劫火_01 - 2/9

夜の森はとても静かで、生ぬるい風が頬を撫でていく。薄い毛布を引き寄せながら寝返りを打つと、遠くのほうで狼の遠吠えが聞こえた。
閉じた瞼の向こう側に浮かぶ淡い橙色を見つめる。ぱちぱちと火の爆ぜる音がした。火はおこしたばかりの頃より力を落としていて、心もとない。ときどき木の表面を舐めるように伝った。
あたりは静寂に包まれている。しかし、そこかしこから野生動物の気配や、探るような視線を感じた。殺意はなさそうなので、自身も自然の一部のふりをする。
夏が終わりかけているとはいえ、夜の空気は冷たかった。あと数週間も経てばあっという間に凍えるような寒さになる。ここは暖房施設もないし、体を温めてくれる毛布もない。
辛く厳しい冬を思うと、憂鬱のあまり体が地面へとめり込んでいくような気がした。
もう寝てしまおう。起きていてもいいことはない。そう思って瞳を閉じた瞬間、風と共に唸り声が耳に届いた。
はじかれたように体を起こして、傍に置いてある刀に手を伸ばす。
前方を見つめる。どこまでも深い闇が広がっていた。暗く重い闇は口を広げて、今にも私を飲み込もうとしている。
刀を握れば体は勝手に戦う準備を始める。心臓の鼓動が煩い。一秒を追うごとに気配が濃くなっていく。姿の見えない何者かが風のようなスピードでここまで近づいているのが分かった。
立ち上がり、足で乱暴に火をかき消した瞬間、視界の隅で何かが光る。
反対側に大きく足を踏み出した。
全速力で走りながら、軽い足音に耳をすませる。
――二匹。いや、三匹いる。
ここは深い森で、木が無造作に生えているなか暗闇を走るのは無理があった。唸り声と獣の匂いがすぐそこまで迫った瞬間、刀を引き抜きながら振り向く。
流れるような動きで刀を横に滑らせる。悲鳴。鉄の切っ先が生き物の柔らかな腹を裂いていく。真横を黒い物体が弾丸のように通り抜け、木にぶつかり動かなくなった。
視線をそこに向けることはしなかった。それはすでに絶命していた。
月の光がスポットライトみたいに前方を照らしている。
奥は木で遮られて何も見えない。
闇が動く。
出てきたのは細い脚だった。それから鼻筋と胴体。腰のあたりまでの大きさの野犬が、口から唾液を糸のように垂らしながら姿を現した。
鼓動が一段と激しくなる。彼らが飛び出すのと、自身が反対側に足を向けるのは殆ど同時だった。
死骸を踏み越えるようにして森をかける。体はすでに悲鳴をあげていた。腕をふるうたびに引き絞られるような痛みが体を襲う。筋肉が、もう動かないでくれと訴えているようだった。
夢中で走っているうちに目の前に蔦が現れて、とっさに左手でつかむ。遠心力のせいで体が木に叩きつけられそうになるが、足で幹を蹴って、反動のまま後ろに体を捻った。
――牙。
迫ってきた犬の顔面を右足で思いきり蹴りつける。ぎゃん! と高い鳴き声を発し、野犬は向こう側に吹っ飛んでいった。着地すると同時に暗闇から唸り声が流れてくる。
生ぬるい風と共に同じような模様をした二匹が出てきて、刀を構えた。
重心を低くしながら歯をむき出している。
嗤っているみたいだった。
心を決めて刀を握りなおした瞬間――野犬は一瞬で消えてしまった。
走って行った、とか、そういうものではなく、元々いなかったかのように忽然と姿を消したのだ。
何が起きたのか分からずに茫然としていると、数十メートル先でバリバリという激しい音がした。
風とともに血の匂いが届く。殺気が波のように襲ってきて、背中から悪寒が突き抜けた。逃げなければ。分かっているのに、足が縫い付けられたように動かない。
「うーん。たいして、美味くもないな」
さっきの野犬よりも数倍大きいシルエットが浮かぶ。老人のように肩を丸めて、むしゃむしゃと咀嚼を続ける。歯と歯の間から細長い物体が飛び出したり、引っ込んだりしていた。
くるくると回る細いものが何か分かった瞬間、全身の毛が総毛立った。犬の後ろ脚だ。関節の軟骨の部分からぼきりと折れている。
残された野犬はすっかり怯えて、汚れた尾を股の間に挟むようにしながら暗闇を見つめていた。――が、次の瞬間、手品のように消えてしまった。
ぶわっと体の表面を風が通り過ぎて、近くの木に何かが当たる。視線を向けると体がくの字に曲がってしまった犬がいた。片方の目が飛び出ていて、あきらかに絶命している。
弾かれたように後方へ飛び出す。高い笑い声が枝葉を揺らす。ちょうど、人間と獣の両方を合わせたような音だった。
森の中は木が生い茂っていて走りにくい。後ろを振り返りたかったが、それをした瞬間に、あの犬のように殺されてしまうと本能が伝えていた。
月が出ていることが不幸中の幸いだった。矢のように突き進む。正直、自分がどこに向かっているのかも分からなかった。だが止まることは出来ない。
肺が焼ききれそう。呼吸をするたびに喉がひりひりと痛む。喉の奥から血が滲み、口の中で鮮やかな鉄の味がした。
無我夢中で走っているうちに微かに水の音が耳に届いた。
良かった、逃げられる。油断して力を抜いた瞬間、むあっとした息が肌を撫でた。
「遅いなぁ。欠伸が出そうだ」
振り返りながら身を捩る――ガチン、と歯の噛み合う音。
巨体が音もなく通り過ぎていった。
吐き気を催すような匂いが帯のように残る。刀を鞘から引き抜きながら前方を見据えた。
暗闇の中で光る金色の瞳と大きな牙。山のような形の影が動く。
犬の化け物は体調が六メートルはあろうかという程におおきく、脚も恐ろしく太い。薄く開いた口の中が赤かった。歯をむき出して、めくれ上がった唇の端から血のあぶくが浮き、地面に糸を引いて落ちていく。
「やっぱり人間にかぎるよなぁ」
にやりと嗤いながら犬が歓喜したように吠える。口が頬の真横まで裂けて、醜悪な表情を作った。
月が雲から顔を出し、辺りが明るくなっていく。
相手が飛び出すのと同時に大きく踏み込んだ。
体が勝手に動く。まるで自分の意志とは関係なく、操り人形のように。
筋肉が許容を越えた動きに悲鳴をあげた。
弧を描くように飛んだ相手の真下に滑り込むようにして刃を突き刺す。肉を突き破る感触。刀がぐんと後ろに持っていかれる。外れないように両手で柄を握りしめ、流れに逆らうように押し込んでから、渾身の力で引き抜いた。
化け物は着地しながら天に向かって絶叫した。痛みではなく――燃えるような怒りの声で。
間髪入れずに地面を蹴る。
犬は恐ろしい速さで追いかけてくる。足元に悪戯に木の根が転がっているが、構う暇なんてない。それにつまずいてしまった瞬間に、自分は死んでしまう。
ふいに音が止んだ。前方の視界が開けている。大きく踏み込み、ダイブするように飛んだ。
――後ろで牙が鳴る。
飛び込んだ先は崖だった。投げられた小石のように谷底へと落ちていく。叩きつけられる感触がして、次の瞬間には水中にいた。ぐるぐると体が木の葉のようにまわる。天も地も分からない。水面を頭が突き抜けようとしたとき、水の向こう側に大きな影が見えた。
化け物だ。彼は崖の上から此方を眺めていて、私が顔を出すのをいまかいまかと待っている。
それがわかった瞬間、水底に向かって足をけった。川の半分から下は流れが変わっていて、背中にものすごい衝撃が来る。そのまま押し出されるように下流へと流されていった。
息が苦しい。水音が響く。目の前に岩が迫ってきて、反射的に受け身をとった。
突き破るようにして水面から顔を出す。目の前に木の根があり、手を伸ばして抱えた。
半身を乗り上げ息を吐く。水の音を越えて、気配や、唸り声が届くかと耳を澄ましたが、何の音もしなかった。
体の力が抜ける。
このまま眠ってしまいたかった。
体感では数秒の出来事だったが、ずいぶん遠くまで流されてしまったみたいだ。川の流れが穏やかになっている。腰から下を水が通り抜けていった。時々木の枝や葉が股の間をくぐり、脛にぶつかったりする。
水は体力を容赦なく奪っていった。
ぐっと体を起こして、ずるずると木の根によじ登る。体力があるうちは何の動作も無いことだけど、命からがら逃げたあとには酷く辛い。
刀を杖の代わりにしながら歩き河原にたどりつくと、それ以上動けなくなった。膝から崩れ落ちて地面に横になる。石が頬を刺し、服から水がしみ出して地面にすいこまれていく。雑巾のようにいうことを聞かない体を苦労して動かし、あおむけの体制になると、満点の星空が広がった。
「……きれい」
地上では生き物が争ったり、喰べられたりしているのに、星はそんなことは関係が無いとばかりにありのままの姿でいる。
体の中から空気を押し出すように息を吐くと、体が泥のように重くなってくる。ほとんど気絶するように意識を手放した。

朝。光の中で目が覚める。無意識で腰へ手をやると、しっかりとした感触が伝わって、心から安堵した。何は無くても、武器さえあればどうにでもなるということを、もうすでに体で理解していた。
お金はそれなりに大事だけど、物質にあまり価値の無い今の時代では、さほど重要でもない気もしていた。
起き上がり、よろよろとした足取りで川に向かう。一日中砂利の上で寝ていたので、体がどこもかしこも痛かった。
川の水で口を漱いで、軽く顔を洗う。
お湯にゆっくり浸かりたい。そして、温かい布団にくるまれて寝たい。
腹部をさすりながら立ち上がる。ここ一週間、ろくなものを食べていない。体から力が抜けている。さらに昨日、ろくに扱えない刀を振るったので、全身が筋肉痛だった。
とりあえず森を抜けないといけない。それからのことは、歩きながら考えよう。
その場に腰をおろしたくなる自分を必死に鼓舞して、森の中へと足を向けた。

数時間後、とある屋敷の庭にいた。
玉砂利の上で、土下座のままじっとする。地面に押し付けた額が痛い。
縁側に若い男が立っていた。彼は服の袖で口元を隠し瞳を糸のように細めて、値踏みするように私を眺めている。
「本当に、こいつで退治できるのか?」
隣で控えている中年の男に小声で問いかける。胡散臭そうに上から下までじろじろと眺めているのを空気で感じた。不信感がありありと伝わってくる。
そう思うのも仕方がないと思う。自分はまだ成人すらしていない小娘だから。見た目だって細くて筋肉は無い。
「剣の腕は確かです。それに、成果で報酬を与えるようにすれば問題はないかと」
頭の上のほうで繰り広げられる二人の会話に耳をすませながら、数分前の出来事を思い出した。
屋敷に足を踏み入れた瞬間、脇に控えていた武士の数人がどこからともなく現れ、襲いかかってきたのだ。
いきなりのことで目を瞑ってしまい反応が遅れたけど、何とか瞼をこじ開けて切り返した。
強く念じる。――峰で打つ。切らない、絶対に切っては駄目。殺さない。それに答えるかのように右腕は勝手に動いて、数秒後、その場に自分以外で立っているものは誰もいなくなった。
地面に虫みたいに転がっている男たちは腹を押さえて呻いていた。血を流している人はいなかった。
助けたほうがいいのだろうか。でも先に襲い掛かってきたのはあっちだし――と、どうしたらいいのか分からず立ち尽くしていると、突然後ろから羽交い絞めにされた。目隠しをされて屋敷の中心まで案内される。
そして今、地面に頭をこすりつけるような体制でじっと指示を待っている。特に恐怖は無かった。
早くしてくれないかな、と思っているうちに声をかけられた。
ゆっくりと従うと、射抜くような視線が突き刺さる。
眉間に谷よりも深い皺を刻んだ男が、「三日後の暮れに来い」と冷たく言った。

帰り道をのこのこと歩きながら、聞いた情報を頭の中で整理した。それにしても、と、なだらかに広がる田畑を見つめながら思う。
三日後で本当に良かった。それだけあれば色々と準備が出来る。
しかし、倒す相手の正体が何か分からないのは厄介だと思った。妖なのだろうか。それとも頭のおかしい人間か。どちらにしろ、予想で動かないといけない。
そんなことを考えながら歩いているうちに、遠くの方にぽつぽつと家が見えてきた。
知らない村に入るとき、だいたいは入り口に観覧版があるのでチェックするようにしていた。そこにはさまざまな情報が書いてある。
妖怪というものをこの目で初めて見たとき、体は恐怖で竦んだ。でもそれもすぐに慣れていった。
異形のものは見慣れていた。ずっと前に、審神者として指揮を取っていたころに対峙した敵の姿を思い出す。角があるかないか。それくらいの違いだとすら思った。
妖怪退治は、今では殆ど仕事と言って良かった。自分の能力を最大限に生かして、金を得る。効率の良い生き方だ。
村の入り口で屋敷の出している瓦版。とある案件を見つけ、その場で小躍りしたくなった。掲示されていた報酬金額が途方もなく大きい。無駄遣いしなければ半年くらいは野宿をしなくて済む金額だった。
地面で寝るのは何年たっても慣れることが無かった。薄いせんべいのような布団でもいいからちゃんと床で寝たい。欲を言えば、温かい布団の上で。
詳しい説明はとくに無かったが、どうやら私は面接に合格したようだった。たいして期待されていないのか、話が終わるとさっさと帰された。時間が惜しいという空気すら感じた。
だけど。
いったい何人が犠牲になったのだろう。
金額が大きいということは、それだけ相手が強いということ。そして――誰も戻ってこなかったということ。
不安や恐怖が無いといえば嘘になる。
無意識のうちに腰にある刀を撫でる。
これのおかげで私は強い。化け物が来ても、役人が来ても、しっかりと目をあけていれば、めったなことで死ぬことは無い。
ちょうど宿場町が見えてきたので、緩やかに足を向けた。

日が落ちたあと、一階の食事場で夕ご飯を食べていた。奥の影になっている席で、畳に座りながら黙々と食事を口にする。一応は一汁三菜といった形で用意がされていて、温かいご飯を食べられるというだけで、体と心は癒された。
静かに食事をしながら全体を眺めた。ここは現代でいうビジネスホテルのような役割をしていて、値段は安いが朝と夕に食事が出るのが好ましい宿だった。
三十人が座れるのではというくらいの大きな座敷に、人が所々塊になって輪を作り、ご飯を口に運んでいた。そこかしこで明るい笑い声があがる。見たところ男ばかりで、女は殆どいなかった。本当に数人、輪に交じっているのが見えるばかりだ。
食事が終わった後も、壁に背を付けながらぼんやりと喧騒を眺めていた。このところ、ずっと誰とも会話をしていない。もちろん、言葉を発することが出来ないわけではない。
最後に他人とまともに言葉をかわしたのはいつだっただろう。記憶が半年前までさかのぼってしまい、何となく不安になって、「あ」とだけ口にする。
小さな声はがやがやとした音の中に紛れてしまった。
人の話し声を聞いていると安心する。
今回の依頼をこなしたら、また森に身を潜めないといけない。そうすればすぐに匂いを嗅ぎつけて妖や敵が襲い掛かってくる。そこまでを考えると、もうすでにうんざりとしてしまって、体育座りのような姿勢のまま両ひざに頭を埋めた。
ゆるやかな闇が広がる。音が一瞬だけ遠くなった。
――もう少ししたら、部屋に行こう。
そう思った時だった。
すぐ隣に誰かが座った。体の半分が緊張する。
おかしい。他に空いている席なんていくらでもあるのに。わざわざ隣に来たということに少なからず恐怖を感じた。
なんとも思っていませんよという風を装って僅かに顔をあげる。欠伸をする演技をしながら横をちらりと見れば、心の奥に違和感がかけぬけた。
少し離れた所に、壁に背をつけるようにして男が座っていた。まっすぐに前を向いている。片膝を立てながら、背筋が不自然に伸びていた。
ここは相場よりかなり安い宿なのでそれ相応の人間が集まる。だが、その男からはある種の気品のようなものを感じた。だからなおのこと、ちぐはぐさが心に刺さる。
表情はよく分からなかった。頭に布を被っていたからだ。顔の半分を覆いつくしていて、口元しか見えない。端はマフラーのように首にかけられ、だらりと背中のほうに流されていた。
腕を前に出し伸びをする演技をしながら男を観察する。
体に不自然な力が入っていた。知らない縄張りに足を踏み入れた猫のように緊張している。
気になったのは、不思議な匂いが男を中心にして帯のようにひろがっていることだった。酢と、炭を混ぜたような匂い。自然と鼻頭に皺が寄る。いい香りとは程遠い。
奇妙なのは――男が、ずっとこちらの挙動を探っている事だった。視線を前に向けたまま、でも、体の右半分の神経を研ぎ澄ますようにして、私の挙動を観察している。
なんなのだろう。気味が悪い。
どこかで会ったことがあるだろうか。記憶を掘り起こしてみるも、心当たりはなかった。
もう一度だけ伸びをする。流れるような動きで立ちあがると、二階に続く階段へと向かった。
一段目に足をのせながら、ばれないように後ろを盗み見る。男は相変わらず、置物のように前を向いていた。