舗装されていない道を馬で軽やかに駆けていく。彼女の本丸は馬で40分ほど走った場所にあるので、ゲートを使って移動した方が断然早い。だがあえて馬を使うのだった。この一見無駄だとも思える時間が、私は好きだった。
馬に乗ることは素直に楽しかった。おもむろに馬の首筋に手を伸ばして、艶々とした短い毛を撫でる。引き締まった筋肉の力強さと、生き物の暖かさを感じた。
緩く馬の首筋を撫でながら、そういえば、と思い立つ。馬に乗れるようになれたのも、彼女のお陰だった。指導は結構厳しくて、初日からいきなり馬の背に乗せられた。彼女に言わせると、実践が一番とのことだった。馬の背で恐怖と緊張で堅くなっていると、その気持ちが伝わるのか、馬が落ち着きなく鼻をならす。見かねた椿が近づいてきて、落ち着かせるように優しく馬の鼻筋を撫でた。おもむろに彼女が言う。
「力を抜いて、気持ちをゆるめて」
優しい声色に不思議と力が抜ける。まるで彼女の魔法にかかってしまったようだと思った。途端にさっきの忙しなさが嘘のように馬がおとなしくなる。まるで認められたような、受け入れてもらえたような安心を感じて、馬に目を会わせて頬笑んだ。
そんなことを考えていると、いつの間にか大きな門が見えてきた。いつ見ても大きい、と思う。私の本丸の3倍はありそうだ。綺麗に漆喰の塗られた壁を見つつ両開きの扉に手を触れる。触れた途端、ぎぎぎという音を立てながら、重い動きで扉が自動で開いていった。
先に待っていたのは、彼女の側近の男士だった。燃えるような赤い髪が、光を受けてさらに赤みを増している。それを眩しそうに見つめた。よく来たな、と言いながら然り気無く馬の手綱と、手に握られていたお土産を持ってくれた。
彼女は執務室にいると言うので、小さくお礼を言い、広い廊下を1人でぼんやりと歩いた。廊下が綺麗に磨かれていて、反射で時折キラリと光った。
「椿。来たよ」
開放的に開けられている襖からひょっこり中を覗く。執務室はどこも同じ作りのようだ。大きめの机に向かって何か作業をしていた椿が、私の呼び掛けにぱっと顔をあげる。
「待ちくたびれたよ。」
と、言いながらも嬉しそうに口角を上げて笑う彼女を見て、ごめん、と形だけ謝る。そのまま用意してくれた座布団に座った。
「手紙を書いていたの?」
机にあふれている便せんに目をやりつつ尋ねた。
「恋文の返事を書いていたの。」
断るほうのね、と彼女は言葉を続ける。これ全部? と聞きながら再度机を見やる。小さく小山のようになっている文の量に驚きで目を丸くした。
そう、と気のない返事をしながら、椿は紙の束を乱雑に机の端に放った。その雑な動きに小さく苦笑する。指に着いた墨汁を布で軽く拭きながら、椿が聞く。
「そっちは、どうなの」
期待を込めた目で見られる。軽く上を向いて、なぁんにも、と答えた。実際、一年前に彼氏と別れてからずっと一人だった。そう思いながら、ほんの少しだけ心に風が吹く。
「……なんだ。つまんない」
と言いながら、そうだ、と椿が顔を明るくする。
「良かったら、誰か紹介するよ」
彼女はきらきらした瞳で言った。
「この中から?」
机の上に悲しく放置されている文を見ながら呟く。もちろん冗談だった。椿は真面目な顔で、まさか、と言った。
それからお互いの本丸の話や、全然関係ない話をした。椿とこうしている時間は本当に楽しくて、気が付くとずいぶん時間が経ってしまっていた。外を夕日が明るく照らしている。
もうそろそろ帰らないと、と呟くと椿は本当に名残惜しそうな顔をした。もちろん私も同じ気持ちだった。
椿と並んで長屋門まで歩いていると、門の先で彼女の近侍が馬を引いて待っていてくれるのが見えた。お礼を言いつつ馬の白い鬣と手綱を掴み、ぐっと馬体をまたぐ。少しだけぐらついて体制がぶれてしまう。間髪入れずに、彼女の近侍が支えてくれた。少々驚きながら、灰色の目を見つめて、ありがとうと口にする。それに相手は構わないと返した。
椿と、並んで立つ男士に見送られながら、小さく手を振って馬の脇腹を軽く蹴った。途端に景色が離れていく。
帰り道。
なんとなく、真っすぐに自分の本丸に帰りたくないと思い、ふらふらと甘味屋に寄った。他にも色々と寄り道をしながら帰ると、本丸に着く頃には日付が変わろうとしていた。馬を繋いで、お疲れ様と鼻筋を撫でる。馬は優しい瞳で見つめ返していた。
音を立てないようにいつもの2倍の時間をかけて玄関を開ける。たたきに腰をおろして草履を脱いだ。なんだか脚が重い。体に心地よい疲れを感じつつ、今日は充実した1日だったなと思いながら廊下に一歩踏み出す。その時、暗闇から声がした。
「ずいぶん、遅いご帰還だな」
声のしたほうに目を向けると、誰かが廊下にいるのがわかった。腕組みをして、柱にもたれ掛るように立っている。シルエットがぼんやりと暗闇に浮かび上がっていた。
「・・・膝丸」
全体的に黒く闇に同化していてよくわからなかったが、低い声で誰か分かった。
「今、何時だと思っている。主としての自覚が足りないんじゃないか」
「”初期刀”の許可は、もらっているから」
どこか責めるような言い方に、むっとしながら被せぎみに返す。あえて初期刀の部分を強調して言った。刀はみんな加州に一目置いているようだった。そして同時に羨望の気持ちを抱いていることも、審神者は薄々感じていた。膝丸は返ってきた言葉に顔を歪めたが、審神者は暗闇のせいで、そんな表情の変化に気付かなかった。お互いの間に重い沈黙が流れる。
しばし無言で睨みあっていたが、先に小さく目を反らす。特に話すことも無いと思い、暗闇に足を一歩踏み出した。
「待て。話は終わっていない」
と、膝丸が焦ったように言う。口を固く結んだまま、黒い塊を通りすぎようとしたが、掛けられた言葉に仕方なく足を止めた。
咎めるように言われた事と、仮にも主に”待て”とは何だと小さく憤慨し、無視を決め込んだ。そのまま棒立ちでいたが、やっぱり構わず部屋に戻ろうとすると、肩に衝撃を感じた。
気付いた時には、勢いに任せるように壁に押し付けられていた。強制的に相手と向かい合わせの形になる。黒い手袋に包まれた手が肩に食い込んで痛いのと、背中についた土壁の冷たさに小さく身が震えた。相手がどんな顔をしているか知りたくなくて、下を向き、子供のように足元を睨んだ。
「他の本丸の男士と、会っていたのか」
膝丸が暗い水の底のような声で言う。すぐに彼女の本丸の近侍の姿が目に浮かんだ。彼は椿のそばにずっと控えていたし、馬に乗るときには気を使って体を支えてくれた。その時に彼の気配が着いてしまったのかもしれない、と頭の片隅で思った。
小さく腕を持ち上げて、すん、と袖の匂いを嗅いでみる。特に何も感じなかった。刀剣だけが分かるのかもしれない。そう思い、同時に椿は自分自身の気の名残を上手く消せるのだと知った。
「どうなのだ」
再度頭上に降ってきた言葉に、あえて返事は返さなかった。視線は足元に向けたまま、こうなると、自分は頑なだった。
「……こっちを見ろ」
再度命令形で、しかも声に責めるような響きが含まれていて、一気に心に刺が生えた。絶対に見てやるものかと目を固く瞑る。
そんな私の態度に、頭上からイライラとしたような雰囲気が伝わってきた。なお身を固くしていると、不意に顎を手に掛けられ上を向かせられた。
ここまでするのかと相手の瞳を鋭く見据える。そしてすぐに後悔した。目を向けた先に映る瞳が、想像していたものと全く違っていたからだ。
怒りや嫌悪、もしくは軽蔑と言った感情を予想していたが、実際に目の前にある瞳は、深い悲しみの色で覆われていた。まるで深い海の底のようだった。途端に心に罪悪感と、困惑が広がる。自分の口から小さく、どうしてと言葉が漏れた。
「自身の本丸の者とは関わろうとしないのに、他の刀には会いに行くのだな」
わざわざ自分を飾ってまで、と膝丸は言いながら、ゆっくり指で唇をなぞる。触れた指の冷たさに、思わず唇をかみしめた。
「俺とは、数分とも話そうとしないのに」
と、自嘲気味に言葉が続けられる。確かに、現世に来てもらっている間は、彼とほぼ毎日顔を会わせていた。しかし一か月の護衛期間とやらが終わってからは、ほとんど会話をする機会が無かった。それでも、と思う。普段の正常な状態に戻っただけなのだ。毎日一緒にいる方が普通じゃなかったはず、とぼんやりと考える。あまり関わりが無いのは、別に膝丸だけじゃなかった。私も人間なので、加州や光忠といった信頼している者もいるし、特に仲良くのない刀もいる。そんなことを考えていたが、膝丸は構わずに言葉を続けた。
「現世で過ごした一か月間は、とても幸せな時間だった。ここに呼ばれてから、主を一番近くに感じた。だからこそ、終わった後が怖かった」
と、膝丸は言葉を紡ぐ。その言葉に、静かに耳を傾ける。傾けながら、今日は良く喋るなと思った。
「……恐れていた通りだった。主は、終わった途端、まるで何も無かったかのように振舞う。俺だけが、取り残されたように感じた」
「そんなこと、」
ない、とも言いきれないな、と思い立ち言い淀む。現世に慣れているからと、膝丸にはたびたび長期の遠征に行ってもらっていたのだった。気づけば、ほとんど顔を合わせることが無い状態に自然となってしまった。むしろ前より接する機会は減ってしまっているかもしれない。今更そのことに気が付き、気まずそうにしている私を悲しい瞳が見つめる。
「一度、知ってしまったから、今さら遠ざけられると胸が張り裂けそうになる。君の声が聴きたい。姿が見たい。叶うなら、その肌に触れたい。……もう、昔のように家臣のような自分には戻れそうにない」
俯いてしまった男を見ながら、何か言わなければと必死で頭を回転させていた。だが、どんな言葉をかけるべきか全くわからなかった。なにを言っても傷付けてしまう気がする。途方に暮れていると、首筋に顔が近づいてくる。――そのまま、すん、と鼻が鳴った。
「……気に入らない」
途端に、ぶわりと殺気があたりに広がる。この人の感情はジェットコースターのようだと思った。さっきまで悲しみに暮れていたのに、今は真逆の所にいる。確かめるように首筋を緩くなぞられて、体が震えた。続けて、見えない何かを上書きされるように唇を寄せられる。
チクリ、とした小さな痛みに体が跳ねた。瞬間、身体が勝手に動き、相手を渾身の力で突き飛ばす。黒い体がよろめいて離れる。間髪入れずに駆けだした。振り返らずに自室まで走る。鼓動がうるさいくらいに耳に響いた。
どうして、という言葉が頭の中をぐるぐる回っていた。刀なのに、物なのに。あれでは、まるで。
人間よりも、よほど人間らしいじゃないかと思い、目の端が少し滲んだ。