審神者は、ぼんやりと頬杖を突きながら、机の上に広げられている紙を眺めていた。強弱のついた文字で、上のほうに譲渡契約書、と大きく書かれているそれを見つめる。こんな紙きれで神様をやり取りできるのは、ある種の冒涜ではないのかと思った。
「案外、早かったなぁ」
心ここにあらずの様子で呟きながら、審神者は小さく溜息をついた。膝丸に譲渡の件を話したのが、ちょうど一週間前の夜。あれから一度、現世に帰り、週末に本丸に戻ると、執務室にむき出しの状態で書類が置いてあったのだった。紙の上の文字を読んだ時、審神者は目の前が暗くなるような気がした。
自分の名前の横に印鑑を押しながら、不備が無いかどうかチェックをする。と言っても、単に自分の名前と、刀の名前を書くだけなので特に確認することも無いのだった。小さく溜息をつきながら、文字に指を滑らせる。それは楷書で書かれた美しい字だった。兄の方は、縁側の廊下の上で書いてもらったせいか、文字がガタガタとしている。それに、ふっと笑みを漏らしたあと、審神者は暫し沈黙した。
ふと心の奥の方から、ザワザワとした何かが上ってくるのを感じた。それは、小さな違和感だった。その感覚は、ほとんど直感に近いものだったが、どうしてもそのままにしておいてはいけない気がした。
「あ。文字か」
と、ぽつりと審神者が呟いた。そして、改めて書面の文字を眺める。譲渡の刀剣の名前の横に書いてある文字を声に出して読んだ。
「ひざまる」
言いながら、審神者は自分の目敏さに思わず感心した。丁寧な楷書で書かれた文字を目で追いながら、頭では数か月前の出来事を思い出していた。自身の耳が機能しなくなった時に、何とか会話しようと思ったこと。結局、彼とは筆談ができなかった。生まれた時代が違うせいか、文字の書き方が独特で、まともに読めなかったのだ。白い小さなメモ帳の上を、流れるように文字を書いていく武骨な手と、途方に暮れたような瞳。そして、窓の向こうに映る高速道路。そこまでを思い出して、審神者は俯いていた顔を上げた。机の上に広げられている書類を丁寧に畳むと、巫女服の懐にしまい込む。流れるような動きで立ち上がった。
襟元を直しながら冷たい廊下を歩く。行先は、見習いの部屋だった。
本丸の長い廊下を歩きながら、審神者は外からの光に思わず足を止めた。時刻は夕方で、まさに太陽が森の向こうへと落ちていくのが見えた。悪あがきのように燃える太陽が、本丸を赤く染めている。馬小屋の向こうに生えている杉の上を、三十羽ほどのカラスが飛んでいた。ぎゃあぎゃあと喚きながら、空の上に円を描くように旋回する。木の下に野生動物の亡骸でもあるのだろうか。審神者は背中に悪寒が走るのを感じた。
「嫌な予感がする……」
小さく呟くと、女はゆっくりとした足取りを早足に切り替えた。審神者は、冷たい廊下を小走りで駆けながら、小さく眉を寄せた。執務室から結構な距離を歩いてきたが、途中に一振りとも出会わなかった。それに、いくつか刀の部屋を通り過ぎたが、もぬけの空だった。空っぽな空間を横目で見ながら、審神者は小さく眉を潜める。
大広間に通りかかると、やっと人影を見つけた。途端にほっとした気持ちになって、頬を緩める。一瞬躊躇した様子の女だったが、静かに和室へと足を踏み入れた。
広い大広間を眺めながら、奥の方にいる人物へと目を向ける。距離が離れていてよく見えないが、五名ほどの人影が円を描くように立っているのが見えた。瞬間、審神者は違和感に体を強張らせた。どくどくと騒ぎ始めた心臓の音を聞きながら、静かに奥へと足を進める。
「……何をしているの」
と、審神者は円の一番奥にいる人物に声を掛けた。広い空間に突如響いた声に、少女はびくりと体を震わせる。声の主が審神者だと分かると、途端に安心したように顔を緩めた。
「何って、決まっているじゃないですかぁ」
と、言いながら見習いの子は審神者の方へと足を進める。緋袴が歩く度に擦れて、さらさらと音を立てた。
「あなたの刀剣を、全て貰おうと思って」
明るい茶色の髪の毛をくるくると弄びながら、彼女はにっこりと笑った。審神者は人が変わってしまったような彼女の態度に、驚きで瞳を大きくした。
「たいして霊力も無いくせに、珍しい刀剣がそろっているから。政府からは出来損ないと聞いていたのに。私のほうが力があるのに、そんなの不公平じゃないですか?」
と、不貞腐れたように言いながら、彼女は奥にいる刀に目を向けた。視線の先には、大包平や、三日月がいる。彼らは畳の上に目を向けていた。瞳が黒く塗りつぶされたように色を無くしており、審神者は背中を恐怖で震わせた。
「彼らを操るのは、大変だったでしょう」
と、審神者は言った。心拍数が跳ね上がっているのを感じながら、勤めて冷静な声を作る。審神者の言葉に、見習いはにっこりとほほ笑んだ。
「全然。むしろ楽でした。貴方は本丸にはほとんどいないし、刀との関係も築けていない。この術、主人と信頼が薄い程かかりやすいんですよ」
見習いの言葉に、審神者は小さく唇を噛んだ。そんな審神者の様子には気付かないように、少女は言葉を続ける。
「でも、こいつには効かなかった」
憎々し気に呟きながら、円の中心を顎でしゃくる。その声に、審神者はゆっくりと顔を上げた。そして、ぐしゃりと顔を歪ませる。
うつ伏せに倒れていたのは、審神者の最も信頼している刀だった。いつも綺麗に整えられている爪はボロボロに欠けていて、小さく開いた口から細い呼吸音が聞こえる。体中に刀の切り傷があり、そこから流れる血が畳を汚していた。意識が混濁しているのか、うつ伏せのまま荒い息をしている。瞬間、審神者は全身の血液が沸騰するような気がした。
「加州!」
思わず叫びながら、一歩を踏み出すと、手を強引に引っ張られた。そのまま後ろ側で捻り上げられる。無理に引っ張れて、反動で肩の関節が、ばきりと嫌な音を立てた。女は痛みで顔を歪ませる。
そのままの状態で、首元に刃があてがわれて、審神者は息を飲んだ。首の頸動脈の真上に刃がそえられる。冷たさに身震いした。恐怖が体を駆け巡り、思わずごくりと喉を鳴らすと、刃に触れていた部分の皮膚が切れて、僅かに血が滲んだ。
視線だけで、刀の持ち主に目を向けると、審神者は苦し気に瞳を細くした。男は、眼帯に隠れていないほうの目で審神者を見ると、首に当てた刀を軽く皮膚に食い込ませた。
「分からないって顔をしていますね」
と言いながら、見習いの子は、拘束されたままの審神者に近づく。徐に彼女の懐から書類を抜いた。審神者は下唇を噛み締めながら、悔し気に目の端に涙を浮かべていた。見習いは、書類に印が押されていることを確認すると、満足気に微笑む。
「彼が、助けてくれたんですよ」
入ってきて、と見習いは障子の奥に声を掛けた。数秒後、現れた人物を見て、審神者は顔を歪ませる。
流れるような黒髪が、歩みにあわせて揺れる。夜を吸い込んだような前髪の奥に、青い瞳があった。青色と視線を合わせると、諦めたように審神者は項垂れる。
「おいで」
少女が再び声を掛けると、静かに入室してくる新しい足音が耳に届いた。
「周りにばれないように、始末して」
最後に愛おし気に名前を呼び、少女は数歩後ろに下がった。瞬間、腕の拘束を外される。よろめく体を立て直しながら、顔を上げる。
そこには、膝丸がいた。
流れる緑色の髪が、夕日に赤く染まっていた。瞳は色を無くし、まるで洞窟のようだった。彼の黒い手袋に包まれた手が刀の柄を握り、ゆっくりと抜刀する様を、審神者は呆然としたように見つめていた。振り上げられた刀が、目の前の女に照準を合わせるように止まる。審神者は、光る波紋を眺めながら、自分の頬に一筋の涙が伝っていくのを、他人事のように感じていた。
膝丸は、声も立てずに涙を流す女を一瞥すると、勢い良く刀を振り下ろす。刃が風を切り裂く、唸るような音を聞きながら、審神者はきつく瞳を閉じた。
瞬間、横から衝撃が走った。気が付くと、審神者は畳の上に転がっていた。叩きつけられた左腕が痛む。よろめきながら視線を上げると、審神者は息を飲んだ。
加州が、膝丸の刀を止めていた。全身に力を込めて、太刀を受け止めている。奥歯を噛み締めながら、刀を流すように弾くと、そのままの動きで横腹を蹴りあげた。膝丸は、重い打撃を受けて、数歩後ろへとよろめく。
「立て!」
加州の叫び声が、静まり返った広間に木霊した。審神者が震える足に力を込めると、自分のすぐ隣で、がしゃん、と大きな音が響く。畳の上に加州の本体があった。審神者は、間髪入れずに刀を掴む。
「それを持って逃げて!」
加州の絶叫のような声を聞きながら、審神者は躊躇したように立ちすくんだ。縋るように加州の本体を胸に抱くと、背を向けていた膝丸が、ゆっくりと此方を振り替えるのが見えた。瞳の中にはっきりと殺意が浮かんでいるのを見て、女は恐怖で体を震わせた。
膝丸が審神者のほうへと足を踏み出すのと同時に、審神者は廊下へと弾かれたように駆け出した。背中で少女の狂ったような笑い声を聞きながら、全速力で駆ける。
走りながら後ろを振り替えると、廊下で膝丸が、加州に横から突き飛ばされているのが見えた。そこからは一瞬だった。膝丸は、よろめく加州を蹴り飛ばすと、右手に持っている刀を振り上げる。
審神者は、溢れる悲鳴を押さえるように、口を手で押さえた。引き返そうとする体を理性で捩じ伏せて、必死に足を動かした。耳の横で鳴る、ごうごうという風の音を聞きながら、脱兎のように駆ける。
気がつくと、離れの二階に来ていた。後ろを振り替えると、暗い廊下が見える。突き当たりに階段が浮かんでいるが、誰かが登ってくる気配はなかった。血液が逆流するような音を聞きながら、審神者は犬のように浅い呼吸を繰り返す。喉が焼けるように痛かった。
目についた部屋に、音を立てないよう滑り込むと、障子窓へと駆け寄った。張り出した床版部分から身を乗り出すと、遠くに馬小屋が見えた。いつもと同じように下道から歩いて行っては、きっとすぐに追い付かれてしまうだろう。そう思い至ると、審神者は腰ほどの高さにある、木の防護柵に手を掛けた。
「もう、鬼事は終わりか?」
背後から唐突に声をかけられて、女は体を硬直させた。ゆっくりと振り向くと、数メートル先に膝丸がいた。皮のブーツが床を汚しているのも構わずに、此方へとゆっくり歩いてくる。
「素直になるなら、痛みを感じぬよう、一思いに切ってやる」
ゆっくりと近づきながら、勿体ぶるように膝丸は言った。男の言葉に審神者は暫し沈黙する。諦めたように頷くと、床に加州を置いた。そのままゆっくりと男の元へと足を進める。女のしおらしい態度に、膝丸の口角が歪に持ち上がった。
審神者は震えを押さえるように、自分の腕を掴みなから、歩みを進めた。弱々しく見つめる女の瞳を、金色の瞳が嘲るように見下ろす。
あと二メートルという距離に来たとき、審神者は人が変わったように瞳を鋭くさせた。恐ろしい瞬発力で左足を踏み込ませると、空中で前転をするかのように前に体を傾けさせる。床に手をつきながら、視界の端に、男の驚きに見開かれた瞳を認めた。
遠心力に沿って、円を描くように脚が振り下ろされる。銅回し回転蹴り――それは、接近戦でしか通用しない捨て身の技だった。かかとに確かな衝撃を感じ、視界がぐるりと反転する。
数秒遅れて、ドオッという重い音が辺りに響いた。床に積もっていた埃が、ぶわりと舞う。 態勢を立て直しつつ振り替えると、膝丸が大の字で倒れていた。全く意識が無いようだ。後頭部から倒れたようだったので、審神者は青ざめながら急いで確認する。血は出ていないようだ。ホッと安堵の溜息を吐くと、流れるような動きで相手のベルトを引き抜く。そして、大の字になっている男をうつ伏せに転がすと、両手を後ろ手にまとめた。手首の辺りでベルトを二周ほどさせ金具できつく止める。続けて、左足の太ももに巻かれているリボンのような物をしゅるりと外し、だめ押しのように両足首をまとめて結んだ。ブーツの上からだし、布切れだから此方はすぐに外されてしまうだろう。芋虫のような状態のまま動かない男を上から順に眺めていく。ふと一点で目が止まり、腰に下げてある刀を手に取った。金具を外して、床を滑らすように部屋の遠くへと放り投げる。刀は突き当りの壁に当たり、ガシャンと耳障りのする音を立てて止まった。
それを確認すると、審神者は間髪入れずに立ち上がる。走りながら、床に捨て置かれている加州の本体を拾う。障子窓に手をかけ、木の組み合わさったような柵を軽々と超えた。瓦の端に手をかけ、鉄棒の要領で体を持ち上げると、屋根の上に降り立つ。
ふらつかないように重心を低くしたまま頂点へと上りきると、端部に向かって走った。外は日が落ちていて、闇が辺りを包み込んでいくのが見える。
暫く屋根の上を駆け足で移動すると、やっと終わりが見えてきた。屋根の端についている鬼から、近くの太い木まで一メートル半ほどの距離だった。その向こう側に馬小屋と、大きな長屋門が見える。そこまで行ければ、ゲートまですぐだった。
目の前の大木を見つめながら、失敗すれば骨折か、打ちどころが悪ければ死ぬだろう、と考える。審神者は、助走をつけるために腰を屈めた。息を整えながら、いざ走り出そうとした時、後ろから、がしゃりと瓦の砕ける音がして、全身を硬直させる。
「ゆるさん……許さんぞ」
地を這うように低い男の声に、心拍数が急に上がっていくのを感じた。急いで振り返ると、先ほど伸びていた男が自分と対峙するように立っている。ゆらりとふらつきながら睨んでくる男を見て、審神者はまるで妖怪のようだと思った。
「情けをかけ、せめて苦しまないようにと思ったが、気が変わった」
既に抜刀していた刀を見せつけるように空中で角度を変えながら、膝丸が言った。こめかみに青筋が浮かび、口の端が怒りでぴくぴくと痙攣している。
「末端から、少しずつ切り刻んでやろう。泣いても喚いても、止めてはやらん。まずは指から切ろうか」
膝丸は顔を歪めて高らかに笑うと、次の瞬間、ぶつりと感情が切れたように無表情になった。審神者は、その表情の変化に頭から足の先まで恐怖が駆け巡るのを感じた。抱えていた刀を一度緋袴に差し込み、勢いよく抜刀する。女の手は小刻みに震えていて、膝丸はそれを見ると、愉し気に口角を上げた。
一気に間合いを詰めてくる相手を絶望的な気持ちで眺めながら、審神者は刀を構えた。形だけは取ったが、彼女の頭の中は、死の一文字しかなかった。この瞬間にも、自分が血まみれで倒れている映像が頭に浮かんでしまう。
振り下ろされた一撃をかろうじて受け止めながら、力任せに振り切ると、膝丸は大げさに飛びのいて右から刀を振り下ろしてくる。それを再度受け止めながら、相手の瞳に目を向ける。審神者は息を飲んだ。相手の瞳は喜びで満ちていていたのだった。
反撃するように刀を振り下ろしても、膝丸はまるで赤子の相手をするかのように軽々と弾き返してくる。審神者は絶望に瞳を黒くした。やがてそれにも飽きたのか、膝丸は一瞬で間合いを詰めると、審神者の横っ腹を蹴り上げた。生き物の潰れたような声を上げて、屋根の上に崩れ落ちた女の髪の毛を、無造作に掴み上げる。無理やりに顔を上げさせられて、白い喉元が露になった。
「もう遊びには飽いたのでな。ここで終わりにしよう」
と、独り言のように呟くと、膝丸は片手に持っていた刀を振り上げた。審神者は、口を堅く引き絞ると、最後の悪あがきをするように、全身に力を込める。死に物狂いで身を捩った。数秒後、肩口に強烈な痛みが走って、審神者は絶叫した。弾かれたように確認すると、肩口から肩甲骨の辺りまでが十五センチほど裂けていた。真っ白い巫女服が、じわじわと赤く染められていく。
膝丸は、左手に残った髪の毛を邪魔そうに空中で払うと、心底忌々しそうに呟いた。
「急に動くから、急所を外してしまったではないか」
左肩を庇いながら、ぜえぜえと荒く息をしている女を見下ろし、膝丸が言う。審神者が逃げたときに、髪の毛をまとめて切ってしまったようだ。肩で息をするたびに、明るい色の髪の毛がぱらぱらと落ちていく。
死ぬ。
ダンゴムシのように体を丸めて、燃えるように熱い傷口を押さえながら、審神者は恐怖に体を震わせた。握りこんだ刀の柄に、自分の血がどんどん流れて染み込んでいく。
――助けて、清光。
瞬間、握りこんだ柄から気が逆流してくるのが分かった。急に流れ込んできた自分以外の感覚に、ぐらりと視界が揺れる。
相手が訝しげに此方を見ているのを感じた。
――立て!
審神者は、内側から聞こえてくる、誰か分からない声に心の中で喘ぐように必死で答えた。震える足を意志の力でねじ伏せて、よろよろと立ち上がる。
「なんだ、その髪は」
男の声に、一瞬訳が分からないように女は首を傾げた。風が下から吹いて、髪の毛を揺らす。それが視界に入ったとき、女は驚いたように硬直した。
視界に揺れる色が、自身の知っている色とは全く違っていた。明るいミルクティー色だった髪の毛が、漆黒の色に染め上がっていたのだ。心の中で、どうしてと呟いたが答えてくれる者はいなかった。
睨み付けるように対峙していた相手が、はっ、と嘲るように笑う。
「姿形が変わったからと言って、なんだというのだ」
白けたように吐き捨てると、膝丸は間合いを一気に詰めてくる。再び切り裂かれる恐怖に瞳をぎゅう、と閉じると、体の奥で声が響いた。
その叫び声に瞳を開けると、刃が目の前にあった。
瞬間、自分の腕が物凄い力で刀を振り上げるのが見えた。ガキンと金属がぶつかる音が響く。男が驚きで瞳を大きくするのが見えた。
そのまま刀を横に弾くと、片手で真っ直ぐに突き上げる。相手は動きを予測したのか首を僅かに傾けた。
相手の首に糸のような赤い線が浮かび上がり、そこから血がにじんでいく様を、女は信じられないような気持ちで見つめていた。まともに当たっていたらきっと喉元が避けて絶命していただろう。
「……嫌、やめて」
震える声で呟いたが、体は言うことを聞かなかった。別の誰かに乗っ取られたように、構えをとる。両手に握りこんだ刀から、どくどくと脈動を感じた。それが次第に自分の心臓の鼓動と重なっていく。
右手に構えると、一気に踏み込んだ。許容量を越えた動きに、体が悲鳴を上げている。体の節々に激痛が走った。刀を振り下ろす度に左肩から血が滲む。
苦痛に顔を歪ませながら、視線を上げると、審神者は怯えるように身を怯ませた。男は体の至るところから血を流しながら、歓喜するように笑っていた。金色の瞳を輝かせながら、此方の命を刈り取ろうと、針のように鋭い切っ先を向ける。瞳の中で、殺意が炎のように燃え上がっていた。
目が合った瞬間、血が逆流するような錯覚を覚えた。心拍数が跳ね上がり、末端が痺れる。
一気に間合いを詰めると、下側から腹を切りつけた。相手から振り下ろされた刃を受け止めると、そのまま力任せに体に向けて引く。絡めとるように動かすと、刀が宙を舞うのが見える。刀が瓦に落ちる音を聞きながら、足で相手を蹴り飛ばした。空気を吐き出すような音を立てながら、男が後方へ弾かれる。みぞうちを押さえながら、げぇげぇと嘔吐いていた。
そのまま膝をついた男を見ながら、刀を構えた。男は打撃をもろに受けて息が詰まったのか、膝をついて俯いている。無防備な姿を見下ろしながら、今が逃げるチャンスだと思った。しかし、審神者は脚に根が張ってしまったように動けずに居る。
荒い呼吸音が段々と低い唸り声に変わるのに気がついて、審神者は狼狽えたように男を見つめた。膝丸は下を向きながら、牙のように尖った歯を剥き出しにして、ぐしゃりと自身の髪の毛を掴んでいる。獣のような姿に、審神者は今度こそ逃げよう、と背を向けた。
「あ、るじ」
耳に届いた音に、審神者はぴたりと足を止めた。ほとんど消え入りそうな声量だったが、確かに耳に届いた。女は、震える手で持っていた刀の本体を空中で降る。どちらのもの分からない血が遠心力に沿って飛んでいった。
膝丸は、屋根の上で膝立ちのまま、自分の右腕を押さえていた。時折不自然なタイミングで、びくりと動いている。まるで操り人形が糸で引っ張られるように、手が刀を求めて伸ばされる。男はそれを自身の左手で必死に抑え込んでいた。
審神者は、どうしていいか分からない様子で男を見つめていた。ふと視線を下の方向へ受けると、彼の本体が、屋根の雨よけに引っかかっていた。あと少し、なにか振動を受ければ下に落ちてしまうだろう。それを認めると、審神者は弾かれたように駆けだした。
地面に落下しないように注意しながら屋根を滑り落ちる。がらがらと瓦が外れる音が聞こえた。雨どいに引っかかっている本体を掴むと、慎重に来た道を登る。
荒い息を繰り返している男から少し離れた場所に戻ると、相手は苦し気に目を細めた。右手が、まるで意志を持ったように女の方へと伸ばされる。それは、本体を求めているようにも、それを抱えている人物を求めているようにも見えた。
「それで、俺の手首の健を切れ」
と、膝丸が喘ぐように言った。審神者は、その言葉に胸に抱えた刀を見つめる。黒い鞘に包まれたそれは、きっと手首に当てただけで、皮膚を裂いてしまうだろう。腱を切り、骨までたつ感触を想像してぞわりと背筋に悪寒が走った。
「頼む」
哀願するように言われて、審神者ははっとしたように目の前の男を見つめた。一時的に術が解けているのかもしれないが、いつまた飲み込まれるのか分からない。先ほどの殺意のこもった視線を思い出して、審神者は戦慄する。
許容量を超えた出来事に、審神者は頭がぼうっとしていた。体も重く、怠くて仕方が無い。何回も、哀願するように呟いている男の傍へ、よろよろと近づくと、脱力するようにぺたりと座る。それを、膝丸は絶望したような表情で見つめていた。
審神者は、幼い子供の様に力なく座りながら、太ももに置かれた本体へと目を向けた。向かいから聞こえるぜぇぜぇという荒い息使いを感じながら、静かに瞳を閉じる。すう、と深呼吸すると、意識が途端に深く沈んでいった。そのまま、手入れをするときの要領で、刀に霊力を送り込む。男の喘ぎ声に似た呼吸が一段と大きくなった。それに、女は動揺したようにびくりと体を揺らしたが、構わずに意識を呼吸に戻していく。集中が途切れないように、心を持っていくのは、酷く精神力が必要な作業だった。
瞼の裏に刀の形が浮かぶ。暗闇の中で、刀はぼんやりと発光したまま空中に浮かんでいた。意識の中で、刀を確認しつつ、十センチほど刀身を引き抜いた。きらりと光る波紋と峰の中間に、赤い文字が浮かび上がっている。筆で書かれたようなそれは、時折ゆらゆらと揺れていた。審神者は直感的に、それが術の本質だと理解する。
ぱちりと瞳を開けると、急に音が戻ってくるのを感じた。太ももの上でずしりと重い刀を、意識で見た時と同じように引き抜くと、先ほどまでなかった文字が浮かび上がっているのが見えた。試しに手のひらでごしごしと擦ってみたが、文字は刀身に刻まれたままだった。審神者は、こんなことで消えるはずもないか、と小さく落胆する。
くじけそうになる心を無理に奮い立たせると、きつく眉を寄せた。そのまま無理やりに霊力を流し込む。こうなったら力技だ、とばかりに左手で印を切る。向かいの男の唸り声が一段大きくなった。炎のように赤い文字が、審神者の霊力を嫌がるようにゆらゆら揺れている。あと少しで解呪できそうな気配はするのだが、見えない何かに阻まれているようだった。思うようにいかず、審神者は悔し気に下唇を噛む。
「主。もう、限界だ。早く、逃げろ」
切れ切れに投げかけられた言葉に、審神者は顔を上げながら小さく頭を振った。自分の、黒く染まってしまった髪の毛が頬を柔らかく擽る。膝丸の瞳は、いつの間にか金色から漆黒へと変化していた。口の端から覗いている、獣のようにとがった犬歯を眺める。自分の無力さに涙が出そうになり、ぐっと口を引き絞った。
その時、頭に研修で言われた言葉が響いた。霊力を送る方法はいくつかある――巫女服を着た先輩が訥々と話しているのを、当時の自分は話半分に聞いていた。むしろ、彼女の言葉を鼻で笑っていたような気もする。にわかには信じられなかったのだ――その先輩は、体液の交換が、霊力を送る方法の中で一番強力だと言っていた。
そのやりとりを思い出すと、審神者は静かに目の前の男に向き合った。相手の瞳に映っている自分自身の姿を見て、一瞬だけ息を飲む。それは、折れていく刀をただ見ていることしかできなかった、過去の自分そのままだった。
「目を、瞑って」
相手の瞳に写された自分自身を見ていたくなくて、審神者は小さな声で呟いた。言いながら、これから行おうとしている事への罪悪感が胸にじわじわと広がっていく。相手は、苦しそうに眉間に力を入れながらも素直に従ってくれた。
暫く迷うように瞳を揺らしていた女は、決心したように息を吐くと、静かに顔を寄せる。そのまま、相手の唇にそっと自分のそれを合わせた。相手の体が大げさに跳ねるのを横目に、下唇を優しく食むように口づけると、相手の口から小さく声が上がった。
僅かに開いた隙間から舌をするりと差し入れると、くぐもった声が漏れる。苦痛を感じているかのように、頭を振る男に罪悪感で心が軋んだ。左手で刀を握りこみながら、自分の気を送り込む。
舌先で相手の口内を犯していくように舐っていると、握りこんだ柄が焼けるように熱くなっていた。相手の喉元がごくりと鳴って、飲み込みきれなかった唾液がだらりと糸を引く。
刀身に刻まれた文字が薄くなっているのを見て、審神者は確かな手ごたえを感じた。もう一度、印を切るために、顔を離す。許さないとばかりに後頭部へと手が回った。驚いて目を見開いた女に、がぶりと噛みつくように口づけられる。
先ほどとはまるで違う状況に、女は意識がぐるぐると回るのを感じた。固く引き絞った口をこじ開けるように舌を差し込まれて、にゅるりと相手のそれが入って来る。長い蛇のような舌が舐るように根元を擦り、体の中で何かが動くのを感じた。自分の口から、ううう、と色気のない呻き声が漏れる。
相手の動きに刀を握りながら必死で耐えていると、そっと名残惜し気に離れていくのを感じた。ぜぇぜぇと肩で息をしながら、目の前を見やると、金色の二つの瞳があった。
「ひざ、まる」
掠れた声で呟くと、小さく頷かれる。慌てて刀を確認すると、刀身にあった文字が消えていた。術が解けたことを実感すると、深い溜息のような声が自分の口からこぼれていった。
気が付くと、自分の身体が小刻みに震えていた。さりげなく自分で自分を抱え込むように抑え込む。深呼吸をして心を落ち着かせようとするが、身体は言うことを聞かなかった。そんな審神者の様子に男は瞳の色を暗くしていった。
「……俺は、何ということを」
膝丸は、顔をぐしゃりと歪ませて言う。視線は左の肩口に注がれていた。女も改めて見ると、そこは酷い有様だった。意識すると途端に痛みが戻ってきて、鼓動の音に合わせてじんじんと響いた。
「操られている間、意識があったの?」
とぎれとぎれの審神者の言葉に、膝丸は絶望的な表情で頷いた。そのまま頭を垂れた男に、審神者は驚いて目を見開く。
何度も何度も謝罪の言葉を口にする男に、審神者はおろおろと狼狽した。相手の震える肩に静かに手を置くと、噛み殺すような嗚咽の音が聞こえた。泣き崩れている男を前にして、審神者は心底困ったように背中を撫でる。
不意に遠くの方から、地響きのような音が聞こえて、審神者は顔を上げた。絶句したように口を開ける。まるで呼吸を忘れたかのように、身体を固くして空を見つめた。
遠くの空が一部分だけ黒くなっていた。
雲が、蛇がとぐろを巻くような形で重く垂れこめている。その雲の切れ間から、ゴマ粒のような何かがぼろぼろと落ちてきているのが見えた。