潮騒_05 - 1/4

数冊の本を腕に抱えながら、長い廊下を歩く。外に視線を向けると、桜の蕾が綻ぶように膨らんでいて、風が吹く度に花びらが揺れていた。桜の花を見ると、無条件で心が浮き立つのはどうしてだろう。審神者は、視界に映る桃色を眺めながら、春の訪れを感じていた。
執務室に入ると、見慣れた近侍と見慣れない少女がいた。見慣れたほうの人物は、いつもより背筋を伸ばし、真剣な眼差しで机の上の資料に目を通している。気を張っているのが顔つきから伝わってきて、女はくすりと笑った。
「本丸には、もう慣れた?」
と、見慣れないほうの子の隣に座りながら、審神者は少女に声を掛ける。大きな文机の上で、ノートパソコンに一生懸命に打ち込みをしていた彼女は、困ったように眉を下げた。
「まだ、全然です」
言いながら前髪に手をやった女を、審神者はぼんやりと眺めた。明るい茶色の髪が、肩の上でふわふわと揺れている。瞳は明るい髪の色とは反対に、黒に近い色だった。くっきりとした二重が、黒目をより大きく見せている。
彼女は、一週間前から本丸に来ていた見習いの子だった。見習いの制度があることをすっかり失念していた審神者は、管狐の言葉に閉口した。
「審神者様に拒否権はありません」
見習いの子が研修に来ると聞いた時、審神者はすぐに断ろうと口を開けた。そして、それを実際に言葉にする前に、先回りするように潰される。女は目の前で揺れる、ふわふわの尻尾を睨んだ。苦虫を噛みつぶしたような顔をしている女に、管狐は先ほどまでの冷たい顔を消す。二か月程度なのでお願いします、と恐縮したように言った。審神者は、くりくりとした丸い瞳を見返しながら、暫く抗議するように睨んでいたが、渋々と言った様子で頷いた。
「その作業が終わったら、今日は終わりでいいよ」
そんなやりとりを思い出しながら、審神者は隣で作業をしていた女に声を掛けた。時刻は十四時を少し回ったくらいだった。定時よりだいぶ早い時間だったので、彼女は恐縮しているようだった。うろうろと視線を迷わせている少女に、審神者は大丈夫、と頷いた。
見習いの子が居なくなると、加州は緊張の糸が切れたように机に突っ伏した。そして、「急に二人きりにしないでよ」と言いつつじっとりと睨む。それに、審神者は小さく肩を竦めた。
「でも、素直そうな人で良かったね」
ひたむきな横顔を思い出しながら審神者は言う。それに加州は同意するように頷いた。

見習いの子はとても優秀だった。一教えたことを十吸収して物にしていく、そんな子だった。
普段通り、早めに業務の終了を伝えると、彼女は机の書類を手早く片付けていく。
「今から、短刀の子たちと遊ぶ約束をしているんです」
彼らと早く仲良くなりたいから、と言葉を続ける彼女に、やっぱり正反対だと思う。
「本当にいい子だよねぇ」
と、障子の向こうを見ながら審神者は言う。とても名残惜しそうな口調だった。それに、加州は表情の読めない瞳で、同じように外に目を向けていた。

数時間後、休憩しつつお茶を飲んでいると、執務室に御手杵が来た。
一度、障子の向こうから、ひょっこりと顔を覗かせた御手杵は、そのままの流れで執務室をぐるりと眺める。そして、審神者と加州しか居ないことを確認すると、のしのしと大股で近づいてきた。足音に気が付いて、審神者が小さく手を上げると、御手杵は安心したように頬を緩めて、審神者の後ろに陣取った。
「今日は、あの子は居ないのか」
と、肩口に頭を乗せながら御手杵が言う。それに、さっきまで居たよ、と審神者が答えた。
御手杵は、緩い見た目に反して、とても気を回す人物だった。見習いの子がいる時は絶対に入ってこないし、忙しい時に押し掛けることもしない。
そんなことを考えていた審神者だったが、そうか、と呟かれた声の違和感に、勢いよく体を後ろに捩じる。御手杵は素知らぬ顔をしていたが、じっと見つめる焦げ茶色の瞳の圧に耐えられなくなり、渋々と言った様子で口を開いた。
「すごくいい子なんだけど。態度があからさまなんだよなぁ」
ポツリと呟かれた言葉に、加州が苦笑いを浮かべる。彼らの反応に審神者は眉を潜めた。
「主も、そのうちわかるよ」
近侍の声に、審神者は不思議そうな顔をした。

「……なるほど」
審神者は、扉に隠れるように身を屈めながら、大広間を見つめていた。視線の先には一人の女の子がいる。審神者の位置からは、彼女の後ろ姿しか見えなかった。高く跳ねるような、彼女の楽しげな声が耳に届く。動きに合わせて揺れる茶色の髪の毛が、見るからに柔らかそうだった。審神者はぴょこぴょこ跳ねるそれを眺めながら、何のシャンプーを使っているのだろう、と場違いなことを思った。
揺れる茶色から目を滑らせると、ほとんど肩を触れ合わせる距離に見知った男士が居た。その人物は、ばしばしと腕を叩かれて、戸惑ったように身を引いている。綺麗なシャツと、頭頂部に跳ねている髪の毛が見える。薄緑色の髪の毛が、動きに合わせて揺れていた。
審神者が一人で納得したように頷いていると、急に腕を掴まれた。下側から引っ張られて、がくんと膝が崩れる。審神者は、いきなりの事に、ぎゃあ、と色気のない声を上げた。
腕を引いたのは長身の槍だった。明るい色の瞳が、笑うことで糸のように細くなっている。そのまま、流れるように隣に座らせられて、審神者は慌てた。
「主も朝食を食べに来たのか?」
と、本当に嬉しそうに御手杵は笑う。それに、審神者は否定するように首を振った。
「珍しいなぁ、嬢ちゃんが俺たちと一緒に食べるなんて」
向かいに座っていた日本号がのんびりと言った。審神者は、その言葉に困ったように眉を下げる。
「ごめん。様子を見に来ただけなんだ」
興味深そうに自分を見ている何振りかの刀の視線を感じながら、審神者は恐縮したように言った。それに、御手杵はあからさまに、がっくりと肩を落とす。ごめんねと言いながら、執務室に戻ろうと腰を浮かせると、すかさず目の前にお盆が置かれた。反射的に視線を向ける。つやつやとした白米と、ふわりと湯気を上げている味噌汁、そして卵焼きがあった。他にも、ちょっとした副菜が小さな小鉢に並べられている。唐突に表れた完璧な朝食に、審神者は目を見開いた。
「主が、大広間に来てるって聞いたから。急いで君の分も作ってきたんだ。僕の料理を食べるの久しぶりでしょう?」
と、いつの間にか来ていた光忠が、本当に嬉しそうに笑う。審神者は、引きつったように笑いながら、静かに座り直し緋袴の裾を整えた。口に合うといいな、とはにかむように言いながら、彼は厨房へと戻っていった。
朝食をちゃんと摂るのは久しぶりだ、と思いながら小さく両手を合わせる。頂きますと呟きながら、てかてかと光っている卵焼きに箸を入れる。ふと前方から視線を感じた。
顔を上げると、髭切が、にこにこ笑いながら此方を見ていた。思わず小さく会釈をする。男は、審神者にしか見えないように控えめに手を上げて、ひらひらと振った。
ぼんやりと、揺れる手のひらを眺めていると、急に唐揚げを口に放り込まれる。慌てて目を向けると、眩しい笑顔があった。
「あんたにあげるよ」
特別な、と言いながら、追加とばかりにお皿に唐揚げを放り込まれて、審神者はもぐもぐと肉を咀嚼しながら頭を下げた。お礼に卵焼きをあげると、御手杵は目を糸のように細くして笑う。
再び視線を感じて、顔を上げる。今度は見習いの子と膝丸が此方を見ていた。膝丸の眉がきつく顰められていて、まるでそれが怒っているように感じ、審神者は恐縮する。見習いの子は、一部始終を見ていたのだろうか、口に手を当ててくすくすと笑っていた。審神者は急に恥ずかしくなって、思わず隣に体を寄せつつ、緑色のジャージの裏に身を隠した。
穏やかな午後。
審神者は、見習いの子に聞きたいことがあった為、彼女の部屋までの廊下を歩いていた。
いつも通り加州と仕事をしていた所、加州が資料の不備を見つけてくれたのだった。それが、彼女が作ったものだった為、こうして足を運んでいる。
ふと庭先に目を向けると、短刀達が元気に追いかけっこをしてるのが見えた。その無邪気な光景に目を細めつつ、短刀の中に明るい茶色の髪を探す。しばらく視線を彷徨わせていたが、特に見当たらなかったので、止めていた足を踏み出した。
見習いの子は自室に居ないようだった。障子が開け放たれた彼女の部屋は、がらんとしている。
そのまま彷徨っていると、源氏の部屋に通りかかった。中から、高い声が聞こえる。
障子の向こうから声を掛けると、慌てたような高い声と、落ち着いた低い声が返ってきた。静かに入室すると、源氏の兄弟と見習いの子がいた。今日、彼女は非番だったので、巫女服ではなく私服を着ている。柔らかい素材のワンピースから、真っ白い太ももが覗いていた。途端に、見てはいけないものを見ているような気持ちになって、審神者は静かに目を伏せた。
「お休みの所申し訳ないけれど、ここのサインが抜けていたから、もらっていいかな」
と、少々恐縮しながら言うと、彼女は途端に不機嫌になる。
「……いいですけど。次からは業務中にして下さい」
今は時間外ですよ、と咎められるように言われて、審神者は申し訳なさそうな顔をする。
「膝丸さんもそう思いますよね」
と、見習の子が言葉を続ける。膝丸は、彼女の言葉に心底困った顔をした。そんな煮え切らない男の反応に気を悪くしたのか、彼女は小さく口を尖らせて男に身を寄せる。
膝丸は、その瞬間、弾かれたように審神者の方を振り返る。彼女は目の前で身を寄せ合う男女を透明な瞳で見つめていた。膝丸は、焦ったように瞳を揺らしながら、縋りつく見習いと、審神者を交互に見ている。
審神者が、どうしようと思いながら棒立ちでいると、髭切がひらりと小さく手を振った。そのまま無言で手を伸ばしてきた髭切に、頷きながら書類を渡す。渡しながら、琥珀色の瞳と目を合わせた。女は、髭切に対して自分と近い物を感じていた。書類を渡すとき、僅かに指先が触れる。瞬間、彼は自分と同じ気持ちなのだと理解した。
審神者は、見習いの子のじっとりとした視線を感じながら、面倒ごとは嫌いだとばかりに口を引き締めた。膝丸はその瞬間、審神者が自分との間に見えない線を引いたことを悟って、小さく身震いする。
審神者は静かに部屋を一瞥すると、もう用は無いとばかりに、くるりと廊下へと足を向けた。数秒後、焦ったように自分を呼ぶ声が廊下に響いたが、彼女は歩みを止めることはしなかった。
それから、見習いの子の姿をよく見るようになった。彼女の隣にはいつも膝丸がいる。そして、彼女は審神者と目が合うと、にっこりと笑って男に身を寄せるので、審神者はその度に瞳の色を無くしていった。
桜の花を見ながら、審神者と髭切は廊下でぼんやりと庭を眺めていた。愉し気な様子の男とは反対に、審神者の顔は曇っている。小さく体育座りをしながら、なんだか今は足を延ばすより、小さく体をたたむ方が安心する、と思った。
「話って、なあに?」
目の前の桜に目を向けながら髭切がのんびりと言う。審神者は、彼の問いに答える代わりに、無言で廊下の上へ紙を置いた。
「政府から、見習いの子に一本刀を譲渡するようにと文が来ました」
体育座りの体制で、膝を抱えるようにしながら、審神者は言った。髭切は紙を無遠慮に摘まみ、無言で文に目を走らせている。
「桜ちゃんに希望を聞いたら、ぜひ膝丸がいいと」
ポツリと審神者が呟く。それに、髭切はにっこりと笑った。
「そう言うだろうねぇ。あの子、弟にくっついて歩いていたから」
まるで金魚の糞みたい、とにこやかに髭切が言う。審神者は彼の非情な言い方に顔を顰めた。
「僕たちは、色々な所を転々としていたからね。弟も今さら主が変わっても、特に気にしないと思うよ」
おおらかな調子で髭切が言う。審神者はぼんやりと前を見つめたまま、静かに頷いた。
「弟が見習いの子の本丸に行くとしても、僕はここに残るよ」
予想外の言葉に驚いたように瞳を大きくすると視線を目の前の風景から、男へと向けた。金色の瞳が、真っ直ぐに女を見つめている。審神者は胸が熱くなるのを感じた。
「今回は、そのことも含めて相談したいと思って……。膝丸が彼女に譲渡されるとしたら、髭切も一緒に行って欲しい」
と、審神者が言った。彼女の声は感情を抑えるように掠れている。髭切は一瞬、驚いたように瞳を大きくした。数秒遅れて普段の柔和な笑顔で頷いた。
髭切の笑顔の裏で、審神者は下唇を噛んで感情を押し殺している。その時ちょうど庭の向こうに、話の人物の姿が見えて、二人は同時に視線を向けた。そこには、膝丸の手を引いて歩く見習いの子が居た。くっきりとした二重に縁どられた瞳が、とろりと男を見つめている。膝丸は喜びを隠すように下を向いていた。幸せそうな二人を見つめながら、きっと彼女だったら刀を大切に扱ってくれるだろう、と思った。
それに、と審神者は考える。自分は膝丸を泣かせてばかりいた。印象に残っている表情は、いつも悲痛に歪んだ顔だった。忘れていた潮騒の音が聞こえるような気がして、思わず審神者は、ぎゅう、と目を閉じる。瞼の裏の暗闇を見つめる。譲渡は二人にとってむしろいい事なのではないかと思った。
審神者は、静かに瞳を開ける。覚悟を決めたように小さく息を吐くと、懐からペンを取りだした。
「髭切、サインを」
審神者の言葉に、髭切はにこりと頷くと、静かにペンを受け取る。ぱちりというキャップが外れる音を聞きながら、審神者は頭の中で、研修終了までの日を数えた。あと残り僅かだったので、今日の夜にでも膝丸に事情を話して、契約書にサインを貰わないといけない。審神者は、数時間後の自分を想像すると、途端に胃が痛くなるような気がした。
横を見ると、ちょうど髭切が書類にサインをしている所だった。サラサラと紡がれていく文字をぼんやり眺めていると、彼の手がぷつりと止まるのが分かった。
壊れたロボットのように静止してしまった髭切を、審神者は不審そうに見つめた。一向に動かない男の様子に、女は首を傾げる。
「まさか、自分の名前も忘れちゃった?」
と、少しだけ茶化すように審神者は言った。その言葉に、はっとした様子で顔を上げた髭切だったが、否定するように頭を振る。思い出したように手の動きを再開した。
「見守ることが、愛なのかもね」
さらさらとペンを走らせながら、髭切が言った。審神者は、男が手の動きを再開したことにほっと胸をなでおろすと、視線を前の庭に戻した。
髭切は、自分の名前を書き終えると、ふと審神者へと目を向けた。明るい色の髪の毛が、風にさらさらと揺れていて、横顔の美しいラインと、透明な瞳が見える。髭切は、心の奥にその光景を収めるように、じっと女の姿を見つめていた。

その夜。審神者は机の上に一枚の書類を広げながら、一振りの刀を待っていた。カチカチカチ、という時計の音を聞きながら、心がどんどん鉛のように重くなっていくのを感じていた。いっそのこと、執務室に呼んだこと忘れてくれていたらいいのにとすら思ったが、約束を破るような男ではないということを、審神者はすでに知っていた。
机の上の文をほとんど睨むように眺めていると、控えめに障子を叩かれる音がした。びくりと体を震わせながら、審神者はついに来てしまった、と心の中で盛大に溜息を吐いた。今から膝丸に伝えることを思うと、胃の奥がキリキリと痛むような気がする。思わず巫女服の胸の辺りを、ぎゅうと握りながら、障子の向こうへと声を掛けた。
するり、と障子が音もなく開かれて、戦装束に身を包んだ男が姿勢よく正座をする。審神者は、どうぞと言いながら自分の向かいにある座布団へと促した。男は素直に頷いて、腰を落ち着ける。
「今日は、膝丸にお話しがあって、呼びました」
深呼吸をしながら、審神者は呟いた。普段と違う雰囲気を感じているのだろう、いつもは無表情気味の膝丸が、僅かに不安そうな顔をしている。
「見習いの子の研修が、あと少しで終わるのは、膝丸も知っているよね」
「あぁ。知っている。あの子は明るく聡明な女子だった。きっと彼女は、刀に愛情をもって扱ってくれることだろう」
と、膝丸は嬉しそうに、そして僅かに寂しさを声に滲ませながら言った。その反応に、審神者は少しだけ勇気を貰える気がした。
「彼女が研修を終わったら、この本丸から一振り、譲渡することになったんだ」
審神者の言葉に、ぴくり、と男の眉が揺れる。
「実は政府から文が届いて。この件で、私に拒否権は無いみたい」
審神者は、真っ直ぐに男を見つめる。
「彼女に希望を聞いたら、ぜひ膝丸を、と。」
審神者の言葉に、膝丸はみるみるうちに顔色を悪くしていった。何かを言おうとして、口がわなわなと揺れている。審神者は、視線を下に向けつつ言葉を続けた。
「今回は特例で、髭切も一緒に行ってくれることになったから」
すっと、机の上の紙を手で押す。膝丸はそれを静かに受け取りながら、震える手で文を読んでいる。
「膝丸も言ってくれたように、彼女は刀を大切に扱ってくれる、」
「ま、待ってくれ」
審神者の言葉を遮るように、膝丸が言った。感情を押し殺すように手を握りこんでいる。黒い手袋が、ぎり、と音を立てた。
「俺は、何か不敬を働いてしまっただろうか? あの子と仲良くしたから?」
大きな声で矢継ぎ早に尋ねられて、審神者は驚いたように瞳を大きくする。否定するように、ぶんぶんと頭を振った。
「彼女は確かに距離が近かったが……俺の本意ではない。べたべたとくっついてきても、君の立場を思うと無下にも出来なかった。君が不快に感じたのなら、明日からは距離を保つ」
「ちょっと待って。別に仲良くすることは悪くないし、なんか話がずれてる」
膝丸の言葉に、焦ったように審神者が言った。膝丸は、どうしていいかわからないような、途方に暮れたような表情で審神者を見つめた。その顔を見ながら、審神者は胃が痛くなるような気がした。
「俺はここに居たい……君の本丸に。どうか、考え直してくれないか」
と、言いながらじりじりと距離を詰めてくる男に、審神者は心底困ったような顔をした。兄刀の、のんびりとした顔と言葉を思い浮かべる。彼の言葉は本当にあてにならないと思った。
「下げ渡すなんて言わないでくれ」
ほとんど縋るような声色で、男は言う。審神者は、それにふるふると首を振った。途端に膝丸は、刀解を言い渡されたかのように絶望的な顔をした。
「数ある刀剣の中から選ばれたって事は、本当にすごい事なんだよ。それに、彼女は貴方と……ちゃんと向き合ってくれる」
勢いのまま、あの子はお前が好きなのだと言ってしまいたかったが、言葉をオブラートに包み込む。自分が言うことでもないと思った。そんな審神者の気持ちなど露ほども知らずに、膝丸は眉間に皺を寄せた。
「それは、どういう意味だ? それに君はいいのか? 俺がこのまま彼女の刀になっても」
深く眉間に皺を刻ませながら、男は言う。声が氷のように冷たかった。審神者は、膝丸の言葉にぐっと下唇を噛みながら、感情を抑えるように深呼吸をした。
「……貴方たちは、私に使役されている」
唐突な審神者の言葉に、膝丸は不審そうに顔を上げる。膝と膝を突き合わせるようにしながら、審神者は相手の悲しみに縁どられている瞳を見つめた。
「そして、私は政府に使われている。上の命令には逆らえない……それは貴方も私も同じ。そこに私の感情は必要無い」
審神者は、吐き捨てるように言い放った。膝丸は、そんな理屈は聞きたくないと頭を振る。
「お願いだから。少しでも私の事を思ってくれるなら、ここにサインをして欲しい」
懐からペンを取りだし、相手の手元にもっていく。膝丸は、一瞬信じられないものを見るように審神者を見つめた。そして、光の無い瞳に、鮮やかな怒りの炎が灯る。悲しみは一周回ると怒りになるということを、審神者はこの時初めて知った。
膝丸はペンを奪い取ると、契約書を乱暴に掴んだ。
「君の気持ちはよく分かった。これは自室で書く。後日此処へ持ってくる」
早口で言いながら、耐えられないというように背を向ける。そのまま障子へと手を掛けた男を、審神者はぼんやりと見つめていた。男の表情に引きずられたのだろうか。心臓が引き絞られるような痛みを感じる。行って欲しくない――心の中に浮かんだ言葉に、審神者ははっとしたように瞳を大きくした。
膝丸は、乱暴に障子に手をかけると、何かを思いだしたようにくるりと踵を返す。そして、審神者の元へと跪くと、ぎゅう、と女の白い手を握りこんだ。
審神者が驚いたように固まっていると、手の甲を慈しむようにゆっくりと撫でられた。相手の指先からどろりとした熱を感じる。思わず瞳をぎゅう、と閉じる。
何かを引き抜かれる感触がして、そろりと瞳を開けると、姿勢よく起立している男が居た。長い前髪に隠されて、表情がよく分からない。
「君が俺を下げ渡すなら、これはもう要らないな」
と、膝丸が言う。自嘲気味に笑いながら、何かを手の平に乗せ、ぎりりと歯を食いしばる。自分の左手を見ると、彼から貰った指輪が無くなっていた。
「まって」
思わず縋るように審神者が言う。膝丸は、彼女の方を一瞥すると、片手を大きく振りかぶった。そして、まるでボールを投げるように腕を振る。数秒遅れて、池に何かが落ちる音がした。ぱちゃん、という水音を聞きながら、審神者は茫然とした様子で男の横顔を見つめていた。
膝丸は、夜の闇のように光を無くした瞳で庭先に目をやると、流れるような動きで執務室を後にした。残された審神者は、畳の上にぺたんと座ったまま、先ほどの光景を反芻していた。途方に暮れたように夜の闇を見つめる。誰かに、自分の決断は正しかったのか教えてほしかった。しかし、執務室は冷たく静まり返っている。耳を切り裂くような静寂を感じながら、審神者は呆けたように夜の闇を見つめていた。

次の日。早朝の庭先に女の姿があった。太陽が顔を出すより前に、審神者は冷たい池の中に居た。緋袴を脹脛のあたりまで濡らしながら、中腰で何かを探している。池の中を泳いでいた鯉たちが、突如乱入してきた存在に慌てて逃げていくのが見えた。審神者は、焦げ茶色の瞳を苦しそうに細めながら、懸命に水の底の泥を掬う。しかし、指先から零れるのは黒く汚れた葉ばかりで、審神者は落胆したように小さく息を吐いた。
一瞬、諦めたように肩を落とすと、腰のあたりに痛みが走った。ずっと中腰でいたからか、体の節々が痛かった。そのままの動きで伸びをする。肩がバキバキと不吉な音を立てた。
群青に変わっていく空を見つめながら、もう見つからないかもしれない、とぼんやりと思った。探し物はとても小さくて、そして池はとても大きい。昨日は夜だったので、どのあたりに落ちたかもわからない。もう少しだけ探して、無かったら一度執務室に戻ろう、と思い再び池に視線を落とすと、視界の端に光るものが見えた。
一気に心拍数が上がるのを感じながら、水の底に手を伸ばす。掻き回したせいで、水は濁ってよく見えなかった。焦る気持ちを押さえながら、手の平に当たった金属を慎重に掴む。
「……がっかり」
と、審神者は気落ちした様子で呟いた。手の平にあったのは、星のような金具だった。ちょこんと乗っている金具を水で軽く洗う。綺麗になったそれを指先で摘まんで繁々と見つめると、女は小さく下唇を噛んだ。
その金具は星では無かった。五つに分かれた花びらが、控えめに折り重なるように配置されている――それは竜胆の花だった。咄嗟に誰の物か分かってしまい、審神者は苦し気に眉を寄せる。そういえば、男の戦装束にこんな飾りがあったような気がする。
いつ落としたのかは分からないが、本人に返した方がいいだろうかと考える。と同時に、昨日のやり取りを思い出して、審神者は小さく頭を振った。今更これを渡したとして何になるというのだろう。あと数日で膝丸は自分の刀では無くなるのに。
そう思うと、数秒遅れて損失感が心を満たした。怠い体を引きずりながら、池の岸へと戻る。緋袴が水を吸って重たかった。
岸にたどり着こうという所で、女は徐に後ろを振り返った。流れるような動きで、大きく腕を振りかぶる――しかし、彼女はその体制のまま動けなかった。腕を振り上げたまま、人形のように固まっている。数秒間その状態だったが、思い直したように手のひらの中の物を懐へしまった。
何度目か分からない溜息を漏らしながら、審神者は空を見上げた。朝日が森の向こう側から顔を出しているが、その上は厚い雲で覆われている。彼女は、重く垂れこめた雲を眺めながら、胸の辺りがザワザワとするのを感じた。嫌な予感を振り切るように、池の岸へと上がると、じっとりと水を含んだ緋袴の裾を絞る。絞っても絞っても水は滴り落ちてきて、玉砂利の上に濃いしみが広がった。それを、女は何の感情も読み取れない瞳で眺めていた。