劫火_01 - 9/9

鳥の声がする。瞼の裏に光がちらつく。新鮮な空気が肺を満たして、ため息のような音が口から漏れた。だが、爽やかな気分は最初だけで、次の瞬間にひどい頭痛が襲ってきた。
昨日はほとんど眠れなかった。膝丸がずっと監視していたからだ。刀は人とは違うから、最悪食事をとらなくても、眠らなくても行動できるということは、知識として知っていた。
だけど、私は人の気配に敏感だった。いつまでも狙われている状態では深く眠ることなんてできない。浅い眠りと覚醒を一晩中繰り返した。何度も、何度も。
唸り声をあげながら体を起こすと、膝丸は昨日と全く同じ場所で体育座りをしていた。目があうと、おはようと蚊の鳴くような声で挨拶をしてくれる。
「おはよ。昨日は少しでも休めた? ……って、なにこれ」
いつのまにか右の手首に赤い布が巻き付けられていた。よく見るとそれは前に伸びていて、彼の左手首となかよく繋がっている。ぐっ、とひっぱると相手の左手が草を擦った。膝丸は僅かに眉を顰める。
「痛っ」
「質問に答えてよ。なんなのこれ」
自由なほうの手で硬い結び目を解こうとすると、左手首にも紐が巻き付けられているのが見えた。こっちは細く編み込まれた組み紐だ。
「硬くて、ぜんぜん取れない……!」
紐はいくら力を込めても解けなかった。もういっそのこと、叩き切ってしまおうと息巻いて、刀を取り出す。
「止めておけ。俺の気を練り込んで作った。そんじょそこらの刀では切れない」
確かに、刀を押し当てても引いても紐はびくともしない。苛立ちが募る。
「どうしてこんな変なことをするの? なんかの趣味?」
「仕方が無かった。君は俺に術をかけて、また消えようと考えていただろう?」
はいその通りです、とも言えなくて、後ろめたく思いながら地面を見つめた。足元でダンゴムシが丸くなっている。
「あれは辛い。もう受けたくない。だから、申し訳ないが君の力は封じさせてもらった。他の者には術をかけることが出来るが、それをつけている限り俺には通用しない」
手首に巻かれている細い紐を見ながら彼は淡々と説明した。どういうことだ。なにかあったらどうする、と反発しようと思ったが、膝丸にしか効果が無いという点以外は平常通りだ。何も不都合はない。それでも、行き場のない怒りが内側から溢れて決壊しそうになる。
「どうしてここまでするの。もう新しい主と会ったでしょう? これ以上私に執着しないで」
「俺は君の傍に居たい。本当に、ただそれだけだ」
まただ。結局振出しに戻ってしまった。こうも堂々めぐりだと、怒っているのもばかばかしくなってくる。
「こっちは外して。これじゃ刀を持てないよ」
力なく右手を掲げると、彼は静かに首を振った。
「俺が戦うからいい」
「じゃあ、トイレは? お風呂も。いつかは外さないといけないでしょ」
彼は猫のように瞳を丸くした。そこまでは考えていなかったようだ。
勝った。得意げに見下ろしながらぐいっと手首を差し出すと、膝丸は斜め上を向いて、奇妙なことを口にした。
「これは長さがあるから、終わるまで待っている」
「ふざけないで」
確かに右手につけられている紐は長かった。いっぱいまで伸ばしたら二メートルくらいはありそうだ。
ため息をつきながら立ちあがる。こうなったら仕方がない。暫く繋がれたまま行動して、チャンスが来たら逃げ出そう。そう、心に決めた。
「納得したわけじゃないからね」
足取り軽く立ちあがった男に冷たく声を掛ければ、僅かにあがっていた口角が、みるみるうちに下がっていった。
「もちろん、分かっている」
膝丸はじっと下を見つめながら呟く。それには構わず、腰に刀を差して伸びをした。
手首に巻かれた赤色が目にはいり、心の奥がザワザワとした。切れない縁が出来てしまったような気がして落ちつかない。
半歩後ろからついてきた膝丸が、急に早足になり追い越していく――と思った次の瞬間、冷たい地面に膝をつけた。
「足首を痛めているのだろう?」
「いいよ。そんなの」
無視をして横を通り過ぎようとすると、右手の紐を引かれた。がくん、と体が斜めになる。
「いたっ」
「背負われるのが嫌なら、無理やり横抱きにして運ぶ」
抱えられている自分を想像して苦い気持ちが沸く。お姫様抱っこなんてされるキャラじゃない。苦々しい気持ちで見下ろす。膝丸は行儀よくしゃがんだまま待っている。
散々迷った男がおおげさにため息をつきながら、そんなに抱っこしてほしいのかと呟いたので、急いで肩に手を置いた。広い背中に体を預ける。満足げに頷いたあと、男は足に力をいれた。
ぐんと視界が高くなる。足がぶらぶらとゆれた。
「……屈辱」
「なんだと?」
「だって」
「だってもなにもない」
「あるよ」
膝丸は歩くぞ、と声を掛ける。景色がゆっくりと後ろに流れた。
こんなやりとりは本当に久しぶりだ。本丸で生活していたときもあまり記憶がない。彼とはさほど仲良くは無かった。
最初は緊張したけれど、背負われていることに段々と慣れてきて、なんだか眠くなってしまった。甘えるようでしゃくだけど、頭を肩のところに乗せる。薄い色の髪が見えた。歩く度に若草のように揺れている。
「なんか寝ちゃいそう」
「かまわない。ちゃんと運ぶから」
うんともいいえとも取れるような唸り声でこたえると、膝丸がくすりと笑った。
心地よい振動に瞳を閉じる。優しい風の音がしていた。