潮騒_04 - 5/5

閉じた瞼の奥から、温かい光を感じた。
ゆっくりと瞳を開くと、目の前に果てしない草原が広がっていた。足元でサラサラと細い草が音を立てている。その音を聞きながら、女はまたここへ来てしまった、と思った。耳が聞こえなくなってから幾度となく見た夢だった。それにしても、と思いつつ顔を上げる。柔らかい風が頬を撫でるのを感じた。それにしても――ここはとてもリアルだし、今まで見たどの風景よりも美しい。
遠くのほうから、確かに呼ばれた声がして、其方へと顔を向ける。丘の上で自分を見つめている誰かが居た。その誰かは、まるで待っていてくれるように静かに立っている。ほとんど駆け出したい気持ちになりながら、ゆっくりと足を動かした。
あと数歩で届くという距離で、相手へと手を伸ばす。輪郭がぼんやりとしている相手の、指先に触れようとした瞬間、何処からか桜の花びらが舞いあがった。まるで吹雪のような花びらから身を守るように腕で顔をかばう。あたりが静寂に包まれて、静かに瞳を明ける。
――目の前には、果ての無い、美しい草原が広がっていた。

朝の光が、スポットライトのような眩しさで室内を照らしている。女は一度だけ緩く瞬きをした。そのまま静かに上体を起こす。衣擦れのさらさらとした音が鳴った。
明るいミルクティー色の髪の毛が、肩口から緩いウェーブを描きながら、肩甲骨の辺りまで流れている。真っ白い背中が、朝の光を受けて一層白く光るようだった。背中の中心に、背骨がまるで一本の筋のように浮かび上がっている。腕をだらりと布団の上に置きながら、女はぼうっとしたように目の前の空間を眺めていた。
ふと隣に気配を感じ、緩く視線を向ける。半裸の男が、うつ伏せの状態でぐうぐうと寝ていた。その横顔がとても幸福そうで、女はどこか心の奥のほうを掴まれたような気がした。薄い筋肉におおわれた剥き出しの肩が、冬の空気に晒されてとても寒そうだった。しかし、当の本人はそんなことは気にもせずに、規則正しい呼吸を繰り返している。
自分の左手を見ると、節くれだった手にしっかりと握りこまれているのが分かった。それが、まるで此処へつなぎとめているように見えて、小さく苦笑する。固く握り込められた指を、一本一本苦労して外した。
床に散らばった衣服を一つ一つ拾い集めると、順番に身に着けていく。最後に黒いコートに袖を通すと、襖へと手を伸ばした。後ろ髪を引かれる気持ちで小さく後ろを振り返ると、先程と同じ寝姿が見えた。――彼の姿を見るのはこれで最後だろう、とぼんやりと思う。心に感謝の気持ちが浮かんだが、それを本人に伝えることは辞めておいた。心の中で、さよなら、と呟く。
襖に架ける手に力を込めた瞬間、指先に静電気のようなものが走った。それを訝しく思いながら、もう一度力を込める。薄くて軽そうな見た目に反して、それは一ミリも動かなかった。
え、とか、う、とか意味の無い言葉を漏らしながら、がむしゃらに力を込める。目の前の襖に完全に気を取られていて、背後でゆっくりと立ち上がった気配に気づくことができなかった。
「何処へ行く」
地をすべるような冷たい音が響いた。それには気付かずに、女はどうにかして外へ出ようと襖に全体重をかけている。
後ろから覆いかぶさるようにしながら、膝丸は女の左手を握りこんだ。そして、引きずるように室内へと引っ張っていく。急に現れた人物に女は驚きで瞳を大きくした。
膝丸は強引に女を室内に連れ戻すと、敷きっぱなしにしてあった布団に無造作に投げた。女が、布団の上に引き倒される。彼女の喉の奥から、くぐもった音が響いた。なんとか逃げ出そうと伸ばした白い手を器用に片手でまとめ上げると、膝丸は彼女の頭上で固定した。そして自分の太ももで相手の下半身を封じる。一瞬で身動きが取れなくなり、相手の瞳が恐怖で塗りつぶされていくのが見えた。
「なぁ、君。こんな時間から、一人で何処へ行こうとしていたんだ?」
ほとんど独り言のように膝丸は呟いた。
「……それよりも先に、聞きたいことがある。君は昨日、あの海で、本当は何をしようとしていた」
伽藍洞の瞳で目の前の女の顔を見下ろす。女の瞳が恐怖で絶えず揺れていた。
「あぁそうか。聞こえないのだったな。では、答えられぬのも仕方がない」
と、膝丸はどこか馬鹿にしたように言葉を続ける。
「聞こえないのなら、むしろ好都合だ。今の俺は、頭が回らない。思うままに感情を言葉にしてしまうだろう。それにしても……君は本当に、残酷だな。与えるだけ与えて、そのまま相手のことなど気にもせずに、消えようとするのだから」
自嘲気味に膝丸が笑う。女は戸惑ったように、男の苦痛に歪む顔を眺めていた。
「君が一人で海に入っていくのを見た時、俺がどんな気持ちだったか、想像ができるか?」
女の顔の横で、男が何かを堪えるように、ぎゅう、と拳を握った。噛み締めた口の脇からキバがちらりと顔をのぞかせる。
「……俺は、君の生きる理由にはなれないのか。君をここへ引き留める存在には、なれなかったのか」
絶望に染められた声色で男が呟いた。
「……俺は、もう何も求めない。君が笑いかけてくれなくてもかまわない。心を向けてくれなくてもいい。だが、一つだけ、俺から君に願いがある。……生きることを、諦めないでくれ」
女は、途方に暮れたように前を向いていた。不意に、上からパタパタと雫が落ちてくる。そちらを見やると、男が何かをこらえるように歯を食いしばっているのが見えた。琥珀色の瞳の端から、次々に雫が溢れてくる。
それをきっかけに、腕の拘束が緩められた。ゆっくりと上体を起こすと、静かに相手と向かい合う。
そのまま、目の前で泣き崩れる男を見つめていると、自分の意識が遠くに消えていくような気がした。ぼんやりとしていると、相手が恐る恐る体を寄せてくるのを気配で感じた。
肩口に、相手の頭の重みを感じながら、脱力したように前を向いていた。――そしてふと、あることに気が付く。瞬間、彼女はこげ茶色の瞳を大きくさせた。
そのまま腕を上げると、肩口にある緑色に手を滑らせた。びくり、と相手の体が震える。しゃくり声が一段大きくなった。
「……なんだか、泣かせてばかりだね」
と、女が言った。とても穏やかで優しい声色だった。それに、しゃくりながら男は答える。
「普段は、ここまで泣いてなどいないぞ」
言いながら、ずぴずぴと鼻を鳴らす。数秒後、男はがばりと体を起こした。
「君。声が」
茫然とした様子で呟かれた相手の言葉に、小さく頷いた。
再び、黄色い瞳にみるみる溢れる涙を眺めながら、女は静かに耳を澄ませた。
――潮騒の音は、止んでしまっていた。

お昼下がりの執務室で、一人と一振りが文机に向かい合っていた。片方は紙に何か書き物をしていて、片方はぼんやりと机に肘をつきながら、その様子を眺めている。時折、近くにあったお菓子をつまみながら、一言二言会話をすると、二人は肩を寄せ合って笑った。
加州清光は、以前と変わらない日常が戻ってきたことを奇跡のように感じていたし、ほとんど神様に感謝したい気持ちだった。
目の前の主人は、もう戻ってこないだろうと、ほとんど諦めてしまっていた。しかし数日前に、ひょっこりと玄関に姿を現した彼女を見ると、思わず子供のように抱き着いてしまったのだった。
目の前で揺れる明るい髪色を眺める。結局自分は、彼女を暗闇から掬い上げることができなかったということに、加州は心の奥のほうがちりと焦げるような感覚がした。そして、凛とした立ち姿と、流れる前髪を思い出す。
感謝をするとしたら、と、加州は思った。――もし、感謝をするとしたら、どこかの知らない神様ではなく、あいつにするべきかもな、と。
頭に浮かんだのは、恐らくこの本丸で、一等主人を愛してやまない一人の男の姿だ。
実の事を言うと、目の前の女のことを、単なる主人以上の目で見ている刀は、他にも何人かいた。しかし、それにはまるで気が付かずに、彼女は日々を重ねていく。それにどこか安堵の気持ちを感じていると、ふと机の上に置かれている物が目に入った。それは、拳の大きさの巻貝だった。
「主。それ、なに?」
思ったままを口にした加州に、女は作業の手を止め、何処か困ったように眉を下げる。そして、徐にそれを手に取ると、貝の口の部分を静かに自身の耳に当てた。
そのままじっとしてしまった主人を訝しく思い、加州は声を掛けた。
「何か聞こえるの?」
その問いに、暫く耳を傾けていた女が、不意に男の瞳と目を合わせる。見つめ合う視線の先で――美しい紅色が、かすかに光った気がした。その煌めきをどこか懐かしく感じながら、彼女は小さく微笑んだ。