夜。女はローテーブルの前でパソコンに向かっていた。ノートパソコンの画面には、アルファベットと数字が羅列されている。女は、ほとんど流れるような動きでキーボードを叩いていた。淡々と文字を打ちながら、画面に表示されていくそれを目でなぞる。昼からずっと休憩を挟まずに同じ作業をしていたため、とても疲れて眠かったが、無視して手を動かし続けていた。
忙しくしていると余計なことを考えなくて済むので、女はどちらかというと仕事が好きだった。突発性難聴になった事を伝えると、上司からはいい機会なので休むように言われた。だが、無理を言って少しだけ仕事をもらったのだった。ひたすらに文字を打ち込みながら、机に置かれている時計をちらりと見ると、時刻は二十二時を少し過ぎた所だった。このまま日付を超えるまで続けようかとも思ったが、それだと思ったよりだいぶ早く納品できてしまいそうだった。そう思うと、やっと女は指を止めた。そして、だらりと姿勢を崩すと、徐に机の上に置かれている携帯電話に手を伸ばす。パスワードを外すと、メールが一件来ていた。それが本丸に置いてある端末からの物だったので、一体なんだろう、と眉を潜める。
送信者を確認すると、近侍の加州清光からだった。急いでメールを開く。
“そとにでて”
とだけ書いてあった。頭に疑問符を浮かべながら、メールの受信された時刻を見ると、今から三時間ほど前の時間が表示されていた。
間違って送信してしまったのかと思い、携帯を一度机に置く。数秒後、真っ暗になった画面を見つめながら、女は心の中がザワザワとするのを感じた。とりあえず確認だけでもしておこう、と思い立つと、ゆっくりと腰を上げる。
玄関のドアを恐る恐る開けながら、少しだけ顔を出して外を見る。夜の闇が広がっているだけだった。六階の高さの廊下越しに、都会の夜景が見えた。遠くのほうで、高速道路とその上を走っていく車が見える。一定のリズムで車のライトが現れて、そして消えていった。
ふと下のほうへ視線を向けると、何か黒い物体が視界に入り、女は声にならない悲鳴を上げた。誰かが壁に寄りかかるように体育座りをしている。膝の上に頭を置き、小さく折りたたむような姿が見えた。――相手の表情は分からないが、服装と髪色ですぐに誰か分かってしまった。思わず女が体を引いたとき、ドアのチェーンとぶつかってしまい、廊下にじゃらじゃらと派手な音が鳴った。その音に、男がゆっくりと顔を上げる。
男は女と目を合わせると、のろのろとした動きで立ち上がった。そのまま無表情で一歩、また一歩と近づくと、ぎりぎりのところで立ち止まる。そして、動揺で瞳を揺らしている女には気付かないふりをして、そっと両手で体を包みこんだ。
「無事で、良かった」
溜息のような声を漏らしながら、男が呟いた。小さく息を吐きながら、腕の拘束を強めつつ、相手の肩口に額を押し付ける。女は、相手の突然の行動にびっくりして、小さく抗議するように胸板を押した。だが、力の差は歴然で、力いっぱい押しても、相手は大木のようにびくともしなかった。暫く無駄な動きを続けていたが、諦めて大人しく体の力を抜いた。その時、相手の服がヒンヤリとしている事に気が付いて、はっとしたように顔を上げる。
恐る恐る、両手を相手の腰のあたりに回すと、ぎゅうと抱きしめ返した。相手の体が、先ほどから小刻みに震えていることに、女は気が付いていた。それは寒さからくるものではなかったが、彼女は誤解して、相手の背中に手を伸ばした。そして、少しでも温めようと広い背中をゆっくりと撫でる。
数分程そうしていたが、名残惜しそうに黒いジャケットが離れていった。相手のバツの悪そうな瞳とかち合い、女は困ったような顔を浮かべる。そして、黒い手袋に包まれた手を握ると、入って、とジェスチャーをした。
ふかふかのカーペットに腰を落ち着けながら、ここへ来るのは数か月ぶりだ、とぼんやりと思った。男は腰に下げてある刀を外すと、自分の近くの床へとゆっくり置いた。これを下げたまま、この部屋を歩き回ったら、何かの拍子に辺りの物を壊してしまいそうだった。一目で見渡せてしまうような室内に視線をやりながら、しかし此処はいつ来ても落ち着く、と心の中で呟いた。
扉を挟んだ奥で、お湯を沸かしている音が聞こえた。その瞬間、部屋で行儀よく正座していた男――膝丸は、はじかれたように立ち上がった。今、自分の主人は耳が聞こえないのだ。加州清光に聞いたときは、にわかには信じられなかったが、実際に本人を目の前にして、それが真実なのだと理解した。現に、膝丸は審神者とあってから、彼女の声を聴けていなかった。急いでキッチンへと続く扉に手を掛けようとした瞬間、勝手に扉があいて、膝丸は飛び上がるほど驚いてしまう。その様子を、お盆の上に飲み物を載せた状態の女が、訝し気に見つめる。
ローテーブルの前に二人で並んで座ると、膝丸は心配そうに女を見つめた。その悲壮な顔に、女は一瞬だけ苦笑いを浮かべると、徐にノートパソコンを立ち上げる。続いて、メモソフトを立ち上げると、そこに文字を打ち込み始めた。やや後ろから、膝丸が興味深そうに画面をのぞき込む。
“もう知っていると思うけど、耳が聞こえないんだ”
ほとんど会話するのと同じスピードで文字を打ち込んでいく審神者を、膝丸は感心したように見つめた。打ち終わると、困ったような顔で耳に手を当てながら、苦笑いを浮かべる。
膝丸は、いつものように言葉で返してしまいそうになり、慌てて口を噤む。残念なことに、彼は簡単な数字までは入力できるが、文章を入力することはできなかった。途方に暮れている様子の男に気が付くと、女は部屋の奥から何かを持ってきた。
目の前に差し出されたのは、メモ帳とボールペンだった。なるほど、と頷きつつ、膝丸は紙の上に文字を重ねていった。女はその脇で静かに珈琲を飲んでいる。
文字を書き終わり、膝丸が相手の前に紙を差し出すと、女はそちらに目を向けた。しげしげと紙を見つめると、数秒後、けらけらと笑い出した。
「面白いことなど、書いていないのだが」
膝丸が困惑して呟くと、女はくすくす笑いながら紙に文字を書いて行った。その様子を見守っていると、目の前に紙が差し出される。
“達筆すぎて、何を書いているか全然分からない”
それを声に出して読み上げると、膝丸は悲しい顔をした。ツボに入ったのか、再び声を上げて笑っている女を横目でじとりと睨む。笑いごとではないと思った。
ひとしきり笑いが収まると、女は再びペンを取った。
“まぁ、しょうがないね”
「ちょっと待ってくれ」
紙に書かれている文字を見た瞬間、膝丸は思わずペンを持ったままの女の腕をぱしりとつかんだ。しょうがないで済ませてほしくないし、このままだと審神者は自分と会話することを諦めてしまうだろう。それを、膝丸は直感的に確信した。
表面上は涼しい顔を作りつつ、内心焦りながら膝丸は頭を回転させた。パソコンは上手く使えないし、筆談は審神者が自分の文字を読めないので駄目だ。――どうしても紙を前にしてペンを持つと、字の癖が出てしまう。
絵を使う事を思いついたが、非効率過ぎてすぐに却下した。膝丸は絶望的に絵が下手だった。
何かないか、と縋るようにあたりを見回した時に、自分が先ほどから握っている物が目に入った。そして彼の頭の中で一つのアイディアが浮かび、口角を緩く上げる。
驚かせないように女の肩を叩いた。膝丸の様子をぼんやりと眺めていた女が、ふわりと首を傾げる。はやる気持ちを押さえながら、彼は黒い手袋を外した。そして、自分の指を女の白い腕にゆっくりと滑らせる。女は膝丸が何をしようとしているのかすぐに理解して、男の節くれだった指先を静かに見つめた。
数秒後、女はにっこりとほほ笑むと、小さく頷いた。そのしぐさに、膝丸は安堵して大きくため息をつくと、答えるように微笑んだ。
こうして、二人の奇妙な筆談生活が始まったのだった。
ぱちぱちとキーボードを叩きながら、女は隣へとちらりと視線を滑らせた。一番最初に目に入ったのは、薄い緑色の髪の毛だった。窓の外では雪が降っているが、そこだけ春が訪れたような色だった。
相手は顔を自分とは反対に向けつつ、こちらに寄りかかるような形で全体重を預けていた。こちらからは表情は分からないが、飽きずに窓の外を眺めている。作業の手をしばし止めて、同じように外を見ると、灰色の重たそうな空が見えた。
肩に置かれた頭が重いのと、気が散って作業に集中できないのとで、女は小さく顔をしかめた。そして、抗議するように小さく体を捩る。嫌がる気持ちを体で表現しても、相手はまるで気にしていない様子で、体重をかけてくるのだった。
もしかして、中身は御手杵なのでは無いかと思い立ち、相手の顔を横から覗き込む。とろりと蜂蜜のような瞳で見つめられて、慌てて顔を背けてしまう。――本丸といる時と、まるで違う人みたいだと思った。
暫くそうしていたが、不意に隣の男が立ち上がり、キッチンへと消えていくのを感じた。身軽になった、と机の下で握りこぶしを作り、仕事用のバッグから資料を取り出す。
黙々とパソコンに向かっていると、出汁のいい香りが、ふわりとリビングのほうに流れてきた。普段、女はほとんど料理をしないので、その家庭的な香りをどこか懐かしく感じた。
少しした後で、男がお盆を持ってリビングに入って来る。それを視線の端に認めると、女は作業の手を止めて、机の上を手早く片付けた。目の前に、ことりと茶碗やお皿が並べられて行く。至れり尽くせりの状況に、心の中で罪悪感を覚えながら、ありがとうと小さく頭を下げた。
いい具合に焦げ目をつけた魚の身を箸で割り裂いて、口に運んだ。――その瞬間、女は大きく目を見開いた。そして、ゆっくりとお皿に乗っている魚の、白く濁った瞳と目を合わせる。
つい茫然としてしまったのは、目の前の魚の味が、全くしなかったからだった。見た目はとても美味しそうだし、なにより立ち上ってくる香りだけで、何となく味が想像できた。恐る恐る男を見ると、とても綺麗な所作で目の前のご飯を口に運んでいる。おかしくなってしまったのは、自分だけだった。
それを理解すると、意識がまるで遠い場所に行ってしまったような気がした。少し斜め上から、自分自身を何処か他人事のように眺めている。そんな気持ちだった。
機械のように咀嚼を続けていると、隣から視線を感じた。なんでもない風を装いながらも、自分の動向を気にしている視線に気が付いて、とっさに口角を上げる。それは、少しだけ意志力を要する作業だった。ついでのように、口の形で“美味しい”と伝えると、相手はほっとしたような顔で小さく笑う。
その夜。女は冷たいベッドの上で横になりながら、じっと目の前の暗闇を見つめていた。
輪郭が黒に溶けていくような闇の中で、とうとう自分は狂ってしまったのかもしれない、とぼんやりと考える。
膝丸がこの部屋に訪れた日から、何も聞こえないはずの耳の奥で、かすかに音がしていた。最初は消えそうな程に小さかった音が、今でははっきりと存在を濃くしていた。それに耳を傾けるように、ゆっくりと目を閉じる。
それは、潮騒の音だった。遠くの果てから押し寄せて、やがて離れていく波の音は、やけにリアルで――目を閉じていると、広い海が目の前に広がるようだった。澄み切るような青色の中、海に向かい合うように自分は佇んでいる。塩を含んだような風が、頬を優しく撫でるのを感じた。そうしているうちに、潮騒の音が煩い程に大きくなって、思わず両手で耳を塞ぐ。
その時、背中に感じた感触に、女ははっとした様子であたりを見回した。そこに広がっていたのは、見慣れた自分の部屋だった。咄嗟にどちらが現実か分からなくて混乱する。
お腹のあたりで手を込められて、意識が段々とはっきりしてくるのを感じた。そのまま上半身を少しだけ捻ると、黒いシルエットが見えた。相手は自分を抱き枕のようにしながら、ぐうぐうと寝ていた。呼吸に合わせて上半身が少しだけ上下するのを、不思議な気持ちで眺める。
体を横向きに戻しながら、ぽとりと枕に頭を埋めると、長く息を吐いた。続けて深呼吸をしながら、このまま体の機能がどんどん停止して、最後は心臓までが止まってしまうのでは、と思った。窓に映る、明け方の藍色の空を見つめる――それでもかまわない、という言葉が浮かんだ。
さらにそれは、少しだけ魅力的な事に思えたのだった。
黄昏時。
女はベッドの上で毛布にくるまりながら、外の風景を見ていた。オレンジ色の夕日が、おもちゃのようなビル群の向こうに消えていくのを、じっと動かずに眺めている。太陽が地平線に近づくにつれて、燃えるように濃くなり、空はやがて淡いピンク色へと姿を変えていった。
膝丸は、相手の肩越しに同じ空を見ていた。後ろから審神者を抱え込むような体制で、自分の脚の間に、相手の体がすっぽりと収まっている。平たいお腹に手を回すと、記憶より明らかに痩せていて、心の奥がちりちりとするのを感じた。
後ろから女の顔を覗き込むと、透明な横顔が目に入った。彼女は、覗き込んでくる男の事など無視するかのように、前の風景から一度も目を逸らさない。その横顔を見ながら、膝丸はこの瞳だ、とぼんやりと思った。何を考えているのか分からない、空のような透明な瞳。こんなに近くにいるのに、まるで一人ぼっちの時のような孤独感が心に沸いて、思わず縋るように相手の肩口に頭を寄せる。
ふと下を見ると、女の真っ白い腕が目に入った。布団の上に、力なくだらりと置かれている。膝丸は、暫くそれをぼうっと眺めていたが、ゆっくりと手を伸ばした。固い爪が、線を描くように、白い腕を滑っていく。
急に腕に感触が走って、女はびくりと体を震わせた。そして後ろを振り向くと、項垂れたように下を向く男の姿があった。相手の発する空気に胸をざわつかせながら、腕に走る固い感触に意識を集中させた。
“おれは、”
一つ一つ、途方もない時間をかけて、節くれだった指先が文字を作っていく。女は息を止めながら、ゆっくりと視線を前に戻した。全身の神経が、腕に集中してしまったかのような気がした。
“おれは きみの ことが”
そこまで書くと、男は我に返ったようにはっとした様子で顔を上げた。酷く慌てながら、書いた文字を消すように、白い腕をごしごしと擦る。女は、皮膚を擦すられる痛みに、少しだけ眉間に皺を寄せる。膝丸はその表情の変化に気が付くと、本当に申し訳なさそうに謝った。そして、新たな文字を書いて行く。
“俺は、君の髪が好きだ”
色が兄者とよく似ている、と続けて書かれて、女は怪訝な顔をした。彼の兄の髪色は、ほとんど白に近いクリーム色だった。
自分の髪の毛を一束つまんで、顔の前にもっていく。それは確かに明るい方だったが、そんなに似ていないと思った。何とも言えない気持ちになりながら、心配そうに見つめる瞳に、あいまいに笑って頷いた。
膝丸は相手のいつもと変わらない様子に心底ほっとしながら、自分は一体何を伝えようとしたのだろう、と混乱した。急にはっきりと姿を現した感情に、膝丸は目を背けたいような気持ちになった。
男が一人で思案していることにはまるで気付かずに、女は相変わらず空を見つめていた。目の前で変わっていく色に目を向けながら、心は全く別の風景を眺めていた。――それを、自分自身が、何処か遠くの場所から眺めている。
その日の夜、膝丸はふと目が覚めた。半分夢を見ているような状態で、なんとなしに隣に目をやると、女が上体を起こしているのが見えた。袖をまくり上げて、腕の内側を必死に掻いている。その動きは、掻く、というより掻き毟るというものに近かった。瞬間、膝丸は急いで起き上がり女の腕を掴んだ。
強く腕を掴まれて、女は怯えたようにびくりと体を跳ねさせた。そして男に目を合わせると、困ったような、不安な様子で瞳を揺らす。
「……痒いのか」
男の口元を見ていた相手が、数秒の間の後、小さく頷いた。腕の内側を確認すると、みみずばれのようになっていた。痛々しいそれに、心が爪を立てられたかのように痛んだ。女は、男の悲し気な顔をぼんやりと見つめながら、ポツリと小さく口の中で呟いた。
“痛くて、くるしい”
相手の口の動きに、膝丸ははっとした様子で相手の顔を見つめた。言葉とは裏腹に、相手は薄ぼんやりとほほ笑んでいて、その人形のような笑顔に、背筋に冷たいものが走った。
まるで自分の方が痛めつけられているかのような顔をしている男を見ると、女は小さく笑った。そして、徐に上の服をぺろりとめくる。目の前にいきなり白いお腹が飛び込んできて、思わず膝丸は視線を下に向けた。しかし、微動だにしない相手を不審に感じ、視線を恐る恐る上に戻す。自分の口から乾いた音が鳴った。
柔らかな腹の上に、まるで帯のように赤色が広がっていた。ぼつぼつと不規則に並んでいるそれは、白い肌と相まってまるで花のようだった。痛々しく腫れ上がった部分にそっと手を触れさせると、僅かに熱を持っていて、嫌がるように手を弾かれた。
女はくるりと横を向くと、何事も無かったようにぽすんと布団に身を投げる。まるで拒絶するように背中を向けてしまった相手を茫然と見つめながら、膝丸は心の奥がじくじくと痛むのを感じた。
先ほど見た光景を反芻していると、ある考えが浮かんで、膝丸は小さく口を開ける。――彼女の耳が聞こえなくなったのは、加州が重傷で帰ってきて、精神的ショックを受けた為だと聞いた。突発性難聴の原因はよく分かっていないが、ストレスが影響することが多いと、白衣を着た短刀が言っていた。
そして、夕方に自分がしてしまったことを思い出したのだった。
自分が、不躾に思いを伝えようとしたから。彼女の心は、本当は誰にも踏み込んでほしくなかったし、何も聞きたく無かったのではないか。
きっとあの様子では、もう彼女の腕に触れることは出来ないだろう。掻き毟られて赤くなった柔らかい皮膚が、瞼の裏に浮かんで消えていく。今すぐにでも謝りたかったが、もうすでに審神者は眠ってしまっているようだった。
できることなら、彼女の痛みや苦しみを全部自分に移してしまいたい、と心の底から思った。しかしどんなに願っても、目の前の女は決して自分を頼ることはしないだろう。ただひたすらに見守ることしかできない自分を、まるで切れない刀のようだと思った。