日が沈んだあとに屋敷に向かった。玉砂利が敷かれている庭先には、すでに五人の男がいる。みな服が薄汚かった。私と同じように金目当てで集まった者たちだ。
庭は美しく整えられていて、紅葉がそこらに植えられているが、まだ葉が青かった。
今日は月が出ていない。おまけに重い雲がかかっていた。
天候は最悪だった。月の出ない夜は陰の気が増す。幸先が悪いな、と思いながら屋敷の縁側をぼんやりと眺める。
そうこうしているうちに奥から男が出てきた。彼はおざなりに説明をすると、合図をする。周りにいる男たちが長屋門に向かって一斉に走って行くのが見えた。
じゃりじゃりと玉砂利を踏みしめていく足音が遠くなる。庭先にぼうっと突っ立ったまま、昼に聞いたことを思い出していた。
「おい。早く行け」
遠くの方から声を掛けられる。耳鳴りがしていた。
ゆっくりと顔をあげると、いぶかしむようにこちらを見つめている男がいた。
「報酬は災いを倒さない限りは渡さないぞ」
「二階を」
「は?」
「天井裏を案内してください」
男は一瞬怯んだような顔を浮かべたが、すぐに頷くと踵を返した。
時間を短縮するため縁側で一度靴を脱ぎ、草履を手にして室内に足を踏み入れる。男に続いて廊下を歩き、一番奥を右へ曲がった。突きあたりは一見ただの壁のように見える。だが、先導していた男は迷うことなく扉のへこみに指先を差し入れ、力いっぱいに左へ引いた。
唐突に階段が現れる。壁だと思っていたが隠し扉だった。
だらんと両手を下ろしたままぼんやりと階段を見つめた。横にいる男が訝し気にしているのに気が付いて、会釈をする。
「ありがとう」
ちいさな声で礼を告げ、男の脇を猫のように通りすぎる。
先の見えない真っ暗な階段を、散歩でもするような気軽さでのぼっていく。体重をのせるたびにギシギシと耳障りな音をたてた。
「気味の悪い女だな」
男の独り言が耳に届いたけど、気味が悪くて結構、と心のなかでこたえる。
頂上にたどり着いたと同時に振り返り、目で合図をする。男は頷くと、がっと勢いよく扉を引いた。まるで視界から早く消してしまいたいような、そんな動きだった。
先が見えない。
一気に暗くなってしまったので、よく注意しながら手に持っていた草履を床に置いた。辺りは殆ど光が差さず、深い闇に満たされていた。足元を見つめると、木の板が張り巡らされているのが分かる。木目から微かに一階の光が漏れていた。下は大広間のようだ。夕餉を囲む男たちの後頭部が隙間から見える。
暫くすると暗闇に目が慣れてきて、ぼんやりと物の輪郭が見えてきた。広い空間だった。天井に、奥に向かって二本の太い梁がかかっている。さらに右手には垂直に木の柱があった。大人が五人くらい集まって手を広げてようやく回りきるかという太さだった。きっと、この家の大黒柱だろう。
暗闇を進む。
奥がぼんやりと明るくなっている。松明に引き寄せられる蛾のように、光のほうへと歩いていった。
さっきから変な匂いがしている。足を踏み出すごとに強くなり、埃でざらざらとしていた床が水分を含んだものに変化する。歩く度ににちゃにちゃと音が鳴るので足元を見たら、中華料理屋の床のようにぬらぬらとしていた。鼻に纏わりつく鉄の酸化した匂いから、それが何なのかすぐに理解した。
角の隅に小高い山が見える。僅かに動いて、がちゃがちゃと歪なシルエットが浮かびあがる。生きているのか、もぞもぞと動いていた。床に転がっている何かに夢中で、こちらに気付いていない。
足元にある灯篭を軽く蹴って転がすと、光が奥にある物体を照らした。
――床に転がっている茶色い手。節くれだった指の先が紫色になっていた。バリバリと骨を砕く音が暗闇に響いている。
「なんだお前は。招いてもいないのに」
げふ、と汚らしい音を立てて物体が言葉を発する。低い男の声だった。案外流暢に喋ったので、驚いてしまう。
「美味しかった?」
腰から刀を引きながら尋ねると、びくりと影が動いた。巨体がくるりと向きなおる。
「女かぁ。しかも、かなり若いな」
ぐっと重心があがる。八つの脚が太い胴体を支え地上から離れた。胴を中心に放射を描く脚がぶらぶらと揺れ、何の前触れも無しに空中へのぼっていった。
「わざわざ餌が自分から俺のところまで来てくれた! 今日はめでたい日だ」
逆立ちのような体制で、ぐっ、ぐっ、と不思議なリズムで吊られる。ちょうどいい場所におちつくと、ふさふさとした毛に覆われた足をぎゅっと体に寄せた。
胴に対して小すぎる頭には、無数の目玉が乗っかっている。
大きな蜘蛛だった。
持っていた刀を灯篭に突きさすのと、蜘蛛が糸を吐くのは殆ど同時だった。
前方に飛びながら床に手を付く。前転をするように避けると、先程いた所に糸の塊がべったりとついているのが見えた。床に油がぶちまかれ炎が舐めるように広がる。
黒い影が飛んだ。蜘蛛のいた場所はもぬけの空だ。刀に付着した油に炎が映る。右から左へ空間に走らせると、天井近くでさっと影が動いた。
考える前に後ろへ飛ぶ。
白い塊が飛び散る。少しだけ顔についてしまった。手の甲で拭うが、粘性がある糸は一度擦っただけでは落ちない。
そうこうしているうちに影が動き、攻撃を避けるために横に跳んだ。
奥から苛立ちの籠った舌打ちが鳴る。
「ぐっ。忌々しい!」
左手を振ると、風の音と共に絶叫が屋敷を震わせる。血の匂いが濃くなった。
壁伝いに駆ける。刀の切っ先にはまだ炎が残っていた。床に向けると、白い棒のようなものが無数に落ちている。ガチャガチャと足元で楽器のように鳴っているのは、おびただしい程の人骨だった。
息を漏らすような音と共に糸が飛んでくる。体を捻りながら方向を変えた。
壁を蹴るようにして飛びあがる――床に這いつくばっている蜘蛛がいる――無数の赤い目玉がぐるんと動いた。
体が弧を描く。流れるように刀を振った。蜘蛛の目玉に線が引かれ、水風船を弾くように潰れた。八つの脚が地面を叩いた。ゴロゴロと丸い巨体が床を転がりまわる。悶絶している化け物は痛みに呻いていた。
離れたところに着地し、間髪入れずに振り返る。蜘蛛は隅っこで、体をかたく縮こまらせながらぶるぶると震えていた。戦意消失したのか反撃するそぶりがない。照準を合わせるように刀を持ちかえながら慎重に近づく。もう勝ったようなものだと安心し、胴体に突き刺そうとした瞬間、空気が振動した。
沈黙を続けていた蜘蛛の体が二倍に大きくなる。
とっさに避けたが、頬を何かが裂いて細かい血が飛ぶ。
急な動きに体が対処できずバランスを崩した。足が床に着いたと同時に左足首に激痛が走る。突き抜ける痛みに顔を歪める。蜘蛛は僅かな変化を見逃さなかった。息を吐く鋭い音と共に糸が噴射される。
――しまった。
足首が掴まれ体がぐるぐると回る。頭が下になったり上になったり――と同時に何重にも糸が巻かれていき、とんでもない圧迫感が襲ってきた。内臓が口から出てきそうだ。
気を抜いたら吐いてしまいそう――と思ったところで、やっと回転が止まった。
視界がずいぶんと高い。黒い巨体が音もなく近寄ってくる。空中を歩いているように見えるが、足場のように糸が張り巡らされているのだ。蜘蛛はもったいぶるように酷くゆっくりとした動きで傍による。
身を捩ってなんとか抜け出せないか試したが、すぐに無駄な努力だと悟った。
蜘蛛は唯一残った目玉で必死に距離を測りにじり寄ってくる。一歩ずつ近づくたびにむせ返るような腐臭がした。とうとう顔を突き合わせる距離に来た。わずかな抵抗に睨みつける。蜘蛛はぱちくりと瞬きをすると、意外そうな声をだした。
「お前、怖くないのか。大体の奴は泣き叫び命乞いをするのに」
くつくつと喉の奥で笑いながら毛むくじゃらの脚で突かれる。男の汗を何倍も凝縮させたような匂いがして吐きそうになった。
「煩い。一思いにやって」
「駄目だ。すぐには殺さない。ちょっとずつ腹を食い破る。俺の目玉のほとんどを潰したのだから」
ギチギチと鳴る口が視界にひろがり、悪寒が背中を伝った。
瞳に恐怖の色が映ったのを見て、蜘蛛は嬉しそうに笑う。
「いい顔だなァ。もっと、もっと怖がってくれ。心の底から恐怖に濡れ、絶望に染まった瞳が見たいんだ」
「すまない。それは無理だ」
いきなり第三者の声が響いて蜘蛛は硬直した。素早く反転する。巨体が真横に飛んでいく瞬間、おぞましい毛が頬の表面を撫でていくのが分かった。
「逃がすか」
視界の端を閃光が舞った。天井の角で蜘蛛が足を限界まで広げて突っ張っている。シュッ、という音。数秒遅れて響く重い水気を含んだ何かが床に激突する。空中に浮いた蜘蛛がいたる所に重たい糸を吐いていた。
「ち、あたらない! 目玉が無いせいだ!」
悪態の合間に、別の声が混じる。
「ほら、こっちだ。遅い、遅い」
必死で目を凝らす――が、声の主は見えなかった。時折風の音と、細かい斬撃が見える。しかし、完全の姿がない。
そして。最後は一瞬だった。蜘蛛は疲れたのか一瞬だけ力を抜いた。
床を蹴り上げる音。暗闇から刀を持った男の姿が現れる。
渾身の力を込めて刀を横に振るった。
鼓膜を覆いたくなる程の悲鳴とともに、地面に重いものが落ちる。土埃が舞い、とっさに目をとじた。
辺りは静寂に包まれた。
ふっと体の締め付けが軽くなって、膝から崩れ落ちる。体がびくびくと痙攣してしまう。
長いあいだ全身を締められていたから、止まっていた血がどんどんと末端に流れていく。立ち眩みのような気持ち悪さが襲ってきて、蹲ることしか出来ない。
床に頭をつけながら気持ち悪さに耐えていると、誰かに背中を撫でられた。いたわりを感じる手つきにさそわれて、大きく息を吸う。肺が空気を求めるようにめいっぱい膨らんだ。
「……あ、ありがとう。もう大丈夫」
弱弱しく笑いながら肩を優しく撫でる手をどける。
何となく正体は予想がついていた。
顔をあげる。傍に膝をついていた男――膝丸は複雑な表情を浮かべていた。淡い月の光に照らされ、顔の半分に影がかかっている。
彼はしっかりと刀を握りしめ、ぎこちなく口角をあげた。