをする。
膝丸に道を邪魔されている気がしてならない。彼が姿を現してから、物事がまるでうまくいっていない。
腹立たしい気持ちのまま川に向かった。足がもう限界だった。もう一度冷やして、固定したら、今日は休もう。