潮騒_05 - 4/4

再び大広間に戻ると、審神者はぐるりと辺りを見渡した。こんのすけに重傷者が居ないか聞くと、確認中との事だった。犠牲者は多いが一振りも折れていないと聞かされて、審神者は安堵の溜息を吐く。
しかし、と思いながら女は室内を眺める。そこは、傷を負った者達で溢れていた。彼らの流す血が、畳を赤黒く汚していく。ふと外を見ると、明け方の群青色の空が見えた。あと一時間程度で、太陽が地平線に顔を出すだろう。審神者は深呼吸を一つすると、悲鳴を上げている自身の体の声に鞭を打って、目の前で呻いている男士の傍に膝をついた。
数分後、バタバタと足音が廊下の向こうから響いてきて、審神者は作業の手を止めた。辛そうに顔を上げると、見知った担当の顔があった。やっと政府の人が来てくれたのか、と思うと安堵の気持ちが広がる。焦った顔を浮かべている若い担当の男を見つつ、審神者は簡潔に事のあらましを話した。審神者の話に、政府の何人かが驚いたような顔をしている。
政府の人が持って来てくれた札のおかげで、思ったより早く手入れが進んでいった。あと残りは数振りという所で、切り裂くような声が響いた。
「重傷者です……!」
その言葉に急いで顔を上げると、審神者はびくりと体を硬直させた。槍に抱えられた男士は、ほとんど意識が無い様子で、瞳がしっかりと閉じられている。黒い髪の毛が、べたりと赤黒い血で汚れていた。次の瞬間、耳の奥に鉄の砕けるような音が届いて、審神者は絶望の表情を浮かべた。しかも、よりによって、彼だなんて。審神者は光の無い瞳で、目ので折れかけている男――和泉守を見つめていた。
慌てて駆け寄り、彼の本体に触れる。霊力を送り込むが、内側から響く残酷な音は止まなかった。これでは先延ばししているだけで、彼はすぐに折れてしまうだろう。女は唇を噛み締めると、傍で傍観したように立っている担当へと声を掛けた。
「お願いします、札を貸してください」
焦った様子の審神者とは、反対に落ち着いた様子の担当は、しばし思案するように斜め上を見ると、小さく口を開いた。
「駄目ですね」
審神者は、男の言葉に息を飲んだ。なぜ、と震える声で尋ねると、男は呆れたように審神者を見つめる。
「横を見なさい。物事には優先順位というものがあるでしょう」
心底呆れたように言われて、審神者は静かに視線を向けた。そこには、重傷の大包平や三日月が居た。彼らも意識が無いようだが、政府の人がつきっきりで手当てしてくれていた。
「どういう、意味ですか」
掠れた声で尋ねる。頭がぼうっとして、くらくらとしていた。そんな審神者に、若い男はしっかりしろと肩をゆする。
「刀解しろ、と言っているんです。彼のように珍しくない刀、もう一度顕現すればよいでしょう。第一、札が勿体ない」
その言葉に、女は頭をガツンと殴られたような衝撃を覚えた。若い男の口から、天下五剣ならともかく、と言葉を続けられて、さらに意識が遠くに行ってしまうのを感じた。そういえば、と思う。見習いの子も“珍しい刀がそろっている”とかなんとか言っていた。だけど、それが何だっていうのだろう。
そんな審神者の様子に、担当の男は呆れたように溜息をつき、和泉守を抱えている日本号に声を掛けた。
「そいつを刀解部屋へ」
しかし、日本号はまるっきり無視をしたように動かなかった。舌打ちした男を鋭く睨みつけると、静かに審神者を見つめる。女は、暗い海の底のような瞳で、小さく口を開いた。
「……彼の言う通りです。切れない刀など、ただの鉄屑。政府の命に従いましょう」
機械のように感情の無い声で、刀解部屋へ、と続ける。その言葉に、日本号は一瞬、軽蔑するように審神者を見下ろした。しかし次の瞬間には、元の家臣のような顔を作り素直に頷く。
日本号の後ろをついて歩く審神者を、何百をいう瞳が見据えていた。そのどれを拾っても、軽蔑や絶望といった瞳だった。視線の圧だけで圧死してしまいそうだ、と思いながら審神者は足を進める。
「お願いだから! 助けてよ!」
背中で聞こえた声に、女は一瞬だけ足を止めた。彼女の横顔からは、何の表情も読み取れない。黒い髪の毛が風に揺れていた。そして、何事も無かったように足を踏み出す。
「信じていたのに!」
喉を掻き毟るような声を聞きながら、審神者は足を進めた。まるで物のような冷たい背中を、皆が茫然と眺めていた。

重い扉を開けると、日本号は冷たい木の床の上に男を横たわらせた。そのまま奥に行くと、近くにあったマッチで灯篭に火を起こす。半径一メートルほどの距離がぼんやりと光に照らされた。
「二人きりにして」
横で何か言いたげな槍に言うと、彼は冷たい瞳で審神者を一瞥し、ゆっくりとした足取りで歩いていった。重い扉が閉められると、暗闇が辺りを包んだ。誰も居なくなったのを確認すると、我慢していた何かを吐き出すように審神者は大きく溜息をつく。そしてそのまま部屋の奥へと視線を向けた。奥にある祭壇のような物をぼんやりと眺めながら、初めてみる景色に目を滑らせた。ここは、神社の本殿の中のような作りだった。冷たい木の床に指を滑らせながら、先ほど男が出ていったほうに目を向けると、扉の隙間から日の光が差し込んでいた。きらりと細い光が、此方まで筋のように真っ直ぐ届いている。
審神者は、左手で印を結ぶと、扉に結界を貼った。外から何人かのバタバタとした足音が聞こえてきて、審神者はぎゅう、と眉を寄せる。加州、と口の中で呟くと、涙が一筋だけ頬を伝った。途端に心が揺らいでしまう。段々と近づいてくる足音に小さく頭を振ると、再度同じように左手を振った。瞬間、結界が重ね付けされて、外の音が遮断される。
しんと静まり返った室内で、審神者は小さく溜息を吐いた。そして、床に横たわっている男の傍へ近づくと、子供のようにぺたりと座る。自分の物だとは思えないほど重くなってしまった腕を、よろよろと持ち上げて、男の顔にべたりと張りついた髪の毛を横に流してやった。どこもかしこも怠くて、腕を持ち上げるもの億劫だった。なんとなしにそのまま頭を一つ撫でると、男の口から呻き声が漏れた。ゆっくりと瞳が開かれて、審神者は一瞬息を飲む。
「俺を、折るのか」
やっとのことで言葉を紡ぐと、辛そうに眉を寄せる。息をするだけで体に激痛が走るのだろう。男の言葉に、女は小さく笑った。
「まさか。楽になんか、してあげませんよ」
静かに呟かれた言葉に、男は小さく唸りながら首を振る。意識が混濁しているように、視線が天井と審神者の間を行ったり来たりしている。何かを必死で伝えようとしている男の瞼に、左手を乗せた。
「大丈夫。眠って下さい」
消え入りそうな声で審神者は呟く。言霊を乗せて呟いたので、相手は強制的に眠らされていく。男は暫く、それに逆らうように口を開けて、必死に声を上げようとしたが、数秒後、糸が切れた人形のように脱力した。
その様子をぼんやりと見つめていた審神者だったが、首に下げている勾玉を外すと、静かに男の首にかけた。押さえられていた霊力がどっと辺りにあふれ出す。一瞬で空気が浄化されていった。
一瞬で神域のようになってしまった室内を目の当たりにして、は、と小さく笑った。あれほど消費したのにまだこんなに残っていたのか。自分でもほとほと呆れてしまう、と思っていると、手首を掴まれる感触が伝わり、女はびくりと体を硬直させる。
視線を向けると、左手首が男にしっかりと握りこまれているのが見えた。白い魚のような手が、男の血で赤黒く汚れている。思わず男の顔を見ると、両眼はしっかりと閉じられていた。無意識の行動のようだった。
握られた手に、自身の手を重ねると、静かに霊力を送り込む。彼の体内から響く、パキパキという音を聞きながら、過去へと逆流していくような気がした。数分後、音がしなくなっている事に気が付くと、審神者は小さく瞳を開ける。そこには、先ほどと違って安らかな寝顔があった。それを見やると、女は安心したようにふわりと笑う。不意に、とんでもない程の疲労が襲ってきて、視界が揺れた。鼻の下を液体が伝う感触がして、巫女服の袖で拭うと、血がべったりとついていた。視界がぐらぐらと揺れるが、握った手は離さなかった。もう上体を起こすことも出来なくて、男の隣にゆっくりと体を横たわらせる。
美しい横顔を眺めながら、審神者はゆっくりと瞳を閉じた。握った手はそのままに、身体の中でめぐる音に耳を澄ませる。自身の霊力が無くなっていくのを感じた――きっと、このまま送り続けたら、自分は死んでしまうだろうと確信する。ゆるりと目を開けて、近い所にある美しい横顔を眺める。審神者は、漆黒の髪の毛と、頬から顎にかけてのラインをぼんやりと眺めながら、それでも全然かまわない、と思った。
段々と、二日酔いの時のような気持ち悪さを感じた。なんだか耳鳴りがする――うねるような耳鳴りの音がだんだんと近づいて、轟音のような音になると、最後に一度だけ、清らかな鈴のような音が響いた。
その瞬間、女はぱたりと手を離す。

それは、命が終わる音だった。