劫火_01 - 7/9

報酬はきっちり頂いた。座敷の客間で正座をしながら、敷かれている布団を眺める。中に居る人の呼吸に合わせて規則正しく上下していた。深く眠っているようだ。
蜘蛛を倒したあと、膝丸は糸が切れた人形のように倒れ込んでしまった。死んでしまったのかと心配して口元に手をあてる。かすかな風を感じたので、ひとまず安堵した。
屋根裏部屋での一件を思い出しながら、ぼんやりと眠っている男を見つめる。
布団が顔の半分までたぐり寄せられている。肌が白を通りこして、ほとんど土気色だった。ピクリとも動かないので死んでいるようにも思える。心配になってまた手を口元に持っていくが、きちんと息をしていた。
髪は今日も黒く染められていた。さっき女中の人にそれとなく聞いたら、炭と酢で染めることが可能とのことで、驚いた。
現代だったら美容室に行けばすぐに染めることが出来るのに、と、そんなことを思いながら膝をくずした。意識がふわふわとしている。体はまんべんなく疲れていた。どこもかしこも鉛のように重い。
ふと障子のほうを向くと外が白んでいた。夜明けが近い。そろそろお暇したいなと考えていると、丁度よく向こう側から声をかけられた。
返事を返せば桶を持った女が入ってきた。布団を少しだけさげると、かたく絞った布を男の額やら首筋にあてる。汗を拭ってくれているようだ。
それを見届けるのと同時に静かに立ちあがった。
「もう旅立つのですか」
「はい。お世話になりました」
思ったより抑揚のない声が出てしまい申し訳なく思う。もっとあたたかく答えられたらよかった。体が隅々まで疲れているから、そこまで配慮が出来なかった。
ぐちゃぐちゃとした思考を振り切るように床に置いている荷物を持つと、おもむろに手を握り込まれてしまう。困惑したまま視線を向けると、必死な表情を浮かべている女がいた。
「本当に、ありがとうございます。私の夫は数日前から行方不明で……。先ほど、天井裏から、いつも使っていた手拭いが見つかりました」
脳裏に無数の人骨が浮かぶ。なんと言っていいのか分からなかった。ただ、心が引き絞られる感覚がする。
「どうか。どうかあと数日、ここへいてもらえませんか」
「私は何もしてません」
布団の膨らみに視線を送った。女は困惑したように瞳を揺らす。
「あの人を丁重にもてなしてあげてください。彼が居なかったら、私たちは今ごろ生きていません」
握り込まれた手をそっと外すと、冷たい廊下へ足を踏みだした。
新鮮な空気が肺を満たしている。
あと数分もすれば太陽が顔を出す。今日は晴天になるだろう。それを予感させる、清々しい朝だった。

川の中でほとんど寝そべるようにしながら、ぼうっと空を眺めていた。体を通り抜ける水はほのかにあたたかくて、骨の髄から癒される。お風呂に入るのは久しぶりだった。昆布みたいに湯につかりながら、ほとんど神様に感謝したい気持ちになった。
早朝に屋敷を出てから、真っ直ぐにここへ来た。膝丸には一度場所がばれているから、少し離れたところまで足をのばす。すると、運よく源泉がわいている場所を発見したのだった。
川からのぼる湯気を目にした瞬間、心がわいた。そして、まだ日が完全にのぼりきっていない時間に一度体を洗い入浴をすませ、そのあと木の根元で泥のように眠った。起きた時には夕方で日が傾いていた。本当に心底疲れていたのだ。
出発前に、名残惜しくてもういちど川にきた。熱湯の吹き出る所に近づきすぎると熱いくらいだが、離れるとちょうどいい温度になる。お湯は気持ちが良くて心まで癒してくれた。
川からあがったら一度洗濯をしよう。そして焚火を用意して服を乾かす。さっぱりした状態になったら一秒でも早くこの村を出よう。
そこまで考えると、少しだけ悩んでしまった。
数日前に飛ばした鷹がまだ帰って来ない。そんなときは暫く村に滞在してのんびり過ごしていたけれど、今回は勝手が違った。近い場所に膝丸がいるのだ。一刻も早く移動しなければならない。
今頃どうしているだろう。きっと大きな屋敷だったから、豪華にもてなされていることに違いない。ほとんど彼のおかげだと言っておいたから、報酬も弾むかもしれない。三日は宴が続くだろう。ものすごく大変な仕事だったから。
こっちは一日もあればゆっくりと準備をして、煙のように消えることができる。何も焦ることは無い。
ほっとすると余裕が生まれて、ぼんやりとまわりをながめる。オレンジ色の西日が木の間からさしこむ。限界まで寝そべると、髪の隙間を水が通っていく。頭は朝によく洗った。どこに行っても誉められるのは髪くらいだった。きっと、特筆すべき所が他にないのだろう。
なんとなく全身を眺めれば平たいお腹が目に飛び込んでくる。また一段と薄くなってしまった気がして、息をつきながら脱力したときだった。
不自然な音が耳に届いた。
足音だ。枯れ木を踏みしめる音は止まらず迷いなく近づいてくる。驚いて体を起こした。
素早く岸に視線を向ける。男がいた。旅装束に身を包み、静かにこちらを見つめている。両手はだらりと落ちているけれど、緊張で全身に力が入っているのが分かった。
膝丸だった。戸惑いは怒りに塗り替えられる。本当にしつこい。殆ど叫び出したい気持ちになった。
視線を足元に向けると、自分の荷物が固めて置いてある。とりあえず対岸まで行かないといけない。どうにかして逃げないと。気持ちは焦るばかりで、一向に考えが纏まらないままゆっくりと腰をあげた。
男は複雑な表情を浮かべている。怒っているようにも、悲しんでいるようにもみえた。
やっぱり術を使うしかこの状況を脱する方法はない。
そう心に決めながら一歩後ろに下がった。左手に力をいれたときだった。
「嘘でしょ」
岸に立っていた膝丸が、急いたように服を脱ぎ出した。腰の帯を引き抜きながらバラバラと脱ぎ散らかしていく。あっという間に裸になってしまった。
一連の動きを呆気にとられたように見つめてしまう。が、彼が俯きながらざぶざぶと川に入ってくる段階ではっとした。
男は川の水を見つめたまま近くまで歩き、一メートルほどの距離まで来るとピタリと足を止める。お互いに生まれたままの姿で、何となく片手で隠しながら向かいあっているのは酷く滑稽だと思った。
膝丸は手を伸ばせば触れられそうな距離に来ても、固く口を閉じたままだった。眉間に皺を寄せたまま俯いている。意味が分からなすぎて混乱した。
「あの。屋敷で、助けてくれてありがとう」
とりあえず口から出た言葉に男が顔をあげる。とても悲しい表情をしていた。
「でも、どうしてついてくるの。主はどうしているの? 遠征で来ているなら、ちゃんと任務をこなさないと駄目だよ」
「遠征ではない。それに、俺の主は君だ」
それはあり得ない。だって二年も経っているのだ。夜逃げのように過去へ飛んだけど、男士は全員別の審神者に貰われたと文書で知った。
「とりあえず膝丸は元の時代というか、主の元に戻って。私は大丈夫。政府ともやり取りして、半分仕事でここにいるから」
「ふざけるな!」
急に大声をあげられて驚いてしまう。遠くで魚が跳ねた。
「どうして居なくなってしまったのだ。君は何も言わずに煙のように消えてしまった。残された者たちの気持ちを考えたことがあるのか?」
「……連れ戻しに来たの」
地を這うような低い声が口から飛び出る。彼は否定するように首をふった。
「そうではない。君と共にいたい。ただ、それだけだ」
「私は一人で旅をしてきた。供なんていらない」
固く引き絞った口元が見える。必死に感情をおし殺そうとしているのか、口の端から尖った犬歯がのぞいていた。
どうやってこの状況を打開しよう。ひとりで悶々と悩んでいると、あるものが目に入った。頭の中に閃きが浮かぶ。
ゆっくりと近づいて、下腹部を隠している右手を外しながら指を絡めた。彼は突然の行動に驚いて目を丸くする。
ちらと下をみると、男の中心が痛々しいほどに立ちあがっていた。こいつも人間じみた欲求があるのだと感心する。
「こんなところまで来てくれてありがとう。とても嬉しい」
優しい声を作って、弱い力で腰骨をなぞると、肩が大きく揺れた。
「な、なにを」
「どのくらいかかったの?」
反応を見ながら体を寄せる。膝丸は複雑な表情をしていた。
「に、二年……」
「そんなに。ずっと一人で?」
指先で鼠径部をなぞる。ぐっ、と口を噛み締めるのが見えた。顔をまじまじと見られるのが恥ずかしいのか、僅かにそらしている。
触れるたびに息が荒くなっていく。指先はギリギリをなぞって、もう少しというところを掠めていった。相手は切なそうに眉を寄せながら無意識に腰を前に出す。
さりげなく体をずらして太ももを前に出した。はちきれそうになっている下腹部に押し付けると、かみ殺すような声が耳に届いた。
棒のように変化した性器が太ももにあますところなく密着している。時々びくりと震えているのが伝わり、気持ちが悪くて一気に鳥肌がたった。
足を動かせばその度に男の腰が揺れる。少しだけ足を自分の側に引くと、吸い寄せられるようについてくる。ものすごい嫌悪感が沸いた。
男は何かと戦っているような表情を浮かべている。そのまま膝で膨らみを押し上げるようにしたら、「あっ」と言って少しだけ上を向いた。
――今だ。
手に力を込め、思いっきり突き飛ばし右足を後ろに引く。渾身の力で足を前に出す――が、出てきた手に衝撃が吸収され体制がぐらついた。
「二度も同じ手に引っかかるか」
膝丸が腕で受け止めていた。
舌打ちをしながら左手を振りあげる――影が動いた。足元で水が跳ねる。
一瞬で踏み込む。だが、目の前に来た男に左手を掴まれ、そのまま手首を掴まれてしまう。
「それも駄目だ。君の術はたちが悪い」
「はなして!」
あいているほうの手で力いっぱい胸元を叩くが、相手は全く微動だにしなかった。
むしろ涼しい顔をしている。男は何を思ったのか、掴んでいた左手を力任せに引っ張った。抱きしめる形で拘束されてしまう。
「何のつもり!? はなせ!!」
腰に回された腕と下腹部に感じる熱に恐怖を覚えて身を捩る。しかし相手は全く顔色を変えずに力を強めた。何とか押しのけようとしてみるが無駄だった。
せめてもと精一杯睨みつける。
男は不思議な瞳の色で見下ろしていた。
恐れと戸惑いと欲情が綯交ぜになっている。
無意識の行動か分からないが、勃起した性器をぐっと押し付けられて、口から小さな悲鳴が飛び出た。
やけくそな気持ちで白い肌に噛みつく。どうにか逃げ出さないといけない。虫のようにもがいている私を見下ろした膝丸は苦笑いを浮かべた。しかし次の瞬間、人が変わったように瞳を鋭くする。
強く体が押し付けられる。抗議の声をあげる前に、「静かにしろ」と固い声が振ってきた。張り詰めた気配にぴたりと静止する。
視線を感じて顔をあげる――向こう岸に大きな熊がいた。
熊は、こちらの存在にはとっくの昔に気が付いていて、手を前の方に垂らしながら直立していた。胸元に半月型の模様があるのが見える。
じっと息を詰めて睨みあった。刀は熊の足元にある。それは膝丸も同じだった。熊が川まで入ってきたらきっとただではすまない。最悪命を落とすかもしれない。
暫く緊張状態が続いた。川の音が響いている。そうしている間にも、辺りは夜の闇に包まれていった。細く差し込む星の光が熊のシルエットを浮かびあがらせている。
一瞬が永遠のように思えたころ、相手に動きがあった。熊は何事も無かったかのように両手をつくと、地面に鼻先を近づける。次の行動に思わず叫び出しそうになってしまった。
右脚の近くに自身の荷物があった。ふんふんと匂いを嗅ぐと、おもむろに口を広げて噛み込む。
「そんな。やだ」
口から情けない音が漏れた。熊はこちらの気持ちなどおかまいなしに、荷物をくわえたまま背を向けてしまう。ゆっくりと藪の中に入ってしまった。草がかき分けられて、また戻る。黒い影は左右に揺れながら夜の闇に溶けていった。
姿が見えなくなり気が抜けてしまうと、次の瞬間に襲ってきたのは純粋な怒りだった。
矛先はひとつしかない。思いっきり拳を胸板に叩きつける。
「お前とこうしていたせいで、荷物を取られた!」
膝丸は瞳を閉じて耐えていた。そんな健気な姿にすら怒りを覚える。
「お金が入っていたのに! はなせ、このっ」
「金なら俺が持っている」
「は?」
膝丸は気まずそうな表情を浮かべた。
「ここで君の姿を見たとき……どうせすぐに逃げるだろうと思ったから、前もって荷物から金を抜いて俺のに入れておいた。交渉に使おうと思ったのだ。だから、金は」
安堵で体の力が抜ける。本当に良かった。しかし、そう呑気なことを思っていられない。
「私の荷物を勝手に見て、しかも盗んだの? 最低!」
「取ろうとしたわけではない。君が逃げないように保険をかけたかった」
「屁理屈を言うな!」
脛を蹴り上げる。男の顔が苦痛に歪み、拘束が緩まる。チャンスだと足を一歩後ろに置いたときに、左足首から忘れていた痛みが走った。――視界がぐらつく。あ、と思った時には水の中にいた。
覚悟していた衝撃は襲ってこなかった。川底は岩だらけのはずなのに。柔らかい感触に恐る恐る瞳をあけると、下敷きになっている男がいた。
「大丈夫か?」
半分寝そべったような体制から、ぐっと上体を起こしながら膝丸が心配そうに言った。髪の真ん中から先が薄緑になっている。やはり何かで染めていたのだ。
「あ、ごめんなさい……。肩が」
右肩の後ろがぱっくりと裂けていた。岩にぶつかったのかもしれない。
「これくらい問題ない」
「少し見せて」
膝立ちになりながら手を伸ばす。息を飲む音が聞こえた。左肩に手を置いて、傷口を覗き込む。背中も少し切れていた。
「あー、結構いっちゃっているね」
細かい傷がついていた。でもそれらはふさがりかけているので今回のではない。背中についている濃い線は今できたもので、血が筋を作って川に流れていく。
「あの」
「うん?」
他にも傷が無いか膝立ちになって良く観察する。暗くて分かりにくいけれど、深い傷はついていないみたいだった。
「きみ。も、もう大丈夫だから」
手の甲で視界を覆いながら彼は言う。首元まで赤くなっていた。それを不思議に思い、視線を下に向けると、目の前が暗くなった。
熊の一件で忘れていた。慌てて胸元を片手で隠す。穴があったら入りたいと思った。