潮騒_01 - 1/2

空に大きな月が、顔をのぞかせている。

今日はとてもきれいな満月だったので、仕事が終わった後に月を見ながらお酒を飲むことにした。お酒は以前購入していた日本酒で、辛口のきりっとした後味が美味しい。お酒は、いい気分の時に飲むようにしている。気分が沈んだ時に飲むとお酒に依存しやすいと以前読んだ本に書いてあったからだ。
時計をふと見ると、あともう少しで、日付が変わる時刻だった。仕事を切りのいいところまで終わらせてから飲もうと思っていたので、こんな時間になってしまった。思ったより時間が経っていたため、小さく顔をしかめる。明日は休みなので、深夜にお酒を飲もうとしていること自体は気にならなかった。逆に、この時間はほとんどの者たちが寝ている為、本丸の中は静かで、その静けさが心地よかった。まるで、海の底に沈んでいるようだった。

執務室の障子を音が出ないように慎重に開けて、縁側に立つ。冷たい床の上に一人分のお猪口と、日本酒を並べ、少し寒かったのでひざ掛けも用意した。縁側の端に座って、足を投げ出す。そのまま足をぶらぶらとさせてみた。普段、他の人の前ではこのようなだらけた姿勢でいることは少ないが、今は一人の時間だからいいのだ。
自分の私室は、刀たちの部屋から少々離れていたので、たまたま誰かが通りかかることもないだろう。
そう思っていたのだが。
「……主?」
少し離れたところから声を掛けられて、心の底から驚いてしまった。こんな時間に誰だろう、と暗闇に目を凝らす。月明かりに照らされて暗闇から一歩踏み出してきたのは、最近顕現した刀だった。
「……膝丸」
そこにいたのは、薄緑色の髪の毛と前髪が特徴的な、一振りの刀だった。もう寝る所だったのだろう。黒っぽい寝巻を着ている。暗闇に佇む姿を見て、ぼんやりと、夜が似合う人だなと思った。
「月見酒か」
膝丸が、縁側に用意された日本酒を見ながら言った。
「そうだよ。今日は満月が綺麗だったから。膝丸はどうしたの?」
こんな離れに、と疑問に感じたが、直接的な言葉は言わずにおいた。
「眠れなくてな。庭を散歩していた。そうしたら、主が見えたので声を掛けてみた」
失礼だっただろうか、と言葉を続ける。不安に感じているのだろう。少し瞳が揺らいでいる。男の問いに、大丈夫だよと返事を返した。続けて、人の体には慣れたかとか、何か不満なことはないかとか、当たり障りのない話をする。
「……主さえよければ、隣に座ってもいいだろうか?」
立ったまま話していた膝丸だったが、おずおずというように聞いてきた。内心、まいったな、と思った。私はこの膝丸という刀が苦手だった。
初めてその姿を見たとき、源氏の重宝と言われる刀だけあって、厳格な刀だと思った。本当に持ち主にふさわしい人間か見定められているようで、切れ長の目が苦手だった。自分は元々、刀を物として見ている部分があるので、早々に別の者に教育係を任せていた。ほとんど会話もしたことが無かった為、まともに話すのは今日が初めてだった。
相手のお伺いに、適当な断り文句も浮かばずに、流されるまま、どうぞと返す。瞬間、膝丸はほっとした表情を見せた。自分だけお酒を飲むわけにいかないので、もう一つお猪口を持ってこようと腰を浮かすと、膝丸は自分が持ってくると、足早に厨に行ってしまった。

戻ってきた膝丸の手には、お猪口と簡単なおつまみがあった。気が利くな、と感心する。小さく乾杯をして、お酒を口に含む。日本酒もおつまみも美味しかった。
私は本来、あまり親しくない人と飲むのは苦手だ。緊張していたためか、いつもより少し早いペースで飲んでしまった。ふわふわした思考でいると、横で静かに飲んでいた膝丸が口を開いた。
「……ずっと、主と話をしたいと思っていた」
思わず膝丸の顔を見ると、少し顔が赤くなっている。彼もやはり緊張していたのか、いつもより早く酒が回っているようだった。
「ここに呼ばれてから、主と話す機会がほとんど無かった。正直、避けられているとも感じた」
前を向いたまま遠くを見つめる顔からは、何の表情も読み取れなかった。こちらの萎縮している気持ちを気付かれてしまっていたのかもしれない、と少し罪悪感を覚えた。相手の言葉に、そんなことないよと一応否定をしたが、そんな取り繕う気持ちも伝わっているのだろうと思う。
刀で物のはずなのに、自分が避けられているかどうかなんて気にするのが不思議だとも感じた。――その繊細な感情はまるで、人間のようだと思う。
妙な空気を変えたくて、まだ顕現できていない、彼の兄の話を振ってみた。途端に、顔色がぱっと明るくなる。この膝丸という刀は総じてブラコン気質なところがある。
兄者が兄者が、と話す彼の話を、うんうん、と聞いてみる。頷きながら、こんな優しい表情もできるのだなと思った。
話を聞いているうちに存外時間が経っていたようで、だんだん眠くなってきた。隣の刀を見てみると、彼も最初より目がとろんとしていた。頃合いをみて、そろそろ寝よう、と声を掛けると、名残惜しそうな様子だったが頷いてくれた。帰り間際に膝丸が振り返りつつ口を開ける。
「また、今日のように、話せるだろうか」
肯定の意味で頷くと、途端に嬉しそうな顔を見せた。暗闇に消えていく背中を眺めながら、彼と飲むのも楽しい時間だったと思う。
頭上では、月が輝いていた。

朝。雀の声が聞こえる。
今日は休みだったので、お昼くらいまで眠ることにした。みんなは、大広間にそろって朝ご飯を食べている頃だろう。最初の頃は、伊達の刀によく朝食に誘われたが、その都度丁寧に断っているうちに誘われなくなった。
普段は現世で社会人として働いているため、本丸にいる日数のほうが少ないのだった。なので、なるべく自分がいなくても問題の無いように本丸を運営している。今日もお昼から現世に戻る予定だった。
最初はダブルワークのような形で、体力的にとても大変だった。一時期は過労死するかとも思ったが、最近は上手く休むことも覚え、以前より楽になった。納期が重なると徹夜などもあるが、それは仕方がないと諦めていた。
深夜までパソコンに向かっている姿を見ているせいか、朝に無理に起こしてくる者も居ない。その気遣いがありがたかった。昼までたっぷり寝ていたから、頭はぼんやりしていたが、体はすっきりしていた。軽く化粧をして、出かける準備をしよう、と思っているうちに部屋に初期刀が訪ねてきた。
「あるじー。起きた?」
換気のために少し開けた襖から、ひょっこりと顔を出したのは、初期刀の加州清光だった。彼は黒髪の少年のような姿で、自分がいかに愛されているかということに重きを置き、いつも完璧にネイルをしている。
「もう現世に戻るの?」
洋服に着替えている私を見ながら、寂しそうに聞いてきた加州を見て、少し後ろ髪をひかれる思いがした。が、きっぱりと首を縦に振る。加州は、準備を手伝ってくれて、さらに本丸を出るまで荷物を持ってくれた。加州はいつも重い荷物を文句も言わずに持ってくれる。とても優しい刀なのだ。
談笑しながらゲートまでの道を歩く。加州と話していると、離れたゲートまでの道もあっという間に感じる。現世の自宅近くの座標を打ち込み、じゃあまたね、と手を振りあって別れた。

少しの浮遊感の後、目を開けると自宅近くの路地にいた。路地から抜けて、人の流れに乗る。マンションに着くと、エレベーターに乗り、自室の階を押した。部屋に入り床に荷物を置くと、どっと疲れが出てきた。とりあえず荷物を解いて軽くシャワーを浴びる。そのままベッドに倒れこんだ。
柔らかな布団に埋もれながら、昨晩一緒に酒を飲み、また話せるかと聞いてきた刀の顔を思い出した。瞼の裏に黄色い月が浮かぶ。またあのようにゆっくり話すのは難しいだろう、とほんやり思った。普段、会社員として生活している上、本丸に行くのは週二回程度だった。近侍は大体、加州や光忠、他の何振りかに任せているし、眠れるときは夜は早めに寝ている。昨日のような夜はイレギュラーなのだ。
そこまで考えて、できない約束をしてしまったことに、少し申し訳ない気持ちが胸に広がった。せめて兄刀を早く迎えられるように鍛刀を頑張ろう、と心に決めた。

普段は、大きくも小さくもない会社でエンジニアの仕事をしている。忙しい日がほとんどだが、今日は残業の無い日だった。
定時に仕事が終わり、家に帰った後、仕事で分からないことがあったのでそれについての勉強をしていたら、インターホンが鳴った。こんな時間に誰だろう、と思いつつ画面に表示された人物を見て、愕然とした。
扉を開けると、膝丸が立っていた。戦装束姿の男と、その向こうにわずかに見える東京の夜景が、やけにちぐはぐに目に映る。無言で見つめあっていると、中に入っていいだろうか、と遠慮がちに聞かれた。困惑しながらも家の中に入れる。
ローテーブルを挟んで、正座で向かい合う。
「……ここまでどうやって来たの?」
若干声に怒気が含まれてしまうが、仕方ないだろうと思った。
「こんのすけに座標を教えてもらった。以前から、思っていたのだ。護衛を付けずに現世で生活するのは安全性に欠けると」
だから護衛のためにわざわざ来た、ということのようだ。少し頭が痛くなるのを感じた。
「現世では、戦場みたいな危険はないんだよ。それにもし何かあったら、本丸から助けてもらえるようになっているし」
「何かあってからでは遅い」
かぶせ気味に言われて、思わず閉口してしまう。
なんとか本丸に戻ってもらおうと説得を試みたが、彼は自分の意見を変える気は無いようだった。困り果てて、とうとうこんのすけに助けを求めた。
「ちょっとこんのすけ! どういうことか説明して!」
つい感情的になってしまう。こんのすけは申し訳なさそうに答えた。――毎日、膝丸から言われるうちに根負けして、とうとう家を教えてしまったとのことだった。しかし、こんのすけ自身も、護衛を付けるべきという膝丸の言葉に一理あると考えた上でのようだ。さらにお試しで1か月程度、暮らしてみては、とのんきに言われて、呆れてしまう。
「でも、名前はどうするの? 知られては大変だよ」
当然、現世にいる間は名前を呼ばれることもあるし、郵便物などで名前が分かってしまうリスクがある。人の形をしていても彼らは神なので、名前を知られるのはリスクがある。現世の家を今まで誰にも教えなかったのも、それが一番の理由だった。
こんのすけによると、膝丸に名前が分からないよう術をかければいいとのことだった。それを聞いて、向かいの男を見やる。何の表情も読みとれなかった。綺麗に正座している無表情の男を見ていたら、なんだか酷く疲れを感じて、小さくため息を吐いてしまう。男の肩がびくりと揺れた。瞳に僅かに怯えの色が見える。
「……俺が来たことは、迷惑だったようだな」
「かなりね」
正直に答えると、彼は目に見えて落ち込んでいる。その様子を見て、本丸に帰ってくれるかと再度聞いてみたが、答えはやっぱり否だった。
案外、膝丸は頑固な性格のようだった。それから暫く押し問答を続けていたが、ついに根負けした。
「じゃあ、一か月、お試しで護衛とやらをお願いしてみてもいいかな」
と言うと、途端に安心したような表情を見せた。
でも、くぎを刺すように言葉を続ける。
「一か月過ごしてみて、現世が安全ということが分かったら、本丸に戻って」
そして、二度とこういうことはしないで、と続ける。
「…………わかった」
かなり間があったが、渋々といった感じで了承してくれた。
ひとまず、それで話がまとまったので、こんのすけとはいったん通信を切って、再度膝丸と向かい合う。
「じぁあ、申し訳ないけど、いまから名前が分からなくなる術を掛けるね」
そう前置きして、向かい合ったまま膝丸との距離を詰めた。お互いの膝が触れるような距離感に、膝丸が緊張で体を硬くする。視線があっちこっちに移り、動揺が伝わってくる。それには構わずに相手の頬を両手で包むように触れると、体が大きく跳ねた。そのまま両手を後ろのほうへずらして、両耳を覆った。膝丸の耳をしっかりと塞ぐ。そして自分の額と膝丸の額を合わせ、名前が分からなくなるように強く念じた。次に念のため、視覚からもわからなくなるよう、膝丸の目を左手で覆い、同じように術をかけた。
一度離れ、終わったよと声をかけると、膝丸は放心状態だった。何か失敗したのだろうか。不安になり、大丈夫?と声を掛けると、掠れた声で大丈夫だと返ってきた。
ふと、時計を見ると、二十二時を過ぎていた。案外時間が経っていたようだ。家の中を簡単に案内をして、お茶を入れて一息つく。
お茶を飲んでリラックスした雰囲気になったのだが、私はあることを思い出し、あ、と声をあげた。
どうした、と穏やかに聞いてくる膝丸に、心底困った顔で告げる。
「寝る所、一つしかないや」
それを聞いた途端、膝丸は真っ赤になって、それは、と呟く。
あたふたしている膝丸を見ながら、これから色々どうしよう……と思わず頭を抱えた。

朝、目覚ましの音で目を覚ました。眠りが足りなくて、もっと寝ていたいと思う。カーテンから日差しが差し込む。眩しさに目を細めた。埃が日の光に反射してキラキラ光っている。どうしても、もう少しベッドの中に居たくて、寝返りをうつ。すると、黒い刀が視界に広がった。

一気に、昨日の出来事を思い出した。昨日の夜、急に現世の自宅に膝丸が来たのだ。
都会のマンションは家賃が高く、比較的家賃の低いワンルームに住んでいた。ベッドもシングルサイズを一つしか置けないような小さな部屋だが一人暮らしなので十分だと思っていたし、特に不満も無かった。しかし、膝丸と暮らすとなると寝る場所に困る。思案したのち、寝る時だけ刀に戻ってもらうことにした。

膝丸からは床に置いてもらって構わないと言われていたが、何となく神様を床に置くのは気が引けた。それに、床の汚れも気になる。もちろん刀掛けなんて物は部屋に無い。一度ローテーブルの上などに置いてみたが、見るからに安定感が無く、何かの拍子に落ちてしまうと申し訳ないと思った。
やや迷ったが、布団の上、自分の隣に置くことにした。一瞬、添い寝の図が浮かんだが今は刀の形だから問題ないだろう。頭を小さく振って変なイメージを打ち消す。昔の人は寝床に刀を置いたともいう。まあいいか、元々、物だしとも思い、一人で頷いた。そうこうしているうちに眠気が襲ってきたので、もう寝ようと体を伸ばす。
布団をめくり刀の状態の膝丸をそっと壁際に横たえる。隣に入り込み、頭から布団をかぶった。この間布団を天日干ししたのでお日様のいい匂いがする。横たわる膝丸の黒い柄と、鍔をぼんやり眺める。鍔の金色の細工が美しいと思い、好奇心のまま、そっと指でなぞった。鉄の冷たさが指先に伝わる。聞こえていないと思うが、おやすみ、と挨拶して重い瞼を閉じる。今日はボリュームのある一日だった、と思いながら意識が沈んでいくのに身を任せた。

そこまで思い出したところで、改めて時計を見ると、家を出る時間が迫っていた。途端に血の気が引いて、がばり、とベッドから飛び起きる。急いで歯磨きをして、化粧をしていく。電車の時間が迫っているから、朝ご飯は抜くことにした。もともと朝は食欲が無い。着替えの段階で、ふと物言わぬ刀を見る。少々迷ったが、パジャマを脱ぎ捨て、出勤用の服を着ていく。人の形をした膝丸の前では、絶対に着替えることなどできないが、今は刀の状態だ。若干視線を感じたが、気のせいだろう。
乗らなければいけない電車の時間がどんどん迫っている。これは走らないといけないかもしれない。本当だったら、朝一番に膝丸を人型に戻してやる約束だったが仕方ない。心の中でごめんと謝り、床に置かれているカバンを掴みながら慌ただしく外に出た。今日帰ってから、改めて謝ろう。

結局、会社には五分遅刻してしまった。上司に平謝りしていると、珍しいねと笑って許してくれた。そのまま業務を行い、定時で仕事を終えた。帰りにスーパーで夕ご飯の材料を買った。つい普段どおり一人分の材料を手に取ってしまって、慌てて二人分の量を買う。

ただいま、と口の中で言い電気をつけると、朝の状態のまま布団の上に刀が横たわっていた。床にカバンと、スーパーで買ってきた材料を置いて、ベッドの上に放置されていた膝丸を手に取る。集中して念を込めると、目の前を桜の花びらがひらひらと舞い、膝丸が姿を現した。眉間にものすごく皺が寄っている。明らかに不機嫌です、という表情に、苦笑いを浮かべた。
「……話が違う」
膝丸が責めてきた。確かに朝には人型に戻す約束だった。申し訳なく思い、全力で謝ったが、なかなか機嫌が戻らないようだった。そのまま、朝は余裕をもって起きるように、などと、お母さんのようなことを言われる。私の苦手な威圧感のある膝丸の態度に、少し身を怯ませた。
そんな私の様子にはっとして、膝丸は言い過ぎたか、という顔をした。ごめんね、と何回言ったか分からない言葉を繰り返すと、もういい、と言ってくれた。どうやら許してくれたようだ。
やや下を向いた膝丸が、置いて行かれたかと思ったのだ、とぽつりとこぼした。しかし私は、彼の声が小さくて、よく聞こえなかった。なに? と聞き返すと、慌てて、なんでもないと複雑そうな表情を浮かべた。
また少しして膝丸が何かを思い出したようで、顔を赤くする。そのまま、言いにくいのだが……と言葉を続ける。
「主は、女性なのだから、もっと慎みを持ったほうがいい」
う、まだ説教が続いていたのか、と内心辟易する。もう先ほどのやりとりで機嫌をなおしてくれたかと思っていた。確かに今朝は時間が無かったので、髪の毛も、化粧もいつもより丁寧にできなかったし、寝癖も取り切れなかった。アイメイクは適当にしたし、髪の毛はひとくくりにまとめていた。
でも、そこまで言われるのは――少し鬱陶しい。普段はこんなではないのだ。元々の原因は昨日急に来た、目の前の男のせいだと言う気持ちがふつふつ沸いてきた。そこまで考えて、思っていることが表情に出ていたのだろう。膝丸が私を見て慌てる。
「誤解だ! 俺は何も見ていないぞ!」
膝丸が顔を真っ赤にしながら、必死に弁解している。手を握ったり閉じたり、顔もさっきより赤い。見るって何を? なんの話をしているのだろう、と疑問に思ったが、これ以上説教されたくなかったので、深く追求しないことにした。

ひどくお腹がすいてしまっていたので、挙動不審な膝丸をそのままリビングに残し、そっとキッチンに向かう。調理器具を準備していると、後ろに膝丸が立っていた。
「何か手伝おう」
と、気を遣って声を掛けてくれる。良かった、いつもの膝丸に戻ったようだ。今日はお詫びに自分が作ると言うと、嬉しそうな顔をしながら素直にリビングに戻ってくれた。作ると言っても、料理は得意でないので、簡単に出来そうなカレーにした。具材を切って鍋に放り込み、ぐつぐつと煮込む。
味見をして問題ないようだったので、二人分よそって持っていく。膝丸は目を輝かせていた。いつもの光忠の絶品料理と比べると味が劣るだろうと思い、それとなく伝える。
美味しくなかったらごめんね、と言うと膝丸は、
「どんな料理でも、主の手料理を食べられることが嬉しいのだ」と笑った。
そのまま、美味しいと言いながら残さず食べてくれた。本心から言っているようだったので、良かったとほっと胸をなでおろす。食べ終わり、食器を洗ってくれるというので、今度は素直に甘えることにした。

そうこうしているうちに、夜が更け、昨日と同じように膝丸の顕著を解いた。耳にタコができるのではと思うほど、起きたらすぐに戻してくれ、と念を押された。

布団に潜り込み、昨日と同じように、つるり、と本体の表面をなでる。
少しだけ、温もりを感じたような気がした。

机の上に散らばる無数の領収書。電卓が立てるぱちぱちという音を聞きながら、項目と金額を確認して内容を仕分けしていく。これは食費、こっちは福利厚生費と判断しながら、時々、どう仕訳をしていいか分からないものが出てくると、とりあえず机の端のほうに置いておいた。あとでまとめて調べるためだ。内容の細かい所までは見なくてもいいのだが、時折、団子、とか、あんみつ、などの文字が目に入って来ると、ほほえましい気持ちになった。だが、その気持ちは、次に現れた日本酒等の酒代の値段を見て、綺麗にどこかに飛んで行ってしまった。

それが引き金になり、ぷつりと集中力の糸が切れる。視界がぼやけてきて、目の付け根の眼精疲労に効くというツボを指で押さえた。午前中からずっと作業をしていたため、さすがに疲れたなと思った。目がしぱしぱする。何気なく机の向かいを見ると、必死に数字と向き合っている二振りが見えた。近侍の加州と短刀の博多藤四郎だ。この短刀は、経理のセンスが良くて計算が特に早い。こうしている今も彼の指先はリズムよく踊る。その速さに舌を巻いた。

リズミカルに踊る指先から、近侍に視線を移す。ひたむきに机の上の紙と向き合う顔と、紅く綺麗に塗られた爪先が見えた。その指先が、流れるように文字を書いて行く様子をぼんやり見つめる。
「…ちょっと。主、見すぎ」
加州が面白そうに言う。まじまじと見つめすぎていたようだ。加州も集中力が切れてしまったようで、完全に手が止まってしまっている。疲れたね、と目で会話をした。時計を見ると、おやつ時を少し過ぎてしまっていたので、作業の切りのいいところで休憩にすることにした。

「主は膝丸と、付き合うとーと?」
と、徐に聞かれ、飲んでいたお茶を盛大に吹いてしまった。ちょっと汚い!と加州に怒られる。
「…え、どうしたの急に」
急に予想外な話を振ってきて、動揺してしまう。付き合ってなどいないとかなり強めに否定すると、意外そうな顔をする。
「なしてって、一緒に住んどんやなか?」
和菓子を黒文字で割りながら、博多君が不思議そうに聞く。一緒に住んでいるというより、護衛してもらっているという状態だ。同棲しているように言われてしまうと語弊がある。当てはめる言葉があるとしたら、ボディーガードが一番しっくりくると思った。

彼が盛大な勘違いをしているようなので、簡単に経緯を説明する。
説明しながら、膝丸が現世の家に来ていることを、みんな知っているのか聞いてみたら、頷きが返ってきた。
「本丸はその話題で持ち切りばい」
軽く眩暈がして、頭を抱えた。そんなに噂になっているのは不本意だし、膝丸も迷惑に感じているかもしれない。本丸の者たちに説明をしないといけないだろうが、あまり大々的には公言したくない。思案していると、加州が案をくれた。その案と言うのは、宴会を開いて、その宴会に私が参加する、というものだった。そうしたら、他の刀から必ずその話題について聞かれるだろうから、私はそれについて正しい説明をしていけばいい、とのことだった。確かに、いい案かもしれないと思う。それに、と加州は続ける。
「鶴丸あたりに言ったら、次の日には全員に知れ渡るでしょ」と、彼は紅い瞳を細めた。
途端に楽しい心持ちになって、三人で、日取りはいつにするか、何のお酒を用意するかなどの話をした。
「主と飲める機会ってめったにないから、楽しみ」
わいわいと計画を立てながら、加州が笑顔で言う。その言葉に少し胸がちくりとした。本丸で宴会は何回か開かれているが、参加したのは一度か二度くらいで、ほとんどは遠慮していた。

「噂ばすりゃ、お出ましばい」
博多が縁側のほうに目を向けて言う。なんのことだろう、と思いながら視線の先に目を向けると、襖の向こうから入室の許可を求める声が聞こえた。どうぞ、と返す。出陣から戻ったらしい膝丸が、失礼する、と言いながら畳に足を踏み入れた。出陣帰りで疲れているだろうに、立ち姿が凛としている。膝丸は部屋の中の様子を見て目を丸くする。
「……泥棒にでも入られたのか」
机の上に散らばった領収書、乱雑に平積みにされた資料の束や、放り投げられている仕分けのファイルなどを順に見ながら、膝丸が言う。その言葉に加州と博多と顔を見合わせる。締め日はいつもこんな感じだよと返すと、大変なのだな、と神妙な顔をしていた。
「その仕事はもう終わったのか?」
「半分くらいかな」
と、重ねて聞く膝丸に言った。
「納期はいつなんだ?」
「……ひみつ」
本当は明日までだが、あえて言わないでおいた。おやつを食べる段階で、今日中にとても終わらないことは薄々悟っていた。残りの分は今日の夜にでも一人でやってしまおうと頭の中で計画していた。だが、そのことを言ってしまうと手伝ってくれた二振りは責任を感じてしまうだろう。もしかしたら、終わるまで手伝うと言ってくれるかもしれない。でも、もう十分に手伝ってもらったし、とても助かったので残りは自分でやろうと決めていた。
頭の中で、仕事の段取りをしている間、膝丸は心配そうな顔をしていた。簡単に出陣の報告をしたのち、部屋に戻る膝丸の後ろ姿を見送りながら博多が言う。
「主、気ばつけんしゃいね」

台所に顔を出してみると、光忠が夕ご飯の下準備をしていた。真っ黒な、割といかつい後ろ姿を眺める。彼はその姿からは想像できないような繊細な手つきで食材に触れて下処理をしていく。綺麗にシイタケに飾り包丁を入れているのが見えた。今夜は鍋だろうか。そんなことを考えていると、お腹がぐぅ、と鳴ってしまった。
「光忠」
もくもくと作業している後ろ姿に声を掛ける。
「今から、買い物に行こうと思うんだけど、何か必要なものとかある?」
一瞬びっくりしたように肩を跳ねさせて、光忠が振り返った。
「主! めずらしいね。万屋に行くの?」
頷くと、僕も一緒に行っていい? と聞かれた。もちろん、と答える。今日は遅くまで仕事を行うので、何かお菓子と飲み物を買おうと思っていたのだった。
光忠とは、数分後に玄関で待ち合わせをした。
「お待たせ」
待ち合わせた光忠は、全身黒尽くめの戦装束を着ていた。
「着替えたんだね」と、私が聞く。
「せっかく主とお出かけだから、少しでも格好よくしたいなって思ってね」
光忠は少し照れたように笑った。

万屋まで続いている、すすきがたくさん生えている一本道を光忠と歩いた。細い枝に付いた、ふさふさとした穂先が風に揺れている。風と一緒に、さらさらと葉どうしが擦れる乾いた音がした。穂先が毛のようになっていて、見るからに柔らかそうだ。
手を伸ばして腕をまっすぐにしながら歩く。手にすすきの穂先が細かくあたるので、その感触を楽しんだ。その様子を光忠は子供を見守る母親のような優しい目で見つめている。
他愛の無い話をしながら歩いていると、万屋がある通りについた。光忠は調味料が切れてしまったので調達したいのだという。一緒に見ていると、醤油や味噌一つとっても実にいろいろな種類があるのだと感心した。光忠は伊達の刀だから、やっぱり醤油ベースの味付けが好きだったりするのだろうか、とぼんやり思った。

七味唐辛子と一味唐辛子で迷っている光忠と少し離れて、自分用にお菓子を二つと、ミルクティを買った。買いながら、残っている仕事の量を考えて少し憂鬱な気持ちになってしまう。暗くなりかけた気持ちを振り切って会計を済ませる。戻ると、まだ光忠は七味と一味のどちらにするかで迷っていた。横から顔をのぞかせて、「どっちも買ったら?」と声を掛けると、彼は目を輝かせていた。そのうちに、変わり種のゆず七味というものも見つける。二人でテンションが上がって、まとめ買いしてしまった。

行きと同じ、すすきの密生した道を歩いて帰る。あたりは夕焼けですっかり赤く染まっていた。りりり、という虫の声がする。ちらほらと、赤とんぼや黒いとんぼが飛んでいて、すっかり秋を感じた。風と一緒に吸い込んだ秋の空気に、胸が締め付けられるような気がした。秋の黄昏時はとても切ない気持ちになる。

「主、荷物を持つよ」
と、光忠が言った。もうすでにほとんど持ってもらっているので、大丈夫と断ったが、いいからと言われた。そのままさりげなく荷物を持ってくれる。
空いた手を光忠の手が包み込んできた。
「手を繋いでもいいかい?」
少し顔を赤くして聞いてくるので、いいよと返した。彼の手は大きくて温かかった。さっきまで感じた切なさや寂しさが、途端に薄れていくのを感じる。上のほうにある顔を見上げると、やっぱり顔が赤かった。
「あんまり見ないで」
と、光忠は私から見えないように手で顔を隠してしまう。君の前だと恰好つかないな、と困ったように言った。
そのまま手を繋いで帰った。帰り道に今日の晩ご飯は何か聞いたら、予想どおり鍋だった。鍋の種類は水炊きにするらしく、出汁を出すために昆布を水に入れてから来たようだ。さすがだと思う。今度、セリ鍋を作ってほしいと言ったら、とてもうれしそうに、わかった、と言ってくれた。

夜。髪から滴る水気をタオルで乾かしながら、パソコンを立ちあげる。ぶぅんと低い機械音が鳴った。執務室は刀たちの部屋から離れているため、周りは虫の声が聞こえるのと、遠くで、かやかやとした話し声が聞こえていた。まだ、眠る時間には早いので酒飲みの刀たちが起きているのかもしれない。
机の上に打ち込み用の資料を用意しながら、さてやるか、と気合を入れた時に声を掛けられた。
「……主。今いいだろうか」
声の主は、膝丸だった。出陣の報告は昼に終わっていたから、仕事の用事は特に無いはずだ。どうしたんだろう、と不安に思う。少々迷ったが、どうぞと答えた。
「夜分に失礼する」
と、言いながら膝丸が静かに入室してきた。向き合って話を聞く体制をとる。
「今から、それをするのか」
机の上に積み重ねられている資料を見ながら、重ねて言う。私もそちらのほうを見て、苦笑いをしながら頷いた。納期があるものなので仕方がない。
「なにか、問題とかあった?」
暗に、ここに来た本題を促す。膝丸は、少し躊躇したのちに口を開いた。
「俺に、作業を手伝わせてもらえないだろうか」
思いがけない提案に、かなり驚いた。ここに来た理由がそういう話だとは思わなかった。
「絶対にだめ。あとは、チェックも全部終わっているし、数字の打ち込みだけだから私一人で大丈夫だよ」
言葉の外に、膝丸のできる作業はすでに終わっているということを含ませる。あとはパソコンを使う作業なので、機械を扱える者でないとできない。この本丸でそれができるのは、加州清光くらいだった。
それに、と思う。膝丸は昼に出陣していた。刀が人間より体力や身体能力が高いということは聞いていたが、さすがに疲労は感じるだろう。このまま手伝わせたら――まるでブラック企業のようだ。
「気遣ってくれてありがとう。でも本当に大丈夫だから、部屋に戻ってゆっくり休んで」
と、強めに言った。
「この機械の事なら簡単な入力はできる」
ぴしゃり、と膝丸が言う。難しい文章などはできないが、と続ける顔を見ながら、そういえばと思う。この間、膝丸から聞かれたので、現世の家でパソコンの使い方を簡単に教えていた。本人に使い方を聞かれたというのもあるが、平日に私がいない間、暇つぶしになればと思ったのだった。
そんなことを思い出していたら、膝丸が予備のパソコンをどこからか持って来て、座布団を私の隣に敷いていた。それに気が付いてぎょっとする。
「ちょっと! まだ許可していないよ。とにかくパソコンが使えてもだめ。部屋に戻って」
資料を軽く読みだした膝丸の腕を、がしりと掴んだ。体がびく、と震える。お構いなしに、退出させようと腕をぐいぐい引っ張ったがびくともしない。
「押し問答しているこの時間が無駄だ。さっさと始めるぞ」
私の、部屋に戻れと言う言葉は全く聞き入れてもらえなかった。前にもこんなことがあった気がする。ため息をついて、隣で行儀よく座る男に渋々資料の説明を始めた。

膝丸は素晴らしく飲み込みが速かった。一度した説明で、あらかた内容を理解してくれたようだった。たまに二言三言、言葉を交わす以外は黙々と入力していった。
カタカタというタイピングの音が響く。気が付くと、遠くに聞こえていた喧騒も聞こえなくなっていて、辺りは静寂に包まれていた。虫の声が響く。作業を始めてから二時間程たって、もう戻っていいよと膝丸に声を掛ける。あぁ、と短く答えが返ってくるが、作業の手は止まらない。そんなことを三回くらい続けたが、彼は空返事をするばかりだ。本当に終わるまで帰ってくれなそうなので諦めることにした。
あとは、ひたすらに無言で入力していった。未入力の紙の山がだんだん少なくなっていく。時々息抜きに、お昼に万屋で買ったお菓子を分け合って食べた。これは美味しいとか、これはちょっといまいち、とか言いながらお菓子をつまむのは結構心が和んだ。
後半はほとんど無言だった。カタカタというキーボードを叩く音が響く。ただひたすらに入力していった。
どれくらいそうしていたのだろう。気が付くと資料が残り一枚になっていた。外に目を向けると、少し明るくなりかけていた。軽く絶望する。最後の数字を入力して、しっかりと保存する。
「……やっと終わったぁ」
安堵のため息をつく。達成感が胸を包んだ。横の膝丸を見ると、疲れが顔に出ていて、途端に申し訳ない気持ちになる。
「こんな時間までごめんね」
「俺がやりたくてやったことだ。気にするな」
肩を小さくする私に、膝丸は励ますように言ってくれた。本当に助かったので重ねて心からお礼を言う。膝丸は嬉しそうにしている。そのまま流れるように頭を撫でてきた。優しい手つきに安らぎを感じて、思わずとろりと目を閉じる。しかし膝丸は、はっとして慌てて手を引っ込めた。
「すまない。出過ぎた真似をした」
顔を赤くしながら手を押さえている膝丸に、気にしていないと小さく首を振る。そのまま立ち上がり台所で珈琲を入れた。この後は眠るだけなので、ブラックではなくミルク多めのカフェオレにする。膝丸の口に合うか不安だったが、これはこれで美味しいと言ってくれたので安心する。
静かにカフェオレを飲んだ。完成した資料を政府に送るメールを作成する。今日中に送ればいいので、もう少し後に送ってもいいのだが、もし何かの理由でデータが消えたら大変だ。なので、変な時間帯だが構わずに提出することにした。政府側も慣れているだろうと予想する。
メールの文章を考えていると、ふいに左側の肩にずしりと重みを感じた。突然のことに驚いて、目を向ける。肩の上に膝丸の頭があり、彼がこちらに寄りかかってきていた。長い前髪が重力に沿って流れている。小さく開いた口から、すうすうと静かな寝息が聞こえた。その糸が切れた人形のような姿に、やっぱり無理をさせてしまったと胸が痛んだ。
どんどん左肩の重みが増していくのを感じながら、急いでメールを作成した。データを圧縮して、送信する。完了しました、の文字を確認して、やっと終わったと安堵する。
続けて、横の男をどうにかしないといけない。寝ている所で可哀そうだが部屋に戻ってもらうためには一度起こさないといけない。ひざまる、と遠慮がちに声を掛ける。
「……膝丸、起きて。部屋に戻ろう」
小さく腕を叩きながら声を掛けるが、少し顔を顰めるだけで全く起きそうになかった。もう意識が底に沈んでいるのだろう。すでにかなり肩が重い。仕方がないので少し大きな声で呼びかける。すると、うぅ、と不機嫌そうに唸って、薄く目を開ける。良かった。起きたみたいだ。安堵したとたん、体を引っ張られて視界が反転した。

気が付いたら、畳の上に横向きになっていた。体を軽く打ち付けてしまったようで、わずかに痛みを感じた。気づくと腕枕の状態になってしまっていて、目の前に膝丸の内番着が見える。お腹のあたりに膝丸の腕が回されていて、全く身動きができない。抜け出そうともがくと、回された腕にぐっと力を込められる。どうにか抜け出せないか動いてみたが、無理だった。圧倒的な力の差を感じた。
どうしよう、と考えたが、徹夜したせいか思考がまとまらない。考えが、ほつれた糸のようになってしまう。腕をぐっと伸ばして、近くに投げてあったブランケットを引き寄せた。そのまま、ふかふかとした布を自分と膝丸にかける。途端に眠気が襲ってきて、意識が泥の底に沈んでいった。

数時間後、すっかり朝になって心配していた博多藤四郎が執務室に様子を見に来た。控えめに襖を開けると、畳の上に寝巻姿の主人と、それに絡まって眠っている太刀を見つけて目を丸くする。寄り添って眠る二人をまじまじと見て、仲がよかねぇと呟いた。しばし珍しいもの見るように眺めていたが、くるりと踵を返し、来た道を軽やかな足音で駆けていった。

金曜日の夕方。
週末なのに、取り立てて忙しくもなく、かといって暇すぎるわけでもない、そんな一日だった。いつも通りに業務が終わり、タイムカードを打刻してから、固くて重い扉を押し開けて外に出る。同じビルの中なのに、扉一枚はさんだ向こう側と、こちら側では密度が全然違うと感じた。社内の空気は、そこにいる人の気持ちが溶け込んでいるように重く感じる。外の空気を吸うと、やっと今週も終わったと、解放感が胸を満たした。明日は休日だから、いつもより心が軽い。エレベーターに乗り、一階を押してロビーに出る。出たとたん、いつもと違うざわついた雰囲気を感じ、顔をあげる。出口の近くに、そこにいるはずのない人物がいた。

一番初めに目に飛び込んできたのは薄緑色の髪の毛だった。遠目に見ても、かなり目立つと実感した。そして、本丸の中だとあまり意識してこなかったが、顔もスタイルも、非の打ちどころがないほど整っている。綺麗すぎるというのは、ときに目立つし浮いてしまう。それに、やはり人じゃないからか、どこか浮世離れした空気が出てしまっていた。つまり灰色の少し古びたビルの中で、彼はかなり浮いていた。

「あんな人、いたっけ」
「さぁ? 今まで見たことないけど」
外部の人じゃない? などと、社内の人が言いながら私を追い越していった。かなり訝しんでいる様子に、冷や汗が静かに背中を伝う。近くの観葉植物にさりげなく隠れながら、恐らく自分を迎えに来たであろう人物に視線を移した。

いつもの戦闘服を着ていないのは、不幸中の幸いだと思った。もし戦闘服を着て来られたら警察を呼ばれていたかもしれない。膝丸は、加州に頼んで買ってもらっていた、現世用の服に身を包んでいた。全体的に暗い色のシンプルな服装だった。個性のない簡素な服装が、逆に膝丸自身を引き立てているように思えた。他の会社の従業員と思われる女性と何か話をしているようで、時々、小さく笑い声が上がる。
一千年前の人と、現代の人は話が合うのだろうか。変なことを言っていないかな、などと考えていたら、迎えに来た薄緑――膝丸と目が合った。その途端、迷子の子供がやっと親を見つけたときのような、安心したような笑顔を向けられた。
呼ばれる前に、顔の前で小さくバツ印を作る。膝丸は怪訝な顔をして、こちらを呼ぶことはしなかった。そのまま、口の前に人差し指を立てて、静かに、とジェスチャーで伝える。膝丸は小さく頷いてくれた。良かった、伝わったみたいだ。――会社で主などと呼ばれてしまったら、明日から社会的に終わってしまう。
意思が伝わったことに安堵して、観葉植物の陰から移動する。そのまま、扉へ素知らぬ顔をしながら歩いて行く。扉近くにいる膝丸に、外部の人にあいさつする用の笑顔で、お疲れ様です、と言いつつ通り過ぎた。膝丸は困惑した表情を浮かべていた。

そのまま会社を出て雑踏に紛れる。膝丸には、会社には絶対に来ないように口を酸っぱくするほど言っていた。彼の姿は現世では間違いなく浮いてしまうし、もし会社で声を掛けられたら、確実に噂になってしまうだろう。目立つことはしたくなかった。現世では波風立てずに、淡々と生きていきたかった。
あたりはすっかり暗くなっていた。人混みは苦手だ。金曜日の夕方特有の、いつもより少し賑やかな喧騒を肌で感じながら、ずんずんと歩いて行く。

「ある…君! 待ってくれ!」
会社を出て数秒後、規則正しく追いかけてきた足音を聞きつつも、振り返ることはしなかった。呼びかける声を無視して、早足で歩く。膝丸は、健気に追いかけてきていた。少し俯き、灰色の汚れた地面を見ながら歩く。社会人にしては少し明るすぎるくらいの髪の毛が、肩の上でふわふわ揺れて、頬をくすぐった。振り切るように路地裏に入る。真面目についてくる気配を背中で感じた。
そのまま、路地裏まで追いかけてきた膝丸の胸倉をぐいとつかんで、壁際に押し付けた。膝丸は驚いた顔をする。
「会社には絶対に来ないで、って言ったよね」
と、無表情で言う。膝丸は少しひるんだ顔をした。
「……すまない」
膝丸が俯いて言う。
「謝ってほしいわけじゃない。どうして来たか、聞いているの」
声にどうしても怒りの感情が滲んでしまう。そのことに気づいて、さらにイライラとしてしまった。あまり感情を波立たせたくないのに、と下唇を噛む。
「……膝丸。最初に、現世の生活を一か月お試しって言ったけど、取り消すよ。明日にも、本丸に帰れるように手配する」
帰り際にすれ違った人の彼を見る怪訝そうな顔を思い出しながら、きっぱりと告げる。その言葉に、膝丸は絶望的な表情をした。
「約束を破ったことは、本当に申し訳ない、と思っている……」
と、膝丸が言う。続きがあるようなので、そのまま揺れる瞳を見つめた。
「部屋に1人で君の帰りを待っていると、とても心が苦しくなるのだ。てれびでは、悲惨なニュースが流れている。その度に、君を思う。無事だろうか、ちゃんと生きているだろうか、と心配でたまらなくなる」
その言葉に、少し納得した。部屋に一人で待っていたら、色々考えてしまうこともあるだろう。慣れない現世で心配になるのも無理が無いのかもしれないと思った。
膝丸の悲痛な顔を見ていたら、さっきまでのイライラとした感情が少しずつ消えていくのを感じた。この人を今の気持ちのままに糾弾しても、それは意味のない事だとも思った。きっと物だから、持ち主を一番に考える本能のようなもので動いているのだ。
「……そっか」
と、膝丸に言う。声が氷みたいに冷たかった。膝丸は、まるで今から刀解する、と言われたときのような表情をしていた。その顔を見ながら、今日はまっすぐ家に帰りたくない気分だ、と思った。
「ねぇ、膝丸」
絶望的な表情をしたままの刀に問いかける。
「展望台に行かない?」
彼は、一瞬思考が停止したような顔で、小さく頷いた。