潮騒_05 - 3/4

急いで大広間に戻ると、そこには大勢の刀の姿があった。一番奥に、見知った二人の刀を見つける。後ろについてきた膝丸が、気が付くと庇うように横に寄り添っていた。その姿に勇気づけられながら、歩みを進める。
広間には、本丸のほとんどの男士が集まっていた。彼らは、審神者に気が付くと、自然に道を開けてくれる。自身に向けられる自責の念に縁どられた瞳を見て、女は彼らの術が解けかかっていることを悟った。
開けた道に沿って進んでいくと、一番奥に見習いの子がいた。畳にぺたりと脱力している。彼女はふっくらとした首に、冷たい刀をあてがわられていて、恐怖で瞳が見開いていた。その横で満身創痍の状態で座り込んでいる男士に目をやると、審神者は小さく声を上げた。
「加州!」
叫ぶように言いながら、審神者は男の元へと走っていく。走ったままの勢いで抱き着くと、相手は急に現れた主人に、驚いたように体を跳ねさせた。改めて自身の胸に飛び込んできた存在に目をやると、紅い瞳を大きくする。
「主。その髪、どうしたの」
加州の言葉に、審神者は、私にも分からないと困ったように笑った。それに、加州は困惑したように女の黒髪を撫でる。
「加州、無事で本当に良かった」
と呟くと、お礼を言いながら加州の本体を返した。そのまま駄目押しとばかりにぎゅう、と抱き着くと、見習いの子に刀を向けている男士に目を向けた。
光忠は、刀を相手の柔らかい首筋へと当てながら、審神者と加州の様子を見つめていた。眼帯に隠れていないほうの目が後悔の色に縁どられている。審神者はゆっくりと近づくと、さりげなく刀を彼女から離させて、同じように抱きしめた。
「戻ってきてくれて、ありがとう」
小さく呟くように言われた言葉を耳にして、光忠の金色の瞳に、見る見るうちに水滴が溢れていった。審神者の首筋に浮かんだ、自身がつけた赤い線を指先でゆっくりと触れる。その下の惨たらしい裂き傷に気が付くと、驚愕したように息を飲んだ。その様子に審神者は困ったように俯いた。
刀を握る黒い手袋に包まれた手を、諫めるように強く握ると、審神者は自分を見つめる者達へと向き合った。ザワザワとしている大広間を見渡す。皆混乱しているようだった。泣いている者、謝罪の言葉を口にしている者、術が解けておらず激高している者――まるで地獄絵図のような光景に、審神者は視界がくらりと揺れた。心配したように此方を見つめている加州と目を合わせると、審神者は少しだけ口角を上げて俯いた。そして静かに瞳を閉じる。
人形のように目を瞑ったまま動かなくなってしまった女に、煩く喋っていた男子たちが困惑したように口を閉じる。話声が小さくなっていき、やがて静寂が訪れるのを、審神者はじりじりとしながら待っていた。
数分後、大広間が完全に静寂に包まれると、やっと審神者は顔を上げた。小さな口を開く。
「この本丸の上空で敵を見ました。距離は一キロ。あと数十分程度で、彼らはここへ来ます」
審神者の端的な言葉に、何人かの息を飲む音が聞こえた。遠くのほうから響いた、数は、という声に女は小さく頭を振る。正直、数など分からなかった。パチンコ玉のように途切れなく落ちてくる人影を思い出して、審神者は背筋が凍るような気がした。
「私の事を主と認めていない刀も多いでしょう。こうなった責任は、私が必ず取ります。だからどうか……最後に、私に力を貸してください」
言いながら、ぎゅう、と目を閉じる。辺りを再び静寂が包みこんだ。女は歯を食いしばりながら、彼らの反応を待っていた。瞳を開けて確認するのが怖い――そう思っていると、ふいに遠慮がちに肩を叩かれる。恐る恐る其方を見つめると、加州が隣でほほ笑んでいた。前を見ろと視線で合図する。不思議に思いながら素直に従うと、審神者は驚きで瞳を大きくした。
そこには、平伏している男士たちの姿があった。刀を傍らに置きながら、両手をついて頭を畳に付けるように伏している。その光景を、審神者は茫然とした様子で眺めていた。
遠慮がちに再度揺さぶられて、審神者ははっとしたような顔をする。呆けている時間は無いのだった。頭を上げるように言うと、皆が指示に従った。
頭で過去の陣形を思い浮かべながら指示を出す。威勢の良い声を上げながら、刀を手にして一振り、また一振りと部屋を飛び出していく。廊下の向こうへと消えていく背中を見送りながら、残っている一振りに声を掛けた。
「膝丸。彼女をゲートまで送っていって。絶対に安全に送り届けて」
と、ボロボロの状態でも、凛とした姿で立っている男に声を掛ける。
「君も一緒に連れていく」
審神者の言葉に、決定事項のように男は言った。彼の頑固さを思い出して、審神者は小さく下唇を噛んだ。こいつ、と心の中で毒吐く。自分が居なかったら、きっと本丸は倒壊してしまうだろうと、直感的に確信していた。いつの間にか現れていたこんのすけを見ると、政府との連絡に苦戦しているようだった。つまりそれは、助けが来ないことを意味している。
「ゲートが細工されていて、通った瞬間にばらばらになるかもしれない」
と、審神者は言いにくそうに呟く。途端に見習いの子は焦ったように喚き始めた。
「ひどい! 私を実験台にするの!」
ぎゃあぎゃあと喚く見習いの子を両腕で拘束している膝丸と目を合わせる。彼は小さく頷いてくれた。苦笑しながら頷き返すと、男は見習いの子を担ぎ上げるように、軽々と持ち上げる。そのまま、風のように廊下の向こうへと消えていった。
よろよろとその場に脱力した審神者に、こんのすけがおずおずと声を掛ける。
「ゲートは正常ですよ」
「知ってる」
と、疲れ切った様子で審神者は答える。不審げに見つめる黒いビー玉のような瞳を覗き込みながら、女は言った。
「ああでも言わないと、膝丸は従ってくれないから」
嘘も方便、とあっけらかんとした様子で言う審神者に、こんのすけは内心で舌を巻いた。

数時間後、大広間の真ん中で、審神者は手当てに明け暮れていた。
加州の本体に気を送り込みながら、辺りを見回すと、多くの刀が手当てを受けていた。隣で作業しているこんのすけをちらりと見ると、彼は小さな手を必死に動かしていた。敵は、自分が予想するよりずっと優秀なようだ。心の中で落胆しながら目の前の作業に戻る。
「主、これじゃきりがないよ。なにか方法はない?」
また一人、運ばれてきた男士を見ながら、加州が呟く。審神者は、彼の本体を手入れしながら、頭の中で敵が落ちてくる情景を思い出していた。重く垂れこめた雲の隙間から、ばらばらと湧いて出てきた人型を思い出す。審神者は小さく頭を振った。
「出てくる場所を封じるにしても、遠すぎて無理。空でも飛べないと……」
そこまで言うと、審神者ははっとしたように作業の手を止めた。加州はそれを期待のこもった瞳で見つめる。女は怯えたように瞳を揺らした。
「む、無理だよ。私一人じゃ出来ない、成功するかも分からない」
狼狽えたように身を強張らせた女の腕に、加州はそっと自分の手を乗せた。
「俺が付いているから。少しの望みでもあるなら、それにかけてみよう」
意志の強い紅い瞳に見つめられて、審神者は弱弱しく頷いた。

加州と審神者は、長い廊下を走っていた。加州は、女の白い右手を握りながら、先導するように前を走っている。女は、必死で足を動かしながら、左手に握っている榊を見つめた。先ほど、大広間の神棚から拝借してきたのだった。
バタバタと走りながら、審神者はむわりと立ち込める血の匂いと、四方八方から聞こえてくる叫び声に顔を歪ませた。斜めに切り裂かれた障子の向こう側に、壁に崩れ落ちていく敵と、味方の男士が見えた。切られた瞬間の敵と目が合ってしまい、その黒く光る瞳から、無念や悲しみの心が伝わってきて、心臓がぎしりと軋んだ。辺りに目を向けると、何十もの折れた刀が無造作に散らばっている。
外に出て暫く走ると、敵の姿は少なくなっていった。見慣れた朱色のアーチ橋まで来ると、審神者は膝に両手を当てた。ぜぇぜぇと荒く息をしている横で、加州は静かに周りに気を配らせている。呼吸を整えている女の横で、刀を構えなおしながら加州は言った。
「主。俺に何があっても、絶対に振り返らないでね」
前の暗闇を見つめたまま静かに呟かれた加州の言葉に、審神者は唇を噛み締めながら頷いた。言葉の端から彼の決意を感じて、審神者はぐっと眉間に力を込める。そのまま、加州に背中を向けて、朱色の端を渡っていく。木でできた床板が、踏みしめるたびにガタガタと音を立てた。後方で、加州が刀を構えた音が響いた。
橋を渡りきると、向こう側には大きな池があった。小さな湖と言ってもよさそうなほど大きい池の淵まで歩く。水を覗き込むと、敵の血と瘴気で赤黒く濁っていた。沸き上がった不安を断ち切るように深呼吸すると、榊を両手に持ち、目の前に掲げつつ頭を垂れた。辺りを静寂が包む。その瞬間加州は、空気が変わるのを肌で感じていた。
女は、右手に榊を持ち替えると、ふわりと空中を滑らせた。鋭く尖った榊の葉が、空を切るたびに、少しずつ辺りが浄化されていくのを感じた。立ち込める生臭い血の匂いと、腐敗した肉のような匂いが薄くなる。
深く息を吸うたびに、意識がクリアになっていくのを感じた。舞いながら、廊下で会った者の瞳を反芻する。憎しみや怒りの向こう側に、無念さや、深い海のような悲しみがあった。それを思い出すと、折れていく者たちの魂に心が持っていかれそうになる。祈るような気持ちで榊を振る。どんどんと清らかになっていく空気に包まれながら、審神者は名も知らない刀たちを思って舞った。
不意に、刀の合わさる音が響いて、視線を後ろに向けると、加州と刀を合わせている敵がいた。思わず舞を止めてしまった審神者に、加州が叫ぶように檄を飛ばす。
「止めるな!」
轟くような怒号で叫ばれて、審神者は下唇を噛み締めながら、動きを再開した。いつの間にか敵は三体に増えていた。目から溢れてくる涙を拭うこともできずに、審神者は腕を動かし続けた。
悲鳴のような声に後ろを振り返ると、審神者は持っていた榊を落としそうになった。ボロボロの加州が、必死に太刀を受け止めている。その背後から、別の太刀が彼に向って刀を大きく振りかぶっていた。それに気が付いた加州が、悔し気に歯を食いしばっているのが見える。
「加州!」
叫びながら、過去の記憶がフラッシュバックした。審神者は発狂したように声を上げながら、彼に足を一歩踏み出す。瞬間、緑色の閃光が走った。
膝丸が、加州に向かって振り下ろされた太刀を受け止めていた。
そのまま力任せに刀を弾くが、別の敵が襲い掛かる。そちらはまともに受けてしまったようで、肩口から切り裂かれて赤い血が舞った。加州の悲鳴のような声が聞こえる。地に足をついた膝丸の頭上から、先ほど攻撃を阻害された太刀が刀を大きく振り上げていた。紅く燃えたような瞳が、怒りの炎に揺れている。
「やめて!」
審神者が絶叫すると同時に、湖の方からものすごい突風が吹き荒れた。すさまじい音と、風の威力に女は前に倒れそうになる。慌てて体制を立て直しながら前を見ると、驚きで目を大きく見開いたまま、固まっている二人の男が見えた。口をぽかんを開けたまま、女の後ろ側を凝視している。敵を見ると、刀を上げたまま静止していた。
審神者は、彼らの様子に混乱したように瞳を揺らした。すると、後ろから優しく風が吹いているのに気が付く。後方からの風で、水がまきあげられ、霧吹きのように細かい水が肌に当たった。
審神者はゆっくりと後ろを振り向くと、驚きで瞳を大きくした――一瞬、呼吸が止まったように動けなくなる。

目の前に居たのは、一匹の美しい龍だった。
十メートル程離れた湖の上で、重力を無視したように水面に足をゆったりとのせている。白い体がぼうっと発光して、鱗が内側から燃えているようにゆらゆらと光っていた。深い海のように澄み切った瞳が、真っ直ぐに女を見つめている。
審神者は吸い寄せられるように、一歩ずつ湖の中心へと近づいて行った。水の中に足を踏み入れる。ざぶざぶと足を進めながら、下を見ると、水底が見えるほど澄み切っていた。そのままの流れで上を見上げると、重い雲が晴れて丸い月が覗いている。
龍の前までくると、女は榊を両手で掲げて一礼した。榊を右手に持ち替えると、葉で白い鱗をゆっくりと撫でる。龍の口から、溜息のような、蛇の鳴き声のような、ハァという音が空気を震わせた。
何回か腕を動かすと、審神者は近いところにある蒼い瞳を覗き込んだ。透明な色の中に、自分の姿が映っている。
「……これを、あそこへ届けて頂けませんか」
龍の口元へ榊を近づける。暫く女を何の感情も無い瞳で見つめてから、龍は静かに口を開けた。二本の髭が、意志を持ったようにゆったりと揺れている。何処までも透明な瞳を見つめながら、審神者は言葉を続けた。
「どうか、彼らを共に連れて行って下さい」
安らかな場所へ、と言葉を続ける。審神者の言葉に龍は何も答えなかったが、口の端がほんの僅かに弧を描いていた。
審神者は数歩離れると、龍が体をくねらすのが見えた。瞬間、先ほどと同じような突風が吹き荒れる。緩くカーブを描いて、まるで挨拶をするかのように、女のすぐ脇を通り過ぎていく。女は白い腕を伸ばして、彼が通りすぎる瞬間、背に揺れる毛に手を触れさせた。
龍は、本丸の上空をぐるりと一周する。風が吹いて、一瞬で空気が浄化されたのを感じた。気が付くと、加州の隣で、折れた敵の刀が緩く光っていた。切っ先から光の粒が生まれて天へと昇っていく。龍は、榊を咥えたまま素晴らしいスピードで空へと昇って行った。まるで魂を先導していくかのように、刀から生まれた光を引き連れて、黒く淀んだ雲の切れ間を目指す。
蛇が泳ぐように身体をくねらせながら、空を飛んでいった龍が、雲の間に吸い込まれたように消えた。その瞬間、ものすごい轟音が響いた。雷鳴のような地響きが轟いて、思わず女は耳を塞ぐ。バリバリと言う音が止むと、ぽつん、と水滴が落ちてくるのを感じた。
ぽつぽつという音が増えていき、恐る恐る目を開けると、眼下に澄み切った空が広がっていた。夜から朝に変わる前の群青色の、鮮やかなグラデーションが広がっている。
空は晴れているのに、何処からともなく雨が降り注いでいた。心が澄み切るような気持ちになって、思わず女は受け止めるように両手を広げる。
不意に、じゃり、と向こう岸から音が響いて、審神者は視線を向けた。
そこには、先ほど膝丸と戦っていた相手が居た。反射的に身体を硬直させた審神者だったが、相手の様子が可笑しいことに気が付いて、力を緩める。太刀は、目の前で刀を構えている加州や膝丸には目をくれずに、審神者をまっすぐに見つめていた。真っ黒の洞窟のような瞳からは、なんの感情も読み取れなかった。女は、穴蔵のように空洞な闇を、静かな気持ちで受け止めていた。
そのまま動かなかった相手が、ぎしりと体を歪ませる。彼女は、敵の動きに瞳を大きくした。相手は、機械のような不自然な動きで、ゆっくり頭を下げたのだった。審神者は、信じられない者を見るように、固まったまま相手を見つめていた。数秒後、相手は頭を上げると、黒い煙となって瞬く間に消えてしまう。
それを見届けると、女は脱力したようにその場に膝を落とした。ばちゃん、と水の跳ねる音が響く。そのままぐったりと下を向いた。体に全く力が入らなかった。霊力を使いすぎたのか、頭が二日酔いのときのようにガンガンと痛かった。
慌てたように自分を呼ぶ声と、湖の中に入って来るざぶざぶという音を聞いた。二人の声を遠くの方で聞きながら、腕を引かれるまま立ち上がった。心配そうな金色の瞳と、紅色の瞳が覗き込んでいる。
「よくやった」
労るように声を掛けられて、審神者は泣きそうな気持になりながら、小さく頷いた。