明け方に、優しい夢を見た。
白っぽい空間の中、私は一人ぼっちで佇んでいた。世界は薄ぼんやりとした色合いで、風景がカメラのフィルターを通したようなセピア色だった。誰も居ない孤独な世界の筈なのに、心を満たしていたのは体の芯から滲むような安堵だ。瞳を綴じると、風が頬を優しく撫でていく。心の黒い部分が風と一緒に溶けていくようだった。
暫く風の中で佇んでいたが、ふと遠くの方で自分を呼ぶ声が聞こえた。ゆっくりと瞳をあける。草原は緩やかな丘になっていて、ちょうど頂上で、誰かが此方を向いて立っているのが見えた。太陽を背にして立っているので、相手の顔や表情は逆光で分からない。
再び響いた声に、懐かしい気持ちが込み上げた。――この冷たくてきれいな場所で、ずっと待っていてくれたのだと直感的に分かり、白い手を必死に伸ばす。
丘の向こうにいる人物が、忘れないで、と言っているような気がした。
朝の日差しが、少しだけ開いたカーテンの隙間から、まっすぐに室内へと差し込んでいる。
暖かい布団にくるまりながら、膝丸はくぐもった声を漏らした。足の先が少しだけ布団から出ていて、そこだけ感覚が無かった。急いで足を布団の中へ引っ込める。彼女のベッドは一人用だったので、いつも体のどこかが飛び出てしまう。それは毎朝のことなので、いつも起きた瞬間、少しだけうんざりとしてしまうのだった。
朝の光から逃げるように体を小さくしながら、男は片方の目を薄く開けた。自分の前髪の向こう側に、すっかり見慣れてしまった室内が浮かび上がる。外から入る光の強さから、まだ夜があけてからさほど時間が立っていないことが分かった。布団から腕だけを出して、サイドテーブルの上に放置されているエアコンのスイッチを掴む。ピ、という音の後、数秒遅れて、小さなモーター音が室内に響いた。
そこでやっと、膝丸は布団の中にいるのが自分だけだということに気が付いた。最初の頃は、朝に隣に居たはずの人物が居なくなっていることに、柄にもなく焦ったりもしたが、最近は受け入れるようになっていた。自分の主人は猫のように気紛れで、朝方でも昼でも一人でふらりと出かけてしまうことが多々あった。大体行く場所は近くのコンビニで、もしくは近所の川べりを散歩するのだった。主人曰く、ずっと部屋にいると衝動的に外の空気を吸いたくなるのだそうだ。
あらかた前者だろう、と思いながら、膝丸は再び目を閉じた。部屋が暖まるまでは時間がかかるので、それまでは冬眠をする動物のようにじっとしていた。彼は冬がとても苦手なのだ。
朝の陽ざしが濃くなってきた頃、やっと男は布団から抜け出した。喉が酷く乾燥している気がして、まっすぐにキッチンに向かう。主人のコップを借りて、冷蔵庫から水を取り出す。当然のように他人の食器を使っている今の状況に苦笑しながら、冷たい水を飲んだ。冬のせいか水はとても冷たくて、液体が喉を通って胃にたまるのが、温度で分かるような気がした。続けて珈琲の豆を準備する。まだ主は戻らないのか、と少しだけ寂しさがこみ上げるのを感じた。
珈琲を片手にリビングへ戻ると、机の上に付箋が貼られているのが目に入った。最初からあっただろうそれを、膝丸は気付くことができなかった。心に何かがちらついたが、平静を装いながら文字を読む。
“今日は、一日出掛けます。帰りは遅くなるので、好きに過ごしていて下さい”
文字を理解すると同時に、心に落胆の感情が浮かぶのが分かった。そして、付箋の脇にある封筒を持ち上げて中身を確認する。
「なんだ、これは」
男は愕然とした様子で呟いた。封筒の中には、彼女の月給程の金額が入っていた。そして封筒の口を下にすると、ついでのように家の鍵が転がり落ちる。紅いリボンのついたそれを目の前にかざすと、膝丸は眉を潜めた。――仮に食費だとしても、金額が多すぎる。途端に不安がこみ上げて、心を黒く塗りつぶされるような気がした。
男は居ても立っても居られずに、勢いよく立ちあがる。ふと視線の先に、彼女のパソコンが目に入った。引き寄せられるようにそれに近づくと、身体が机にぶつかり、資料がバラバラと落ちていく。そして、雪崩のように床に落ちていった資料の中に、彼女がいつも持ち歩いている携帯電話を見つけた。
膝丸は、くっと歯を食いしばると、目の前のパソコンを立ち上げた。だが、パスワードを入力する画面が出てきてしまい、悔し気に下唇を噛む。
いくつか思い浮かぶ数字を打ち込んだが、当たり前のようにはじかれてしまう。絶望的な気持ちになりながら、膝丸は手を動かし続けた。何回目か分からない、エラーの文字を見て、思わず前髪をくしゃりと握りしめる。数秒後、ある数字が頭に浮かび、縋るような気持ちでキーボードに手を置いた。震える指で四つの数字を打ちこむと、先ほどとは違う画面が表示された、ほとんど信じられないような気持ちになりながら、膝丸は検索履歴をクリックする。
黄色い瞳を細めると、浮かび上がった文字を心に書き留めるかのようにじっと見つめた。流れるような動きで、いつも身に着けている黒いジャケットに袖を通すと、思い出したように、机の封筒から札を二,三枚引き抜いてポケットにねじ込む。そして、わき目も振らずに冷たい扉に手を掛けた。
女は、電車のボックスシートに座りながら、ぼんやりと外を流れていく風景を見ていた。
先ほどまで都会の風景が続いていたが、高い建物がだんだん少なくなってゆき、今はのどかな田園風景が広がっていた。
ほとんど始発のような時間に出発したので、席に座っている人は数えるほどしかいなかった。女はとりあえず東京駅に行くと、目についた緑色の電車に乗った。そして、優に数時間はこうして揺られているのだった。
田舎に出てしまうと風景はさほど変化が無くなり、ゆるりと瞳を閉じた。電車の振動が体に心地よく響く。緑色の電車に揺られながら、このまま世界の果てへでも連れて行ってくれればいいのに、と思った。
いつのまにか眠ってしまっていたようで、肩を叩かれる振動で目を覚ます。視界に車掌さんの困ったような顔が広がり、何か言っているのが分かった。その瞬間、終電まで寝てしまっていたことを理解して、小さく赤面する。
小さな無人の駅を降りると、少しだけ磯のにおいがした。懐かしい香りに思わず頬がゆるむ。両手をポケットに無造作に突っ込むと、黒いブーツが足取りも軽く、固いコンクリートを蹴り上げた。
太陽がちょうど自身の真上に来ていた。起きた時には半日が過ぎてしまっていて、なんだか一日を無駄にしたような気持ちになり、小さく苦笑する。
ところどころにある、看板のような見た目の地図を確認しながら、女はまるで近所を散歩するようにぶらぶらと歩いた。時折、道端に野良猫がいて、思わず立ち止まって眺めてしまう。
曲がりくねった小道の先に、唐突にそれは姿を現した。それが視界を満たしたとき、女は思わず感嘆のため息をついた。彼女はここへ来るまでどことなく下を向いて歩いていたが、目の前に広がる風景に瞳を大きくして、きらきらと輝かせた。
そこにあったのは、透明な冬の海だった。灰色の海がまっすぐに続く。すん、と鼻を鳴らすと、塩の香りがした。――海の匂いだ、と思う。
まるで写真を切り取ったかのような風景に心を奪われながら、ゆっくり足を動かす。波打ち際まで近づくと、波がブーツの先を撫でるように近づいて、そして離れていった。
暫く波打ち際を歩いていたが、遠くのほうに石の階段が見えて、そちらへゆるりと足を向けた。目当ての場所へたどり着くと、ゆっくりと腰を下ろし、ぼんやりと目の前の海を見つめる。
寄せては返す波を見つめていると、まるで時間が過去へと逆流していくような気がした。静かに瞳を閉じると、瞼の奥に風景が広がる。
その日は、いつにもましてセミの鳴く声が響いていたのを覚えている。八月のうだるような熱い夏の午後だった。審神者は、普段着ている巫女服ではなく、白いティーシャツに、クリーム色のショートパンツをはいていた。濡れたような黒髪を高い位置で結んでおり、彼女が動く度に毛先がふわふわと揺れていた。
「もう、本当に熱い」
首元をパタパタとさせながら、審神者は目の前の刀に話かける。最近顕現した男士がその場にいたとしたら、同じ人物か疑ってしまう程、砕けた口調だった。向かいにいる男士は、彼女のだらしないしぐさに眉を潜めると、雅じゃないと呟く。
「夏だからね」
どこか諦めたような顔を浮かべながら、風鈴の音にでも耳を傾けたらどうだい、と向かいの男士は言葉を続ける。それに審神者は小さく口を尖らせた。数分後、光忠がおやつにアイスを持って来て、彼女は途端に笑顔になる。喜びを全身で表現するかのように、厚い胸板に飛び込んだ。
縁側で歌仙とアイスを食べていると、ゲートのほうが騒がしいのが分かった。第一部隊が返ってきたのだろうと、スプーンを咥えたまま、そちらに視線を向ける。
数秒後、こちらを掛けてくる短刀の男の子が目に入り、審神者は食べかけのアイスを縁側に置く。白い髪の毛が目の前に迫り、すぐに彼の様子がおかしいことに気が付いた。
「主、加州さんが……」
瞬間、セミの声が止んだような気がした。
「清光!」
まるで引きずられるように連れられた男士を見て、審神者は叫び声に似た声を上げた。目の前の光景が、あまりに非現実的で、くらりと視界が歪んだような気がした。
加州清光は、血で濡れていない部分が無いのではないかという程、相手の返り血と自分自身の血でぐっしょりと濡れていた。顔面蒼白で、意識が定かでないのか、薄く空いた瞳がぼんやりと目の前の空間を見つめている。審神者は、目の前で命の灯が消えていくのを茫然と見つめた。
縋るように刀の本体に霊力を注いだが、ひび割れた刀身が元に戻ることは無かった。目の前の加州の体の奥から、耐えずにパキパキと鉄の砕ける音が聞こえる。強く下唇を噛み締めていたために、口の中に血の味が広がった。
布団に力なく体を預けていた加州が、まるで最後の力を振り絞るように、審神者のほうへと腕を伸ばした。彼女はそれに気付いて、思わず彼の手を握ろうとする。しかし、相手の手を握ることはできなかった。加州の右手は、ちょうど腕の辺りから先が無くなっていた。それを見た瞬間、審神者は過呼吸を起こした。そして、視界が端から黒く狭まっていく。薄れゆく景色の中、加州が最後の命を削るように、何かを口にするのを視界の端でぼんやりと見つめた。
気が付いたときには、目の前にいつもと変わらない天井が広がっていた。ゆっくりと意識を浮上させながら、審神者は静かに布団から体を起こす。夕方の日差しが室内を明るく照らしていた。室内が血のように真っ赤に染まっている。何の音もしなかった。
はっきりとしない意識の中、さっきのは夢だったのだろうか、とぼんやりと思う。だがそれと同時に、審神者は心の奥を撫でるようにザワザワとした何かが走るのを感じた。
執務室を出ると、ちょうど廊下の向こうから歌仙がこちらへと歩いてくるのが見えた。自身の良く知った刀剣の姿にほっと安心しつつ、声を掛ける。
「歌仙。加州は、もう帰ってきた?」
「主」
歌仙が、審神者の言葉に、まるで心を抉られたような表情を浮かべた。そして、胸に抱えた、白い布に包まれた何かをゆっくりと差し出す。
「彼は、もう」
審神者は、目の前が暗くなったような気がした。そして数秒後、誰かの叫び声が本丸に響いた。その絶叫のような音に、審神者は、うるさいと顔をしかめる。こんな時に、誰が叫んでいるのだと、怒りに似た何かがお腹に沸き起こるのを感じだ。廊下を震わせるその声を聞きたくなくて、思わず耳を塞ぐ。
――だがしかし、それがやむことは無かった。叫び声をあげていたのは、他の誰でもなく審神者自身だったのだ。
夜。審神者は廊下を歩いていた。夜空には見事な月が浮かんでいる。憔悴しきった体でふらふらと足を進めると、自然と手入れ部屋の前に来ていた。そこで足を止めると、廊下の柱にもたれるように立っている影に気が付く。
無視するように通り過ぎようとした瞬間、黒い塊のようなそれは口を開いた。
「……あの場で加州を救えたのは、あんただけだったはずだ。なぁ、そうだろ?」
その言葉に、審神者は歩みを止めた。口から喘ぎ声のような音が漏れる。
「あいつを殺したのは、敵じゃない。……お前だ」
審神者は、その言葉を耳した瞬間、膝から崩れ落ちるようにしゃがみこんだ。そして固い廊下の上で、まるで土下座をするように頭を垂れると、声にならない嗚咽を上げる。
――清光、と何度も心の中で呼びかける。それに答えてくれる人は、もうこの世には居ない。
足先をすべる冷たさに、はっとした様子で目の前を見る。気が付くと、足首まで海の中に浸かってしまっていた。不審げに足元を見る。いつの間に海に入っていたのだろう。まるで記憶が抜け落ちていた。途端に恥ずかしくなり、砂浜に戻ろうと踵を返す。
その時、女の耳元でかすかに懐かしい響きが聞こえた。その音に思わず振り返る。視線の先には、すべてを包み込むような海が広がっていた。地平線のぎりぎりに、今にも消えてしまいそうな、どこか悪あがきのように燃えている夕日が浮かんでいる。
――主。
もう一度、耳もとで懐かしい声が聞こえて、びくりと体を震わせた。そして、彼女の頬に一筋の涙が伝っていく。
女は見えない何かに引っ張られるように、海の中へと足を進めた。その声を聴いた瞬間、心は真っ直ぐに目の前の海に向いていた。――彼は、ずっと透明な場所で待ってくれていたのだ。ひとりぼっちで。遠くて近い海の中、ずっと待ってくれていた。それを感じると、心の底から安堵した。
自分はいつでも彼の待つ場所へ行っていいのだ。そう思うと、審神者はぼろぼろと泣きながら小さくほほ笑んだ。
一歩、また一歩と足を進める。歩みに合わせてばしゃりと水が跳ねた。彼女はほとんど焦りに似た気持ちを感じていた。はやくはやく――彼の所へ行かないと。自分の体の奥で響く声が、段々と小さくなっていて、今にも消えてしまいそうだった。
膝まで海水に浸かったとき、不意にぐいとものすごい力で左手首を掴まれるのを感じた。急に後ろに引っ張られて、身体が、がくんとよろめいてしまう。自分の歩みを邪魔するようなそれに、ほとんど沸騰するような怒りを感じた。弾かれたように後ろを振り返る。
自分の手を掴んでいたのは、予想もしていなかった人物だった。見慣れた戦束装に身をつつんだ男は、氷よりも冷たい瞳で目の前の女を見据えている。
「なにを、している」
海の底のような暗い声色で、目の前の男が言った。絶望的な気持ちになりながら、女は目の前にある金色の瞳を見つめる。先ほどまで聞こえていた音が、目の前の男を見た瞬間、ぴたりと止んでしまうのが分かった。
「もう一度聞こう。君は、ここで、なにをしている」
一つ一つ区切りながら、ぞっとするほど暗い声で目の前の男は尋ねる。それを、女はまるで迷子の子供のような表情で見つめた。
膝丸は、彼女の左手をしっかりと握りながら、すっかり感情の抜け落ちたような瞳で静かに女を見つめていた。自分の悲しみや絶望を遠くのほうで眺めながら、目の前の女の瞳にも、自分と同じ色が浮かんでいるのを人ごとのように眺める。
時が止まっていたように動かなかった女が、不意に足元に手を突っ込んだ。それを膝丸は眉間にくっきりと皺を寄せて睨む。
数秒後、彼女の手に握られていたのは、たばこ程の大きさの巻貝だった。子供の様に手に握りながら、女は困ったような笑顔を浮かべる。なお冷たい表情で見つめる男に、取り繕うように小さく息を吐くと、勘弁してというように目を瞑った。
「貝殻を、拾おうとしたのか?」
男が小さく呟く。その口の動きに、女は大げさなほど、こくこくと首をふった。
気が付くと、辺りは暗闇に包まれていた。今の時期は本当に日が落ちるのが早い。その時、海から冷たい風が吹き荒れて、目の前の男が全身に力を込めたのが分かった。それを視界の端で見やると、女は諦めたように砂浜へと足を進めた。
来た道を淡々と歩く。記憶を便りに小さな小道を曲がると、古い小さな駅が見えた。駅の中は当たり前のように誰も居なかったが、近くのベンチに腰を下ろした。男も、女に習って、隣に座る。
しかし、男が隣に腰を下ろした途端、彼女は弾かれたように立ち上がった。そのまま駆け足で駅の奥へと走って行ってしまう。膝丸は、小さくなる後ろ姿を茫然と見送ることしかできなかった。あのように露骨に避けなくてもいいじゃないか、とショックを受けつつ、すっかり項垂れて下を向く。
数分後、肩の辺りに何かを押し付けられて、男は驚いて顔を上げた。目の前に女の困ったような笑顔があった。呆然とした様子の膝丸に、女は首を傾げると、手を取って強引に何かを握らせる。それは暖かい缶に入った珈琲だった。膝丸は、彼女の心遣いに胸が暖かくなるのと同時に数分前の自分を恥じた。
膝丸に缶を握らせると、彼女は流れるような動きで隣に座る。そして、一瞬躊躇したあと、遠慮がちにぎゅう、と抱きついた。続けて、お腹のあたりをさすさすと撫でる。膝丸は、そんな彼女の仕草に、だらしなく頬が緩まないように必死で口を引き絞った。