劫火_01 - 3/9

今夜は見事な満月だった。
開け放った窓から街並みをのぞく。ぼんやりと畳に腰を下ろしながら、張り出した床板部分に肘をついて、空に浮かぶ月を眺めた。月は明るく、輪郭がくっきりとしている。
遅い時間にもかかわらず人の姿があった。ここは宿が集まっているので、夜でもそれなりに人の気配がする。
近くに遊郭があるので道を歩いているのは男が多いように思えた。視線を遠くに向ければ、川沿いに赤い光が揺れていた。金魚の形をした提灯が風にふわふわと泳いでいる。
静かな夜だった。町の喧騒が耳に心地よく響く。
穏やかな気持ちで瞳を閉じると、微かな羽音が耳に届いた。
慌てて窓の柵から身を乗り出す。遠くの空に黒いシルエットが浮かんでいた。ブーメランのような形をしている。迷っているのか、くるくると円を描くように滑空していた。
落っこちないように気を付けながら軽く手を振ると、影は一瞬だけ止まって、一気に降下する。
ぶわぁっと羽を広げながら、茶色い鷹が足を前にしながら降りてくる。身を後ろに引いて待っていると、近くの手すりへ綺麗に着地した。
「ひさしぶり」
鷹は獰猛な瞳を一度だけ瞬きさせると、答えるように高い声で鳴いた。
人差し指で、眉間の平たくなっている所を撫でる。金色の瞳が飴細工のように細くなった。いたずらに指をとめると、もっと撫でてくれというように頭をこすりつけてくるので、とても可愛い。
わざと焦らすみたいに指を動かさないでいると、自分からぐいぐいと頭を押し付けてくる。自然と口元に笑みが浮かんだ。鳥の羽はどうしてこうもつるつるとしているのだろう。上質なビロードみたいに滑らかで、ずっと触っていたくなる手触りをしている。
ごくごく軽い力で背中を撫でていると、とんとんと襖を叩かれて、ゆっくりと振り向く。襖の外から男の声がした。返事をしながら、慌てて小枝のような脚に報告書を括りつける。鷹は小さく鳴いたあと、羽をいっぱいに広げて夜の闇に溶けてしまった。
名残惜しい気持ちで見送る。再度、襖を不躾に叩く音が響いて、憂鬱な気持ちになりながら腰をあげた。
襖を開ければ、すぐ近くに膝をついた中年の男がいた。服装からして店の者だと分かる。どことなく顔の造形がじゃがいもに似ている。
彼は取ってつけたような笑顔を顔に張り付け、こう言った。
「すみませんが、混んでいましてね。相部屋でお願いします」
え、という呆けた声には気が付かない振りをして、男は「じゃあそういうことで」と短く切った。呼び止める間もなくそそくさと立ち去ってしまう。唖然としたまま遠くなる背中を見つめていると、奥で影が動いた。
曲がり角の暗がりから姿を現したのは、夕ご飯の時、隣に座っていた男だった。
全身に緊張が走る。
心拍数があがる。体が警報を発していた。
酷くゆっくりとした足取りで男は近づくと、ぴたりと目の前で止まる。酢のような匂いが鼻先をよぎって反射的に眉間に皺が寄ってしまう。垂れた布の影になっていて瞳が見えない。
威嚇するように睨みつけていると、相手がゆっくりと右手をあげた。反射的に刀に手をかける。彼は手を空中で翻した。
――どけろ、と言っているらしい。
口がきけないのかもしれない。そう思いながら一歩下がると、男は遠慮なく室内に足を踏み入れた。なお警戒しながら刀を掴んでいるこちらの事など無視するように、真っ直ぐに押し入れに向かい、気怠そうに布団を引き抜く。
畳の上に布団を乱雑に敷くとごろりと横になる。数秒後には静かな寝息が聞こえた。
しばらく睨んでいたが背中がピクリとも動かないので、ふっと脱力する。冷静になると、じわじわ怒りが湧いてきた。
酷い。こんなのってあんまりだ。
安い宿なので相部屋になることもあるということは聞いていたけれど、実際に体験するのは初めてだった。一応、女なのに。悲しくなってくる。
少し気持ちに余裕が出てきたので、横たわる男を観察することにした。
背丈は、この時代の人間にしては高いほうだった。布に隠れて顔が全く分からない。が、立ち姿や雰囲気から青年だと予想する。呼吸に合わせて上下に動いている布団から頭部へと視線を移すと、ボロボロの布が目に入った。寝る時までしっかりと布を被っている。何となく不潔だ。嫌悪が背中を駆け抜ける。
不審な男、を、汚くて不審な男――に再評価した。
部屋が暗い。月がさっきより地平線に近づいていた。思いのほか時間が経っていたらしい。時の流れを自覚すると体にとんでもない疲労が襲ってくる。のろのろと押し入れに近づいて、布団を引っ張り出した。
湿った布団を、男とは反対の窓側ぎりぎりに敷く。荷物は抱えて寝たほうがいいだろうと思い、慎重に枕元まで引き寄せた。念のため、金目の物は袖の下に入れておく。
もしものことがあるかもしれないので、布団の中に刀を滑り込ませる。一息ついたところで、ミノムシのように丸まっている男を睨んだ。
――もしあいつが襲ってきたら。これで切り捨てて、何事も無かったように去る。
そう心に決めて、瞼をとじた。

月の光が優しい。絹糸のように降り注いでくる。いつの間にか深く眠っていた。意識が夢と現実をいったりきたりしている。
衣擦れの音と共に気配が近づいてきて、ぐんと意識が覚醒する。
――やっぱり来た。
惰眠を貪ろうとする体を叱責し起き上がる。
しかし相手の方が一枚上手だった。
手首を纏めて掴まれ、空いている手の方で口を塞がれる。酷くかさついた手だった。土っぽい匂いがする。無我夢中で体を捩ると僅かに隙間が空いたので手の端に思いっきり噛みつくと、呻き声の後に盛大な舌打ちが聞こえた。
月が雲に隠れてしまったのか、室内は暗くなっていた。薄汚い布の向こう側で男が食い入るように見つめているのを気配で感じる。
比較的自由に動かせる右足を振り上げて腹の横を蹴る。苦しそうな声が聞こえた。しかし、思ったより力が入っていなくて、あまりダメージが与えられなかった。
苛立ちが募る。体力が全然回復していない。体はもっと休みたい、眠りたいと叫んでいる。
そうこうしているうちに男が下半身を封じるように跨ってきた。――最悪だ。このまま猫のようにおとなしくしていたら、いいようにされてしまう。
畳に視線を走らせると、少し離れたところに黒い刀が転がっていた。あれさえ取れれば。そう思うのに拘束は緩まない。着替える前の子供のように、ばんざいの形をさせられたまま、悔しさに下唇と噛み締める。
男は蓋をするように体を折って顔を寄せ、ため息のような音で何かを呟いた。半分諦めに近い気持ちで瞳をかたく閉じると、微かな声が鼓膜を震わせた。
「……やっと、会えた」
え、と口から意味のなさない音が漏れる。
目と鼻の先に男の顔があった。
相変わらず布を被っているので瞳が見えない。
彼が体を起こすのと同時に月が雲から顔を出した。淡い光がスポットライトのように差し込み、部屋が徐々に明るくなる。
瞳が鼈甲色に光っていた。前髪は長く、さらさらとしていて、片方の目を隠している。
脳裏にある男の姿が浮かぶ。記憶の中の彼と違うのは――髪の毛が漆黒に染まっていることだった。
頭の中がぐちゃぐちゃになる。いつかの光景がフラッシュバックした。逃げ惑う人々――血に染まった戦装束。
恐怖が足の先からのぼってきて、小刻みに体が震えてしまう。
まさか、そんなことはあり得ない。目の前にいたのは、膝丸だった。
男は何を思ったか手を伸ばしてきた。もうとっくに拘束は外されていて、顔の横に片手が置かれている。
指先が喉元に触れる瞬間、渾身の力を込めて右足を振りあげた。足の甲に柔らかい感触が伝わる。
僅かに浮いていた腰が衝撃を受けて跳ねた。
下腹部を押さえて悶絶している男の脇腹を駄目押しのように蹴り倒す。生き物の潰れたような声を出して、畳に手を付く。股間を押さえながら蹲っているのを横目に、ひったくるようにして荷物と刀を取った。
軽い動きで柵を越えて屋根に着地する。走るたびに瓦がガチャガチャとうるさい音を立てた。それには構わずに重心を低くしながら、屋根を慎重に滑り落ちる。
雨樋に手をかけて飛び降り、猫のように地面に着地した瞬間、左足首に激痛が走った。
やってしまった。
沸騰しそうな苛立ちが襲う。しかし、それには一旦無視をして暗い路地に逃げ込んだ。
背中ごしに怒号に似た声を聞いたような気がした。だが足を止めることはしなかった。