「現在、運転を見合わせております」
唐突にアナウンスが響いて、膝丸は困ったようにあたりを見回す。人一人いない駅の中で、女は呑気にそこら辺に置いてあった雑誌を捲っていた。今、彼女は耳が聞こえないので、とんとんと肩を叩きジェスチャーで伝える。女は、訝しげに此方を見つめてから時刻表の方へと歩いていった。
納得したような顔を浮かべて戻ってくると、途方にくれたように男を見つめた。そして、小さく肩を竦めると、だらだらと出口の方へと歩いていく。
駅から一歩外に出ると、目の前に広がっているのは完全な暗闇だった。女は街灯のない暗闇に一瞬怯んだ様子を見せた。膝丸は狼狽えている女の横で、あまりの寒さにガチガチと歯を鳴らしていた。相手に気付かれないように、そっとジャケットの前を合わせる。
てくてくと前を歩いていた女が、ふと何かに気が付いたように立ち止まると、くるりと後ろを振り替える。半歩遅れて歩いていた膝丸は、彼女の突然の行動に慌てて身を引いた。
女は、ほんの少しだけ口角をあげながら、真っ白い手を差し出してきた。膝丸は、相手の行動に心臓が跳ねるのを感じながら、恐る恐ると白い手を握る。
瞬間、彼女の霊力が指先から流れてきて、目の前の風景がぼんやりと霞む。そのまま、眠る直前のような浮遊感が襲ってきた。慣れ親しんだ感覚に、膝丸はガツンと頬を殴られたような気持ちになった。
彼女の霊力を遮断するように、強引に白い手を振り払う。女はそんな男の行動に、酷く傷ついた顔をした。その瞳を見て――きっと自分も同じような顔をしているだろう、と思った。
審神者は膝丸を刀に戻そうとしたのだった。それは刀の状態だったら寒くないだろうという彼女なりの思いやりだったが、膝丸には反対の行動に思えた。
「この、わからず屋が」
忌々し気に呟くと、膝丸は女の手を取り、先にずんずんと歩いて行く。半場引きずられるような形で、女がその後を追った。
暫く二人で真っ暗な田舎道をとぼとぼと歩いていた。頭の上に“野宿”の二文字がちらつき始めた頃、膝丸が急に立ち止まる。数歩遅れて歩いていた女は、急に止まれずに背中に突っ込んでしまった。自分の額に相手の服の金具がぶつかり、抗議の気持ちを込めて睨む。相手は、申しわけ無さそうな顔を作りつつ、道の先へと視線を向けた。
そこにあったのは、小さな古い旅館だった。一見、民家のように見えるが、確かに看板には旅館と書いてある。二人は顔を見合わせると、小さく頷いた。
何回目かの呼びかけで、廊下の向こうから初老の女性が早足で駆けてきた。女は、和服をたすき掛けにしていて、こちらに向かいながら、首元にかけていたタオルで顔の汗を忙しなく拭っている。まとめあげきれなかった髪の毛が、筋のようにうなじに伝っていた。膝丸の目にはその女が、この旅館と同じようにどこか草臥れた様子に映った。
簡単に受付を済ませると、早々に部屋に通される。審神者は物珍しそうに廊下を眺めて歩いた。ところどころ壁に切り絵が飾られている。古民家風の旅館で、どことなく作りが本丸に似ていた。
部屋に着くと、流れるような動きで重いコートを脱いだ。とにかく早く体を温めたかったので、相手には悪いが先にお風呂に入ることにした。いったん部屋の外に出て、暗い廊下をひたひたと歩く。竹で出来た灯篭が足元を照らしているため、照明が限界まで絞られていても、歩くのに不自由は無かった。
お風呂はびっくりするほど狭かったが、温かいお湯は精神を穏やかにしてくれた。熱いシャワーは偉大だ、と思いながら、固形の石鹸を泡立てる。
数分後、濡れた髪をタオルで拭きながら暗い廊下を来た道と逆に歩いていた。部屋に着くと、もうすでに膝丸は浴衣に着替えていた。自分と入れ替わりに外へ出ていく後ろ姿を見届けると、自身も急いで浴衣に着替える。冬の重い服を脱いで、薄い布切れのような浴衣に袖を通すと、途端に気持ちがリラックスする。
急激な疲れを感じて布団の上にばたりと横になった。暫く仰向けの状態で天井を眺めていたが、頭の奥からじわじわと眠気が襲って来るのを感じた。怠慢な動きで照明のリモコンを取り、限界まで室内を暗くする。壁沿いに置いてあった灯篭を付けると、室内が優しい光に包まれた。途端に穏やかな心地になり、柔らかい布団の中に入り込むと、ごろりと横になった。
数分後、室内に男が入って来るのが気配でわかった。
「もう、寝てしまったのか」
消えそうな程に小さな声で膝丸が呟く。女は、何となく寝たふりをしていた。膝丸が何かを確かめるように此方をちらりと見た後、ゆっくりともう一つの布団へと潜り込むのを、背中で感じていた。部屋の中に再び静寂が訪れる。
女は、相手には背中を向けたまま、ぼんやりと灯篭が作り出す影を見つめていた。その光は、ろうそくの光のように、不規則なリズムで揺らめいている。その光を見つめていると、何処か安心するような、ふわふわした心地に包まれた。
膝丸は、身体を横向きにしながら女の静かな背中を見つめていた。輪郭が少し痩せたような気がする。明るい色の髪の毛が、重力に沿って、たらりと垂れていた。浴衣から少しだけ覗く首筋が、とても白くて儚く感じる。
暫くぼんやりと女を見つめていた膝丸だったが、小さく口を開いた。
「俺は君といる時、他の誰といる時よりも孤独を感じる。……どうしてだろうな。刀の頃にはこんな感情など知らなかった。心が通じないということが、こんなに辛いことだとは」
どこか自嘲するかのように、膝丸は笑った。室内を耳鳴りがしそうなほどの静寂が満たした。遠くで唸り声のような海の音が聞こえて、心の奥にざわざわとした何かが沸いてくる。
窓に目を向けると、真っ暗な闇が広がっていて、今にもそれが室内へと入って来るように感じた。
「……寂しい」
思わず自分の口から零れた言葉に、膝丸は恥ずかしさで慌てて口を噤んだ。しかし、言葉にしたことで、その感情は輪郭を濃くしたような気がした。小さく溜息をつくと、もう寝てしまおうと布団を引き寄せる。
その時、審神者の肩がびくりと震えるのが視界の端に入った。思わず頼りない背中を見つめる。華奢な肩が、腕に向かってなだらかな線を描いていた。それが、ゆっくりと動いて、さらさらと髪の毛が揺れる。衣擦れの音をかすかに立てながら、女が此方を向いた。
そのスローモーションのような動きを、膝丸はじっと息を詰めるようにして見つめていた。そして、女は完全に男と向き合うと、焦げ茶色の瞳でじっと相手を見据えた。
膝丸は、真っすぐに見つめてくる瞳を受け止めながら、心の中を暴かれるような焦りを感じていた。心臓が跳ねる音が、体の内側から煩く響いている。――先ほどまで項垂れていた自分を、主人には絶対に知られたくないと思った。それと同時に、こんな自分を認めてほしいという矛盾した気持ちがふつふつと沸いてくる。
相手の視線から逃げるように布団の柄を見つめていると、女は布団の中で腕を動かした。そして、とてもゆっくりとした動きで布団を持ち上げると、小さく首を傾げる。
膝丸は、意味を理解すると、感情を抑えるように口を噤んだ。そして、ゆっくりと自身の布団から出ると相手の布団へと潜り込む。そのまま体を相手の体に寄せた。白い胸元へと顔を預ける。自分の耳元で、相手の心臓の鼓動が響いている。
数秒遅れて、相手の指が自分の髪の毛を梳くのが分かった。女が自分の頭を抱えながら、小さい子供をあやすように頭を撫でているのだった。
心の中を幸せで満たしていると、ふと相手がどんな表情をしているのか見てみたくなり、膝丸はゆっくりと体を起こした。――普段と変わらない透明な瞳が自分を見つめる。こんな状況でもいつもと変わらない相手の表情に、絶望感とほっとするような安心が心に込み上げた。
膝丸は近い場所にある女の顔をぼんやりと見つめていた。真っ白い肌が、内側から光を発しているように輝いていた。頬から顎の輪郭に視線を移すと、薄く開いた、形のいい唇が目に入る。
それを視線に収めると、まるで吸い寄せられるように顔を近づけた。そしてためらうことなく、自分のそれを静かに重ねる。数秒後、今まで感じたことが無い柔らかい感触を感じて、男は驚きで瞳を大きくした。
「……あ」
小さく呟くと、膝丸ははじかれたように身を引いた。口元を押さえながら、見る見るうちに顔を青くしていく。女はそんな相手の様子を、何の感情も読み取れない瞳で静かに見つめていた。
「俺は、なんてことを……」
絶望したように呟きながら、膝丸は自分の顔を両手で覆う。噛み締めた口の脇からキバのような歯の先がちらりと見えた。体が小刻みに震えている。無体を働いてしまったと絶望している男を、女はどこか遠くの風景を見るように眺めていた。
何度目かわからない懺悔の言葉を呟いている膝丸に向かって、女はゆっくりと腕を伸ばした。すっかり項垂れて下を向いている相手の首元に、白い腕を回す。瞬間、相手の体がびくりと大げさに跳ねた。
心底おびえた様子で、恐る恐る見つめる男と目を合わせる。女は首に回した腕に力を込めて、自分の顔を相手へと近づけた。男は、これでもかという程、黄色の瞳を見開いている。
自分の唇を、相手のそれへとゆっくり這わせながら、相手の反応を何処かおかしく思った。段々荒くなっていく男の息遣いを肌で感じながら、女は静かに目を閉じた。