むかしむかしあるところに、へびの神様がおりました。かれはとてもやさしいこころを持っていましたが、とてもおくびょうで、山の奥深く、人のこないみずうみの近くにすんでおりました。ある日、いつものように水をのみにきた神様は、みずうみの遠くの滝にふしぎな影を見ました。あれはなんだろう。あかい舌をちろちろとさせながら、ながい体をずるずるとひきずりちかづくと、だんだんと影がはっきりとしてきて、くろいびーだまのような目玉を、これいじょうないくらいにおおきくさせました。
滝のしたにいたのは、髪のながい、わかい女でした。肌は雪のように白く、髪は夜をすいこんだような黒色です。へびの神様は一目でこころをうばわれてしまいました。しかし、水面に映った自分の姿を見つめ、ため息をつきます。湖は真実をうつします。緑色に覆われた鱗や、黒いめだま、おもいだしたようにちろちろと飛び出るほそい舌。
へびはいつでも嫌われものです。
石をなげられたことなど一度や二度ではありませんでした。稲をあらすネズミをたべていたとき、農家の人がすごい形相で蔵から飛び出し、二股になった枝で頭をかちわろうとしたこともあります。そのときはたまらずに命からがら逃げたのでした。
ですが、神様は人が好きでした。愚かな人間の命をちらすことなどどうさもありませんが――かれが念じただけで洪水がおきて稲はすべて濁流にのまれてしまいます――彼はそれを知っているので森の奥へいるのでした。
くる日もくる日も、女はのんきに水浴びにきます。黙って草かげからみつめておりましたが、胸にふくらむきもち――なんだか温かくうずうずとしてきます。ちょうど、野いちごをたべたときのようなきもちです。それは女をみているうちにどんどんとおおきくなるのでした。
うららかな午後でした。とうとう我慢ができなくなったへびは、青年の姿になって女にちかづきました。女はたいそう驚きましたが、青年はとても心が優しかったので、水浴びのあとに話すようになりました。彼は女といると心臓のあたりがあたたかくなるのを感じました。
しかし、そんな幸せは長く続きませんでした。
いつの日か、いつわっていることへの罪悪感がへびをくるしめるようになっていたのでした。夜になるとざわざわと心が騒ぎます。いっそ真実を告げてしまおうか、と、そんなことを思いましたが、女のおどろく顔が浮かんで、それはだめだと思いなおしました。
もし打ち明けて、きもちのわるいものをみるような目を向けられたら。もしもを想像するだけで、心がぐちゃぐちゃになるようでした。
次の日。よるのこと。
うつむいてじめんをにょろにょろとあるいていたへびは、遠くから女の叫び声が聞こえたような気がして、ふと頭をあげました。気のせいでしょうか。外はふくろうの声と、すずむしのなく音がしています。
すっかりと眠気がとれてしまったので、なんとなしに外にでると、また声が聞こえました。聞き間違いではありません。へびはぜんしんの筋肉を使ってけんめいにはしりました。いつもの湖までくると、叫び声をあげてしまいそうになりました。
女が、湖で熊におそわれていました。熊はするどいかぎ爪でいまにもやわらかい腹を引き裂こうと腕をふりあげます。へびは、もうぜんと草むらからとびだすと、けむくじゃらの腕に牙をつきたてました。
熊はひるんだのか、すぐに森の中へもどっていきます。ほっとむねをなでおろし、へびは「大丈夫だったか」と、声をかけました。
女はこしがぬけているようでした。その怯えたひとみに、自分自身がうつっていました。おおきなからだ。緑色のうろこが月にてらされてひかっています。
そのときはじめて、じぶんが醜いへびの姿のままであったと理解しました。
世界が音を立てて崩れ落ちていきます。
すぐにうしろを向いて逃げ出しました。もうつぎの言葉はわかっていました。さんざん、罵声をあびてきたのですから。
しかし、耳に届いたものは、あたまのなかにえがいていたものと、ちがいました。
「待って!」
体が石のように動かなくなってしまいます。たまらずに後ろを振り返ると、あろうことか、女があとをおってきているではありませんか! へびは女が近くに来るのをただ黙ってみていました。
「ずっと、知っていました」
頭をなにかで殴られたような感覚がはしりました。ほんとうに? ときくと、女はしずかにうなづきます。
夜がふかくなって、二人は洞窟にいました。そして、たわいもない話をしていました。それだけでしあわせでした。女の白い手に撫でられながら、へびは深い眠りにおちました。
朝。太陽が矢のように差し込んできて、洞窟をみわたすと、そこにはだれもいませんでした。きのうのことは、ゆめだったのでしょうか。
必死に女をよびますが、こたえるものはいません。
そのときになってやっと、地面に何かが落ちているのを見つけました。それは薄い浅黄色の着物でした。女が着ていたものと同じ色です。
口の中に血の味が広がって、ヘビはすべてを理解しました。血の涙を流しながら、もう腹に収まってしまった女をよんで、三日三晩泣き続けました。
あふれる涙は川となり、田畑へ流れて、その年はいつもより稲が実り、村人はたいそう喜びました。
めでたし、めでたし。
「全然、めでたしじゃない……」
暗い洞窟の中で膝をかかえながら、ぼそりと女が呟いた。恨めし気に外を見つめる。丸くくりぬかれたような洞窟の入り口の向こう側は猛吹雪だった。白い壁のようになっていてそとのようすがまるでわからない。洞窟は思いのほか深くて手前に大きな石もあり、風が奥まで入ってこないのでありがたい。でも、いつまで体力がもつか分からない。
すでに指先の感覚はなかった。どこか別の場所に移動しようにも外は吹雪だし、一歩でも出たら、水のような雪に全身を打たれて体が動かなくなるだろう。
かれこれ二日間、こうして洞窟の中にいた。物が何もないので暇つぶしに空想の物語を考えていたが、どれもこれも暗い結末になってしまうのはいただけない。根が陰鬱なのだろうか。そう自分で思い立ち――それも一理あるとひとり頷いた。
とうとう死が迎えにきたな。ぼんやりとそんなことを思った。体が芯まで冷えていて、頭はガンガンと痛むし、吐き気もある。そして何より、幻覚が見える。さっきから長い影が視界のすみによぎるのだ。もちろん幻なので物理的に危害を加えるわけではない。ただ、意識が曖昧になると(多分、死にかけているのだと思う)ふとしたときに現れる。
まただ。ずるずると音がして、幻覚が近くに寄ってきた。膝の間に置いた頭をあげる元気がないのでそのままでいると、影は体をよせてくる。
暖かいならまだいいのだが、氷のように冷たいのが辛い。
どうしてこうなってしまったのだろう。一緒にいた男――膝丸は、大丈夫なのだろうか。
たった二日前、私と膝丸は青森にたどり着いた。熊本から西を過ぎて東北地方まで行くのはとても大変だった。でも三カ所も浄化できたからか、道中ほとんど妖とは出会わなかった。旅はむしろ、和やかだったと思う。時折襲って来る妖は二人で息ぴったりに倒していった。冗談で、「私達、いいコンビかもね」と言うと、彼はよく意味が分かっていないくせに、「そうだな」と照れたように笑った。
黒い岩が並んでいる。冬の海は寒々しく、荒れ狂う龍のように躍動していた。海は不思議だ。見る場所や、日によってまるで違う表情を見せる。穏やかな潮騒を聞かせてくれるときもあれば、今日のように怒りに似た波が押し寄せる。
晴れた午後に海岸を訪れた。砂浜は岩が多くて、滑りやすかった。
陸から伸びた岩の道を進んだ先に小さな島があった。途中で道を振り返るとこころなしか面積が少なくなっているような気がして不安になる。潮の満ち引きで道がつかえなくなるのだ。もたもたしていると帰れなくなってしまう。
海から吹き付ける風が白衣の袖や首元から体の中に入り込んでくる。寒くてたまらなくてそれだけですでにめげそうになってしまったけれど、必死に足を動かした。
隣を歩いている膝丸は暗い表情をしていた。体調が悪そうだったから陸地で待っていてと伝えたけれど、ここでも一緒に行くの一点張りだった。終わったらまっすぐに戻ってくると言っても、冷たい目で見下ろすばかりだった。黙って置いていってしまったことは確かなので、信用が地に落ちているのは知っているけれど、不信をあらわにした瞳で見つめられると、申し訳なさを感じた。
島にたどり着くと、風呂敷から手のひらサイズの小さな瓢箪を取り出して栓を抜き、口を下に向けた。中に入れていた日本酒がどぼどぼと落ちていく。瓢箪はもともと小さくてあまり中身が入らないので、数秒で空になった。
榊を手にして祈ると、波が一層高くなった。前方の岩にぶちあたりけたたましい音を立てて白いしぶきがあがる。どどど、と地響きのようなものも混じっている。
後ろに控えている膝丸に目を向けると、彼は視線を受け止めながら頷いた。さりげなく刀に手を置いている。やめてほしくて首を振っていると、しわがれた声が耳に届いた。
「おや。何事かと思えば」
海を割るように出てきたのは、島よりも大きい亀だった。首がぐっと伸びて太陽を隠してしまう。黒い目玉がぎょろりと下をむいて私を捉える。爬虫類特有の、感情の読み取りにくい瞳だった。甲羅の淵にびっしりとフジツボが付いていた。小さな粒の集合体にぎょっとしていると、どこからともなく細い蛇があらわれて、それらの表面をするすると登り、亀の耳元で赤い舌を出す。黒い目でゆっくりと瞬きしながら、亀はうんうんと頷いた。
今まで見てきたものたちとは雰囲気が違って、体の奥に恐怖に似た感覚が走る。神様たちはあまり人に興味を示さなかった。話しかけてくるものもほとんどいない。なのに目の前にいる亀は違った。前のめりになって、前足を岩肌に乗せて体を僅かにもちあげる。近寄ろうとしているみたいだった。もっとよく見ようと首を伸ばすので、怖くてたまらなかったけれど、外側には出さないように注意をして榊を握る。
幾度となく繰り返してきた舞を踊ろうと手を伸ばすと、亀はぶんぶんと首を振った。嫌がっている雰囲気さえ感じたので困惑しながら手を下ろす。
「やぁ、お客人。よく来たね。たんと飲もうじゃないか。清めてもらう方法はいくらでもあるけれど、やっぱり酒がいちばん。これがあるから生きていける」
どこからともなく大盃が現れて私たちは目を見張った。直径一メートルはありそうだ。装飾のない、シンプルな朱塗りの盃になみなみと酒が満たされる。だれも酌などしていないのに、勝手に満ちていった。
亀は爬虫類特有の感情の分からない瞳でぱちりと瞬くと、にこりと口角をあげた。頬の皮膚が皺をつくる。恐らく、笑ったのだと思った。
体の震えを隠すように腕を押さえる。これはまずい。これを断ったら亀はぐっと首を伸ばして頭から丸のみにする、とそんな映像が浮かんだ。予想はあながち間違っていないと本能が伝えている。どんと用意された酒を見つめる。これを飲みだしたら、相手を負かすまで続けなければいけない。盃から立ちのぼってくる香りは、嗅いでいるだけで眩暈がするようなものだった。きっと度数のものすごく高い日本酒だ。
やるしかない。後ろは細い岩の道があるだけで、もし逃げようとしても海に引きずり込まれてしまうだろう。
心を決め相撲取りの優勝の際に呑むような大きな盃に手を伸ばすと、横から自分じゃない腕が出てきてそっと制止させられた。
「ありがたく頂戴しよう」
愕然として、涼しい横顔を見つめた。でも、彼も事の重大さに気が付いているのか口の端が引きつっていた。口角があがっているのに、目の奥は笑っていなかった。
「私がやる」
申し訳なく思って腕を軽く押すが振りほどかれる。小声で、「向こうに行っていてくれ」と男は呟いた。普段あまり怒らない彼の低い声に体が一瞬竦む。悩んだけれど、ここは素直に任せようと一歩後ずさった。
「やはりここは、神同士で飲もうではないか」
と、遠くに呼びかけるように膝丸が言う。旅装束に包まれた背中は凛としていた。風が強く吹いて、人工的に染めた黒髪をかき乱す。海の水がかかるからか、毛先の塗料が溶けて本来の色が透けていた。
男がしゃがみ込んで盃に手を伸ばすと、相手は嬉しそうに頷く。どうやってお酒を飲むんだろう。掴める手も無いのに、と疑問に思っていると、海が鳴いた。亀は、ぐっと首を伸ばして空に向かって咆哮する。長い首が太陽を覆い隠して岩肌に影を落とす。鯨が水面を突き破ってまた海に戻ってくるときのように背中を空に預けると、体の半分が海から飛び出す。氷山の一角に似ていた。それからはスローモーションのようだった。亀はぎょろりと目を向いて膝丸を見つめると、体を半分捻って、甲羅を波に叩きつける。
海が割れる。空を隠すような大きさの津波が生まれる。潜在的な恐怖で足がすくむ。
しぬ。こんなにあっさりと。そう思わせる何かがあった。
膝丸は持っていた杯を海に投げ捨てて振り返る。海に一歩を踏み出すのと、相手が腕を伸ばすのは同時だった。波はたかくたかくもりあがる。静かだった。見開いた目の奥に自分がうつる。口がひらいて私を呼ぶ。もう少しで触れる、というところで、いっそう暗い影が落ち、爆音が響いた。
潮騒の音に薄く目をあければ、薄い影が見えた。世界が横になっている。砂のうえに細いすじが続いていて、目だけを動かして道を追うと白いヤドカリがいた。おしりのあたりにくっついた貝をひっぱるようにしながらのろのろと進んでいる。ちょこちょこと動くつまようじのような脚とはさみを使って横向きに進む。本能的に海の場所を知っているのか、視界からはどんどんと外れていった。
やわらかな砂浜にくたりと横になりながら、自分が野生の動物だとしたら酷く無防備な体制だと思った。今襲われたらひとたまりもない。海に沈む赤い夕陽を見つめながら考える。記憶の中の風景は昼間だったから、数時間は経っている。視線を遠くに向ける。黒いごつごつとした岩は潮が満ちたことで人が一人立っていられるくらいまで面積が減っていて、今にも海にのみこまれそうになっていた。
記憶が一気になだれ込んできて、重い上体を苦労して持ちあげる。
「ひざまる」
声が酷く掠れていたけれどそんなことは気にならなかった。荒れていく気持ちを落ち着けるために深呼吸をすると風に乗った細かい砂まで一緒に吸ってしまって、苦しくなってむせた。祈るような気持ちで右から左へとゆっくり確かめるように視線を滑らすけれど、人影はおろか動物の影さえなかった。
津波に飲み込まれてしまったのだろうか。その可能性は高い。彼は人ではないからご飯を食べなくても、睡眠をとらなくても死なないことは知識としてしっている。けれど、海中まで引き込まれ息も吸えない状態でも生きていられるのだろうか。
青白い顔で海をただよっている男の顔が浮かんで体が勝手に震える。自分で自分を支えるように抱いた。日が落ちてぐっと冷え込んだ風が体を冷やしていく。
いてもたってもいられずに刀が腰にあることを確認しながら足に力をこめたとき、シュルシュルという聞きなれない音がした。顔を上げると、一匹の細長い蛇がいた。あきらかに普通の蛇ではないということは、意志を感じる瞳からわかった。
「目が覚めたみたいですね」
「膝丸を返して」
首ねっこをひっつかんで顔の前に持ってくる。普段だったらこんなことなんてできない。蛇はぎょっとして、手の中からなんとか逃げ出そうと身を捩った。腕に細い尾の先端がばしばしとあたるけれど、離すことはしなかった。
「あの男は無事です。だた、あの方の悪い癖が出てしまって――」
「悪いくせ?」
口から出た声は酷く冷たかった。氷のように温度のない瞳で見つめていると、蛇は下を向いて呟いた。
「負けず嫌いなのです。だから今ごろは、もう」
間髪入れずに海に飛び込もうとすると、蛇は慌てて引き留めた。
「おやめなさい! 冬の海は氷よりも冷たい。溺死しますよ!」
「でも」
それなら膝丸は今頃もっと冷たい思いをしているはずだった。手の中のものが蛇だということを忘れて、縋るように指に力をこめる。
「貴方はとりあえず村に向かいなさい。ここの冬は、辛くて厳しい。ほんとうに死んでしまう」
それだけ言うと、陸にあげられた魚のように蛇が体を跳ねされる。あ、と思った時には腕の中から抜け出して、真っ逆さまに海に落ちていくところだった。
どぼん、と重い音がして冷たい静寂が戻ってくる。海に帰ってしまったようだ。
冷たい風が吹きつけて体を擦る。空には星が浮かんでいた。でも月は出ていなくて、海は暗くて大きな怪物のように見えた。
それから三日間、じっと砂浜に座って待っていたが、とうとう膝丸は現れなかった。夜になると近くのぼろ小屋に入って風をしのいで、朝日がでてくることにまた浜に向かった。海の向こうから姿を見せてくれるような気がした。くたびれたような笑顔を浮かべて、片手をあげる。
まだ十一月の後半だというのに、視界に雪がちらつき始める。まともな防寒をしていないから体が信じられないくらい冷たい。いったん海から離れないといけない。感覚の無い左手の指先と、手首に巻かれた赤い紐を眺める。
四日目の朝になってやっと、移動する決心をした。生きていれば、きっと会える――と、そう思ったから。
それがこのざまだ。道程を思い出し鼻で笑った。山越えをしようとして見事に道に迷ったのだった。
同じ道を歩いていると気が付いたときにはもう遅かった。ぐるぐると似たような景色がめぐるなか、試しに一本の木に刀で十字の傷をつけた。そして、たっぷり数時間は歩き、白い傷がついた木の幹が目に入り愕然とした。
遭難した。理解した瞬間に震えが襲って来る。抉られて痛々しい木肌の表面をなで空を見あげる。白一色だった。白い布が敷かれているみたいに見えた。雲が何層も積み重なってヴェールを作っている。遠くからでもたっぷりと水を含んでいるのがわかる。
今夜のうちに雨は雪になる。そう直感的に理解し、風だけでもしのげるようにと、転がるように近くの洞窟に逃げ込んだ。
多分あの一瞬の判断が命を繋いだのだろうと思う。あのまま欲張って歩いていたら、きっと野たれ死んでいた。それから夜を待たずに雪は降り始めた。最初は綿あめのような軽いものだったのに、だんだんと重みをまし、ぼたぼたとした雪に変わる。あっという間に枯れた世界を白く染め上げてしまった。
「困っちゃうね」
ずるずると体にすり寄ってくる影に手を置いてみる。ばんやりとしていてよく姿が見えないけれど、励ますように手のひらを押し返してきた。
幻覚は時間が経つにつれて存在感を増していく。幻覚を見る段階まで行くとほとんどの人が助からないと何かのテレビ番組で聞いた気がする。いつだっけ。本丸だったか、それとも現世でまだ家族と暮らしている頃に見たのだろうか。記憶は遠くぼやけていて、捕まえることができない。
海にいたときから、何も食べていないし、飲み物も口にしていない。死が近づいてくる。子供のように静かな足音が聞こえてきて、いよいよ幻覚だけでなく、幻聴まで聞こえてきたかと絶望した。体から力が抜けていく。
膝を抱えて、その中に頭を埋める。
遠くで笑い声がしている。瞼の裏は当然のように闇が広がっていたけれど、奥に淡く光るものがあった。
太陽を直視したあとに目を閉じると、目が焼けて奇妙な模様が浮かぶことがある。それに似ている。
桜の花びらが舞っていた。薄くて、やさしい色だ。花の咲きほこる庭で、誰かを待っている。ここは誰にも見つからない場所だからゆっくり話せると思った。
重い靴の音が響いて、庭の奥から誰かが歩いてくる。なぜか分からないけれど怖くて俯いていた。とうとう足音は止まり、見慣れた靴のつま先が視界に入った。なんどか呼びかけられてどこか諦めに似た気持ちを抱きながら顔をあげる。
ちょうど満開に咲いた桜が顔を隠していて、顔が見えない。その人は黙って私を見つめている。風が強く吹いて、桃色の雨を降らせている。
大丈夫、と声がする。まぎれもない自分自身の声だ。苦しいときはいつもそういって自分を励ましていた。
でも、本当は全然大丈夫なんかじゃなかった。悲しみや辛さはコップに溢れる水のようだった。過剰な期待と承認欲求があふれ出てくる。人より仕事を沢山もらえると嬉しかった。危険な任務を任せられると心が躍った。その時だけは、自分が必要にされていると感じた。
「ごめんね」
洞窟の入り口から恐ろしい音が鳴る。風が外から吹雪と共になだれ込んできて体を突き刺す。何百もの刀に刺されているようだった。体を丸めてなるべく風に当たる面積を少なくさせる。
薄く目を開くと、ごつごつとした岩が広がる。ここには何もない。一人ぼっちで死んでいくのだ。
体を小さく胎児のようにさせながら、その場に横になった。抗うことは止めた。眠い。もう何も考えられないし、考えたくもない。
死は安らかなものだといい、と、ずっと昔から思っていた。すべての感覚が鈍くなるだろう。まだ痛みを感じるくらいなら、肉体は必死に生きようとしてくれている。
眠くて眠くてたまらない。意識は暗い底へ沈んでいく。
何も聞こえない。風の音も、雪の音も。いつの間にか幻覚も見えなくなっていた。化け物じみた風体で、いたらいたで不安だったけれど、今となってはほんの少しだけ寂しさを覚えた。
洞窟の入り口はとても狭く見える。岩が小さくなっているのかと思ったけれど、すぐにそれは違うともう一人の自分が冷静に言った。瞼が落ちて薄い闇が手を招く。猛烈な睡魔に抗うことができない。
遠くで人影が動いた気がした。二本の足が見える。また幻覚だろうか。無事かどうかだけ知りたかった。
せわしない足音を聞きながら静かに瞳とじる。目を閉じると全ての感覚がスイッチを切るように停止する。唸るような吹雪の音も、洞窟に水が落ちる音も聞こえない。
死は安らかなものだといい。丁度、こんなふうに。
もう一度だけ胸の内で呟いてから、意識を手放した。
雪で前が何も見えなかった。一面の白の世界の中、膝丸は思うように動かない足に力を込める。指先はもうすでに感覚が無い。気をたどってすぐに森に入ったから、まともな防寒をしていなかった。人だったらすぐに倒れていただろう。物で良かったと、この時ばかりは思った。
膝丸は主を追って雪山の奥深くまで来ていた。神経を集中させる――糸のように微かだが懐かしい気を感じた。
「こっちだな」
確信を持って足を右へ向けた。森の奥へ奥へと入っていく。途中で無人の小屋を見つけた。が、そこには気配がしないので、無視をして前に進む。
全く忌々しい。よりによって海の底に引きずり込むなんて。
あれから三日三晩、膝丸は神の酒盛りに付き合ったのだ。酒比べのようなことはしなかった。なぜか分からないが、気が付いたらひたすらに愚痴を聞いていた。最近の世はどうだ、とか。海を守るのは空や陸を守るのとはわけが違う(なにせ、面積がけた違いなのだ)とか。
海の底は神秘的で、術のおかげで陸上と変わらなく息が吸えた。海底に屋敷があって、客間に通された膝丸は既に帰りたいと心から思った。だが道を戻るにも手助けをしてもらわないので、渋々と用意された席につく。
話は二週、三週、と繰り返されたが、辛抱強く耳を傾けていた。そんなことを繰り返して三日たつと、彼ははればれとした顔を浮かべて、話し相手になってくれてありがとうと言った。水底に一人でいるのもたいがい寂しいので、たまに話をしようという誘いを断れずに、曖昧に頷く。すると亀は満足してあっさりと陸へ帰してくれた。じつにあっけなく。
白い砂浜に足を付けた瞬間に待ち人の姿が無い事に悲しみを覚えたが、すぐに考えを改めた。鼻の奥がつんとした。
――冬だ。
膝丸は哀しくわびしい空気を胸いっぱいに吸い込むと、こうしてはいられないと砂浜を蹴った。こんどばかりは居場所が分かっている。待っていてくれ。すぐに駆けつけるから。
主の手首に紐を付けておいたのは正解だった。あの子はものすごく嫌がっていたが(束縛する男みたいだ、と怒っていた)こんな事態になるのなら、つけておいて正解だった。
視線を前に向け神経を集中させる。胸にざわざわとした感覚が広がった。気が蚕のつくる絹糸のように弱くなっている。ほとんど掻き消えてしまいそうだ。それがどういう意味をあらわしているのか気が付いた瞬間に、寒さとは違う震えがきた。
死。たった一つの予想が、心を串刺しにした。
白い雪の中に埋もれるようにして横たわっている女の姿が瞼に浮かぶ。肌は血色を失い、陶器のようだ。唇は青く、瞳はしっかりと閉じられている。そして、そして――。
膝丸は襲って来る嫌な想像を振り切るように頭を振り、まとわりつく雪を跳ねのけるようにして走った。砂浜を抜けるとすぐに丘が広がっている。その奥に道が続いていた。旅人の為に整備された道だった。突き当りが二手に分かれていて、一つはまっすぐに、もう一方は森へと続いていた。
日が落ちてくると一段と空気が冷え込んだ。こんな夜に山に入るのは自殺行為だ。普通なら平坦な道を選ぶだろうが、膝丸は確信をもって険しい道を選んだ。主は――少しばかり短気なのだ。一緒にいるうちに性格が何となく分かるようになっていた。表面は全く見えないし、周りの男士は、いつもおっとりしていると言っていた。あまり怒ることも少ないと。
本質は全然違う、と一人で口の中で呟きながら息をもらすように笑う。皆の知らない主の一面を自分だけは知っているということは、膝丸の心をあたたかくした。
暫く駆けていると小さな洞窟が見えてきた。微かに懐かしい匂いがする。雪はもう膝くらいにまで積もっていて、歩くというよりかき分けるというありさまだった。勘を頼りに迷わずに飛び込む。酷く薄暗い。当然のように生き物の気配は無かった。
「主! あるじ! ここにいるのか? いるなら返事をしてくれ!」
ほとんど泣き出したい気持ちで呼びかける。ひとしきり大声をあげたのち耳を澄ましたが何の音もしなかった。洞窟の奥へと足を進ませる。海に潜ったときに染料が流れてしまったので髪の毛が本来の色に戻っていることに焦りが浮かんだ。が、こんなところまで人は来ないと不安を打ち消した。
耳鳴りがする。確かに主の気配がしているのに、と思っていると、奥のほうに黒い物体が見える。
体が硬直した。
冷たい地面の上で、女が倒れていた。
火。
ゆらゆらと心地がいい。お風呂に入っているみたい。
いつの間にか吹雪もやんで、まわりは眠ったように静かだった。閉じた瞼の向こうにオレンジ色の光が躍っている。このまま目をあけようかと思ったけれど、体はいうことを聞かなくて、しかたないのでぐったりとしていた。耳はもう機能していないのかほとんど音をひろわなかった。くぐもって、水の中にいるみたいに聞き取りにくい。
がさがさとせわしない物音。熱された木が、ぱち、と爆ぜる音。それらを飛び越えて何かべつのものが聞こえる。混じる雑音に顔を顰めた。誰だろう。とても煩い。頼むから、さいごくらい静かにしていて欲しい。
「死ぬな! 君! 意識をしっかりともて!」
懐かしい声がする。ずっと一緒にいた人の声だ。確か海で別れてしまった。
体をずるずると引きずられて驚いて目を薄く開けたけれど暗い場所にいるということしかわからなかった。凍ったまつ毛が目にはいらないように、ほとんど反射的に目を閉じる。ものすごい力でずた袋を運ぶようにされている。腕を差し込まれ無理に引っ張られて脇の皮膚が痛い。抗議の言葉を口にしたいけれど、呻き声しか出なかった。
そうこうしているうちに床に伸びて、ぐいぐいと背中を押される。体の半分が熱にあてられる。急な温度の変化に心臓が変な跳ね方をした。
不安がよぎる。このままだと駄目な気がする。冬はお年寄りの死亡リスクが高まるというニュースを思い出した。たしか、ヒートショックという現象だった。
「やめ、やめて……」
困惑した様子が伝わってくる。意識がぼやける。薄めに見ると洞窟では無かった。
家だ。オンボロの今にも朽ちてしまいそうな床板が見える。
「ここは」
体が冷たい。意識は浮いたり落ちたりする。
誰かに抱きしめられていた。包み込むぬくもりがやさしくてため息がこぼれる。
ゆるく目をあける。
今は眠ってはいけない気がした。頬の内側を噛むと刺すような痛みがはしる。――良かった。まだ痛いという感覚が残っていた。
ゆっくりと周りを見渡す。十畳ほどの和室だった。真ん中にいろりがあって、赤い光が飛び込んでくる。中には組まれた木があって、熱の正体はこれかと納得した。
「……み、きみ。主!」
急に響いた声にびっくりして顔をあげると近い場所に膝丸がいた。水の膜がはった瞳と目が合う。両腕はしっかりと体にまわされていた。
掠れたような声を漏らして、男は泣きそうに顔を歪めた。だらりとたれた腕を苦労して持ちあげる。頬にすべらせると、氷みたいに冷たかった。
優しい拘束から抜け出して、くたりとその場に横になる。背中に温もりが伝わった。吐く息が震えて首筋にかかる。巫女服ごと巻き込むようにして抱きしめてくれる。
見えている腕に自分の手を乗せる。唇を湿らせて、言葉を絞り出した。
「会えて、よかった」
息を飲む音がして数秒後、拘束が一段強くなる。
翌日になると雪は嘘みたいにやんでいた。扉の隙間から細い光の筋がさしこんでいる。
いろりの火は消えていた。ぼうっと横になりながらくすんだ灰に手を伸ばすと、自分のものではない手がそれを制する。体を捻るとすぐ後ろに膝丸がいた。心配そうに見つめている。
「大丈夫か」
「……たぶん」
手を顔の前にもっていき人差し指を曲げたり伸ばしたりする。でもそれだけで疲れてしまってぽとりと腕を下ろすと、視界が暗くなった。額に手がぴたりとあてられている。冷たくて気持ちがいい。
「少し熱が出ている」
頷きでかえすと思ったより体に力が入らなくてがくんと前に倒れる。素晴らしい速さで腕が差し込まれて、床につぶれることはなかった。
「暫く休ませてもらおう。ここは無人のようだから」
いつの間にか背中から抱え込まれていた。体がぐらぐらとしないので安定感がある。膝丸は火をおこそうか迷って空に手のひらを伸ばしたけれど、諦めたのかお腹にまわした。この体制はらっこの親子を連想させる。
「とても言いにくいのだが……。これから、どうする?」
「どうしようねぇ」
四箇所の浄化は終わった。もうやることはない。指令の鷹も来ない。
顔を見合わせる。
急に自由に放り出されて、私たちは何をしたらいいのか分からず、迷子のように途方に暮れていた。