秋が深まってきた。
外では、少しずつ紅葉が色づいてきている。執務室から見える木も赤やオレンジと、目に温かいが、空気はひんやりと冷たい。そろそろ紅葉狩りの季節だと思った。
今日は特に忙しくもない日で、来週の編成を加州と相談していた。机の上に置かれたノートパソコンに、彼のアドバイスを聞きながら、その都度修正を入れていく。私が決めた編成の詰めの甘い部分を加州が見つけて、細かい部分を練り直していく。そうして決まったら、週の初めに加州が朝礼で指示を出す。いつも出陣の編成はそのように回していた。
机の向こう側。加州が真剣な顔で、ノートパソコンの画面を見つめていた。私の作った資料にしっかりと目を通してくれている。時折、赤い目がきゅっと細くなる。
私も緊張しながら、加州の言葉を待っていた。しばらく静かに画面を見つめていた彼が、スッと顔をあげて、薄く口を開いた。
「……あのさ」
私は身を固くする。なにか問題があっただろうかと、少しの不安が胸に広がった。
「いつまで、そうしてんの?」
と、加州は私を通り越して、すぐ後ろにいる槍――御手杵に問いかけた。
「んぁ?」
半分寝ていたような声で御手杵が返す。その気の抜けた声に、思わず頬がゆるんでしまった。途端に部屋の空気が緊張感のないものに変わる。
御手杵は、私たちの話には一切参加しないで、うとうと居眠りをしていた。自室だったら何も問題が無いのだが場所がいけなかった。御手杵は今、執務室に居た。そしてなぜか、後ろから私を抱え込むような体制をしていた。彼の頭が肩口くらいに乗せられていて、明るい長めの髪が首すじに時々ふわふわとあたる。そのくすぐったさに、時折、身をよじった。
「御手杵さん、どうしちゃったんだろ」
と、後ろの御手杵でなく、加州に尋ねる。午前中に急に執務室に来たかと思ったら、ハグさせてくれと開口一番に言われた。もちろん断ったのだが、御手杵は全く引かなかった。この人も頑固な性格なのかと半分呆れて、渋々了承してしまった。それから、今日一日この調子なのだった。
私の言葉に、後ろの槍が、大きな体をむくりと起こして答えた。
「……他の奴に、言われたんだ。今の主に、近づいてみろって。主と一番、関わったことがない俺が急に近づいても、受け入れてくれるか見て来いって。それで、主の反応がどうだったか、確認してこいって」
御手杵の話を聞きながら、加州が眉をきゅっとひそめる。
「それって、罰ゲームみたいなこと?」
と、私が恐る恐る訊ねる。少し悲しい気持ちになった。私は自分の刀剣に嫌われているのかもしれないと思ったら、心臓がぎゅっと縮んだ気がした。
私の問いに対して、うーんそれとは違うと思うと御手杵が答える。
「多分、知りたいんだと思う」
何を? と加州が聞く。要領を得ない会話に少しイライラしているのが声色で伝わった。――御手杵はふわふわしていて、かなり天然なところがある。
「どうしてあいつだけ、ってみんな言ってる」
御手杵はまた頭を私の肩口に預けて、くぐもった声で言った。あ、と加州と顔を見合わせる。あいつ、とは膝丸の事だろう。ちゃんと訂正しないままでいたから、みんな誤解したままなのだ。
「そういえば、宴会で訂正しようって計画して、そのままだったね」
と、加州に言った。加州もすっかり忘れていたようだった。思わず顔を見合わせる。
「急だけど今日、宴会にしよっか」
私が言うと、加州はいいねと同意してくれた。どうせ暇なので、今日にでも一緒に買い出しに行こうと言ってくれた。私はそのお誘いに笑顔で頷く。光忠にも早めに言わないといけない。
でも、と加州は続ける。
「誰に指示されたの、そんな事」
眉間にしわを寄せながら、加州が御手杵に聞く。彼はそれに、体制を変えずに小さく、言えない、と答えた。
「……誰から指示されたかは、言うなって言われてるから」
それを聞いた加州は、何それ、と顔をそむけた。かなり怒っている。
「でも、あんた、周りが言ってたのと全然違うな」
お腹に回した手にぎゅっと力を込めながら、御手杵が言った。
「冷たいとか聞いていたけど、全然そんなことない。話しかけたら、一生懸命答えてくれるし、時々だけど笑ってもくれる」
御手杵はすらりとした長い手を、お腹に絡ませながら続ける。
「一回も、ちゃんと話したことなかったからさぁ。主ってどんな人なんだろうって、ずっと思ってたんだよなぁ」
と、ふにゃりとした顔で御手杵は言った。その言葉に申し訳なく感じる。自身の背中越しに、ごめんねと返すと、いやいいんだと御手杵は返した。
「……だから、俺は使われたのかもしれないけど、今、主と話せて幸せなんだ」
役得ってやつだなぁ、と御手杵は続けた。ひらひらと花びらを舞わせている槍を見ながら、少し切ない気持ちになった。
加州は、そんな私たちの様子を静かに見つめていた。
「御手杵。その指示した奴に、主は言われたとおり冷たい奴だったって報告しなよ」
と、加州が仏頂面で言う。私と御手杵は顔に疑問符を浮かべた。
「そいつ、主がどんな反応したか、知りたいんでしょ。直接来ないような奴に、正直に主の事を教えなくていいよ」
加州は声に怒気を含ませて言葉を吐き捨てる。しばし間を置いて、それに、と続けた。
「周りの誰も知らない、優しい主を知っているのは自分だけって、うれしくない?」
加州が身を乗り出して、まるで誘うように御手杵に言う。
「俺だけ……」
何か考える様子で彼が呟く。そして、顔をあげてにっこりと笑った。
「なんか、いいな。それ」
ご機嫌な様子で、御手杵が言った。桜がまたひらひらと舞っている。目の前で揺らめく薄桃色を一瞥しながら、でしょ、と加州が満足そうに頷く。
「じゃぁ、みんなには、主は冷たくて、無視してきて、まるでごく潰しだったって言うよ」
と、御手杵は続けた。それに、加州が言い過ぎと突っ込む。私は、そのやり取りに小さく笑った。
「…でも、そうやってくっついているのを見てると、なんかセミみたいだね」
と机に肩ひじをつきながら何気なしに加州が言う。もう秋なのにと続けて呟いた。
「うーん。御手杵さんって、手足が長いから、セミより蜘蛛みたい。」
と私が乗っかると、御手杵はうぇーと顔をしかめる。
「俺が蜘蛛だったら、あいつに切られちまうだろぉ」
「あいつとは誰だ」
会話に、いるはずのない声が急に混じって、三人で飛び上がるほど驚いた。同時に声がしたほうを振り向くと、膝丸がいた。
拘束されて動きづらい体を、無理に動かして見上げる。割と近い場所に、膝丸が仏頂面で突っ立っていた。気配に全然気づかなかった。普段は絶対に声を掛けてから入室してくるので、このように無断で部屋に来ることは初めてかもしれなかった。
膝丸は、土蜘蛛の妖を切ったという逸話から、蜘蛛切と呼ばれていたことがあるらしい。御手杵はそれを思い出して、話の引き合いに出したのだろう。まさか本人が現れるとは、執務室にいる誰も思わなかった。
「遠征の成果だ」
と、膝丸が成果物を少々乱暴に机に置いた。
「…早かったね」
いつもと違う様子に少々驚きながら、私が言った。膝丸たちが遠征から戻ってくるのは、早くても夕方の予定だった。その言葉に、膝丸の眉間のしわが深くなる。
「早く戻ってきたら、悪いか。」
ぎろりと睨みながら膝丸が言う。その突っかかってくるような物言いに、違和感を覚える。
「怒っているの?」
膝丸を見上げ、困惑しつつ聞いた。
「怒ってなどいない」
あらぬ方向を見ながら、彼が言う。目を合わせてこないのが答えのような気がするが、深くは追及しないことにした。御手杵は、私たちのやり取りなど気にせずに、時折頭をぐりぐりこすりつけてくる。その様子を見て、膝丸の目からどんどん光が消えていく。
「御手杵。主は女性だ。そのように無遠慮に触れるものではないだろう」
と、膝丸が見下すように言う。まるで刀のように切れそうな、尖った言い方だった。
「主がいいって言っているんだから、いいだろ」
いつものんびりした御手杵が、冷たい声で答えている。途端に部屋の空気がぴりりと震えた。不穏な空気に、少しうろたえながら二人の成り行きを見つめる。
膝丸と御手杵はしばらく無言で睨み合って合っていた。ふっと小さく膝丸が息を吐く。
「主が許容しているなら、俺からは何も言うまい」
小さく呟いて、踵を返して部屋に戻っていく。その姿を見送りながら、加州が言う。
「主、なんだか面倒なことになったね」
その言葉に、いつもと違う様子の膝丸に困惑しながら小さく頷いた。
がやがやとした喧騒と、賑やかな空気が周りを包み込んでいる。目の前に用意されている生ビールを手に取り、ごくりと飲むと、ぴりっとした刺激と苦みがのどを通り抜けていく。素直に美味しいと思った。隣で加州がサラダを、せっせと取り分けてくれていた。
夕方、急に宴会をすると言ったので、多少反対する者も出てくるかと思ったが、実際はそんなことはなかった。むしろみんな喜んでくれたようで、特にお酒が好きな刀たちからは、歓声が上がったほどだった。その様子に、ほっと胸をなでおろす。普段は最初の挨拶に顔を出すだけで、すぐに席を外していたのだった。だが今日は少しだけ、いつもより多くみんなと時間を過ごすと決めていた。
隣の加州が遠くにあって取りにくい料理を取り分けてくれたり、飲み物を注いでくれたりする。かいがいしく世話をしようとする彼に、「そんな接待みたいなことをしなくていいよ」と声を掛ける。空いたグラスに注ごうとしていたビールを取り上げて、逆に注いでやる。ビールはとてもよく冷えていて、瓶の表面に汗が浮かんでいた。お酒を受けながら、だって、と加州が言う。
「主とこうやって飲めるのが、楽しくて」
と、はにかんだ笑顔で言った。それを見て、自分の顔もほころぶ。
「加州は本当に可愛いねぇ」
思ったままを口にして、注ぎ終わったビールを机に置く。瓶が机にあたり、ごとりと重そうな音が鳴った。加州は嬉しそうに、切れ長の紅い目をすっと細める。そうしているうちに、違うテーブルから呼ばれたので、名残惜しく感じながら席を立った。
自身を呼んだのは、日本号や蜻蛉切、御手杵といった槍の集まりだった。並べられている一升瓶を見て、小さくひるんでしまう。この人たちはとてもお酒が強いから、相手のペースに合わせて飲んだら大変なことになる、と思って少し心を引きしめた。
どこに座ろうか視線を迷わせると、日本号が嬢ちゃんは隣に座りな、と自身の隣の座布団をポンポンと叩いて促す。素直に従って隣に腰を下ろした。日本号の手元に目を向けると、お猪口に日本酒が無かったので、日本酒の瓶を手に取り、どうぞと促した。
「お、嬢ちゃん気が利くなぁ」
と、日本号が言う。深くて渋い声だと思った。一升瓶を抱えて、固く締められている口を開ける。大きくて注ぎにくいと思ったが顔には出さなかった。小さなお猪口にこぼさない様に、静かに注いでいく。彼はその様子を、どこか嬉しそうに眺めていた。
ごくりと、動く喉元を見つめる。本当に美味しそうにお酒を飲む人だと思った。そういえば日本酒はお神酒として使われていたりもする。そんなことを考えていたら、パチリと目があって、日本号はにやりと口角をあげる。
「日本一の槍に見ほれたか?」
と、からかうように彼が言う。そうですね、と愛想笑いで返した。
「もっと近くで見るか」
言うが早いか、日本号は私の脇に手を入れ、体をひょいと持ち上げる。そのままの流れで、胡坐をかいた上に乗せられた。突然の事に慌てふためく。それにとても恥ずかしいと感じた。
「主ってふかふかだよなぁ」
机の向かいで御手杵がのんびり言う。その言葉に、どれどれ、と日本号が頬に触れてきた。ざらりとした男の人の手が頬をなぞる。彼は触れた途端、おぉと驚いた声を発した。そして、まるで餅みたいだなと感想を漏らしていた。その言葉を聞きながら、扱いが親戚のおじさんのようだと思った。そして完全に子ども扱いだとも。頬を撫でる手を遠ざけようとして、振れた感触に少し驚く。
「固い」
日本号の大きな手に触れたまま、自分とは全く違う手のひらを見つめた。ところどころに豆ができている。いつも重い槍を握っているからだろう。手のひらが厚くて、皮膚が固かった。指の節々に細かい傷がついている。こんな風になるまで戦ってくれていることに、畏怖と、感謝の気持ちが浮かんだ。
そのまま大きな手を、無言でふにふにと触っていた。しばしその様子を静かに眺めていた日本号がくくっと笑った。
「嬢ちゃん。そういうことすると、男は勘違いするぞ」
と、からかうように日本号が言った。その言葉に、羞恥で顔が赤くなる。少し無遠慮に触りすぎていたようだ。ごめんなさい、と小さく呟く。
顔を赤くしている私を見ながら、そういえば、と御手杵が言う。
「主は、膝丸と恋仲なのか?」
と、少しむっすりしながら聞いてきた。日本号と蜻蛉切りが、ちらとこちらを見る。
「全く、違います」
何人かの視線を感じながら、誤解なんですときっぱり否定する。その答えに、御手杵は、どこかほっとしたような顔をした。
しばらく、槍の人たちと日本酒を飲んでいたが、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。槍の三人衆に、一言お礼を言いつつ席を離れる。そのようにして、呼ばれた場所に行き、色々な刀剣と話をした。席からまた別の席へと蝶のように移動していく。
本丸の刀剣は、全振りはそろってはいないが数は多いほうだった。そして、個別で何となく仲の良いグループができているようだった。
席に着けばその都度、進められながらお酒を飲む。なので最後あたりは、どうしてもぐらぐらになってしまった。途中まで、どれくらい飲んだかカウントしていたのだが、だんだん分からなくなって数えるのを止めてしまった。
頭がぼんやりとして正常な判断ができない。顔も、いつもよりゆるんだ表情をしていると思う。さりげなく頬を触ってみたら、自身の手が冷たくて気持ちいいと感じるほど熱をもっていた。
時間が過ぎていき、お酒が入って来ると遠慮なく触れてくる刀剣もいた。その都度やんわり距離を置く。そこら辺のあしらい方は現世で自然に身に着けていた。先ほどから、だれかわからないが、後ろで私の髪の毛を触っていた。「主の髪きれー」と、高い声を背中で聞いて、それが乱だと分かった。無邪気に髪をいじっているのが短刀と知り、緊張していた体からふっと力が抜けた。乱は飽きもせずに髪の毛で三つ編みを作っているようだった。子どもみたい、と小さく笑う。もうだいぶ酔っていたので、そのままいじられるままにしていた。
瞬間、刺すような視線を感じ、はっとして周囲に意識を向ける。さりげなく視線の主を探したが、気配はすぐに消えてしまった。心の中に昼に聞いた御手杵の言葉が残っていた。もし、本当に私の元に御手杵を寄こしてきた刀がいるとしたら、それはこの宴会にも参加しているはずだった。
しばらく気を探ってみたが、とうとう視線の主はわからなかった。諦めて小さくため息をつく。ふと顔をあげると、遠くに薄緑色の後ろ姿が見えた。黒っぽい内番服をぼんやり眺める。薄緑色の髪の毛はまっすぐで、触るとサラサラとしていそうだ。髪の長さが全体的に短くて、てっぺんの髪が、ぴょこ、と跳ねている。前髪だけが長く、どこかアンバランスだと思った。が、その不均衡さが、膝丸本人を表しているようだとも思った。
膝丸は、何人かの刀剣男士に囲まれていて、かなりお酒を飲まされているようだった。グラスが無くなりそうになると、すかさず誰かがお酒を注いでいる。ふいに刀剣の一人が膝丸に耳打ちし、膝丸は否定するように首をぶんぶんと振った。その様子を見ながら、頭を振ると酔いが回るのに、と気の毒に思った。左右に揺れる長い前髪を見つめながら、もう自分はここらへんで部屋に戻ろう、とぼんやり思った。
お風呂上がりの体にクリームを塗りこみながら、今日は少し疲れたな、と思った。実際に宴会に参加したのは二時間ほどだったが、行く先々で気を使ったので、倍くらいの時間に感じた。ちら、と時計を見ると、時刻は二十二時を指していた。まだ宴会が続いているのだろう。遠くでがやがやした声と、時折大きな笑い声が聞こえた。喧騒を遠くに感じながら、まるでお祭りみたいだと思った。急に宴会にしたので明日は全員非番に変更してしまっていた。だから、みんな明日を気にせずに飲んでいるのだろうと思う。
保湿クリームをお風呂上がりの肌に塗りこんで、部屋の照明を消そうと腰を浮かせたとき、部屋に短刀が訪ねてきた。
「主君、よろしいでしょうか」
と、申し訳なさそうに前田藤四郎が襖越しに声を掛けてきた。今ちょうど寝る所です、と返したい気持ちをぐっとこらえて、どうぞ、と声を掛ける。襖が静かに開いて、おかっぱ頭の短刀が静かに入室する。視界の端で確認し座布団を用意した。
失礼します、と言いながら座布団に腰を下ろし、前田藤四郎が口を開いた。
「皆さん、少々羽目を外しすぎているようです」
と、言葉を選びながら伝えてくれる。私は言いたいことを理解し、あぁーと声を漏らす。
「主、一度大広間に来てもらえませんか?」
前田藤四郎が言った。とても困った様子で、お伺いしている。
「みんないい大人だから、ほっといてもいいのではないでしょうか」
私は、優しい声になるように気を付けて答える。本心は、めんどうくさいと思ったのだった。その言葉に、前田藤四郎が涙目になった。
「実は、いち兄も、つぶれてしまったのです」
私はとても驚いてしまった。彼らの兄刀は、何回か宴会をしたが一回も泥酔したことが無く、むしろ酔い潰れたものを介抱する役が多かった。大広間で何が起こっているのだろう、と心に心配が広がる。
少し迷ったが、一度様子を見に行くにした。目の前の涙目の前田に、薄く笑いかける。
「わかった。一緒に行ってくれる?」
と、小さくなっている短刀に聞く。彼は、ぱっと笑顔になり、もちろんですと答えた。
少々迷ったが、寝巻のままで向かうことにした。もう寝る寸前だったので、巫女服に着替える気にはとてもなれなった。
「……ひどい」
大広間に踏み込んだとたん、絶句した。半分くらいが畳の上にごろりと横になっていて、まるで屍のようになっていた。壁のほうを向いて背中をさすられている者も見える。目線を下に向けると、日本酒の空瓶がゴロゴロと転がっていた。さらに、誰かが酔って倒したグラスから、お酒が畳に流れているのが目に入る。頭がくらりとした。
「ほっといていいとか、無責任に言ってごめんね」
前を向きながら、隣にいる前田藤四郎に言う。彼は、主にご迷惑をおかけしてすみません、と本当に申し訳なさそうに言った。
前田と協力して、大広間を片付けることにした。
まず、転がっている人をどうにかしようと思った。だが、体躯のいい男性を何人も運ぶのは無理なので、大広間の端のほうに布団を敷いて寝かせておいた。もくもくと布団を並べていると、遠くで次郎太刀が、「主、寝巻可愛い~」とけらけら笑っているのが分かった。続けて自身を呼ぶ声が聞こえたが、冷たく無視をした。
屍になっている者たちを全員、布団に押し込んだら、次に荒れた大広間を簡単に片づけた。空になったお酒を端に寄せて汚れた机を布巾で拭く。一通り片づけて、ふと顔をあげる。さっきよりだいぶ綺麗になった。小さく満足する。残りは明日でいいだろう。大広間をぐるりと見まわして、こんな感じでいいかな、と前田藤四郎に聞く。
彼は、こちらが気の毒になるほど恐縮した様子で、何回もありがとうござますと頭を下げた。
「……今晩は」
控えめに声を掛けて、初期刀の隣に小さく体育座りをする。まっすぐに部屋に戻ろうと思ったが、加州を見つけたので少しだけお話してから帰ろうと思った。
加州は、おかえり~とよくわからない返事をした。かなり酔っているようだ。いま何時くらいなのだろうと疑問に思って、机の向かいの光忠に尋ねると、一時と答えが返ってきた。想像よりだいぶ時間がたっていて少し驚く。明日は何もしない日にしようと考えていると、加州が、ひしとしがみ付いてきた。
「ねぇ、主、俺ってかわいい?」
猫みたいに目を細めて加州が聞いてくる。
「うん。泥酔していても、とっても可愛い」
と、返すと、へへへと顔を緩めて笑った。素直に甘えてくる様子を見て、これは珍しいと思った。加州はプライドが高くて、めったに甘えてこない。抱き着いてくる少年の背中を、優しくなでる。加州は、猫だったらごろごろ喉を鳴らしているだろうな、という表情をしていた。
「あんた、そこらへんでやめとけよぉ」
ほど近い所から御手杵の声が聞こえて、顔をあげる。これも珍しい光景だ、と思った。
すぐ近くに膝丸と御手杵がいた。
膝丸は完全に酔っているようで、真下を向いて俯いている。御手杵が健気に呼びかけても一向に顔をあげない。御手杵が横から心配するように、大きな手で背中をさすっていた。昼間は今にも刀を抜きそうな空気の中、睨み合っていたというのに。いつの間に仲良くなったのだろう。
見かねて、大丈夫? と声を掛ける。御手杵はこちらを見ながら、ふるふると顔を振った。だめらしい。大広間に布団を敷いて良かったと思った。
「膝丸さん。大丈夫ですかー?」
と彼の隣に移動し、看護師さんが患者さんに呼びかけるみたいに声を掛けた。呼びかけに、ぴくり、と肩が反応する。そして、ゆっくり、本当にゆっくりと顔を上げた。
「……幻か?」
と、ぼんやりと視線をこちらに向けながら膝丸が言う。「もう休んだら?」と言うと、こくりと頷いた。「今日は大広間で寝る?」と再び聞くと小さく頭を振る。
「部屋に、もどる」
膝丸の言葉に、それがいいねと返す。まだ飲むと言われたらどうしようかと思った。
「じゃあ、御手杵。膝丸を部屋に運んでくれる?」
言うが早いか、手首を誰かにガッと掴まれた。突然のことにびっくりして慌てて目を向ける。手を掴んでいたのは膝丸だった。目をぎゅっと瞑り俯いている。
えっ、何。もしかして吐くの? と軽くパニックになりながら、とっさに近くにあったグラスを掴んだ。慌てふためいている私を見て、加州がげらげら笑う。
「主、そんなんじゃ、受け止めきれないよ」
ツボに入ったのか加州はずっと笑っている。笑ってないで助けてと思った。しかし机を叩きながら笑っている彼を見て、今の加州にそこまで求めるのは無理だと悟った。
いつの間にか光忠が水の入ったペットボトルを持って来て、隣に来てくれていた。その優しさに小さく感動する。
「主、申し訳ないけど、彼を部屋まで送ってくれないかな」
ペットボトルを差し出しながら、「僕は加州君を送っていくよ」と光忠が言う。さらに、主にこんな風に頼んで申し訳ないけど、と続ける。困ったように下がった眉を見ながら、確かに、この場で一番素面に近いのは私かもしれないと思った。冷えたお水を受け取りながら、小さく頷く。
襖を開けると一気に外の冷たい空気が流れ込んできた。入れ替わりに中の空気が押し出されていく気がする。廊下を一歩踏み出すと、足元から冷たさが伝わってきて、小さく身震いした。早く送り届けて自室の温かい布団で眠りたい。
今日は月があまり出ていないようで、廊下が夜の闇で満たされていた。長い廊下の先に目を向けると、暗く向こう側が見えなくなっている。まるでどこまでも廊下が続いているような、そんな錯覚に陥った。そして、知らない場所に来たような、心もとない気持ちに襲われる。
膝丸の部屋は大広間から離れたところにある。執務室と自室は、その正反対の所にあるので、帰りは散歩のようになってしまうなと心の中で思った。そして、こういう飲み会の時、自分よりさらに酔った人がいると、どこか酔いがさめてくるのはどうしてだろうとも思った。
不快とかではなくて、ただ疑問に感じた。考えながら、ふと横を見る。隣の男の足取りはふらふらで、全体的に体に力が入っていなかった。肩を貸して歩いていると、思いのほか遠慮なく体重をかけてくるので、歩みが自然と遅くなった。
やっとのことで部屋の前についた。襖をすっと開ける。畳の上に布団が敷かれていた。誰かが気を利かせて敷いていてくれたようだ。心の中で感謝して、ぐにゃぐにゃになっている膝丸を布団に寝かせる。寝かせるというより放ったというほうが正しいかもしれない。少々雑にしすぎたのか、ぐぐもった声で何か唸っていたけれど、何を言っているか分からなかった。もう半分夢の中に入っているのだろう。目がしっかり閉じられている。
服が窮屈そうに見えたので、シャツの襟もとを緩めておいた。時折、唸っているのを横目で見ながら、明日二日酔いじゃなければいいけど、と苦笑する。周りを見回して部屋を眺める。小さな机と何も生けられていない花瓶が一つあるだけで、ひどく無機質な部屋だ。だれも住んでいないと言われても納得してしまうほど、簡素だった。物をあまり持たない主義なのだろうか。それとも、すぐに飛び立てるように、物を持たないようにしているのだろうか。
少しの間、枕元でぼんやり座っていた。遠くで何かの野生動物の鳴き声が聞こえる。同じ仲間を呼んでいるのだろうか。どこか切ない鳴き声に聞こえた。その鳴き声をきっかけに、もう自室に帰ろうと思った。強い眠気を感じる。机の上に先程、光忠からもらったペットボトルを置いて――起きたときにすぐ飲めるように、比較的手に取りやすい場所に置きなおした。ふいに、ものすごい疲労感が体を襲った。纏わりつくような気怠さを感じながら、ゆっくりと腰を浮かす。その時、体が急にぐっと引っ張られるのを感じた。あ、と思った時には、目の前に男が居た。
背中に布団のふかふかとした柔らかさを感じた。ふわりと、持ち主のお香の香りが、淡く立ち上ってくる。開けたままの襖から、月明かりが柔らかく差し込んでいる。自分の状態を確認すると、引き倒されたままの勢いで布団に縫い付けられていた。両手首がしっかり握られていて、顔の横で固定されている。力を込めてみるが全くびくともしない。針で板に固定された、標本の蝶のようだと思った。そして、私を標本にしてしまった男に目を向けて、小さく目を開く。
膝丸は、私の上に覆いかぶさりながらじっと目を見つめていた。その目が、暗く冷たくて、まるでこの無機質な部屋のようだと思った。
「なぜ」
膝丸が口を開く。
「……なぜ」
つい、オウム返しをしてしまった。疑問符を浮かべながら次の言葉を待つ。
「そんなに、無防備なんだ」
と、膝丸が苦々しげに言う。確かにと心の中で呟く。無防備の結果、こんな状態になってしまっている。今日一番の反省点かもしれない。ごめんなさい、と小さく謝った。別に謝ってほしいわけじゃない、と膝丸は小さく頭をふる。
「他の者たちにいいように触られていた」
目を逸らしながら彼が言う。声に若干苛立ちが混じっていた。だってそれは、と頭の中で思う。お酒が入っているからしょうがないじゃないか、と。相手が限度を超えそうな場合は、ちゃんと予防線を張って距離をとった。それでも駄目なのだろうか。主としての在り方とか、そういう話をされるのかと思って、うんざりした。やっぱりこの人とは合わないかもしれない。小さくため息をつきながら、どこか投げやりな気持ちで虚空を見つめる。
「……俺は、こんなに、我慢しているのに」
上にいる膝丸が、どうして、と呟く。飽きずに虚空を見ていたが、予想外の言葉にちらりと目を向ける。
「他の者が気安く主に触れて、それに笑顔を向けているのを見ていると、邪悪な感情が、蛇のように腹の中をのた打ち回る。無性に苛立ちや焦燥感を感じる。どうして、俺じゃないんだと」
本当に苦しげな表情をしていた。
「日々、刀を振るい戦えるだけで良かった。主の事を遠くで眺めているだけで、見守っているだけでよかったのに。それが刀の俺の在り方だと思っていたのに。……今は、もっと近付きたい、触れたいと焦がれている」
とつとつと、膝丸が言葉を続ける。
「教えてくれ、主。内側から燃えてしまうような、この感情は何なんだ」
射抜くような目で、見つめながら聞かれる。困った、と思った。彼の独白を聞きながら、ある感情が頭に浮かんだ。急いでそれを打ち消す。それは人の面倒くさくも美しい感情だった。でも、目の前は刀の神様だ。人間の尺度で考えてはいけないと思って、無い頭をぐるぐると回転させた。そうしている間も膝丸は私の言葉を待っている。ふいに、一つの言葉が浮かんだ。
「……独占欲」
これだ! と思った。難しい数学の解を見つけたときのような、すっきりとした感覚が胸に広がる。怪訝な顔をしている膝丸に必死で説明する。
「あなたたちは、刀なので、使われたいという本能があります。中には、単に使われるだけでなく、自分が一番になりたいと願い、執着する者も多いそうです」
審神者の研修の時に言われたことを、そのままの言葉で伝える。自然に敬語になってしまったが気にせず続けた。その説明を聞いて膝丸は問いかける。
「では、本丸の者たちは皆このような感情を胸に抱いているのか?」
ここにいるのは全員刀だろう、と膝丸は呟く。
「ごめん。それはわからない……」
と答える。結局答えが見つからなくて、重苦しい沈黙が流れた。
沈黙に耐えかねて、小さく空いた襖から漏れる月明かりを眺めた。外から流れてくる夜の空気が、むき出しの脚を撫でていく。その冷たさに体が小さく震えた。もう十月も終わりそうなのに、まだ秋物の服を出していなかった。忙しさもあったのだが面倒と言う気持ちから先送りにしていた。自分の先延ばし癖に小さく反省する。
足元に視線を向けると、闇の中で白すぎる太ももがぼうっと浮かび上がっていた。見るからに寒そうで、思わず膝と膝をこすり合わせる。すると、何かが脚に当たった。当たったというより、ごく弱い力で、すり、と撫でてしまった。
その途端、覆いかぶさっている体がびくりと跳ねた。同時にぐぅと小さく呻き声が上がる。相手の急な動きにびっくりして声の主に目を向けた。膝丸は何かをこらえるように、きゅうと眉を潜めている。
「わざとか?」
と、恨めしげに膝丸が言った。一瞬、何を言われたのか分からなくて固まってしまう。慌ててさっきと同じように足元を見た。その瞬間、何に触れてしまったのか理解して顔がかっと熱くなる。立てていた膝をぴしゃりとまっすぐにした。
「事故です」
すぐさま弁解する。恥ずかしさに目をぎゅっとつぶった。ごめんなさい、と小さく口にする。もう部屋に戻りたいと心から思った。さっきの独白も、事故も、全部無かったことにして眠りの中に逃げてしまいたい。
「もう離して」
お願いだから、と目をつぶったまま哀願した。
「……嫌だと、言ったら」
本当に小さな声で、膝丸が答えた。困惑して薄く目を開ける。先ほどと変わらない距離に琥珀色の瞳があった。しかし、先ほどとは瞳の色が違っていた。熱を宿した薄くうるんだ瞳で、少しもそらさずにまっすぐ見つめて来ている。今まで見たこともない色で、瞳の奥がちらちら揺れている。男の人の目だと思った。
なりふり構ってはいられないと、思いっきり暴れた。両手に渾身の力を籠める。膝丸が少し顔をしかめ、浮かせていた腰を落としてきた。途端に成人男性の重さを感じる。両足でがっしり押さえつけられ、とうとう下半身も動かせなくなった。びくともしない体に絶望が襲ってくる。もう逃げられないと悟って全身の力が抜けてしまう。同時に腰のあたりに伝わる固さと、その熱さに身が震えたが、気付かないふりをした。膝丸は私の様子を気にもせずに、握っていた右手をおもむろに引っ張った。上にもち上げて、そのままの流れで自身の頬に当てる。相手の口から、ため息が漏れて――そのまま、すり、と手の甲に頬ずりをされた。ぞく、と背中に何かが走る。
「少しでも、男の色を見せたら」
手に唇を寄せながら、膝丸は続ける。
「君は、きっとすぐに離れていってしまうのだろうな」
膝丸は寂しそうに呟いた。その言葉に、心がぎゅうと縮んだ気がした。
心の中で、言われた言葉を咀嚼した。理解したいと思ったが、頭がうまく働かない。小さく手に力を込めて、そっと引き離す。相手の瞳に怯えの色が広がった。ぶたれるとでも思ったのだろうか。そんなことしないのに、とどこか可笑しく思う。固く目をつぶってしまった相手の長い前髪を見つめながら、大広間にいたとき浮かんだ考えが頭をよぎった。それに素直に従い、自身の手を薄緑色の頭にもっていく。そのまま、ぽん、と置いた。びくりと相手の体が震える。それには構わずに、優しく頭を撫でた。さらさらとも、つるつるともした感触が、手のひらに広がる。想像以上の滑らかさだった。
「……何をしている」
眉を寄せながら膝丸が聞く。その表情に小さく笑いながら、仕返し、と答える。
「やられっぱなしは癪だな、と思ったので」
少し楽しい気持ちになりながら、小さな子供にするように頭を撫でる。馴れ馴れしいと怒られるかなと思ったけれど、特に何も言われなかったので、そのまま続けた。指の間を髪の毛が通り過ぎていく。するするとした感触に気を良くして何回も梳いてしまう。
後頭部の短い髪の毛を手でもてあそびながら、言葉を紡いだ。
「……確かに、今日は色々な人に触れられました」
膝丸は、静かに耳を傾けてくれている。
「でも。今日、自分から誰かに触れたいと思って触れたのは、これが初めてです」
言葉がおかしいかなと思いながら、たどたどしく伝える。やっぱり自分の気持ちを伝えるのは苦手だと思った。言葉がもつれて上手く形にならない。私のつたない言葉を聞いて、膝丸は狡い、と小さく言葉を漏らす。
「そんなことを言われたら、もう何も言えないではないか」
じろりと軽く睨みながら言う。子供みたいな態度に小さく笑った。
しばらく、ゆったりとした動きで手を動かしていたら、膝丸の目がとろんとしてきた。そういえば、彼は今日、朝から遠征に行っていた。帰ってきてすぐ宴会だったから、全然休めていないだろう。きっとものすごく疲労しているはずだ。そう思い、目の前の男に声を掛ける。
「膝丸、もうそろそろ休もう」
離して、と声を掛ける。ずっと握られたままだった左手首に力を込めて伝える。その言葉に、目の前の男はゆるく目を開ける。
「……離れたくない」
小さく呟いて目を逸らす。それは困ったね、と他人事のように返した。こちらも今日は一日起きているので、疲れて頭が回らない。
「もう、ねむって」
と、半分やけくそになりながら、一度止めた右手を再開した。ゆったり頭を撫でていく。相手は強烈な眠気の波に呑まれている。あと少しで寝落ちしそうな雰囲気だった。私の作戦に気づいたのか、目を瞑りながら、うぅと小さく唸っている。
「眠りたく、ない、のに」
と、絞り出すように言っていたが、膝丸はとうとう眠気に負けてしまった。どんどん頭が下がってくる。ぽとり、と胸元に落ちてきた頭から、すぅすぅと安らかな寝息が聞こえてきた。やっと静かになった、と心から安堵して大きく息を吐く。
しばらく呆然と部屋の天井を見つめていた。いい加減重く感じて、部屋に戻ろうと思い立つ。上半身に力を込めた。が、体が動かなかった。汗がぶわっと吹きだす。また身動きができない。まるで振り出しに戻ってしまったような感覚に陥った。胸元から聞こえる、静かな寝息を聞きながら、こうなることを予想できなかった数分前の自分を呪った。
「刀って風邪引くんだ……」
ベッドサイドに座りつつ、呆然と独り言を言う。中の人物は布団を頭までかぶりながら、ずばない、とくぐもった声を出した。声のしたほうに視線を向ける。――多分、すまないと言ったのだろう。喉風邪だろうか。声がガラガラで可哀そう、と思った。緑色の前髪を避けつつ、ぺたりと額に手を当てながら、「無理してしゃべらなくていいよ」と小さく声を掛けた。
現世の自宅でいつも通り刀から人型に膝丸を戻した。ひらひらと桜が舞う――が、一目見て、様子がおかしいことに気づいた。いつもの凛とした姿が形を潜めて、心なしか背が丸まっている。そして顔が赤かった。いつも鋭い光をたたえた瞳が頼りなく潤んでおり、目の焦点が合っていない。思わず彼の手に触れたら、触れた部分がとても熱くて、うわっと小さく声を上げる。無理して姿勢を正そうとする男の肩を掴んでそのまま、ベッドの中に押し込んだ。
体温計で熱を測ったら、38度と表示されていた。
「熱が出てる」
体温計を手にして呆然と呟く。なんで刀なのに、と口の中で言う。
「俺は溶けるのか」
私の呟きを聞いて、膝丸は絶望的な表情をして言う。目に、みるみる水の幕が張っていくのが見えた。
「……たしか、鉄の融点って1500℃くらいだったと思うから、溶けないとは思う」
と、遠い昔に学校で習った知識を手繰りよせながら言葉を返す。膝丸はその言葉に少し安心したように小さくため息をついた。しかし、もちろん現世の病院に連れて行くことはできない。本丸の手入れ部屋に行けば治るのかもしれないが、残念なことに今日は平日だった。今から本丸に戻る時間は無い。最悪なことに、朝一から会議が入っている。
色々と思案していたら、膝丸が布団から顔を出して言った。
「……主は、会社へ行ってくれ」
と、小さく掠れた声で呟く。どうしよう、と思っていると、携帯電話のアラームが鳴った。家を出ないといけない時間に設定している警告音だった。その音を聞いて、膝丸は諦めたように、ごろりと壁のほうを向いてしまう。鳴りやまない音を聞きながら、ひたすらに途方に暮れた。
しばし悩んだが、結局会社に行くことにした。念のため、自分の連絡先を書いたメモを机の上に置いておく。後ろ髪をひかれる思いで、部屋を出た。
午前中の業務を終了した時点で、全く集中できていないことに気が付いた。無表情でパソコンと向かいあう。ほとんど睨み付けるように画面を見ていた。
作業をしていても、部屋に残してきた存在にどうしても意識が向いてしまう。集中しながら画面を見ても、文字が目の前を素通りしていく。内容が全く頭に入ってこない。膝丸は大丈夫だろうか、という言葉が頭の中をぐるぐる回っていた。
会議が終わった時点で、上司の元へ向かった。当日で申し訳ないが、早退したいと申し出る。理由は適当に取り繕い申請書を作った。普段の勤務態度が良かったのか、それとも有給を一度も使っていなかったからか、上司は一つ返事で了承してくれた。判子の押された申請書を受け取りながら、できる仕事は家でやろうと思い、必要な資料を急いでカバンに突っ込んだ。足早にフロアを後にする。
自宅の扉を勢いよく開けたら、赤い顔をしたまま刀に手をかけた状態の膝丸に迎えられた。今にも抜刀しそうな姿に驚きながら、「ただいま」と言う。それに対して膝丸は「あ、あぁ」とよくわからない返事をした。どこか幻を見ているかのような表情をしている。扉に鍵とチェーンを掛けながら、なんで刀を持っているの? と聞く。
「敵襲かと思った」
と、膝丸が本当に気まずそうに言う。
「……主が早く帰ってくるはずがない、と思っていたから」
心底申し訳なさそうに膝丸が言葉を続ける。その言葉を聞いて私はむくれた顔をした。どんなに冷たい人間だと思われていたのか、と思う。せっかく早く帰ってきたのに、と不満を口にした私に、膝丸は情けなく眉を下げた。
膝丸の手を引いて部屋に戻る。手のひらは相変わらず熱かった。背中を支えながら横たわらせると、触れた部分がじっとりと湿っているのに気付いた。思わず、寝汗、と呟く。その言葉に膝丸が小さく頷く。寝ているうちに汗をかいていたらしい。しばし沈黙しつつ、服のしっとりした感触に小さく眉間に皺を寄せる。膝丸から今日何回目かわからない謝罪を口にされた。本人も寝汗は不快だろうし、実は――私は潔癖症な所がある。電車のつり革には触れないし、帰ったら必ず石鹸で手を洗わないと何となく気持ち悪い。風邪をひいている人に対してばい菌扱いしているみたいで申し訳ない、と思いつつ遠慮がちに声を掛ける。
「せっかく寝てもらった所、本当に申し訳ないのだけど……体を拭いてもいい?」
と、遠慮がちに聞く。それに、膝丸は少し顔を赤くしながら、了承した。
固く絞ったタオルで上半身から拭いていく。まず首元を拭いた。汗を全部ふき取るような心意気で、滑らかな肌に手を滑らせた。固く絞ったタオルを首元に当てたとき、体がぴくりと反応した。その反応をさりげなく目で追う。少しでも嫌そうだったら、すぐに辞めようと思っていた。
まず手首を持って、手首から腕に向かってタオルで拭く。青い血管が見えて不思議な気持ちになった。まるで、本当に人みたいな形をしている。時々、刀だということを忘れそうになってしまう。
思いを巡らせつつも、指の間やひじの内側にも同じようにタオルを滑らせた。わきの下を拭くと、くすぐったいのか小さく身を捩っていた。はた目から見ても、自分は献身的に拭いているかのように映っているだろうなと人ごとのように思う。これは膝丸の為と言うより、むしろ自分の為だった。今ちゃんと拭いておかないと、明日にでも、他人の汗がついた布団を丸洗いしたくなってしまう。潔癖症でごめんと心の中で深く謝罪する。
そんな私の考えなど露ほども知らずに、膝丸は気持ちよさそうに目を細めていた。鎖骨から胸部にかけて円を描くように拭いて行くと、さっきまでとは一転して、膝丸は何かをこらえるようにぎゅっと目を閉じる。その反応に不安になり、固まってしまった相手に声を掛けた。
「……触られるの、嫌だよね」
やっぱり辞めようとタオルを近くに置いた桶に入れながら、呟く。熱いお湯の中で、お湯を吸った布がじんわりと広がっていくのが見えた。別に、布団なんてコインランドリーで洗えばいいのだし、と心の中で結論付けた。私の呟いた言葉に、慌てたように膝丸が顔を上げる。
「持ち主に触れられて、不快に思う刀などいない!」
と、風邪声のまま必死な様子で言った。恥ずかしそうに、構わず続けてくれと呟く。その言葉に、若干の気まずさを感じながら、嫌だったら遠慮なく言ってねと念を押す。
タオルを再度固く絞り、熱すぎないか自分自身の腕の内側に押し付けて確認する。特に問題無い温度だったので、作業を再開した。腕の次はお腹だった。おへそのあたりから、丸く円を描くように拭いて行く、途端に小さく笑い声を上げられた。
「……く、くすぐったい」
普段人に触れられる場所じゃないからか、堪えきれずに笑い声が漏れていた。触れるたびにいちいち反応を示すから、全体的に肌が敏感なのかもしれない。私は「我慢して」と非情なことを言う。膝丸はショックを受けた顔をしていたが、そのまま動かす手を止めることはしなかった。
途中で、背中を拭くためベッドに体を乗り上げた。二人分の重量にギシッとスプリングが鳴る。すかさず膝丸が、ぎょっとしたように身を仰け反らせた。その大げさに避けるような態度に少々傷つきながら、
「……そんなふうに逃げられたら、背中拭けないんですけど」
と、伝える。少し拗ねたような声色になってしまった。
「あ、あぁ。それもそうだな」
と、膝丸が答える。顔がゆでだこみたいになっていた。
すっかり気持ちが萎えてしまったが、布団のために完遂しないといけない。膝丸の後へ移動する。相手の左肩に手を置きながら、腰から背中にかけて軽く力を入れて拭いて行った。背中は一番汗をかいていた場所だ、と思い出しながら、ひたすら手を動かした。一人用のベッドが狭くて、拭くときに少し体が近くなってしまうが、そんなことは気にならなかった。先ほど触れた服のしっとりと感触を打ち消すために、手元に神経を集中させる。されるがままの膝丸だったが、背中に時間をかけすぎたのか、だんだん不振がっている空気が伝わってきた。
「……主、長すぎないか?」
と、訝しげに声を掛けられて、背中はここまでかと諦めて手を止めた。改めて横に移動する。膝丸の目を見つめながら、先ほどまで頭に浮かんだ考えを言うべきか、思案する。悩んでいる私に、膝丸が心配そうに、どうしたと顔を覗き込んでくる。
その目を見ながら小さく決意をして、言葉を紡いだ。
「……下も、拭いていいですか」
と、言いながら、潔癖症でごめんと何回目かわからない謝罪を心の中でした。膝丸はその言葉を聞いた瞬間、ひどく狼狽していた。それもそうだろうと思いつつ、手入れで他の刀の体を幾度となく見ているので、多めに見てくれないかなと淡い期待を抱く。
膝丸はしばらく何か考えていた様子だったが、遂に心を決めたようで、いつものきりっとした表情で頷いてくれた。彼の優しさに涙が滲む。ありがとうと小さく呟く。その言葉に後押しされたのか、膝丸が、着ていたスウェットの腰の部分に手をかけ、するりと脱いだ。そのままパサリと床に置く。続けて流れるような動きで下着にまで手をかけだしたので、慌てて手を押さえて止める。
「そ、そこは脱がなくていいから!」
顔に一気に熱があつまるのを感じながら、慌てて言う。恥ずかしくて顔が見れないと思った。
「す、すまない!」
膝丸は慌てて下着から手を離す。羞恥している雰囲気が伝わってきた。
今のやり取りは無かったことにして、下半身を拭くために片足を軽く折り曲げる。足首から、太ももにかけてタオルを滑らせる。時折、体がびくりと震えていた。かかとや、くるぶし、指の間まで念入りに拭いていく。また、先ほどの、びしゃびしゃの寝汗のイメージが頭に浮かんできてしまい、それを追い出すようにひたむきに手を動かした。
とりあえず、全体的に拭き終わり、小さく息を吐く。なにか大きな仕事をやり切った後のような、達成感を感じた。膝丸をふと見ると、多幸感に包まれているような表情をしている。
肌を濡らしてしまったので、仕上げに保湿しよう、と思いクリームを手に取る。冷たく感じないように、手のひらでゆるく温めた。またベッドに乗り上げ、近くにぺたりと腰を下ろす。膝丸のしっかりと筋肉のついている右手を持ち上げて、腕にクリームを塗った。するり、と液体が肌の上で伸びていく感触がする。瞬間、相手の体がびくりと跳ねた。
「あ、主! 何をしているのだ!」
こちらが可哀そうになるくらい慌てふためきながら、膝丸が声を上げる。一度手を止めて、近くにある琥珀色の瞳を見つめた。
「……保湿?」
と、少々疑問形になりながら答える。「それは見ればわかる……」と言いながら下を向いてしまった相手に、「塗られるのは嫌?」と不安げに尋ねる。その言葉に、膝丸はキッと顔を上げる。
「嫌ではない。嫌ではないが……」
色々と困るのだ、と本当に困ったように言う。「それは、大変だね」と適当に返しながら動きを再開した。途端に相手が、ぎゅうと目を瞑る。時々、うぅ、とかあぁ、とか呻いている声が耳に届いたが全て無視をした。さっきから、とめどなく桜の花びらが舞っているから多分喜んでいるのだろうと思う。こういう時、桜の花びらで感情が見えるのはとても便利だと感じた。
下半身にもクリームを塗りながら、ついでのように脚をマッサージした。足首から、ふくらはぎにかけてゆっくり指圧していく。足の疲れをとるように、ゆっくり指に力を込め、そして緩める。時間が経つにつれて、相手の体がどんどん弛緩していくのを気配で感じた。ちらりと顔を盗み見ると、ひどく緩んだ表情をしていて、小さく満足する。マッサージは、私の特技だった。日頃の感謝を込めて、黙々と手を動かしていく。
最後にぽん、と太ももを優しく叩いて、終わったよと声を掛ける。膝丸は、意識がどこかに飛んでしまったような、そんな表情をしていた。普段の膝丸からは想像できない、ふわふわとした様子に、この人大丈夫だろうかと不安が心に沸き起こる。
膝丸、と呼びかけながら、軽く体を揺さぶる。意識がやっと戻ってきたようで、はっとしたように此方を向く。そして小さく、「ありがとう」と呟く。
なんだか二人ともどっと疲れてしまったので、少し仮眠をとることにした。少し眠ってから、ご飯を作って、持ち帰った仕事をしようとぼんやり考える。
膝丸をベッドに寝かしつけ、自分は倒れるようにカーペットに、ごろんと横になった。白いふかふかの毛が頬にあたる。ほかほかして気持ちがいい。同じようにふかふかのブランケッドを手元に手繰り寄せ、自分の肩に雑にかけると、後ろから焦ったような声が聞こえた。
「主、俺を刀に戻してくれ」
その言葉に、ふるふると頭を振って拒否をした。
「いいから、いいから。今日は、そのまま寝ていて」
振り返らずに声を掛ける。何となく弱っている人を刀に戻すのは嫌だなと感じていた。横になっていると途端に眠気が襲ってきて、うとうとしてしまう。なお、ぶちぶち言っているのが後ろから聞こえてきたので、少々面倒に感じながら上半身を起こした。何か言いたそうな瞳と目が合った。なあに、と目で尋ねる。しばし視線を揺らめかせながら、膝丸がぽつりと呟く。
「良かったら、一緒に寝ないか」
言った瞬間、どんどん顔が赤くなっていく。ぼんやりと色が変わるのを見ながら、熱のせいか、それ以外のせいか判別が難しいと思った。そして慣れない人の身で熱を出して、心細いのかもしれないとも思い立つ。どうしようと一人で悩んでいると、膝丸が少し焦ったように言葉を続けた。
「ただ、横で寝てくれるだけでいい」
耳まで赤くしている膝丸を見つめながら、
「……変なこと、しない?」
と、おずおずと私が聞いた。一応、相手は男の形をしている。そして、なんとなく無かったことになっているが、先日の宴会後のやり取りが頭に浮かんだのだった。
私の言葉に、膝丸は勢いよく顔を上げる。
「源氏の名に誓って、無体は働かないと誓おう」
その真剣な様子に安心する。彼の言葉に嘘が無いことが伝わってきたからだ。じゃあ、と言いつつ、ゆっくり立ちあがる。布団の端を持ち上げて、するりと隣にすべりこんだ。息を飲む音が聞こえる。自分で誘ってきたくせに、とどこか呆れてしまう。
しばらく黙って向かい合っていたがすぐに眠気が襲ってきた。静かに目を閉じる。すると、遠慮がちに手が伸びてきて、お腹の辺りに手が置かれる。少し迷っていたようだが、静かに腰に腕を回された。そのままぐっと力強く引き寄せられる。それに起きて、ぱちりと目をあけた。
「……変なことは、しないんじゃなかったの」
刀に戻してやろうか、と思いながら、目の前の男に呟く。途端に狼狽えた雰囲気が伝わってきた。
「俺が触れるのは、駄目なのか」
さっきまで、主は俺に好き勝手触れていたのにと悲しそうに嘆かれて、確かにと肩をすくめる。
「じゃあ、これでおあいこだね」
と言うと、膝丸はほっとしたようにため息を吐く。そして、腕の拘束が強くなった。ついでのように脚を絡めてくる。
相手の胸元に自分の頭を押し付けている為、とくとくとく、と鼓動が耳に響いてきた。その命のリズムを聞きながら、だんだん安らかな気持ちになる。その時頭上で、風邪になるのもたまにはいいかもしれないな……としみじみ呟く声が聞こえて、おいと突っ込みを入れたくなる。しかし実際に声にすることはできなかった。意識が眠りの底に沈んでいく。今日は疲れた、と心の中で呟く。そのまま深い眠りに落ちていくのを感じた。
膝丸が瞼に唇を寄せながら、小さく呟いた言葉は、腕の中で無防備に眠る私に届くことは無かった。