劫火_05

高い所から平原を眺める。言葉がでない。ここは高い山の中腹で、朝から歩いてたどり着いたころには午後になっていた。空が広い。山は薄く雲のヴェールがかかったようになっている。胸のすくような風景だった。
「どうしてこんなに高い場所に来たの?」
草原で準備をしていると、男が手を引いて歩きだしたのだ。こんな場所では届かない。もっと空の近くに行かないと、と言って。
「答えはすぐにわかるさ。ほら、ささっとやってしまおう」
隣でひょうひょうと男が言う。それに眉を寄せて――浄化はなかなかに大変なのだ。少しだけ恨み節を呟きながら榊を取り出した。
遠くから風が吹いている。地平線から滑る風が草をゆらしている。遠くからでも風の流れがよくわかった。
榊を持って、横に線を引くように滑らせる。瞬間、上空から悲鳴のような音がふってきた。
風の壁に押しつぶされる。
地面に縋りつくように蹲った。そうでもしていないと、天空に舞い上げられてしまいそうだった。風の勢いが止んで、草に大きな影が過る。
顔を上げて、絶句した。
上空に大きな鳥がいた。翼をいっぱいに広げたら十メートルはあるのではないだろうか。円を描くように飛びながらこちらをうかがっている。翼は途中から炎のようになっていて、羽ばたくだけで細かいオレンジ色の火の粉が舞った。
はらはらと落ちてくる炎のかけらから身を守るように再び地面に蹲ると、かなぎり声がとどいた。鼓膜がびしびしと震える。両耳を手のひらで押さえながら顔を歪めていると、横からのんびりと声をかけられる。
「下手糞な舞なんかじゃ俺は浄化させない。ここまで来い、だってさ」
押しつぶすような風に逆らうように体を持ち上げると、男が腰に手をあてながら反りかえるようにして空を見つめていた。男のまわりは薄い膜がはられているかのように風の影響をうけていない。瞳を細めて笑っている。
大鳥は未だ空をぐるぐると回りながら火の粉をまき散らしている。
「そんなこと言ったって……」
空になんて行けるわけがない。こっちは人間だ。こうして口をかみしめながら無様に地面に這いつくばることしか出来ない。途方に暮れて恨めしく空を見あげていると、男がちら、とこちらを見た。
「手を貸してやろうか?」
「え?」
困惑し返事を迷っているうちに男が重心を低くする。流れるような動きで両手を地面につける。陸上のスタートをするときのような姿勢に近かった。
風が鳴る。襲ってきた土埃から顔を守るために腕を前に出す。煙が凄すぎて前が見えない。お腹に響くような音をさせながら、衝撃にちぎれた草がまいあがった。
だんだんと世界が落ち着いて視界がクリアになってくる。顔面をおおっていた手をゆっくりと外す。
――山のような影が動いた。
息を止めて、風が土を取り払うのを待っていた。最初に煙の中から現れたのは太い足と黒い爪だった。大木かとおもうくらいに大きい。しなやかに曲がる関節。黒い爪は毒が詰まっているみたいに紫色がまざっている。
体は星みたいに綺麗な白い毛でおおわれていた。
あっけにとられていると、勢いよく視界を影が横切る。尾だ。三本の尾が生えている。それがそれぞれ意志を持っているようにゆらゆらと揺れていた。
茫然としたまま立ち尽くすことしか出来ない。
男がさっきまでいた場所には人の姿がなく、代わりに大きな狐がいた。
切れ込みのように細い瞳を見つめる。人間のときと同じく暗い赤色をしていた。そうだ。名前を聞いたときに気がつけばよかった。彼は妖怪だから、人の姿が嘘だった。
ただただ驚いていると、目の前にいる狐はいっそう楽しげに目を細くした。
「はぁあ、疲れた。やはり俺は二足歩行には向いていない」
肩をごきごきと鳴らしながら、愉快な口ぶりで彼は独り言を呟く。目が合うと、にやりと笑った。動きにあわせて口の端が目の下あたりまで裂けてしまう。
彼は小山のような体を地面にべたりと付けて、早く乗れ、とせかすように言った。説明もなしに正体を明かされて面食らっているうちに鳥の姿がずいぶんと小さくなっていた。急に現実の音が戻ってくる。
呆けている時間など無かった。無言で馬に乗るときのように跨ぎ越える――が、困ったことに掴む場所が無い。どこを持てばいいのだろう。目に見える所のほとんどが短い毛が覆われていて、当然ながら手綱なんてものは無かった。
「あの、どこを持てば」
そうこうしているうちに白狐はすっくと立ちあがる。視界が恐ろしく高くなった。恐怖のあまり身を竦ませていると、歌うような調子で彼が言った。
「足で胴を挟むんだ。そうそう、もっと万力をこめろ。空から落っこちても俺は知らないからな」
言いたいだけ言うと彼は助走を始めた。景色がどんどんと後ろに流れていく。走りに合わせて体が上下に揺れる。足を通して筋肉の動きが伝わってくる。気をぬいたら振り落とされてしまいそうだった。
そうしているうちに内臓が浮く感覚がして、うっかり下を見てしまい喉から押し出すような悲鳴をあげた。地面が遥か遠くにあった。山も、森も、草原も、とほうもないくらい小さくなっている。あまりの非現実さに眩暈がした。
「しっかりしろ! そこで気を失うな!」
たしなめるような声に必死で意識を寄せ集めた。狐は未だに口元をにんまりとさせながら走っている。空に見えない道があるようだった。全身の筋肉をばねにするようにして疾走する。風が耳元で轟音のように鳴っていた。
素晴らしい速度だった。地面で歩いてきたのがばかばかしいくらいに、矢のように進んでいく。
ゴマ粒ほどの大きさだった鳥との距離がどんどんと近くなる。風切り羽まで見えたあたりで、金切り声が響いた。あと少しで追いつく。白狐が大きな口をあけて尾に食らいつこうとした。だが鳥は先に気が付いて翼の角度を変える。ガチン、と歯が嚙み合う硬い音が響いて、鳥が高度をかえた。
ほとんど急降下をするように飛んでいく。
「逃がすか」
「嘘でしょ。やめて」
忌々し気に舌打ちした白狐が、ジャンプする直前のように前足をたたんだ。そのまま跳躍する――まるでジェットコースターだ。視界が空で満たされてぐるんとまわる。次の瞬間に地面が広がった。
喉が絞られるのでは、という程の声をあげながら垂直に落下した。内臓が浮いている。体が真下を向いた。
落ちる。落ちてしまう。体の中が気持ち悪い。吐き気を堪えながら太い首にしがみつく。短い毛が指の隙間を抜けてしまい、恐怖が心臓を押しつぶす。
恐ろしい速度で進む。背中のほうでぶんぶんと尾が揺れて、必死でバランスを取っていた。
振り落とされないように下半身に力を込めた。
鳥は追いつかれまいと羽の角度をかえた。刀のようにするどくとがった風切り羽の切っ先が風を切り裂いていく。
火の粉が飛び散り火花のようだった。光の道を進んでいく。
鳥の羽が視界に広がる。狐が前足を伸ばした。
黒いかぎ爪が背中を掴もうとした瞬間、翼が傾く。鳥は戦闘機のようにカーブを描いて、あとほんのすこしという所で逃げていった。白狐が盛大に舌打ちをする。
「あぁっ! くそっ! あと少しだったのに!」
後ろ脚を蹴り上げて太陽の方角に向かう。体がまっすぐになって安堵した。もう急降下はしたくなかった。
二度、三度と羽ばたきしただけで、鳥はまた遠くへ行ってしまった。喉の奥で苛立ちを表すように唸りながら、狐が問いかける。
「なぁ、お前。巫女だろう。風は読めないのか?」
「風を読むって?」
「その様子じゃ知らないか。悪かったな。聞いた俺が馬鹿だった」
はっ、と鼻で笑われてカチンと頭にきた。
白狐の言っていることは確かによく分からないけれど、とりあえず集中する。アドレナリンが出ているのかあまり恐怖を感じない。むしろ、この非現実的な状況を楽しむ余裕すら生まれていた。
深呼吸をして、これ以上ないくらいに集中する。
風の音しか聞こえない。神経を張り巡らせていくと瞼の裏に不思議な光景が浮かんだ。
一瞬のことだった。緑色の流れが見える。
「……分かったかも」
にたぁと狐が口をあけて笑った。高い声で鳴いた。
馬に合図をするときみたいにしっかりとした胴を足で挟み込み、首の右側を思いっきり叩く。
彼は円を描くように迂回する。獲物との軌道からは外れてしまった。鳥は諦めたと勘違いしたのか、残念そうに速度を緩めた。筋肉が弛緩し羽ばたきがゆっくりしたものに変化する。
「何処に行けばいい」
「ちょっと待って」
前を見ると、また緑色に光る場所があった。風の流れが川と似ていた。常に流動するので捉えるのが難しい。追おうとした瞬間に見えなくなる。
十一時の方向に指を差すと、狐が全身をばねにして飛び出した。そのまま疾走する――ある一点を踏みしめた瞬間、背中から衝撃が来た。風の壁に押し出されるように前に進む。
追い風で速度を上げる船のように速度を増していく。重力で体が狐の首にめり込んでいく。
鳥は焦って上に飛ぼうとしたけれど、そんなに急にはのぼれない。
風切り羽の模様が見える距離まで近づいたところで狐は口を開けた。白い牙は驚くほどに鋭い。野生の瞬発力と共謀さで柔らかい羽毛に覆われている鳥の首に食らいつく。
オレンジ色の炎がまきおこる――焼けてしまう。骨も残さずに。本能のまま守るように片手で顔を覆う――が、違和感に気が付いた。熱を感じなかったのだ。
視界には炎が揺らめいている。鳥の体からは未だに赤い火の粉が吹き出ている。
糸が切れたみたいに落下する。
翼を無茶苦茶にふりまわし鳥は空に戻ろうとした。が、狐はそれをものともせずに首元に食らいつく。大きく口をあけ歯茎までむき出しにし、喉元に歯を喰い込ませる。
爆発音があたりに響いた。
熱い風が壁のように押し寄せて、体を通り過ぎていった。耳鳴りがする。
――静かだ。顔面を覆っていた手をおそるおそるどけると、さっきまでいた鳥がいなくなっていた。
首を犬みたいに数回振りながら、ぷっと口の中に残っていた羽を吐き出した白狐が、
「やっと終わった」
と呟く。声に疲労が滲んでいた。
「おい。袂を確認してみろ」
雲の中を緩く走り続けながら続ける。放心状態になりながらも袖をごそごそとすると指に硬い感触があたる。抜いてみると一本の朱色の羽が出てきた。根元の方は普通の羽だが、先の方が炎で出来ている。左右に振ると細かく火の粉がまった。強い風をうけても消える気配がない。
「……綺麗」
ため息をつきながら感想を漏らすと、白狐は、ふんと鼻で笑った。
「誰のおかげだ」
「ありがとう。本当に助かった」
ぐっと首筋に体を寄せて腕をいっぱいまで伸ばす。ついでみたいに皺のよった眉間を撫でたら、彼はそれには答えずに瞳を細くした。
「地面に戻ろう?」
しかし、彼は高度を下げなかった。しがみ付きながら風に負けない音量で叫んでも、全く聞き耳を持たない。太い前足で薄い煙に似た雲の中をひた走る。光の道を走っているみたいだった。
どこを目指しているのだろうと不安に思っているうちに、空が晴れて段々と視界が良くなってきた。大きな山がそびえたっている。力強く壮大な光景だった。
白狐は滑らかに高度を下げる。風が耳元で細く鳴った。内臓が浮く感覚がまた襲ってくるので全身に力を入れて身構えた。山肌が近づく。岩にぶつかると恐怖したが白狐は道を知っているみたいで、ごつごつとした岩の間に身を潜り込ませる。洞窟の中に入ってしまったためか、一気に暗闇に包まれた。
頭のすぐ上に張り出した岩がつきでているのを目にし、ぶつからないように身を低くする。
重い振動音と共に、やっと地面に降り立った。音が反響して天井から細かい石が落ちてくるので、岩が崩れて生き埋めになる想像をしてしまい腕に鳥肌がたった。重心が前にぶれて振り落とされそうになる。だが、彼はそんなことお構いなしに、のしのしと進んだ。
洞窟の中は空気がこもって寒々しく、ひんやりとした空気が漂っていた。奥に進むほどに暗く、狭くなっていく。もしや奥まで着いたら置き去りにされるのではと心配していると、振動がとまる。
二股に分かれていた道の右を選んでさらに進むと、ぐっと広い空間にでたと感じた。空気が濃くなった気がする。しかし、ほとんど光が入らず手元も見えないくらいだったので実際の所は分からない。
白狐は首を傾げて奇妙な唸り声をあげると、短く息を吐いた。青い炎が生まれて周りの風景が確認できた――予想通り岩だらけの広い空間だ――あっというまに火の玉は近くの石にぶつかる。その瞬間、石は水晶のように変化した。
白狐は何度かその動きを繰り返した。仕事みたいに火の玉を吐き出している。パキン、パキン、と硬質なものが響き合う音がする。石が変化するときに立てる音だった。それはどこか鈴の音にも似ていた。
数分後、洞窟の全体が浮かびあがった。思わず息を飲む。鍾乳洞のような場所だった。天井から岩が氷柱のように伸びている。そのほとんどが不思議な氷のまくに覆われている。薄青い光を放っている。
すごい、と思ったままの言葉を口にして、首元をぽんと叩いた。
「一時しのぎさ。崩れたらたまらないしな」
と、実につまらなさそうに狐が答える。
通ってきた入り口と道は息が詰まるほどに狭かったが、ここは広々としていた。のしのしと中心まで歩いて行くと、さらに開けた空間にでた。大きくて平たい石にしゃがみ込むと白狐は身を屈める。滑り台の要領で、小山のような背から落ちた。勢いあまってべしゃりと膝から崩れてしまう。足がだめになっていた。全く力が入らない。生まれたての小鹿のように踏ん張りながらなんとか立ち上がろうとすると、たしなめるような声がふってきた。
「おいおい。無理するな。ちょうどいい。俺も少し疲れたからここで休もうじゃないか」
風が動く気配がして、視線を向けると、彼は腹を地面につけてだらりと寝そべっていた。前足に顎を乗せ犬が伏せをするような体制になっている。だが、体が大きいので威圧感が凄かった。離れた距離に行こうとすると、ぶわっという音と共に斜め横から衝撃が来て、体が持っていかれる。
「うわっ」
衝撃を受け止めようと身を固くしたが、背中を地面に打ち付けることは無かった。ふわふわとした感触がする。気が付くと白狐の腹に押し込められていた。前も後ろももふもふとしているので息が苦しい。身を捩って抜け出そうともがくと、目の前に残酷な形をした黒い爪がでてきた。
「まぁまぁ。つれない事をするな」
ふぁと欠伸をしながら狐が言った。戸惑いながら、しぶしぶと背を倒す。驚くほどに柔らかかった。獣の匂いがする。実家で飼っていた犬もこんな匂いがしていた。どことなく湿った、土のようなにおい。
天井から水の雫が落ちて、ばらばらな所に落ちている。水の音がよく反響していた。隙間から風が地面を伝って、生き物の吠えたような音が遠くで響く。
「ねぇ、もう帰ろうよ。なんでこんなところに来たの?」
首元の毛をひっぱると、白狐は前足に顎を乗せたまま片方の目をあけた。深い血みたいな色をしている。
「なんだ。案外せっかちなんだな。まぁそう焦るなって。もう少しだから」
何を待つというのだろう。腕を押してみたりしたけれどもう目を開けてくれなかった。諦めて視線を前に戻す。そうして初めて、彼は思い出したように口を開いた。真っ赤な舌が覗く。
「じゃあこうしよう。昔話をするんだ。お互いのな。そうしたら、だいぶ暇をつぶせるだろう?」
昔話。正直気が乗らなかったが、重々しく頷いた。ここは岩ばかりで何もないので、話以外にすることがない。
「言い出しっぺの俺から話そう。俺はな、今は化け物に落ちてしまったが、元はある土地、一族を見守る神だった」
「本当?」
驚いて体を捻って、犬のように突き出た鼻先を見つめる。狐は同意するようにゆっくり瞬きをした。
「あぁ、本当さ。俺のような神は、本家でしか祀られないんだ。一生懸命、一族を守った。身を粉にして病や妖、災厄から守った。昔は感謝もされた。でもな、人間はそれが当たり前になると忘れてしまうんだよ。もちろん時代のせいもあるかもしれない。祠は家の裏のずっと奥、山林にあったんだが、毎日のように手を合わせて来ていた家の者は、時代の移り変わりと共に誰も来なくなった」
ふんと鼻を鳴らしながら白狐は言った。何かを思い出しているのか虚ろに空を眺める。
水晶のようになった岩から反射した光が、プリズムみたいに反響している。ぼんやりと光を追いながら手持無沙汰に太い尾に手を滑らせる。
「だけどまぁ、それでも良かったんだ。ほとんど仕方がない事だと思っていた。忘れられてしまうのは悲しい。が、誰も知らなくても、仮に存在を忘れられても責任を果たそうと思ったんだ。そうして時を重ねているうちに、女の子が生まれた。その子は俺の性質を受け継いで目がほんの少しばかり赤く、霊感があった」
「その子は気付いてくれたの?」
「もう少しだけ黙って話を聞いてくれないか。すぐ終わるから」
聞き分けのない子供をなだめるように彼は言った。大人しく尾を撫でる作業に戻ると、彼は満足げに頷く。
「その子は変わっていて、おまけに繊細だったから実に生きにくそうだった。霊感があるせいかたびたび見えないものと会話をしてしまうので頭のおかしい子だと思われ、人から嫌われていた。俺は、その子を不憫に思った。力になりたかったから、目にかけたんだ。多分それがいけなかったのだと思う。あの子はどんどん霊力が強くなって、何となく俺のことが分かるようになった。そしてある日、家の裏にある祠を見つけて綺麗にしてくれた。草ぼうぼうだった所を素手で整えてくれた。あの時は感動したね。家を守るよりこの子を守りたいと思ったくらいに。でもさ、人生はそういい事だけでないんだな。実に残念だが」
少しだけ黙った後、狐は瞳を閉じた。
「お前が何者か知っているよ。審神者というんだろ」
驚きで目を見開いていると、静かな口調で彼は続けた。
「話は戻るが、ある日、その子は俺の依り代を作ってくれたんだ。陶器で出来た狐の置物だ。それを祠に置いてくれた。俺はそりゃあもう喜んだ。でもな、次の日に、別の誰かが依り代を捨てたんだ。ばっきりと、粉々に」
「どうして」
ふははと狐は笑った。ギザギザの刃がズラリと並んでいた。
「なんでだろうな。ただ単に気に入らなかったんじゃないか。そして、次の週、女の子は精神病院に入れられた。神様の為に用意したって、馬鹿正直に言ったから。正直な子だった。嘘を吐くことを知らなかった。本来、そのくらいでは入院など出来ないが――とかく、女の子は消えた。俺は大層怒って、夜空を駆けた。行き先なんて無かったけど、とりあえず鬱憤を晴らすみたいに走っていたら、刀を腰に差した化け物に会った」
上から影かが差して赤い目がせまる。もう笑ってはいなかった。
「すぐに良くないものだと分かったが、一気に神から転がり落ちた俺は、のこのこそいつと一緒に過去に飛んだんだ。もう一族を守る気持ちなんてこれっぽっちも残っていなかった。で、この時代に居る俺を破壊しようと思った。そうしたら土地は衰退する。少し歴史も変わるだろう。お前の敵と利害が一致したんだ」
「でも、貴方は生きてる」
独り言みたいに呟くと、白狐はぎりぎりと歯を食いしばりくやしそうに唸った。
「あぁ! そうさ! 土壇場で出来なかった。俺が死ぬことは別にどうでもいい。ここで自分を殺して歴史が変わったら、あの子が消えてしまう可能性があることに気が付いたんだ。最後の最期で赤い瞳がちらついて手を下せなかった。俺を連れて来た奴は大層怒っていたが、そんなことは知らないし、元々の位はそこらの神より高いから簡単に逃げられた。そして今に至るというわけだな」
ひとしきり喋った彼は、ふとぷつりと黙り込んだ。なにか遠くの音を聞くみたいに目を閉じる。過去に思いを馳せているのかもしれない。
暫くそうしたあと、彼は自力で立ち上がったようだった。目だけで、さあお前も話せと促してくる。
「そんなに大層な話でもないし、よくあることだと思うけど、それでもいい?」
「あぁ。時間は余るほどにあるし、あんがい他人の人生は面白いもんだ」
小説より奇なりって言うだろう? と楽し気に続けられて、ほんの少し自信が生まれた。
「私はいい所の娘だったんだけど、いい所っていうのはその……由緒ある家系で、だから私は次女だったから、その、えーと」
なんと説明したらいいのか分からない。途方に暮れて言葉を探していると、彼は優しい声で「分かるよ」と言った。
「この時代では女の子が続けて生まれると、こっそり井戸に投げ込んだりすることもあったんだ。時代は変わっても、本質は変わらないからなぁ。さぞかし大変だったろう」
二本目の尾が目の前に迫ってきた。前から衝撃が来る。狐のお腹にめり込みながら変な声を上げると、彼は力加減を間違えたと笑った。
白くふかふかとした尾にクッションのように手を置きながら、過去に想いを馳せた。
「そう。だから、家族の間では優先順位があった。私は家の一番下で、兄がいてよく比べられた。学校でいい成績を収めても、何か賞をもらっても私はいつも二番目だった。ある日スーツの人が来て、審神者のスカウトを受けた。親と別れるとき、悲しかったし寂しかったけど……みんなは別れ際に『兄の方じゃなくて良かった』って言ってた」
「おぉ、可哀そうに。なんて悲劇だ」
演技がかった言い方に眉を寄せながら言葉を続けた。狐は話し半分に黒く大きな爪を弄っている。
なんだか気負っているのが馬鹿みたいだ。余計な力が抜けて乱暴に背を預けた。
「素質があったみたいで、よく政府の人には褒められた。現世でいる時は褒められるなんてほとんどなかったから、本当に嬉しくて、どんどん頑張ったしたくさん戦った。こう見えて戦場にも行ってたんだよ」
すごいでしょう? と確認するように言うと、彼は「はいはい、凄い凄い」と、流れる水みたいに答える。それだけで気分を良くした私はさらに流暢に口を動かす。
「でも、だんだんと猜疑心が強くなってきて。敵を沢山葬っているけれど、結局は良いように利用されているんじゃないかって思えてきて……。すごく悩んで不安定になった時期に膝丸と出会ったの」
ぴくりと三角の耳が震える。
「膝丸は変な刀だった。まず出会いは丘のうえ。断崖絶壁にぶっ刺さっていたんだよ。なんであんなところにいたんだろう。可笑しいでしょう? ほとんど話したことは無かったけど、嫌われているんだろうなって態度で思ってた。暫くしてから二人で万屋に行ったんだ。そこで事件に巻き込まれて……」
「大丈夫だったのか」
「うん。膝丸が守ってくれたから。でも、あの人――人っていうか刀だけど――腕が飛んでいるのに笑っていて。それが、いつも斬っている敵の姿と重なって」
思い出すのが辛くなってきた。だけど、抱えていた秘密を話すことで、重い鎖が解き放たれていくような感覚を覚えているのもたしかだ。
「『化け物』って、呼んじゃった。自分が普段やっていることが急に怖くなって。あと、やっぱりどこか精神的に可笑しくなっていたのかもしれない。そのまま、逃げちゃった」
一人で生きていきたいと思った。自由を渇望した。自分勝手でわがままな欲望に突き動かされて、こんな場所まで来てしまった。
万屋に現れた敵は、まっすぐに明確な意思をもって私に向かってきていた。さんざん恨みを買っていたから、それも仕方の無いことかもしれない。
でも。血を流していた男を思い出す。炎に群がる虫みたいにやってくる敵が己をめがけてくるのなら、また一緒にいる誰かが傷を負う。
最悪の場合、死んでしまうかもしれない。それだけは耐えられないと思った。
「結局今も同じようなことをしているじゃないか。置いてきたんだろう。いや捨てたと言うのが正しい。加えて、化け物の腹に体を預けて身の上話をしている、今の方がよっぽどたちが悪い」
白狐はのんびりと言う。ぐうの音もでない。
「彼奴はどうして笑ったんだろうな、とは想像しなかったのか?」
「え?」
「痛みはすさまじいだろう。気を失ったほうがいいとさえ、思ったかもしれない。それでも、お前に心配をかけたくなかったから必死に取り繕ったんじゃないのか」
はっとして固まる私を見て、白狐は馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「すごいよなぁ。そこまで守ってくれた男を置いて、のこのこ逃げられるんだから。やっぱり人間は屑だなぁ」
ははは、と愉快そうに笑う。自分のしてきたことの最低さに項垂れていると、優しい声が降ってくる。
「俺は愚図で間抜けな人間をずうっと見てきた。そこで分かったことがある。人は二種類いる。気づける奴と、気づけない奴だ。人は何度だって同じ間違いを犯す。ネズミみたいに同じところをぐるぐると回って、もがいているさまを離れた場所で見るのが、俺は一等好きなんだ」
「趣味が悪い」と呟くと、「誉め言葉かな?」とすっとぼけた返事が返ってきた。もう顔も見ていたくなくて、いじけた子供みたいに背を向ける。
そうそう、と思い出したように彼が言った。
「巫女の真似事をしているお前にいいことを教えてやろう。これからきっと役に立つ。使うかどうかはお前次第だけどな」
白狐は前足を軽く持ち上げて張り出した石の下にある地面に爪を立てる。滑らかな動きで何か模様を書いていく。だまってそれを見つめた。
「術?」
「そうだ。お前がのんきに蕎麦を食っている間に聞いておいたんだ。彼奴は俺よりよっぽど長生きだしいい奴だから、こういう情報が勝手に入ってくる」
脳裏にふっくらとした姿が浮かんだ。人懐こい笑顔。
「解呪の印だよ」
かいじゅ、と口の中で呟いた。
「きっと役に立つと思う。だけど残念なことに副作用がひとつだけある」
もったいぶるように赤い瞳で見つめると、彼はにたりと笑った。
「反動で死んでしまうんだ。だから命と引き換えの術になる」
「それじゃあ使えないじゃない。あーあ。聞いて損した」
残念だったなぁ、とけらけらと笑いながら彼は爪でぐしゃぐしゃと地面をならした。印が最初からなかったかのように消えてしまう。
「まぁ、知っておくだけでも違うだろう」
「絶対に使わないよ。そんな機会も無いだろうし」
彼はそれには答えなかった。組んだ前足に顎を乗せて、じろりとこちらをみすえる。
「俺は今、術を教えたな」
「うん」
「対価が発生した。今は化け物だが、元は神のはしくれ。何かよこせ」
横暴だと思った。だから稲荷は嫌なのだ。
「何が欲しい?」
「左手の人差し指」
絶対に嫌だ。それには無視をして他に何がいいかと訊いたら、すかさず「目玉」と返ってきて、頭を抱えてしまう。
霊力が欲しいということなのだろうか。それならばと、ひとつアイディアが浮かんで、床に放っていた荷物の中をごそごそと探す。手に柔らかい感触が伝わった。
引き抜くように取り出したのは、最初の頃に膝丸と自分を繋いでいた赤い布だった。もう二度と会うことが無いので必要ないだろう。布はずっと使っていたから、二人の霊力やら何やらをたっぷりと吸っていた。固結びされている布を苦労して解いて再び重ねて、端をむすんでととのえる。狐は興味深そうに指先を見つめていた。
スカーフのようになった布を太い首に巻き付ける。彼は大人しくされるがままだ。締めすぎない程度に結ぶ。
「これで勘弁して」
「まぁ、いいだろう」
赤い布はずっと使っていたからか薄汚れていたけれど、彼の白い毛並みと相まって良く似合っていた。
「なんだか本物の稲荷みたいだね」
と感想をもらすと、彼は照れ隠しでそっぽを向く。ぴこぴこと耳が動いていた。
何となくおだやかな気持ちになって、ゆったりと体を預けながら、ふかふかと白い毛に手のひらをすべらせた。

洞窟の入り口が見えたところで、膝丸はぴたりと足を止めた。
「ここに主が?」
式神が頷く。ここまで大変な時間がかかった。山を越えて川を越えて、崖のような場所を延々歩いてきた。式神は術で作られたものだから疲労とは無縁みたいで、どれだけ歩いても走っても、汗一つ流さずにけろりとしていた。
旅を思い出すとぞっとした。確かに彼女がいなかったら出会うことはできなかったかもしれない。そんなことを思いながら一歩を踏み出した。足音が続かなかったので、後ろを振り返る。
「君は来ないのか?」
「私はここまでしか行けないよ」
膝丸は息を飲んだ。女のうすい肩の向こう側に森が映っていた。体がだんだんと透けていく。慌てて駆け寄って手を取れば、もう指先は透明になっていた。
「命令に背いたから」
「どうして……。言ってくれなかった」
「一人で行くでしょう? こうなることを知っていたら」
苦しそうな表情を浮かべている男を見て式神は不思議そうに首を傾げた。それから花のように笑う。
「貴方は優しいね。でもここでお別れだよ。さよなら、膝丸」
女は別れの寂しさをみじんも感じさせない動きで膝丸の肩を押した。そして一歩だけ下がると、ひらひらと手をふる。みるみるうちに姿が足元から消えていく。涙もろい膝丸は目の前が霞んでしまった。
「ありがとう」
何もない空間を見つめる。
心を奮い立たせるように刀をにぎると、洞窟の中へと潜り込んだ。

「もういい加減に帰りませんか?」
視界の隅で青い炎が舞った。「もう少し待て」と狐は言いながら、三本あるうちの一本の尾をぶんと振る。いつの間にかしっぽの先に炎が絡みついていて、振るたびに火の玉のように飛んでいく。適当な岩にあたると、岩がみるみる氷に覆われて、水晶になった。最初は感動と驚きを覚えたが、こうも何度も見せられると飽きてしまった。
本来、洞窟の中は指先すら見えないほどの闇に覆われているはずだが、彼の術のおかげか岩は内側から発光しているように青白く浮かびあがっていて、幻想的な風景になっていた。
白い毛並みが青白い光を反射している。彼は何度かそんなことを繰り返すと、こんなもんかと呟いた。
光が淡く揺らめいている。暗闇ともいえない。でもけして明るくもない。光が屈折して、天井や壁に波のような模様を作る。ごつごつとした岩は透明な氷のようなものでコーティングされて、水晶のようになっていた。
「きれい」
思ったままを口にすると、白狐は、
「一度でいいから、こんなところに住んでみたかったんだよなぁ」
としみじみ言った。
遠くで水の音がしている。それに耳を澄ますと、別の音が混じっているのに気が付いた。
「誰か来る」
「やれやれ。やっとか」
刀を手に取り体を起こす。白狐はぐっと体を持ち上げて、ごきごきと首を回した。
奥の闇を見つめた。足音だった。一人分でそれなりに重い。どんどんと近くなってくる。煩く喚き始めた心臓をなだめながら暗闇に目を凝らすと、闇の向こうから黒い影が見えた。
突如現れた人物に、手に持っていた刀を落としそうになった。
「膝丸……?」
暗闇から飛び出してきたのは、つい先日置き去りにしてきた男だった。
目が合うと、金色の瞳が見開かれる。驚きと悲しみに満ちていた。申し訳なさと居たたまれなさに体が圧縮されるような、どこかへ逃げ出してしまいたいような衝動が襲ってくる。
場所なんて分かるはずないのに。どうして、どうやって。頭の中がぐちゃぐちゃになった。
「さぁ。役者がそろった」
狐はいつのまにか人の形になっていた。ものすごい力で腕を引っ張られ、後ろ手にまとめられる。
「痛い! 急になにするの!」
「しっ、静かに。パフォーマンスさ。お前に危害は加えない」
ひそひそと声を潜めて耳の近くで喋る。荒ぶる馬を静めるような口調だった。膝丸に話は聞こえていないようで、表情ががらりとかわり、額に青筋を浮かべながら刀を構えている。
彼が足を踏み出した瞬間、白狐が左手を横に振った。
膝丸の体が動かなくなった。見えない糸に絡まれたように動けない。刀を構えたまま体を必死に捩っている。蜘蛛の巣にからめとられた虫のようだった。
この術には見覚えがあった。既視感に眩暈がする。
「お前はそこで見ていろ」
冷たく言い放った白狐が腕を後ろに引いた。ぐっと胸を突き出すような姿勢で固定される。長い爪が血管の位置を確かめるように首元をなぞる。着物の合わせ目を開かれて、胸元が露になった。いきなり何をするのだと叫ぼうとした瞬間、皮膚に爪が食い込む。
遠くで膝丸が何か叫んでいる。彼の爪はすでに人間のそれでは無かった。黒く、刃物のように鋭い。悔しさに下唇を噛んでいると、すぐ後ろで白狐が喉の奥で笑った。そのまま爪が胸元に伸びて、中心で止まる。ちょうど心臓の位置だった。
オペをする医者みたいにまっすぐに指をおろす。痛みと共に一本の赤い線が生まれた。ぷつぷつと血の玉が生まれ、鉄の匂いがとどいた。
「やめろ! それ以上触れたら、許さんぞ!」
膝丸は体を捩って抵抗するが、どうにもならないみたいだった。白狐は鼻で笑うと、問答無用に爪を突き立てる。洞窟に悲鳴のような音が響いた。膝丸と私のものだった。男は無理に体を捩ったためか手首と足首から血を流していた。皮膚がめくれてところどころ血が滲んでいる。
「その人を離せ! 離さぬのなら……」
まがまがしい気配を感じて意識を胸元から先へ向ける。恐怖に体がすくんだ。
膝丸の目が赤黒くなっていた。怒りのあまりに額に筋が浮かんでいる。男の周りから怒りが発散されている。蜃気楼のように景色が歪んで見えた。
――化け物。
いつかの言葉が木霊する。どうしてだろう。助けにきれくれたのに素直に喜べない。白狐に拘束されている今の方が安心すら覚えるほどに、身に纏う空気が恐ろしい。
膝丸は歯を食いしばって獣みたいに唸っていたが、目があった途端、私の内側の感情に気が付いたのか、雷で打たれたように動かなくなった。
「あ、あるじ。ちがう、違うんだ……」
「やっぱり完全には無理だったか。なかなか難しいものだな」
やれやれ、と言いながら白狐は着物の合わせ目をまさぐる。嫌悪を剥き出して抵抗しても聞く耳を持たない。そうしているうちに手に何かが当たったのか、胸元からそれを引き抜いた。彼は子供のように瞳を輝かせる。
「いいものを持っているじゃないか」
それどころでは無かった。膝丸の様子が可笑しかったからだ。さっきの怒りはもう消えてしまったみたいだが、顔が蒼白になっていた。カタカタと小刻みに震えている。
「龍の鱗はすごいんだぞ。ありとあらゆる真実を映す鏡だ。これのまえでは、何も隠すことは出来ない」
さっきからこいつは何を言っているのだと訝し気に見つめると、彼はやっと手を離した。ほら、と、ホタテの貝がらに似た鱗を手に持たせてくる。
「頼む。やめてくれ……お願いだから」
「そおら。よくみて見ろ。これが、彼奴の真実の姿だ」
未だに拘束されたまま、やめろやめろ、と膝丸は喚いている。白狐に自由にしてくれと頼むべきなのに、口がいうことをきいてくれない。
絶望に縁どられた瞳を見つめる。彼は絞りだすような声を出して必死に頼み込んでいる。
「主、お願いだ。きちんと俺の口から説明したい。こんな風に暴かれるのは嫌だ……」
あんなに必死なのだ、やっぱり見ないほうがいいと思い直したとき、背後の男が顔をよせる。耳元で悪魔の囁きをおとした。
「万屋での一件、答え合わせができるかもしれないぞ」
好奇心には勝てなかった。崖から突き落とされるような感覚がする。
手に持っていた鱗を立て、ゆっくりと持ち上げる。
「やめろ……!!! 見るな!! 見ないでくれ!!!!」
照準を合わせるみたいに眼前にさらした。
時が止まったみたいだった。
そこに映っていたのは、人の姿ではなく――十メートルくらいの大蛇だった。全身が細かい鱗で覆われていて、ぬらぬらと暗い緑色に光っている。首から下あたりは見えない糸に固定されているが、だらりと地面に落ちた胴がずりずりと好き勝手に動いていた。駄目押しのように、時々赤い舌がちろちろと出て、また引っ込んだ。
「……え?」
視界が黒く塗りつぶされていく。鏡越しに、縦に切れ込みの入った瞳と視線が合った。自身の喉奥から細い笛のような音が一度だけ鳴った。
おんなじ色だった。夜に光る星の瞳。
一瞬で理解した、と同時に空を裂くような絶叫と、ぴしぴしと細かいガラスが砕けるような音が耳に届く。
どんと背中を押されてころげそうになる。が慌てて態勢を立て直すと、後ろから突風が吹いた。
「ふぁっ、はっはっは! 愉快だ! こんなに面白いものは見たことが無い! 妖を退治してきたのに、己が引き連れていた者が化け物だったとは!!」
本来の姿に戻った白狐が、口を限界まで開いて笑っていた。高い声が洞窟に反響している。四方八方から音が響いて、まるで沢山の人間が指をさしてあざ笑っているみたいだった。膝丸はピクリとも動かずに項垂れている。頬にはとめどなく涙が流れていた。
ひとしきり笑い終わった白狐はのしのしと近づく。暴風に吹き飛ばされ、またもろもろの感情に茫然として見守ることしかできない。彼は尖った鼻先を顔の横にもってくると、小さな声で、「貴重な体験をありがとう」と呟いた。
だらんと手を地面につけていると、濡れた鼻先が腕を押した。
「元気でな。もう会うことも無いだろう」
最後にもう一度強い風が吹いて、恐ろしいほどの静寂が訪れた。狐の姿が一瞬のうちにかき消えてしまう。美しい水晶のような洞窟が広がる。
視線の先にはボロ雑巾のようになってしまった膝丸が俯いている。いつのまにか拘束が外れたのか、ぺたりと地面に腰を下ろして、両手で縋るように刀を握っている。長い前髪に隠れて表情は見えない。
不思議なことに、心は凪みたいに静かだった。ずっと裏切られていたというのに。
どうしたらいいのかよく分からなかった。
震える足を叱責しながら立ち上がると、世界が揺れた。立ち眩みに似た眩暈が襲ってくる。呼吸が苦しい。一歩、一歩が辛い。
必死な思いで近くまでよると、膝から崩れ落ちるように側に座った。子供みたいにぺたりと座り込むと地面の冷たさがよくわかる。ぼうっと眺めていると、男は不規則に震える。ショックでひきつけをおこしているみたいだった。
右腕を庇うように体を縮こませていた。
「どこか、怪我をしたの?」
膝丸は答えない。何を話しかけても置物のように動かなかった。
そろそろと右腕に手を伸ばすと、彼は弾かれたように顔を上げた。
「触るな!!」
「ひっ」
痛めつけられた動物みたいだった。久しぶりに向かい合った顔は色々な感情がごちゃ混ぜになっている。悲しみ、恐れ、そして絶望。
唐突に、夏の日を思い出した。蜩が鳴いている万屋の帰り道。敵の大太刀。まったく同じ言葉をかけられて、背中を向けてひた走った。
耳鳴りは強くなる。蝉の鳴き声に似ている。耳障りな音をかき消すように、抱えられている右腕を無理やり引っ張って、臙脂色の袖を捲り上げた。瞬間、視界に飛び込んできたものに目を見張った。
腕にみっしりと鱗が生えていた。人肌の部分が申し訳ていどに残っていたが、ほとんどが薄い緑色の鱗に覆われていた。指先で触れる。硬質な感触がした。
肘の方からゆっくりと腕を撫でる。つるつるとした不思議な感触が手のひらに伝わる。爬虫類を触ったことはないけれど、きっとこんな感じなんだろうと思った。
「殺してくれ」
膝丸がぽつりと呟いた。声ががさがさにひび割れている。
「どうして?」
子供みたいに頼りない口調になってしまった。それも、迷子で途方にくれている子供に。
俯いていた膝丸が顔を上げる。瞳が動揺で揺れていた。
「どうして、って……。俺は見ての通り、普通じゃない」
「そう、みたいだね」
困惑しながらも肯定すると、男は地面に頭を擦り付けた。
「辛い。君に捨てられるなんて耐えられない。それならばいっそ、その手で折ってほしい。終わりにしてほしい。」
ころしてくれ、と壊れたラジオのように呟いている。心はぐちゃぐちゃで、どうしていいのかわからない。

ふと懐かしい記憶を思い出した。さっき過去の話をしてしまったからかもしれない。
夕日に照らされた公園で、幼馴染と喧嘩してしまった私に母が優しく語りかける。
――、は、どうしたいの?
頑なな子供は、スカートの裾を絞るみたいに握りしめている。謝りたくないのか、どうなのか。小さな世界の些末な喧嘩だったけれど、複雑にこんがらがって途方にくれていた。
――そんなときはね、目をとじて、心に聞いてごらん。
懐かしい声が聞こえる。耳鳴りが収まっていく。
深く息を吸って、目を閉じる。深い闇。瞼の向こうにある淡い光が滲む。
ゆっくりと目をあけ、小刻みに震える背中に手を乗せる。そのまま労るようにさすると、逆効果だったのか、震えが一段大きくなった。最悪の想像をしているのだろう。死刑宣告をまつ囚人のように暗い空気がにじみ出ている。さらに体が言うことを聞かないのか、手で口元を押さえて額を地面にこすりつけていた。
「分かった。貴方が本当に化け物になって、――例えば、人を手にかけようとしたら。その時は、私の手で殺してあげる」
はっとしたように顔をあげた膝丸は、信じられないものを見るように瞳を大きくする。
「……俺を、受け入れてくれるのか?」
「見た目がちょっと、個性的なだけでしょう?」
「危害を加えるかもしれない。いつか完全に蛇になって、理性を失い、咬み殺すかもしれない」
「そのときは始末してあげるよ。私が責任を持って。苦しまないように一瞬で首をはねてあげるから、安心して」
じわじわと目の端に光るものがたまっていく。あぁ、あふれてしまう。どうしようと思っているうちに、肩に衝撃がきた。
体をぶつけるようにして突っ込んできた膝丸は、声を押し殺して泣いている。
首元にあたる腕は温度がまるでないし、少しざらざらとしていた。でも、煩いくらいに心臓の音が響いていた。
ありがとう、ありがとうと何度も礼を伝える男の頭に手を伸ばす。なだめるように髪を撫でていた。

洞窟から出ると、ちょうど朝日が昇るところだった。振り向くと、洞窟の入り口が朽ちてボロボロになっていた。何年も経っているかのように。狐に化かされた人間はきっとこんな気持ちになるのだと、奇妙な気持ちで思った。
険しい獣道に視線を戻し、今から下山するのかと、げんなりとしながら足を踏み出す。今思えば空を飛ぶのは早くて楽だった。あの内臓がぐるぐると回る感覚さえなければ。
少し歩いたところで、足音が自分のものしかしないことに気がついた。不思議に思って振り返ると、暗い顔をした膝丸が口を引き絞っている。
「やはり俺は行けない。政府に言うべきだ。君にもし何かあったら……」
「大丈夫だよ」
何の根拠もないけれど、と心の中でつけ足す。
膝丸は痺れたみたいに体を硬直させて、瞳を大きくさせた。
「行こう」
初めて出会ったときと風景が重なる。相手も同じことを思ったのか、眉間に皺を寄せて込み上げる涙を堪えている。
見ていて体中の水分が無くなってしまうのではないか、と心配になったが、それを言葉にすることはしなかった。
無言で手を差し出せば、薄い象牙色の、陶器でできたようになめらかな手が恐る恐る触れる――ぐっと手繰り寄せて、しっかりと手を繋いだ。