潮騒_02 - 2/5

指先で、いくつも並んだ本の背表紙をなぞる。右から左へと、文字を目で追いながら、目当ての本を探した。ハードカバーのつるりとした感触が爪の先に伝わってくる。換気のために開けた窓から、風がゆるく室内に流れ込んできた。明るい色の髪の毛が、風に合わせてふわりと揺れる。
書庫は元々本丸についていたのだった。本の半分は政府から与えられたもので、もう半分くらいは自分で用意したものだ。政府が用意した刀剣に関する本や、偉人たちの伝記以外に、恋愛小説や、写真集、詩集などが置いてある。後半はほとんど自分の趣味だった。
書庫の場所が、刀剣たちの暮らす部屋から遠く離れた執務室の、さらに奥のほうにある為、普段は誰も活用していないようだった。いつ訪れても無人でがらんとしていて、静かだった。私はこの寂しく廃れた場所を、ひそかに気に入っていた。
小学校の図書室くらいの大きさの、広すぎない部屋をゆっくり歩く。一つ目の本棚をざっと見て、気になる本が無かったため、隣の本棚に脚を向けた。
「……誰か、いるのか」
首だけで声のしたほうを振り返る。入り口に、ぼうっと立っている影が見えた。逆光になっていて表情が見えなかった。ふいに腰のあたりで赤色が風にひらり、と揺れる。獣のような金色の目でこちらをじっと見つめていたのは、割と初期のころに迎え入れた刀――大倶利伽羅だった。
ここに人が来るなんて珍しい、と思いながら小さく会釈をする。大倶利伽羅は無表情のまま、室内へと一歩、足を踏み入れた。心の中で小さく動揺する。あまり仲良くもない大倶利伽羅と一緒の空間にいるのは気づまりだと思った。動揺を隠しながら、自分も一歩、扉のほうへ足を踏み出す。もう少し本を探していたかったが、今日は執務室に戻ろうと思った。すれ違いざま、金色の目がこちらを射抜くように見つめ、小さく口を開く。
「……俺が、邪魔か」
小さく呟かれた言葉にどきりとして、立ち止まる。慌てて、そんなことはないと首を振る。無表情の横顔を見ながら、確かに感じが悪かったな、と反省した。彼の目には、自分が来て嫌だから私が慌てて帰るように映っただろう。傷つけてしまったかもしれないと思った。
どう言い訳しよう、と考えていると声を掛けられた。
「……ここに、いたらいい」
邪魔なら俺が出ていくと言葉を続ける。ぼそりとした不愛想な言い方だった。ここで無視して帰ったら、心にしこりが残る気がした。少々迷ったが、無言で元いた場所へ戻る。また先ほどと同じように、本棚に目を向けた。
それからは、ひたすらに無言だった。時々、大倶利伽羅の存在を忘れてしまいそうになるほど、会話が生まれなかった。さらさらと木々が風に揺れる音が聞こえる。ちら、と横を見ると、さっきと同じ状態で本棚を眺めている男が目に入った。視線が動かず本を探している様子がない。この人はここに何しに来たのだろうと疑問符が浮かぶ。
再度、本棚へと視線を移すと、気になる題名が目に入り今日はこれを読もうと決めた。その本を本棚から引き抜き、表紙をパラパラめくる。本棚に背を向け、床に腰を下ろそうとした。行儀が悪いかもしれないが、一度執務室に戻りまたここへ返しに来るのは億劫だった。どうせ自分以外に誰も書庫を使わないので、椅子や机と言ったものは用意していなかった。
その時、目の前でひら、と何かが揺れた。目を向けると大倶利伽羅が上着を差し出している。
「……これを使え」
服が汚れる、と続ける。相変わらず無表情だった。白いTシャツ姿の大倶利伽羅を見て、慌てて首を振る。すでに、十一月に入っているので空気は冷たかった。いくら刀剣男士の体が丈夫でも、寒さは感じるだろう。暫く無言で見つめあっていた。差し出された上着を頑なに受け取らずにいると、大倶利伽羅に小さくため息を吐かれる。そして、一度上着を床に置き、腰のあたりをごそごそしだした。
訝しげに見つめていると、今度は視界を赤い色が覆った。その勢いに少しのけぞる。
「これなら、いいだろう」
ぐい、と腰巻を押し付けられる。苦笑しながらそれを受け取った。ありがとうございます、と小さく呟きながら、渡された腰巻を床に敷いてその上に静かに腰を下ろす。気を使わせて申し訳ないなと思った。その様子を無言で見つめていた大倶利伽羅だったが、やがて興味をなくしたのか、本棚に視線を戻す。
どれくらい時間がたったのだろう。静かに本を読み進めていたら、ふと隣に気配を感じた。そちらにゆるく目を向け、驚きで大きく目を見開く。いつの間にか大倶利伽羅が隣に腰を下ろしていた。立膝の体制で、背をゆったりと本棚に預けている。手には、一冊の本が用意されていた。
「……ずんだもちの、作り方」
思わず本の表紙を口に出してしまい、ふは、と声に出して笑ってしまう。可愛い本の題名と、それを手にする男にギャップを感じた。瞬間、ぎろりと金色の目に睨まれる。
「私、ずんだ餅作れるよ」
と、怖い顔をした男に向けて言う。途端に彼の瞳が輝いた。本当かと聞かれ、笑顔で頷く。実は、自分の生まれは、ずんだ餅で有名な地域だった。お正月には磯辺焼きと同じように、当然のようにずんだ餅が食卓に並ぶ。それを思い出しながら、良かったら今度作るよと隣の男に声を掛ける。それに対して答えは無かったが、ひらひらと桜の花びらが舞った。

途端に緊張が解けて穏やかな気持ちになった。それから、また無言でそれぞれ本に目を落とす。静かで穏やかな時間が流れた。大倶利伽羅は多くは語らない男だが、どこか信頼できると思った。最初は冷たそうな雰囲気に苦手意識を持っていたが、今はそんな気持ちは霧のように消えてしまっていた。それに、他の者と今のように無言だと気疲れしてしまうが、彼との沈黙はむしろ心地良いとさえ思える。

気が付くと窓から差し込む日がすっかり傾いていて、思いのほか時間が経ってしまっていた。書庫にこもると、あっという間に時間が過ぎてしまう。おもむろに立ち上がり、ぐっと猫のように伸びをする。
「そろそろ戻ろうか」と大倶利伽羅に声を掛ける。その言葉に、無言で彼は立ち上がった。床に敷いていた腰巻のホコリを払いつつ、片手に持つ。「あとで洗濯してから返すね」と言うと無表情で頷いてくれた。

廊下を大倶利伽羅と並んで歩いていたら、すれ違う刀剣男士たちがぎょっとした様子で目を見開いていた。興味津々と言った様子で見てくる者もいて、小さく肩をすくめる。慣れあわない同士が連れ立って歩いていると、特に目につくのかもしれない。そう思い立って、隣を歩く男に声を掛ける。
「……今更だけど、別々に戻る?」
遠慮がちに言う。金色の目と視線がぶつかった。
「無視しておけばいい。俺は気にしていない」
その言葉に、ほっと胸をなでおろした。暫く歩いていたら、いつの間にか執務室に着いていた。じゃぁここで、と手を振ると、彼は小さく手を挙げて答えてくれた。そのまま、遠ざかる後ろ姿を見送る。
執務室に入ると、加州が手に持っていた腰巻を見て、え、と声を上げた。さらに先ほどの一部始終を見ていたようで、顔が驚きで満たされていた。猫のように細められた目を見ながら、静かに腰巻を畳の上に置いて机をはさんで腰を下ろす。ふう、と小さく息をついた。
「いつの間に、あいつと仲良くなったの」
加州は目を輝かせながら問いかける。二人分のお茶を入れながら、「成り行きで」と濁した。ふぅん、と楽しそうに加州が言う。その反応に苦笑いしながら、入れたてのお茶を加州の前に置いた。少し遅れて自分の分のお茶に口をつける。熱い液体が喉を通るのを感じた。
「いい兆候だね」
誰のおかげかな、と加州が呟く。その言葉に、凛とした後姿が頭に浮かぶ。
誰だろうね、と小さく返した。

数日後、書庫に足を運ぶと、一番奥の本棚のそばに見慣れないものがあった。静かに近づいて確認する。そこにあったのは小さな木製の椅子だった。小学校に置いてあるような背もたれのない木製の椅子が、ぽつんと所在投げに置いてある。前回までは椅子など無かったはず、と頭に疑問符が浮かぶ。しげしげとそれを見つめながら腰を下ろす部分に小さく触れた。仄かに木のぬくもりを感じる。瞬間、用意してくれた人が誰か分かって、その優しさに心が温かくなるのを感じた。