潮騒_02 - 4/5

深夜。
周りに住宅地が多いこともあり、ほとんど物音がしない。世界が寝静まっていて、静寂に包まれている。

とっくの昔に布団に入ったのだが、全く眠気が来なかった。
のろのろとベッドから抜け出して、そのまま体育座りの状態で、テレビをぼんやりと見ていた。テレビには、少し昔に上映された映画が流れている。

時々、こんな風に眠れない夜がある。こんな夜は、安眠効果があるというミルクティーを飲んでも、自立神経を整えるという音楽を聴いても、全く意味が無かった。どうしてこんな気持ちになるのか、自分自身全く分からなかったし、感情に名前を付けることもできなかった。この気持ちに名前を付けるとしたらと考えてみる。焦燥感、焦り、絶望……どれも違う気がした。しいて言えば、孤独感が一番近い気がした。それらは時々、波のように押し寄せる。

そこまで考えて、細く息を吐いた。ふいに、独りぼっちだと感じた。そして、孤独に負けてしまう自分の心が嫌だとも。

これから、どうなるのだろう。
私は、どう生きたいのだろう。
答えのない問いが、自分の中でぐるぐると回っている。

流していた映画はとっくに終わってしまっていて、深夜のテレビ番組は、空から夜景を取っている風景の映像に代わっていた。
そのまま身を小さくして、じっとしていた。瞳はテレビのほうに向けているが、視線がぼんやりとしていて、実際は何も見えていない。学生の時から、こういう夜は時々あった。この気持ちが襲ってきたら、その波にはあらがえないことを昔から知っていた。

月の光が差す部屋の中で、体育座りの状態でぼんやりと前を向いていた。
ふと視線をずらすと黒い刀が目に入った。なにも考えずに、そっとそれを手に取る。思ったよりだいぶ重量感があった。刀身をすらりと抜いてみると、外からの光を反射して、きらりと光った。

「……きれい」
素直にそう思って、口にした。刃に触れてみたかったが、触れたとたん指が切れてしまいそうなので見つめるだけにした。暫くぼんやりと波紋を見ていたが、腕が重くなってきたので、刀を鞘に静かに収める。体育座りの姿勢のまま、そっと刀を抱いた。どうしてそうしようと思ったのかはわからない。孤独すぎてなんでもいいから縋りたかったのかもしれない。
鉄の塊でも、ぎゅうと抱きしめると、少し気持ちが安らいだ気がした。今度ぬいぐるみでも買おうかなぁとぼんやり思う。

「……今日だけ、ごめんね」
誰も聞いていないことは分かっていたが、小さく呟く。刀を抱いたまま頭を自身の膝の間にうずめる。そのまま体をさらに小さくした。何にも考えたくない気分だった。
どれくらいそうしていたのだろう。気が付くと朝だった。カーテンの隙間から差し込む朝日が目に眩しい。瞳を焼かれるような光の清らかさに、うううと小さく唸った。今日は午後から政府の人と会う約束をしていた。思い出して心がさらに落ちるのを感じた。取りあえずずっと抱えていた刀をベッドに寝かせる。長時間小さい態勢でいたので体がガチガチで、節々が固くなっていた。腕を伸ばしただけで、ぎしりと音がしそうだ。まるでロボットになってしまったような感覚だった。ふと、このまま感情が無くなったらいいのに、と思ったけれど、頭を小さく振って不穏な思考を追いやる。

とりあえずシャワーを浴びようと思い、お風呂場に向かった。服を脱ぎ、鏡に映った生まれたままの姿を見つめる。魚の腹のように白く、薄いお腹が見えた。少し痩せたかもしれない。これは良くない兆候だ、と思って少し顔をしかめる。
気持ち熱めのシャワーを浴びた。体を簡単に拭いて服を着る。心を落ち着けるためにいつもより濃く入れた珈琲を飲んだ。一息ついて、そろそろ膝丸を戻してあげないと、と思い刀を手に取る。

いつも通り彼を人型に戻したら、目の前に悲痛な顔があった。

「大丈夫か」
膝丸が心配そうに聞く。きっと、寝てなくて顔色が悪いから、気遣ってくれたのだろう。そんな優しさに感謝しつつ、大丈夫だよと笑って答える。あまり心配はかけたくなかった。それに、これは自分の問題と言う気がした。膝丸には関係が無い事だから、秘密にしておこうと思った。勝手に心が落ちているだけなのだ。結局、このような感情は自分でどうにか向き合って生きるしかない。

そのうち、なんとなくいたたまれない気持ちになって、膝丸も珈琲飲む? と聞く。うなずいていたので、珈琲を準備した。豆のいい匂いがする。

つい先ほどシャワーを浴びたけど、まだ体がだるい。そんなことを思っていたら、横から視線を感じた。膝丸がじっとこっちを見ていた。どうしたの? と聞くと、なんでもない、と慌てて目線をそらす。膝丸は時々こういう挙動不審な時がある。何か不満や言いたいことがあるのかもしれない、と思ったけれど、今は何も考えられなかった。今度ちゃんと聞こうと思い、自分用の少々冷めてしまった珈琲を飲む。

膝丸に珈琲を渡し、そのまま横にぺたりと腰を下ろして、自分の珈琲を両手で包む。温かさや香り、そのなめらかな美味しさに満足していたら、頬に何か触れた。
ぎょっとして、振り向くと、膝丸が頬を触っているのが見えた。そのまま、指先が目元をつうとなぞる。
「……隈ができている」
まるで自分の事のように辛そうな表情で言われる。なんて答えていいかわからなくて、あいまいに笑った。そうしているうちに、手首を掴まれて、そのままぐっと引き寄せられた。あ、と思う間もなく、目の前に黒いジャケットがいっぱいに広がる。なんの香りだろう。お香のような、柔らかく淡い香りがする。
「……刀の状態だと、抱きしめることもできない」
膝丸が小さく声を漏らす。軽くパニックを起こし、抜け出そうともがいたら、ぎゅう、とさらに腕に力込められてしまった。これでは自由に動くことができない。
なお、抜け出そうともがいていたが、力の差は歴然だった。仕方ないのでそのままの状態で居たら、頭上から声が降ってきた。

「もっと、頼ってくれて、かまわない」
哀願するような声色だった。その声を聴いたら、抜け出そうと言う気持ちがすっと消えてしまって、脱力してしまう。そのまま彼の言葉に耳を傾けてみた。
「大丈夫じゃないのに、大丈夫などと、言わないでほしい。君は一人じゃない」
胸に、温かい何かがこみ上げる。思いやりのある優しい刀だと思った。最初は、厳格で冷たいと印象付けて避けてしまっていた。少しそのことに反省をする。
そのまま、体調を気遣うような言葉をくれた。その度に、うんうん、と返してやる。
……返していたのだが。
「今日は、1日このままいっしょに居たい」
どさくさに紛れてそう言われて、流れのまま肯定しそうになって、必死で思いとどまる。少し焦って、それはだめと言うと冗談だと少し笑われた。

そうしているうちに、安心したのか眠気が襲ってきてしまった。政府の人と会うのはお昼くらいからだから、一時間くらいは仮眠ができる。そう思って、膝丸に声を掛ける。

「膝丸……眠くなってきちゃった。そろそろ離して」
とりあえず、眠りたい。そう告げると、嫌だと返ってきた。そう言われると思わなくて、困ってしまう。
どうしたら、離してくれるだろうと考えたが、だんだん考えるのが面倒になってしまった。なんでも面倒くさがるのは私の悪い所だが、徹夜で思考するのはあまり良くない。そのまま考えるのを諦めて、思考を放棄した。もう知らない、というなげやりな気持ちになって、反撃とばかりに頭を膝丸の胸のあたりにぐりぐり押しつける。相手の顔色はこちらからは見えない。けれど、動揺した様子が伝わった。
小さく、「布団に放っておいてくれていいから」と言うと、分かったと頭をなでられた。それがとても優しい手つきだったので、心が少し、ぎゅうと軋んだ。すぐに尋常じゃない眠気が襲って来る。それに頑張ってあらがおうとしたが、意識は海の底に沈んで行ってしまった。

起きたら先ほどと同じ黒いジャケットが目の前にあった。布団に放っておいてはくれなかったようだ。ぼんやりと目を開けて、目線を緩く上に向ける。前を向いた膝丸の顔が見えた。きりりとした表情をしているが、どこか愁いを帯びた目をしている。こちらの視線に気づいたのか、ばちりと目が合った。
「起きたか」
また、頭をなでられた。急に恥ずかしくなって小さくもがいたら、今度は腕の力を緩めてくれたので、優しい拘束から抜け出した。「みっともない所を見せてごめん」と言ったら、「気にするな」と返してくれた。

「布団に投げてくれてよかったのに」
不満げに言うと、膝丸は困った顔をする。
「……布団に寝かせようと思ったのだが、その……離れがたくてな」
と、少し赤くなりながら言っていた。

そろそろ、出かける準備をしないといけない。脱衣所でパンツスーツに着替えて、軽く化粧をした。隈が酷かったので、少し迷ったが眼鏡をかけていくことにした。玄関でパンプスに足を突っ込んでいると、近くに膝丸がいた。行ってきます、と言って手を振ると、小さく手を振り返してくれた。

政府の人との打ち合わせは、お昼から夕方までかかった。予想よりはだいぶ早く終わったが、窓を見るともう日が落ちかけていた。貴重な休みが終わってしまった、と軽く絶望する。政府の人からは、出陣の回数が少ないことについてダメ出しをされてしまった。そのまま他にも言われたことを思い出して、少し落ち込んでしまう。今日は帰りが遅くなると膝丸には言ってあるので、このままどこかで一人でご飯を食べて帰ろうと思った。何となく、すぐに家に帰りたくない気分だった。
何を食べようかなぁ、と考えながらビルの出口に向かっていると、見知った後ろ姿が見えた。

「膝丸!」
声を掛けると、膝丸が振り返る。目が合うと微笑んでくれた。聞くと、心配で迎えに来てくれたようだ。若干の申し訳なさを感じたが、その気遣いを嬉しく思った。ここは政府の施設なので、前回のようなざわめきは起こらなかったようだ。

「なにか、ご飯でも食べない?」
と聞くと、嬉しそうに頷いてくれた。そのまま外の人込みに混ざりこむ。膝丸は、人込みは大丈夫だろうかと心配になり横目で見ると、器用に人を避けてくれているようで安心した。そのまま適当な居酒屋に入る。今日は飲みたい気分だった。

個室に案内され、最初に飲み物を注文した。私は生ビールで、膝丸も少し迷っていたが、同じものを頼んだ。一息ついて、リラックスした気持ちで目の前の男を見る。真面目な表情をしていて、いまいち何を考えているか分からなかった。飲み物が来る間、話題話題、と思っていると、忘れていたことが頭に浮かんだ。
「そういえば、今日で約束の一か月だね」
実際は少し過ぎてしまっていたのだが、ごまかした。忙しくてちゃんと日付を確認していなかったのだった。もし相手が確認していたらきっと指摘してくれていただろうから、膝丸も忘れていたのだろうと予想する。
最後の日にみっともない所を見せてごめんね、と苦笑いをしながら謝ると、相手は複雑な顔で頭を振っていた。
「現世はどうだった? 危険なことはなかったでしょう?」
と、割りばしの袋を三角に折りながら言う。その言葉に何かを考えているようだったが、小さく肯定してくれた。
「なかなか、興味深いことが多かった」
しみじみとした様子の膝丸を見ながら、せっかく現世に慣れたようなので、遠征を多めに行ってもらうのもいいかもしれないと思った。
「これからは、普通の生活に戻ろうね」
お互いに、と独り言のように言葉を続ける。その言葉にため息をつきながら、約束したからな、と返されて小さく安堵した。最初の日のように駄々をこねられたらどうしようかと、内心かなり心配していた

そこからは沈黙が訪れてしまった。なんだか、間が持たないなと目の前の仏頂面を見つめる。
暫く何かを考えていた様子の膝丸が、意を決したように話しかけてきた。

「主は、好いている男はいるのか」
ずっと神妙な顔をしていたので、どんな質問をされるかと身構えていたから、拍子抜けしてしまった。残念ながら今のところそういう人はいない。なので、正直に伝えると、膝丸はどこか安心したような顔をしていた。
「膝丸は好きな人がいるの?」
と聞きかえすと、う、いや、と歯切れの悪い答えが返ってきた。おろおろしている様子を見るに、そういう人がいるのかもしれない。いつも行く団子屋さんの女の子かな、と予想してみる。あそこの売り子の女の子は愛嬌があって優しいし、とても気が利く。なんだか温かい気持ちになって、応援しているよと言うと、膝丸はどこか複雑な表情をしていた。

そのまま他愛のない話をしているうちに、お通しが来た。簡単な煮物と、枝豆だった。この枝豆が、ゆで加減と塩の加減が絶妙で、本当に美味しくて、枝豆が好きな伊達の刀を思い出した。思ったまま、「今度、大倶利伽羅と来ようかな」と小さく呟いたら、目の前から不穏な空気を感じた。
思わず目線をあげると、膝丸がこちらを見ていた。その瞳の中に、ただの物にはあるはずのない、ある種の熱のようなものを感じて、慌てて視線を下にずらす。目の前の枝豆に集中する。
なお、注がれる視線を感じながら、枝豆に夢中なふりをした。結晶のような塩を振られたそれを口に運びながら、これはよくない兆候だ、と思った。

目の淵に塗られた赤い色を見て、少し派手かな、と口から小さく言葉が漏れた。近い距離にいる加州が、その言葉には気づかないふりをして、目の淵に筆を走らせる。彼の口はゆるく弧を描いていて、とても楽しそうだ。十畳程度の和室で、加州と向かい合っていた。加州に化粧をしてもらいながら、ふと外に視線を向けると、落ち葉が風を受けてバラバラと落ちていくのが見えた。まるで葉っぱのシャワーみたいだ、とどこかぼんやりしながらそれを見つめる。冬の気配が近づいていた。
その時、下を向いてと小さく言われて、素直に従う。目の上を彩るのが終わり、今度はアイラインを引いてくれているようだ。すっと目に沿って、軽く目の淵をなぞるような感覚が走る。
暫く人形のようにじっとしていた。
「こっちを向いてみて」
加州に声を掛けられ、ゆっくり上を向き、真正面にある紅い目と向かい合う。真剣な表情が滑らかに喜びの色に上書きされていくのを見た。
「……すっごく、可愛い」
と、加州がほれぼれとしたように言う。手渡された手鏡を、どれどれと覗き込み、思わず驚き声を上げた。そこにあったのは、いつもの魚の腹のように血色の悪い肌でなく、内側から発光するかのような、まろやかな肌色だった。目尻に塗られた赤色も始めは派手すぎるのではと思ったが、案外控えめでほのかに色気すら感じた。そして目の形に添ってひかれたラインが、細く滑らかでとても綺麗だった。鏡の中の自分は、顔の造形は置いておいても――普段の数倍、魅力的に映った。
「さすがだね。加州」
本当にありがとう、と心からお礼を言う。加州は化粧の腕を褒められて、どこかはにかむように笑った。
ほれぼれと鏡を見ている私を見ながら、加州がため息を漏らす。
「これが、男に会う為とかだったら、もっとやる気が出るんだけどなー」
と、加州が私のミルクティー色の髪の毛をくるくるともてあそびながら言う。その言葉に、苦笑いするほかなかった。

朝から化粧を念入りにしたのは、友達の本丸に遊びに行くためだった。馬小屋のほうへ加州とゆっくり歩きながら、目の上で切り揃えられた前髪と、くりくりと大きい漆黒の瞳を思い浮かべる。椿に会うのは久々だった。楽しみで心が浮足立つのを感じた。

加州と話しながら足を進めていると、前から見知った姿が近づいてくるのが見えた。薄緑の髪の毛が、歩くリズムに合わせて揺れている。きりりとした雰囲気が近づいてきて、近くで止まった。源氏の重宝、膝丸だった。

内番服の所々に干し草がくっついている。馬小屋のほうから来たから、きっと馬たちに餌をあげてくれたのだろう。内番を嫌がる刀は多いのに、朝からありがたいと思った。
「お疲れ様」
と、すれ違いざまに声を掛ける。瞬間、小さく息を飲む音が聞こえた。
「……主」
膝丸が呟く。ほとんど独り言に近いくらいの声量だったが、無視をするのもどうかと思ったので、一応足を止めた。
「顔が」
続けて彼が呟く。膝丸はぼうっとしたようにこちらを見つめたままだった。困惑しつつも黄色の瞳を受け止める。普段は、ここまで丁寧に化粧をすることは少ないので少々不安に思った。似合わない、などと言われたら、さっきまで上がっていた気持ちが急降下してしまうだろう。外出する前なので、あまり否定的な言葉は耳にしたくないな、と思った。
膝丸はしばらく呆けたような表情だったが、不意に黄色の瞳が、ぎゅう、と顰められる。
「誰かに会いに行くのか」
そんなに粧し込んで、と言葉が紡がれる。めかしこむ、と思わずオウム返しをしてしまった。なかなか普段の生活で言われたことのない単語だった。言葉にどこか責めるような響きを感じて、少しショックを受けてしまう。やり取りを見て、すかさず加州がむっとしたように言い返した。
「そんなの、あんたに関係ないじゃん」
無言でぐっと加州に腕を引かれて、少しだけよろめく。加州の行動に驚きつつも、絡まる手に静かに身を寄せた。そのまま加州は踵を返しずんずんと歩みを進める。どこか引きずられるようにしながら、さり気なく後ろを振り返る。――その時強い風が吹いて、葉っぱがばらばらと降り注いだ。目を凝らしたが、雨のように降る葉で遮られてしまって、膝丸の表情を知ることはできなかった。

「なんなのあいつ」
と、ぷりぷりと怒りながら加州が言う。その言葉に苦笑しながら、自分の代わりに怒ってくれている加州の事を、素直に好きだなと思った。