冬は厳しい。特に東の冬はつらい。
目を開けたとき真っ先に感じるのは体を刺すような痛みだった。寒さはある一定の線をこえると痛みに変わる。自然がいっぱいなのはいいことだけれど、この冬の厳しさだけはいただけない。
敷いた薄い布団に二人で寄り添って寝ていた。一応は二つ布団を並べていたけれど、ほとんど意味をなしていない。いつもどちらかが、相手の布団に侵入している。ほとんど無意識の行動なので、これもたちが悪い。
体に蛇みたいに絡みつく男の腕をそっと剥がしながら、ふと思い立って、瞼にやさしくキスをした。
男は顔を横向きにしている。急に隙間ができて寒気がしたのか体を身震いさせた。彼はとても寒さに弱いので、ちょっとやそっとでは起きないだろう。
布団を巻き込むようにして顔をうずめているので、頭のてっぺんの元気よく跳ねた髪の毛が良く見えた。今日もとびきりわんぱくに跳ねているので、おさえるように笑った。
また肌に触れたくなってしまって、下唇を噛む。心に滲む感情には蓋をした。
名残惜しい気持ちを振りはらうように立ち上がり、浴衣から巫女服に着替える。純潔をあらわしたような白衣に袖をとおすと背筋が伸びる。私はこの服が好きだし、何なら巫女の仕事も好きだった。もし次に生まれ変わりがあるのなら、現代の、小さな神社で働きたいとそんなことを思いながら土間に向かった。居間の境の一段上がっている場所に腰を下ろし足袋をはく。その上から雪用の靴――何というのか未だによく分からないが、複雑に藁で編んでいるやつだ――をはき、土の床を歩いた。
壁にたてかけてあった黒い刀を腰にさし、引き戸に手をかける。その瞬間、猛烈に後ろを振り返りたくなったけれど、そうしたら最後、心はぐしゃぐしゃになって前に進めなくなることはすでに分かっていた。心に見ないふりをして、手に力をこめる。
一歩外に出ると銀世界が広がっていた。白い光がはじけて眩しい。太陽が高いところにあがっていて、雪がきらきらと反射している。
庭を出口に向かって歩く。ザクザクと森の中を入ると、影が動く。大木の影から姿を現したのは、大きな白い狐だった。
「お待たせ」
「あぁ。久しぶりだな」
三つの尾をばらばらに揺らしながら、さほど年月を感じさせない口調で白狐が言った。
「これ、捨てないでくれていたんだ。嬉しい」
赤い前掛けのような布に手をやりながら呟けば、「食事のときに血が毛につかなくて便利なんだ」と、彼は笑った。
「さて。どこへいけばいい?」
「峡谷に」
「あそこか」
「知ってるの?」
まあな、と言いながら背を限界まで低くする。またぎ超えて、しっかりと首元の毛を掴んだ。
「いつかは空を駆けたが、今は冬だからな。地上を走るから二日はかかる」
「それでも早いよ。ありがと」
かがんで首をなでながら告げれば、白狐はにたぁと醜悪な笑顔を浮かべた。ぐっと四肢に力が入り、重心が高くなる。助走をつけるようにはしっていくが、だんだんと速度を上げていった。
景色がどんどんと流れていく。耳元で風が鳴っている。
たっぷり一日走ると、白狐はスピードを緩めていった。ほとんど歩くような速度まで落ちると、木の重なっている藪の中へずんずんと入っていく。奥にへこんだ空間があり、そこに腰を落ち着けた。
頭上は木で覆われていて薄暗い。遠くで梟の鳴く声がしていた。
「まぁ、風くらいはしのげるだろ」
背中から滑り落ちると、彼はすぐに前足を折り、犬が寛ぐような体制になった。近くによっていいのかわからずに何となく居心地わるく立ち尽くしていると、後ろから衝撃が襲ってくる。
「うわっ!」
横腹におもいきりつんのめってしまう。視界が白色で覆われてやっと理解した。尾で弾き飛ばされたのだ。
「急になにするの!」
「ぴいぴい煩いな。今日はそこで寝るといい」
ぐわっと喉奥が見えるほど豪快に欠伸をしながら、白狐は言った。
体を反転させてふわふわの尾をクッションのようにかかえる。何となく顔を近づけてみたら獣の匂いに交じって、お寺の匂いがした。
頭上には大きな木が枝を下ろしている。まるで手のようだ。いつの間にか日が落ちて、影が濃くなっていた。
「星がきれい」
木々の間から満点の星空が見える。周りが暗いぶん、輪郭までくっきり見える。星は囁くように光っていた。
「また置いてきたのか。可愛そうに」
誰のことを言っているのかは聞かずとも分かった。聞き分けのない子供のように黙っていると、ふん、と鼻で笑う音が聞こえる。
「お前はいつも他人の気持ちを考えないんだな。今ごろ、悲しみのあまり吠えているんじゃないのか」
多分ではなく、きっと、膝丸は絶望しているだろう。今ごろ小屋を飛び出しているかもしれない。姿が瞼の裏に浮かぶようだった。
もしかしたら、泣いているかもしれない。一人きりで。
「寒いね」
太い尾を巻き付けながらふかふかとした腹に寄りかかる。白狐は「いい夢を」と歌うように言った。
いつもどおりの朝がきて、起きてから近くの小川で顔を軽く洗った。ついでに口もゆすぐ。冬の水は皮膚を裂くのではというほどに冷たい。が、それには構わずにばしゃばしゃと水を顔に叩きつけた。
さっぱりとして元の場所にもどると、まだ白狐は寝ていた。お腹が呼吸をするたびに上下している。
「あー、さむい。さむすぎる」
急いで体に張りついている尾を持ちあげて懐に潜り込んだ。脇腹にめり込むみたいに身を寄せる。柔らかい毛は内側にあたたかい空気がこもっていて心地いい。眠りを阻害された狐は低く唸りながら何か悪態のようなものを呟いていたけれど、ついに目を覚ますことは無かった。
日が空高く昇るころになって、やっと白狐は目を開けた。ぐわっと豪快に欠伸をすると、尖った歯が行儀よく並んでいるのが見えた。人の頭なんて簡単に噛みちぎることができそうだ。少しだけ想像してしまって、背筋に冷たいものがはしる。
「よく眠れたか?」
「うん。お陰様で。ありがとう」
それには答えずに、白狐はすっくと立ち上がった。怠そうに首をふりごきごきと音を鳴らすと、また足を折りまげ限界まで体を低くしてくれる。
そこからは単調だった。一定の速度とリズムで山道を走っていると、白狐は「少し寄り道していくか」と呟いた。
「寄り道?」
ぐっと顔を覗き込む。彼は赤い瞳を細くさせる。今は比較的標高の高い場所を走っていて、吐く息は白く染まり、霧が多く立ち込めていた。寄り道できる場所なんてなさそうだった。
黙って毛を握りながらしがみついていると、彼は一段スピードをあげて、崖になっている所から、ぴょんと飛んだ。
本当に、何の前触れもなく。
「え?」
時が止まったみたいだった。
静止したような錯覚。内臓が動くような浮遊感。
真っ逆さまに、落下していた。
悲鳴は絞られた喉にふさがれて出てこない。世界が自分を起点に空に向かう。重力にぐっと奥歯を噛み締めて耐えた。
ぴしゃ、と水が足に跳ねて、ぎゅっと体を縮めた。さっきまで崖の上に居たのに、今は川を走っている。
「もう目を開けていいぞ」
目をそろそろと開ける。雪景色が広がっていた。
滝は表面が凍っていて、ほとんどが氷柱になっている。まるで透明な刀のようだった。
「少しあがるか」
白狐はそう呟くと、全身に力を入れる。ぶわっと体の毛が多くなった。毛の一本一本が意志をもったように伸びて、ハリネズミのように逆立っている。必死に首にしがみつくと、胃が浮く感覚が走る。
気がつけば空にいた。
「下をみろよ」
言葉のままに視線を地面に向ける。
絶景が広がっていた。世界は雪で白く染まっている。硬く尖った透明な空気が肺を満たす。どこまでも澄んだ世界だった。
「すごい」
感嘆の溜息を吐くと、白狐は満足げに喉の奥を鳴らした。
そのうちに崖が見えてきて、緩く高度を下げる。崖のぎりぎりに降り立った。
雪で白くなった山々が見える。森があり、地面はなめらかに平たくなり、地平線にうっすらと輝いた線のように見えるのは、恐らく海だ。
目の前に広がる風景に心を奪われながら背から滑り落ちた。地面に足が付く。まだ感覚が戻らなくて、ふらふらとしてしまう。
「指定された時刻はいつなんだ」
「丑三つ時」
「なんだ。まだまだじゃないか」
鼻を鳴らしながら彼は頭上を仰ぐ。太陽がさんさんと輝いていた。
「どうやって、鬼門を閉じるんだ?」
「分からない。手紙には、敵が出てくるから、膝丸と戦わせて、残った方を始末しろって」
「なんだ。全部知っていたのか。敵は消せるし危険因子も無かったことに出来るな。政府というのは頭が切れる」
「うん。そうだけど」
言い淀み意味もなく白衣の袖を伸ばしていると、彼は酷く優しい声で私を呼んだ。
「お前は、今日で死ぬよ」
「……どうして?」
急にそんなことを言われて少なからず動揺する。思い出したように不安が押し寄せて、迷子の子供のような声色になった。
「簡単に倒せる相手では無いだろう。蟻が踏み潰させるように命を散らして終わりさ」
挑むような気持ちで前を向いた。屈してはいけないと思った。
「無事に封鎖できたら、元の時代に帰ろうと思ってるの。膝丸と一緒に」
「刀解しろと言われたら?」
「そのときに考える」
取り繕うように笑うと、狐はふん、と鼻を鳴らした。
「ずっとここで暮らせばいいじゃないか。お前の寿命が尽きるまで」
「いいのかな。そんな、平和に生きていて」
「いいさ。俺がいいって言っているのだから」
傲慢な言葉だと思ったけれど、わざわざ伝えることはしなかった。引き留めるような言葉をかけてもらえて、うれしくないといえば嘘になる。
「それでもいいかもね。そうしたら、白狐にもいつでも会えるし」
が、もう返事は返ってこなかった。そのかわり、耳がぴょこぴょこと動いている。
山は日が落ちるのが早い。
辺りを散策していると、みるみるうちに太陽が傾き、そして地平線に沈んでいった。闇がだんだんとこくなり、ぽつぽつと星がちらつく。白狐は大きな木の根元に体を横たえると、ほら、と言った。無言でお腹にぴったりと身を寄せる。世界を遮断するように白いふさふさとした感触がふってきた。
「数時間しかないが仮眠をしておいた方がいい」
言われるまま、少しだけ仮眠を取る。不安が煙のように沸き起こり心臓を包む。さっきの予言めいた言葉のせいだった。
意識が完全に落ちるまで胸のざわつきは消えなかった。
梟の鳴く声で目を覚ました。月が真上に来ている。恐らく、日付が変わるだろうという時間帯だった。
白狐は無言で立ち上がると、私を背中に乗せてくれた。流れるような動きで空へともどる。満点の星空だった。
綺麗な景色に見とれる暇もなく、彼は降下を始めた。緩く高度を下げていく。
「俺は命を大切にしたいから、この先には行かない」
地面にそっと足を付けながら、少し疲れた声で彼は言った。すぐさま背から滑り落ちる。
「一つ、アドバイスだ。自分の一番得意な分野で戦え。ずるくたっていい。戦うときは、全力で勝ちに行くんだ。分かったな」
「ありがとう」
大きな肩が一度だけ震える。深い血のような紅い瞳を覗き込む。何か言いたそうにしていたけれど、にやりといつもの含み笑いをするだけだった。ものすごい突風が吹いて、腕で顔を庇う。はずしたときには、すでに白狐は居なくなっていた。
「さいごくらい、話を聞いてくれてもいいのに」
乱れた髪を手で整えながら後ろを振り返る。空気が一段冷たくなった。
少し行った先に谷がある。闇に沈んで底は見えない。
どこから敵は出てくるのだろう。川の音に導かれるように崖に近づき、谷底を覗き込んだ。そこは予想どおり深くて、下は川になっているはずなのに、水の流れが見えない。足を滑らせたらどこまでも落ちていきそうだと思った。
なお観察するために上流から視線をすべらせていると、赤い光が点滅した。
下から突き上げるような衝撃。体がぐらつき、地面に手を伸ばした。
体制を低くしながら慌てて谷底をのぞき込み、言葉を失った。
下は川だったはずなのに、跡形もなく無くなっていた。ただひたすらに闇が広がっている。真っ赤な炎が舐めるように壁を伝う。闇に飛び込んでくる赤色が鮮やかだった。
谷底から僅かに目線を上げると。空間が奇妙にねじれている箇所があった。直感でそこが入り口だとわかった。三日月型の切れ込みの向こうに黒い粒がうごめいている。
最初に手が出て、小さな粒は空気を圧縮するようによりあつまり、人の形になった。
二本の角が天に向かって伸びている。鬼だ。目が炎を含んでいるように赤い。口からは火の玉が躍り出ている。手には大きな刀をもっていた。数秒の間。遠く離れているのに、確かに相手が笑ったのがわかった。
空気の振動が伝わる。相手は腕を裂けめからにゅっと出して崖に手を置く。体を引きずり出すような仕草をした。胴体がずるずると現れる。
刀を握っている手が小刻みに震えた。
白狐よりも何倍も大きい。自身の黒い刀を見つめる。文字通り化け物を目の前にして、まるで爪楊枝のように頼りなく思えた。
――お前は今日で、死ぬよ。
耳の奥で深い声が響いた。
ぼうっとしているうちに鬼は目の前まで来ていた。一瞬で間合いに入ってこられた。体を捻ってかわし伸ばされた腕に刀を突き刺す。当然のように奥までいかない。力が足りない。葉っぱみたいに弾き飛ばされ、咄嗟に受け身を取った。
体が地面に引き倒されて、土が口に入る。絶望が襲って来る。死の足音がする。体が竦んで動かない。
太い脚が地面を踏む。死の匂いがした。
どうしてだろう。こんなときなのに、脳裏に懐かしい姿が浮かんだ。
流れ星のように尾を引く刀の筋。
残像に突き動かされるように地面を蹴る。飛びのいて刀を鞘に収め、奥に走った。
重い足音が追ってくる。
鼠のようにあちこち逃げながら懐をまさぐると硬い感触が指先に伝わった。東へ鱗を飛ばす。崖に突き刺さる。
鈴の音に似た響きが空気を震わせて、辺りが一瞬で浄化された。
驚きながら、でも手ごたえを感じる。次は西だ。黒い牙を投げる。鋭く尖ったそれは石の上に落ち、新しい土が盛り上がった。
龍の鱗、虎の爪。残りは。頭がうまく回らない。気が付くと木の間をでたらめに走っていた。川沿いを延々と走る。あんまり鬼門の遠くにいくこともできない。
すぐ横の木が激しい音を立ててしなり、なにごとかと思って横を見ると、石がごろごろと転がってきて躓きそうになった。漬物石につかえそうなほどに大きいものだ。後ろの鬼がなげているのかもしれない。体に当たったら、と想像してぞっとした。
亀にもらった金の糸を刀に巻き付ける。こうでもしないと川の下には届かない。景色はどんどんと流れいくが、にごった空気は消えなかった。
ごめんなさいと心の中で呟いて、刀を谷底へ渾身の力で投げつける。
雷のような音が鳴った。
下を見れば炎が消えていて、氷を含んだ川が流れている。
成功しているみたいだ。空気はさっきよりだいぶ軽い。
「つぎ、つぎは。入口はどこっ」
斜面は気が付くとなだらかな下り坂になっていて、ころげるように落ちていく。気が付くと重い足音が消えていて、後ろを振り返ると鬼の姿が消えていた。
どこに行ったのだろう。木が組み合わさっていて、闇が広がる。
だけど、これはチャンスだった。このまま谷底に向かおうとして、足をとめた。
それは直感に近かった。自分の中のもうひとりの自分が、そっちにいくなと叫んでいる。
間髪入れずに方向転換すると、反対側を目指した。正直あっているか分からない。南の方角を思い出しながら目の前の崖によじ登ろうとしたが、肉の腐った匂いが風に乗って届いた。
慌てて右へ向かう。戻ってしまっていると気が付いたとき、岩が崩れているのが目に入った。
さっきまでいた所が吹き飛んでいる。道はぐしゃぐしゃで大きな木に塞がれ谷に戻れなくなっていた。
息が切れる。肺が苦しい。
「どうしよう」
顔をあげたさきに洞窟があった。明らかに罠のような気がする。つい、癖で腰に手をやってしまうが何もつきあたらずに手は巫女服の上をすべっていく。刀はさっきの浄化につかってしまった。
迷っているうちに遠くで犬の遠吠えが聞こえる。よく耳を澄ますと、敵の吠える声だった。
いくしかない。道は前にしかない。背中を押されるようにしながら、洞窟に向かって走った。入り口をくぐると一段と空気がつめたくなり、空気が吸いにくくなる。地面は緩く勾配がついている。段々と上に行くにつれて、細い風がなだれ込んできた。
もう少しだ。月の光が見える。洞窟はところどころ天井が抜けていて光の筋がさしていた。少しでも光があると安心する。力を振り絞って地面を蹴る。が、わずかな希望を打ち砕くように後ろから飛び込んできた音に、全身が硬直した。
洞窟の出口はすぐだった。ズルズルと何かを引きずる音がしている。どこかで聞いたことがある。
絶望が胸を満たした。
「まさか。……あぁ、嫌だ。かみさま」
細い嘆きが口から漏れる。心臓の鼓動が煩い。耳を塞いで、ついでに気絶したいと思った。
突きあたりの先から歪んだ細長い闇が伸びている。
その奥から、しゅうしゅうと煙を吐くような息使いが聞こえた。
長い影が揺らいで、音の正体が姿を現した。
水のような滑らかさで闇から躍り出てきたのは、大きな蛇だった。
体が動かない。どうしてだろう。早く逃げないと。いつもならもっと動くのに。
目があった瞬間、時が止まったような気がした。自分の口からひゅうひゅうと口から声が漏れている。息が上手く吸えない。
丸い琥珀色の瞳に女が映っている。目を大きく見開いて心底怯えた表情を浮かべていた。
確かめるように赤い舌を数回出し入れすると、蛇は目にも見えない速さで首を前に出した。飛び退くようにして後退する。
二本の牙から糸が垂れる。唾液は壁にあたると、岩がしゅわしゅわとラムネのような音を立てて溶けていった。
耳の奥で轟音が響いている。洞窟の中を転がるように駆ける。
体がやっということを聞いてくれた。後ろを振り向いたら終わりだ。怖い、死ぬ。
蛇は追いかけながら私を殺そうと牙を鳴らす。カスタネットみたいな音だった。背中のすぐそばで風が鳴って、ガチンと激しい音が響く。恐怖でどうにかなってしまいそうになりながら、右に左にと逃げた。洞窟は走りにくい。転んだら終わりだ――と思っていたのに、予想外のことに足がもつれて落ちていた石に躓く。
体に衝撃がくる。地面に伏していた。体を反転させ息を飲んだ。目と鼻の先に蛇の顔があった。
ちろちろと赤い舌が出し入れされて、頭をぐっと後ろに向ける。その構えは何度も見てきた。
だから、次に何をするのかも手に取るように分かった。
蛇はぱっくりと口を開ける。二本の牙が覗いた。
――あ、死ぬ。
覚悟して頭を抱える。頭を伏せる瞬間、闇が動いた。
突風が吹き、洞窟の奥から白い影が飛び出してくる。何かは蛇の体を横から羽交い絞めにすると、首元に噛みついた。ものすごい悲鳴が洞窟を震わせる。人と動物が混じったような声だった。何が起きたのか分からないまま顔をあげる。三角の耳が見えた。ふわふわの白い毛並み。首には薄汚れた前掛けをしている。
蛇との間に向き合っていた白狐は、相手が牙を向けた瞬間に後ろ脚をけった。
地獄絵図のようだった。化け物同士が殺し合っている。攻撃を繰り出すたびに風が吹く。巨体を叩きつけられるたびに洞窟は揺れていまにも崩れてしまいそうだ。白狐が転がりながら蛇の喉元に食らいつき黒い爪で腹を引き裂く。黒い血が雨のように飛び散った。
視界に緑色が舞った。蛇の尾が白狐に巻き付く。とぐろを巻きながら白い巨体を締めあげていく。狐の柔らかい腹がひしゃげて、肋骨が折れたのか、べきんと籠った音が響いた。
それでも彼は牙を外さなかった。駄目押しとばかりに顎に力を込める。
竦んで動かなく足を叱責して立ち上がると、爆音とともに洞窟が揺れた。
見えない影に吹き飛ばされて、二つの巨体がふっとび、向こうの壁に激突する。
「こ、こんどはなに?」
急に開けた視界を見つめる。這いずるように届いた殺意に振り返った。
反対の洞窟に目を凝らす。まがまがしい妖気が向こうからなだれ込んでくる。闇だ。影が揺らめく。太い脚が出て、段々と体が浮きあがっていく。
道の果てに鬼が居た。醜い牙をぎらつかせながら此方へ向かって来る。背中から聞こえてきたずるずるという音に絶望しながら振り返ると、巨体を引きずりながら近づいてくる蛇が見えた。口元が真っ赤に染まっている。
まさか。視線を遠くに向ければ、毛のほとんどを赤く染めた白狐が倒れていた。右から首筋まで刀で切られたように線が走り、中の肉が見えている。白い腹を横にしたままピクリとも動かない。
蛇は一新にこちらを見つめて這いよってきた。
もう無理だ。後ろも前も地獄だった。どっちと戦っても勝てない。むしろこうなってしまうと、戦おうと思ったことすら愚かな選択だったと痛感する。
半分壁に寄りかかるようにしながら近づいてくる蛇を見つめる。逃げようという考えは消えてしまっていた。
蛇は黄色い瞳を細くする。ぶわりと風が動いて、巨体が目の前を通っていった。
壁に体をめり込ませるようにしてよける。体の表面を薄くなぞるように鱗が滑っていく。食べられる。恐怖のあまり目を瞑った。丸のみにされる。喉を通るときにあちこちの骨が折れるだろう。でもきっとそれだけでは死ねない。腹の中でゆっくり消化されてじわじわと殺される。死ぬならひと思いに死にたい。痛いのは嫌だ。
歯を食いしばって襲って来る牙に身構えていた。だがいくら待っても衝撃がこない。壁に限界まで背を付けながら薄目をあける。蛇はいなくなっていた。
左からガラガラと音がして、視線を向ける。天井から漏れる月の光に照らされて二つの黒い影が動いていた。一つは鬼で、もう一つは細長い。さっきまで追いかけてきた蛇だった。
鬼は突然現れた大蛇に驚いている。刀を振り上げる動作が遅れ、死角から飛んできた蛇の尾にはじかれる。尾は鞭のような音を立てて手首に当たった。野生動物の戦いを見ているみたいだった。口から火の玉をぼろぼろと出しながら吠えている鬼に対して、蛇はあまりに静かだった。首を高くして静止している。置物みたいだ。
鬼が何かを喋ろうと口をあけたときだった。何の前触れも無く、蛇は弓からとばされた矢みたいに顔を突き出す。
ものすごい早さだった。一度、二度と噛みつきものすごい速さで体に巻き付くと、万力を込めて締め上げる。
離れているのに、内側から籠ったような音が聞こえる。骨が折れているのだ。蛇は鬼を巻き込みながら丸くなり全身に力を込める。ぐるぐる巻きになった胴体の隙間から腕が飛び出していて、力なく痙攣している。
どちらも動かなくなった。置物みたいだ。
「逃げろ」
細い声が届いてはっとした。指の先に血がいく感覚がする。声に導かれるようにして道を戻った。足音を立てないように、でも駆け足で距離を取る。
声の主は分かっていた。ぼろぼろになっている狐が口を微かに開けている。風のような音が漏れている。膝をついて裂けている肩に手を伸ばした。すると、彼の瞳に力が宿る。
「早く行け。俺は大丈夫だから。傷もじきに治る」
「でも、」
「せっかく作ったチャンスを、無駄にするな」
そう言うと白狐はぐったりとして動かなくなった。見れば確かにいつの間にか傷から流れる血が止まっている。ゆっくり再生しているらしい。
「絶対戻ってくるから」
首元をひとつ撫でて、勢いよく立ちあがる。今しかない。風が流れているほう、敵とは逆側へと足を向ける。
走りながら蛇の瞳を思い出した。正気を失い、完全に殺そうとしていた。もう戻れないのだろうか。考えてはいけない。余計なことは考えるな。今は生きることだけ考えろ。
泣きだしそうになるが、ぐっと眉間に力を込めて必死に足を動かした。洞窟はまた天井が低くなり、どんどんと暗くなっていった。出口のない暗闇の中を走っている気がしてくる。場所が間違っていたら。南の方角だと思うけれど。
神様から貰った欠片を依り代にして鬼門封じをする方法だって、つい先日思いついたものだった。四方を清めることで結界をつくることは術を知るものの間では常識だった。でも、成功するかは分からない。なにせ前例がないのだから。
泣きそうになりながら必死に走り抜けていた。そうしているうちに、外の景色が目に飛び込んでくる。
丸くくりぬかれたような雪景色が見える。出口だ。
肺が苦しい。喉が焼けるようだった。空には月が輝いていて、雪で白くなった雪を浮かびあがらせる。洞窟から転がるように飛び出すと視界がひらけた。外の空気をいっぱいに吸い込む。
また空気が一段と下がって冷たかった。走って汗をかいていたから、よけいに。
懐から鳥の神様に貰った羽を取り出して辺りを見渡す。ここは最初にきた谷と繋がっている場所のようで、数メートル先が崖になっていた。
崖に向かう道すがら雪の中に見慣れないものが目に入って、急いで近づいた。ながれるように地面に落ちていたものを拾う。雪の中に埋もれていたのは重厚な太刀だった。中身を見なくても、膝丸の本体だとすぐに分かった。何となく抱きしめながら呼吸を落ちつける。持っているだけで勇気が出てくるような気がした。
「よし」
刀を手に持ったまま歩き、崖ぎりぎりに立つ。底は闇になっていた。いくつも裂け目が生まれて、奥に黒い粒がうごめいていた。下水のような嫌な臭いが底から溢れてきて、眉間に皺をよせる。何人もの声が合唱のように響いている。重なる悲鳴。そして、合間にお経のようなものも聞こえた。
手に持っていた羽が熱くなる。いつのまにか全体が炎に包まれていて、オレンジ色の光をたたえていた。
心を決めて、羽を地面に突き立てる。かたい手ごたえのあと、火柱がたち顔を腕で庇った。耳元でごおごおと音が鳴る。熱風が体を突き抜ける。不思議と熱さは感じなかった。あたたかい春のような風だった。
数秒遅れて、谷底から絶叫が轟いて目をあける。谷底を覗き込んで驚いた。裂け目が勝手に閉じている。めりめりと塞がれていく。向こう側から出てこようと人の手がうごめいていた。
風がふいて顔をあげる。驚きで言葉を失った。透明な龍が空の中を泳いでいる。追いかけるようにして火の鳥が周りを飛んでいた。
裂け目はもうほとんどふさがって、針の細さになっていた。やがて完全にふさがり、その瞬間、下から突き上げるような揺れがきた。
落ちてしまわないように膝をついて、手に持っていた刀を抱きしめる。揺れは長いこと続いた。地球が身を震わせているみたいだった。あんまり続くので怖くなってしまったが振動は穏やかになり、数分後、嘘のように静かになった。
「お、終わったの……?」
縋るように辺りを見渡す。戦いの名残は無くなっていた。奥に洞窟の出口があるが音は何もしない。空を舞っていた異形のものたちもいない。
「ひざまる?」
泣きそうになりながら独り言をつぶやいたとき、後ろで土が擦れる音がした。
心拍数が上がる。刀を手に持ったまま勢いよく立ち上がり後ろに退いた。振り返り、呼吸を深くしながら洞窟の入り口を見つめる。最初に見えたのは黒く歪んだ指先だった。肉の腐った匂いが届く。巨体が暗闇から現れる。口から覗く牙、二本の角。鬼だ。胴に大蛇が巻き付いていた。蛇の牙が首に刺さっている。しかし、どちらも確かに生きていた。
鬼は蛇を引き離したいのか爪で蛇の体を傷つける。それでもゆるまない拘束に、苛立ちを隠さずに唸りながらゆっくりと近づいてくる。
目があった瞬間に刀を抜いた。剣士なんかじゃないから、刀なんてまともに使えない。自分にかけた術が効果を表して体が動く瞬間を待った。記憶をかして下さい。戦場で敵を葬った、貴方の記憶を。
願いながら柄を握ると、視界が弾ける。が、いつもと様子が違った。
体の中を感情の波が通り過ぎていく。切なさと、深い悲しみが押し寄せた。これはなんだろう。初めての感覚だった。いつも使っていた刀ではこうはならなかった。
白い光が点滅して、心臓を押されたような悲しみが押し寄せる。
潮騒が聞こえる。錆の匂いとじわじわと肉体が滅びていく感覚。それは死に似ていた。さっき洞窟の中で想像した蛇の腹で少しずつ溶けていく感覚にも近かった。
発狂したいほどの焦りと恐怖に震える。微かだった潮騒の音が爆音のように響いていた。頭が壊れそう。濁流のようだった。いままで味わった悲しみや絶望を凝縮してもとても足りない。
吐き気さえ覚えたころ、ふっと音がやんだ。急に現実に放り出されて茫然としてしまう。
何も知らなかった。言ってくれなかったから、自分の事ばかりだったから、全然分からなかった。術は刀の記憶を使って発動するから、これは。
「膝丸」
子供みたいな声がでる。どうしていいのか分からない。目からは勝手に涙が出てきて視界を満たしていく。
「起きて。ひざまる、おきて」
呼びかけに反応したように、鬼に引きずられていた蛇が目をあける。金色の瞳が私を捉える。手に握られた本体と鳴いている女を交互に見て、驚愕に目を見開いている。それが恐怖に縁どられていくのを、遠くから眺めていた。
彼は絶対に過去を教えてくれなかった。どうしてもっと聞いてあげなかったんだろう。知ろうとしなかったのだろう。
男はずっと恐れていた。絶望しきった瞳を受け止める。敵は数メートル先まで来ている。後ろは崖で退路は無かった。
絶望に染められた瞳を受け止める。
体が勝手に動いて、自分でも呆れた行動をした。刀を垂直にする。――持っていた柄に優しく口づけた。
蛇の瞳がこれ以上ないくらいに大きくなる。金色の中に自分がうつっている。見たこともない力が宿り、蛇は突き動かされるように頭を後ろにそらす。
それからは一瞬だった。牙が首元に食い込む。全身の筋肉が波打ち、万力を込めて圧迫する。
自身の足が地面を蹴り上げた。腕は何かに操られたように刀を抜く。
鬼は急に動きが変わったことに驚いていた。一気に跳躍して刀をふりあげる。
肉を断つ感触。鬼の首に刃が突き刺さっていた。
血が噴き出して雪を赤く濁らせる。むせ返る血の匂い。鬼はなにか求めるみたいに手を空に伸ばしている。
片足で黒い胴を蹴り上げ、反動で刀を引き抜く。
ドサッと重い音が響いて視線を向ける。絡みついていた蛇が地面を這っていた。首をもたげてちろちろと舌を出し入れする。鬼は血の止まらない首元を押さえて、信じられないように前を向いていた。
よろよろと崖に向かって歩いて行く。もう勝負は明らかだった。
自ら身を投じるつもりかと刀を構えながら行動を見守る。
鬼は操られたように歩みを続け、ぎりぎりでぴたりと止まった。そして前方へと倒れていく。
スローモーションのようだった。鬼は振り返りながら背を谷に向け、足を空中に踏み出した。そして目があった瞬間、にやりと口角をあげた。
落ちる間際、近くにあった細い蛇の尾を握る。道ずれにするつもりなのだ。鬼の姿が崖に消えて行く。蛇は吠えて雪の上で体を捩った。崖のほうまで体が引っ張られる。半分くらい身が投げ出されてしまった。
鬼は笑っていたが、途中でぱっと自分から手を離した。体が谷底に落ちていき、川にぶつかる寸前で消えてしまう。
肩で息をする。静寂だった。
しゃがみ込んでもう一度、谷底を喉きこむ。川が流れているだけだった。
「ひざまる!」
数メートル離れたところで大蛇が藻掻いていた。体の半分は崖の下に伸びていて、地面まで登れないみたいだ。力が出ないのか、蛇腹が崖をびたんびたんと叩く。努力も空しく巨体はずるずると下に滑って落ちていく。絶望の色を浮かべる瞳と目があった。
転がるように走って、蛇の首を抱く。
「絶対に離さないから。大丈夫。力を合わせよう」
必死に手に力を込めるが、巨体を持ち上げることなどできない。そうしているうちにどんどんと下に落ちていく。焦りながら首を引っ張った。腕の中で蛇の頭が藻掻く。掴まれて痛いのかと思ったが、どうにも違う。拘束から抜け出そうとしていた。
蛇は意識がはっきりしていないみたいだった。空を見て、私を見て、最後に崖に視線を落とす。先は断崖絶壁で、下には川が流れているから水の音が聞こえた。
――崖。あの日と同じ…… 嫌だ嫌だ、いやだ!
頭の中で声が聞こえる。驚いて腰にさしていた刀に触れる。まだ術が効いているのか、微かな気の流れを感じた。何とか陸に乗り上げようと無我夢中で尾を岩壁に叩きつける。だが逆効果で、やがて本人もそれを悟ったのか動かなくなった。
震えている頭を抱きかかえる。眉間の平たくなっているところにほほをあてる。体温は感じない。しっかりと抱いたまま動かないでいると、腕の中から小さな声が聞こえた。
「このままでは、道ずれになってしまう。頼む、手を離してくれ。君を助けたい」
意味が分かった途端、胸にとんでもない悲しみが押し寄せて、同時に沸騰するような怒りが湧いた。
「どうしてそんなことを言うの? ずっと、一緒にいるって言ったじゃない!」
絶対に離さないとばかりに、まわした腕に力を込める。白衣から覗く肌に冷たい感触が伝わる。蛇の丸い目から泉のように涙があふれていた。
もう駄目だ。雪で滑って陸に戻れない。諦めに似た気持ちが沸いて、蛇の首元に腕を絡ませながら抱き着く。こうしているうちにも体がゆっくり谷へ向かっていく。
「ありがとう、主。君に会えて本当に良かった」
どうしてそんなことを言うのだろう。怒って言い返そうとしたとき、体が反転した。気が付くと空中にいて、雪の上に腹から着地する。蛇が首を勢いよく振り上げたのだ。衝撃で吹っ飛ばされてしまった。
呻きながら体を起こしたとき、目に飛び込んできたのは空に投げ出された蛇の巨体だった。頭を振りあげたまま、彗星のように落下していく。
聞いたことのない絶叫が自身の口から飛び出る。体を裂かれた動物のような泣き声だった。
「ちくしょう。俺をこんなにしやがって」
影がよぎる。目を見張った。白い牙と丸太ほどの腕が見えた。赤い前掛けが風にゆれている。
「白狐!」
歓喜の声には耳を傾けずに、狐は崖に向かって疾走する。身を乗り出してがっしりと蛇の首下を噛み込むと、ぐいぐいと巨体を引っ張り出した。本当に少しずつだけど、陸に戻ってくる。まるで綱引きをしているようだった。
「頑張って!」
白狐は噛み締めた口の奥で「わかってるよ」と唸り、うるさそうに頭を振った。そうしているうちに垂れていた尾が出てきて、全身があらわれる。
「膝丸! 膝丸!」
全身が陸地に戻ってきてやっと白狐は口を離した。ぼと、と蛇の体が雪の中に落下する。白い雪にじんわりと血が滲んでいた。
急いで頭のほうにかけよる。ぐったりとしているが、空気を漏らすような呼吸音が口から聞こえて安堵した。白狐はその場にべたりと腰を下ろしながら、口の中のものを一生懸命に吐き出していた。
「ぺっ、ぺっ。うぇ、鱗がはがれた。気持ちが悪い」
「ありがとう!」
大砲のような勢いで胴に抱きつく。
ありがとう、ありがとう、となんどもお礼を告げると白狐が頭を下げて口を近づける。
「お前はよく感謝の言葉を口にするな。だから嫌いだった。……土地神だったころの気持ちを、思い出してしまうから」
赤い瞳がひとつ瞬きする。とてもやさしい色をしていた。
そのまま湿った鼻先を左腕に押し付けると、さよならも言わずに、風と共に消えてしまった。
ぼうっとしながら遠くの山を見つめていると、呻き声が耳に届いて振り返る。いつのまにか人型に戻った膝丸がいた。右手にはしっかりと刀を持っている。
「君が本体を握ってくれたから、正気に戻れた」
「よかった……」
抱きついて肩口に顔を擦り付けると、彼は驚いて体を震わせたあと、うれしそうに顔を近づけた。
やった。終わった。胸を満たしたのは安堵と高揚だった。
「今まで、本当にごめんね」
「俺の過去を見たのか?」
抱き着いたまま小さく頷くと、膝丸は震えた声で「そうか」と言った。
「嫌いになっただろう。もう離れたくなったか」
男の震える手が背中に伸びて、優しく撫でる。服越しに伝わる手は熱かった。小さく頭をふると、息を飲む音がする。
「ずっと知られるのが怖かった。聞かれないことをいいことに、黙っていた。蛇になることもそうだし、崖にいた間のことも。君に対して抱いていた感情も」
「うれしいよ。そんなに思ってくれていて。何も知らなくて、酷いこと沢山してごめん」
膝丸は大きく息を吐いて「いいのだ」と言った。僅かに体を離して瞳を覗き込む。はればれとしていた。
目を伏せて、あのねと続ける。男は黙って耳をかたむけてくれる。
「もう逃げるのはやめる。審神者に戻るよ」
「では俺を使ってくれ」
間髪入れずに男が言う。笑いながら頷いた。
「一緒に来て。私の刀になって」
膝丸はきょとんとしたあと、顔をほころばせる。
「俺はあの日、丘で出会ったときからずっと君の刀だ」
「ありがとう」
回した腕に力を込める。黒い上着から、ふと向こう側をのぞいた。
切り取られたような崖が見あり、下は谷底になっていて見えない。暗い空間に、一瞬だけ光が瞬いた。
赤い光がちらつく。
鬼だ。
嘘だ。確実に落ちたはずだったのに。固まることしかできない。うまく気配を消しているのか、膝丸は気が付いていない。
腕を出して懸垂の要領でこちら側へ戻ろうとしている。敵は崖から半身を乗り出すと、最後の力を振り絞るように肩に刺さっていた細い牙を抜いた。
それからは一瞬だった。
拘束を振り切って、男を横に突き飛ばす。
牙がせまる。矢のようだった。
身を捩ってよけようとしたけれど、硬い物体が軽く表面をかする。
――たった、それだけ。それなのに、とんでもない痛みが突き抜けた。
鬼は嗤っていた。そのまま、自分から手を離して、崖に落ちていく。
静寂が訪れた。
服がどんどんと溶けていく。
急に突き飛ばされた膝丸が雪の中から体を起こし私を見つめ、肩口で視線が止まった。
「あ、あ。そんな」
ふれようと伸びてくる男の手を弾いた。しゅうしゅうとラムネのはじけるような音がする。毒が表面から皮膚を焦がし、肉を溶かしていく。気絶してしまいそうなほどの激痛で視界がゆれる。
「だ、だれか」
「……無理。助からない」
焼けるように痛い。肉が焦げる匂いがする。
「あぁぁああああ! どうして!! そんな!」
「紐、ほどいて。じ、自分のじゅつ、で、なんとかできる、かもしれない。力を貸して」
口から勝手にあぶくが出てくるからうまく喋れない。痛くて痛くてたまらない。毒が全身にまわっていく。
膝丸はなんとかできるかもという言葉を信じて、ふるえる指で必死に紐を抜き去った。
左手で印の形を作る。一回しか見たことがない。けれど、強烈な記憶として頭に残っていた。
編み込まれていくようなそれを見ながら、膝丸は縋るような声をだした。
「よ、良かった。これで主は助かるのだな。俺は何をすればいい」
人差し指が淡く光っている。複雑な術だ。咳き込むと血が喉から噴き出して熱い液体が口の端から垂れた。拭うこともせずに指を走らせる。
「あ、あるじ……?」
膝丸は不審に思って尋ねる。腕の鱗が勝手にパラパラと取れていった。
「ごめん。本当は、呪いを解く方法、ずっと知ってた。決心が、つかなかった。……あの時、逃げてごめん。……約束、果たせなくて、ぁ、ご、ごめ、」
言葉がでない。肌に押し込むように指先に力を入れると、赤い文字が皮膚にしみこんでいく。
呪いが消えていた。
死は安らかなものになればいいと思っていた。最後ばかりは思い通りにはならなかったけれど、胸を満たしたのは安堵だった。
遠くで音がしている。懐かしい気持ちがこみあげる。
もう目はなにも見えていないし、何も聞こえない。眠るように目を閉じる。
膝丸は最初何が起こったのか分からなかった。女は術が得意だったから、何か助かる方法があるのだと思った。例えば血を止めるとか、毒の進行を遅らせるとか。それには沢山の力を使うだろう。自分の力が必要なら、分けあたえようと思い、赤い紐に手を伸ばした。
女の体からは血の匂いとまとわりつくような死の匂いがした。肩口には毒が触れてしまったのか白衣が溶けて、中の肌が見えている。しゅわしゅわと小気味いい音を立てながらこうしている間に皮膚を溶かす。傍にころがっている牙を見て茫然とした。ショックで何も考えられない。
女は膝丸の左手首に何か術を書いていく。力を分け与える術だと信じて疑わない膝丸は、早く、早くと心の中で願っていた。もし力を吸い取られすぎて死んでしまうことになっても、一向にかまわなかった。
体にしびれに似た感覚と、心地良さを感じてやっと疑問に思った膝丸は女の瞳を見つめる。
その時になって初めて、膝丸はすべてを理解した。
呪いが消えて、体が驚くほどに軽くなる。と、同時に、女の体から力が抜けた。
両手で抱きしめながら何度も名前を呼ぶ。黒い瞳は何もうつしていない。声も届いていないみたいだった。
「主?」
体が絞られるのではと思った。爆音が体の中で響いている。
幾度となく見て来た死の中で一番きれいで、残酷だった。魂の抜けるとき、女の目の端から押し出すように涙がこぼれた。 冷たくなった体を抱きながら、空に向かって絶叫する。痛めつけられた動物のような声だった。
雪が降り続いている。
男の泣き声は、三日三晩続いた。