朱色の鳥居が、冬の景色の中に所在投げに佇んでいた。のどかな田んぼ道から少し外れた茂みの奥に、それはあった。こじんまりとした鳥居の奥に、小さな石が重ねられている。石の脇に、飲み口の欠けたお猪口がぽつんと置いてあった。中身は入っておらず、底の方が泥で汚れていた。鳥居の周りは草ぼうぼうで、どこか寂れた雰囲気が漂っている。
冬の冷たい風が地面を舐めるように吹いて、枯れ草を震わせた。カサカサと、乾いた葉同士が擦れあう音が、風の流れのままに響く。
一段と強い風が吹いて、辺りに土埃が舞った。数秒遅れて、それまで沈黙していた鳥居がぶぅんと微かな音を立てて振動する。鳥居の中の風景が、時空が歪むかのようにグニャリと歪むと、何もない空間からニュッと人間の腕が出てきた。そのまま顔を庇うように手で覆いながら、まるで中から押し出されるように、小柄な少年が飛び出してくる。少年が下りたったのは、ちょうどぬかるんだ水たまりの上だった。少年は自分のブーツの先が泥に埋まっているのを見届けると、眉間にくっきりと皺を寄せた。
加州清光は体のゴミを落とすように、両手でぱんぱんと戦装束を叩いた。続けて前髪を手櫛で整えていると、前方から強く風が吹いて、せっかく整えた前髪をぐしゃぐしゃにした。氷のように冷たい風が、むき出しの顔や、首もとを通り抜けていき、思わず首もとの赤いマフラーに顔を埋める。
寒さから少しでも逃れるように慌てて両手をポケットに突っ込むと、大きな歩幅でズンズンと歩く。草ぼうぼうの茂みを掻き分けるように進むと、僅かに整えられた通り道に出た。いくぶんか歩き易くなったことに小さく安堵しながら、早足で歩く。
加州は、足元で鳴る、ブーツが落ち葉を踏み抜く音を聴きながら、政府の担当者から言われた言葉を反芻していた。へらへらとした若い男が発した言葉の数々を受けて、最後まで抜刀しなかった自分自身に誉を与えたいと思った。
数時間前、加州清光は会議室のような場所にいた。若い男は、硬い重厚な机に腰かけるようにしながら此方を見やると、へらりと笑った。その歪んだように笑う口元が、大変でしたね、と言葉を作る。
「二振り目の加州清光を折ったとなったら、僕の立場が無くなりますよ」
いやぁ本当に無事で良かった、と言いながら男はにこりと笑った。加州はそれには答えずに、氷よりも冷たい温度で目の前の男を見据える。
「主は、無事なの」
三十人程が余裕をもって座れそうな会議室に、低い声が響いた。随分離れたところで、つらつらと言葉を続けようとしていた男が、加州の声の低さにびくりと体を震わせて、慌てて言葉を飲み込む。男は、場を取り直すように近くの椅子に腰を落ち着かせると、ゆっくりと口角を上げた。
「命に別状はありませんよ。ただ、耳がね」
顔の横をトントンと叩く。そのしぐさに加州は眉を潜めた。
「まぁ、実際に見た方が早いでしょう」
ご案内します、と言いながら男が立ちあがる。相手が前を通った瞬間、酷く甘い香水の香りが鼻を掠めて、加州は気付かれないように顔を歪めた。
無機質な廊下を歩きながら、加州は段々と逃げ出したいような気持ちになっていた。一歩足を踏み出すたびに、まるで深い水の底にいるような息苦しさを感じ、意識して大きく息を吸う。加州は、敵に切り付けられた後の事をほとんど覚えていなかった。激痛の中、意識を手放して、目が覚めたときには手入れ部屋の布団の上だったのだ。
しかし、と加州は思い立つ。あの目が覚めた午後、本丸の様子はいつもと違っていた。やけに静かで、一瞬のうちに誰もいなくなってしまったかのようだった。何より加州の胸をざわつかせたのは、いつも本丸を満たしていた主人の気配が、ほとんど掻き消えそうなほどに薄くなっていた事だった。
そこまで思い出すと、ぞっとする考えが頭をよぎって、つい歩みが遅れてしまう。どうしてあの日、自分は一瞬でも気を緩めてしまったのだろう。よりによって、自分が重傷で帰還してしまうだなんて。
このまま彼女が審神者を辞めると決めたら、と思うと足の先から恐怖がのぼってきた。もしそうなったら、それは紛れもなく自分のせいだ。向かい合った先の顔が、どんな表情をしているかを想像すると、目の前が暗くなるような気がした。
心の中をぐちゃぐちゃにかき乱されながら、必死な思いで足を動かしていると、とうとう扉の前まで来てしまった。灰色の無機質な扉を目にして、加州は心臓が引き絞られるような気持ち悪さを感じた。審神者が入院しているのは個室のようだった。だが、扉の横に名前を表示するプレートなどは無い。ここは、政府の管轄の病院だった。
先を歩いていた男が声もかけずにガラリと扉を開け、遠慮なく部屋の向こうへ消えていくのを見ながら、加州は静かに心を決めた。小さく深呼吸をした後、黒い皮のブーツが、スーツの男の後に続いていく。
そこは、二十畳ほどの広い部屋だった。大きな窓から外の開けた風景が見渡せる。五階からの風景は、何処か感傷的になるような長閑なものだった。目の前に大きな川が流れていて、川を挟んで遠くに学校と、都会のビル群が見える。おもちゃのような無機質なビル群を見ていると、ちょうど橋の上を電車が通っていくのが分かった。規則正しく、車輪が線路を超える音が遠くで響いている。
時刻は夕方に差し掛かる頃で、強い西日が室内に差し込んでいた。その眩しさに、思わず加州は瞳を細める。無機質な部屋が暖かいオレンジ色に染まっていて、ちょうど光源を遮るような位置に審神者がいた。ベッドから緩く起き上がって、本を読んでいる。明るいミルクティー色の髪の毛が、赤くに染まっていたが、逆光で表情までは分からなかった。
加州は審神者の姿を見ると、心臓が少しだけ縮んだような気持ちになった。男が審神者の肩に手を置くのを、どこか遠くの風景を見るように眺めてしまう。急に視界の端に男が現れて、女はびくりと体を跳ねさせたようだった。数秒遅れて、小さく頭を下げる。そして、若い男の向こう側で立ちすくむ人物に気付くと、焦げ茶色の瞳を大きくした。
審神者はゆっくりベッドから立ち上がると、静かに近づいてきた。完全に逆光で、彼女がどんな表情をしているのか分からなかった。不安が心を覆いつくすと、思わず加州は下を向いた。そんな自分自身を情けなく感じつつ床を見つめていると、とうとう審神者は目の前までたどり着いてしまった。加州は相手のスリッパに包まれた足を見つめながら、自身の早鐘を打つような心臓の音を聞いていた。
数秒後、視界の端に明るい色が舞った。少し遅れて、懐かしい香りが自分の鼻に届く。驚いて顔を上げると、審神者が加州に抱き着いていた。ぎゅう、と瞳を閉じて、全身で喜びを表すかのように顔を肩口にぐりぐり押し付ける。加州は審神者に抱きしめられていると理解したとたん、ぐにゃりと顔を歪ませた。ほとんど泣き出してしまいそうな気持ちだったが、視界の奥のほうで、興味深そうにこちらを見ている男がちらつき、必死で涙を押しとどめた。
審神者は駄目押しのように、ぎゅう、と首元に回した腕に力を込めると、名残惜しそうに体を離した。そして、目の前の紅い瞳と目を合わせると、花が咲くように、ぱっと笑った。続けて、口を動かして何かを伝えようとする。
加州は、彼女の口の動きを見ると、すぐに何を伝えようとしているのか理解した。理解すると同時に、穏やかに微笑みながら、審神者に答える。
「……主、ただいま」
ゆっくり大きめに口を開きながら答えると、審神者は泣き笑いの笑顔で頷いた。
夜の闇が空気を重く満たし始めた頃、自身の本丸が見えてきた。加州清光は、数時間前の光景を心の奥で反芻しながら、もくもくと足を動かしていた。あの後、加州と審神者は担当者に止められるまで、筆談していたのだった。
そんなことを考えていると、見慣れた長屋門が視界に入った。いつもと変わらない姿のそれに何処かほっとして、小さく息を吐く。ポケットに突っ込んでいた左手を持ち上げて、重厚な扉にかざすと、ギシギシと音を立てながらゆっくりと扉が開いていった。それを見ながら、ふと思い出したように自分の頬に手をあてる。芯まで凍っているかのように冷たかった。
帰るときの着地点に自分の本丸のゲートを選ばなかったのは、考える時間が欲しかったからだ。これから自分は、大広間に集まっている者達に、主人の様子と本丸の一時停止を伝えなければならない。長期休暇というと聞こえはいいが、実質的にそれは、運営を停止せざるを得ないという事を意味していた。大広間で大勢の刀に質問攻めにされている自分の姿が、ありありと頭に浮かび、加州は鉛のように足が重くなるように感じた。
どんなにたどり着きたくなくても、足を動かしていれば目的地へ着いてしまう。加州は、視線の先に見慣れた玄関が現れると、何度目かわからない溜め息をついた。それと同時に、誰かが玄関に凭れるように立っているのが分かり、密かに紅い瞳をきゅう、と細める。
ゆったりとした様子で佇んでいたのは、最近顕現された刀だった。加州は、柔らかく笑う男を見ながら、隙を見せないように心を引き締めた。――初対面で自分の主人に無礼な物言いをした目の前の男を、加州は信用できないし、なにより気に入らないと思っていた。弟のほうは、ふんわりとした雰囲気の兄とは対照的に、表面は硬く冷たい。だが、そんな外見に反して、実は中身が優しいということに、加州はとっくの昔に気付いていた。しかし、兄の方の性質は、弟とはまるで逆なのではないかと感じていたのだった。
髭切は加州が近づくと、にっこりと人好きしそうな笑顔を作った。そして、やぁ、と声をかける。
「主は、ちゃんと生きていた?」
相手の質問に若干の不快感を覚えながら、加州は小さく頷いた。生きているに決まっている、と相手の問いに苛立ちを露にしている加州とは対照的に、髭切はどこか愉しそうに目を細める。
髭切は何でもないように、そう言えば、と言葉を続けた。
「どうして君は初期刀の振りをしているの?」
まるで今夜のご飯の内容を問うときのような気軽さで聞かれて、加州は咄嗟に体を硬直させる。口から、は、と意味のない言葉が漏れた。
「質問の意味が分からない?……うーんと、初期刀の加州清光は、折れて既に居ないのに、君はどうしてその役を演じているの?」
わざわざ言い直されて、加州は目の前が暗くなるような気がした。
それには答えずにいると、髭切は加州の姿をゆったりと眺めながら、そう、と意味深に頷いた。
「君が答えないなら、主に聞くしかないよね」
一人で納得したように頷き、踵を返した男に、加州は焦ったような顔をした。それを横目に、髭切はにやりと口角を上げる。
「……主には、聞かないであげて」
俺と主で決めたんだ、と小さく振り絞るように言葉を続ける。それに髭切は、ふぅんと興味なさげに相槌を打つ。拍子抜けするほどあっさりとした反応に、加州は困惑し、心に沸いた疑問をそのまま言葉にした。
「でもどうして、あんたがそれを知っているの」
「彼女から直接聞いた訳じゃないよ。……きっと彼女、僕が寝ていると思って、油断したんだねぇ」
くすくすと笑いながら答える髭切に対して、加州は意味が分からないという顔をした。それに髭切は、何かを思い出したような顔をした。
「そうそう、弟も知っているよ。あの子も、主から直接聞いた訳じゃないけど。盗み聞きは、よくないよね」
後で言い聞かせないと、と兄は言う。
「主の事は、弟には僕から伝えておくよ。あの子、遠征に行っているから、何も知らないものね」
「いや、主の事は俺から伝える」
だから余計なことは言うなと、念を押すように睨みつけると、髭切はそう? と聞きつつ緩く笑った。そして、この話は終わり、とばかりに両手をパンと合わせると、ひらりと玄関の引き戸を開けて向こう側へと姿を消してしまう。
何を考えているか全くわからない、と思いながら、加州は溜息を一つ吐くと、目の前の白いジャケットの後に続いた。