和室の中心で、上着を手に持ったまま男の挙動を観察する。一度しっかりと手入れをしたためか、背中の傷は跡形もなくなっていた。白い清潔なシャツに袖を通し、上からボタンをとめていく。袖を通しやすいように上着の位置を調節する。彼がお腹のあたりにある黒い紐を結んでいる間に、しゃがんで太ももの紐を結ぶ。室内は静かだった。今日は昼から出陣だったから、朝餉の後始末が終わったあとすぐに膝丸の部屋へ向かった。
急にしゃがんだせいか少し立ち眩みがしたのでそのままでいると視線を感じた。ゆっくりと顔をあげれば金色の瞳とぶつかる。無表情で何を考えているのか分からない。取り繕うように笑えば、手が目の前に差し出される。かいまみせるやさしさに嬉しさより困惑が勝ってしまう。手をのせれば体を吊られるようにして引っ張られ、なんなく立てた。お礼を言うと、彼は眉をひそめた。
「体調が悪いのか」
「いえ。ただの貧血です」
ひんけつ、と口のなかで呟きながら、膝丸は腕をさしだした。つかまって歩けという意味でそうしていると理解するのに数秒かかり、変な空気になってしまう。結局、自分で歩けると断ったが、相手はすんなりと身を引いた。これは以前では考えられなかったことだ。
兄の本丸に帰ってから、早くも三日がたった。帰ってすぐに行方不明になった原因を報告したけれど、兄は興味も無さそうに、「そうか」と言っただけだった。説明を求められたときのために膝丸にもついてきてもらったけれどこれでは意味がない。兄は古びた本を片手に持ち、机に広がる紙(地形が描かれていた)を睨みつけたまま、用が済んだらさがれとばかりに手をふった。
「膝丸。お前は残れ」
一緒に部屋を退室しようとしていた刀は主人の言葉に足を止めた。
去り際に兄の瞳を見てぞっとした。表情が抜けている。試すように膝丸のことを眺めている。彼は自分なりになにか考えているとき、あんな表情をする。ひとりで廊下にでて障子を閉める。床板が月の光に浮きあがっているようで歩くのは楽だ。反対に、庭は暗く淀んでいた。
そこまでを思い出して、刀掛けから本体を持ってさしだす。
「すこし防錆油をしました」
「薄くしたか?」
「もちろんです」
先日、久しぶりに手入れをしたら、最後に塗る油の量を間違えてひどく叱られた。だけど今回は自分が悪い。反省していつもより気をつけるようにしている。膝丸は刀を受け取ると口のはじをもちあげて足をとめた。
「俺のことを、つげ櫛の付喪神だと勘違しているのかと思った」
「そこまで量まちがえてません!」
膝丸は廊下に出ても口元を隠していた。笑っているみたいだ。
数歩後ろを歩きながら考える。こんなふうにこの刀と会話が出来るようになるとは思っていなかった。きっとお世話になった先の、髭切のおかげだろう。
この本丸では影響力の膝丸が、帰ってから私に対して急に態度を変えたので、どことなく空気が揺れていた。困惑。興味。二人でいるときは特にそれを感じた。わたしはそのたびに恐縮し下を向いていたけれど、膝丸はどうどうとしていた。
外は強い日差しがふっていて、夏まっさかりという時期はすぎたのに、暑さがきびしい。
「あとどれくらいだ」
「二週間です」
「そうか。次は、誰に仕える?」
「みっ、燭台切様です」
つい癖で呼び捨てにしてしまうところだった。あぶない。気をつけないと。膝丸は礼儀に厳しい。そう思っているうちに目の前に背中が迫っていて、慌てて足をとめた。膝丸が急に立ち止まっていたせいでぶつかりそうになってしまう。
「膝丸様……? どうされました?」
「なぜ、彼奴には気安く名を呼ぶ」
「なぜって」
うまい言葉が見つからず言葉がつまる。膝丸が苛立たし気に舌打ちをした。口の脇からキバみたいに飛び出た犬歯の先がのぞいて、わたしを怯えさせる。
「気安い仲だからでしょうか。気に障ったならすみません」
全員を呼び捨てするわけではないし、気軽に話せる刀なんて数えるほどしかいない。そもそもみっちゃんって呼んでねと言ったのは刀のほうだ。さすがにそこまで気安くはできないので光忠と呼んでいる。
呻き声が耳に届き、顔をあげて驚いた。膝丸が心臓のあたりを握りしめていた。
「大丈夫ですか? 急にどうしたの」
「触るな!」
伸ばした手は弾かれてしまう。刀はそのまま歩きだしてしまった。大股で、しかも歩くのが早い。必死に追いかけるが、距離はどんどん離れていってしまう。しまいには姿が視界から消えて、息を整えているうちに外で出陣する刀たちの声がしたがすぐに遠くなった。完璧に置いていかれてしまった。
「なんだったの」
とぼとぼと元の廊下をひきかえす。弾かれた右手が痛かった。
膝丸はいったいどうしてしまったのだろう。怒るような話題だっただろうか。ほかの刀の話をしただけだ。心のなかで、嫉妬の二文字が浮かんだが、すぐにそれは違うと打ち消した。あの冷酷な刀がわたしに嫉妬なんてするはずがない。
もう少しでこんな日常も終わりだ。来月からはちょうど話題に出てきた刀に仕えることになっている。
空には入道雲が浮かんでいて白と青のコントラストが目につきささる。雲のそこが黒く影がふかいので、午後からは急な雨が降るかもしれない。
無事に出陣から帰ってきた刀たちを出迎えてから夕餉の準備をした。わたしはみんなと食事を共にせず、いつも準備が終わったあとに作業台で食べている。作業台といってもそれなりに広さはあるので、適当な椅子を持ってきて一人で食べるのだが今日は違った。水の音が止んでから、向かいに食器が置かれる。若干の疲れを感じさせる動作で燭台切が座った。演練ではぐれたのち無事にこの本丸に戻ってから、なんとなく一緒に夕食を共にしている。おそらく、自責の念を感じているのだと思う。演練には光忠もいたのだ。
「光忠、あのね」
「うん?」
ちょうどいただきますをしているときに声をかけたせいか、手を合わせたまま彼は首をかしげた。
「一人で食べるから、無理につき合わなくていいよ」
「……僕が一緒だと嫌?」
「ううん。嫌じゃない」
首を振ってこたえると、彼は「ならよかった」と言って箸を取った。小鉢からおひたしをつまんで口に入れ、「ちょっと濃すぎたかな」と眉をよせる男を眺める。明日から自分の部屋で食べようかなと考えていると、彼は目を合わせないまま、
「ほんとうは、迎えに行きたかったんだ。ごめんね」
と静かに言った。
「どうして謝るの? 光忠は道具だから、主の命令には従うのは当然でしょ。なにも間違ったことはしてないよ」
光忠は顔をあげて、目をあわせる。
「僕はね、きみのことも仲間だと思っているよ。だから困ってたら助けたいし、力を貸したい」
「気持ちだけ受け取っておくよ。本当にうれしい。でも実際に行動に移すのはやめてね。折られると思うから」
光忠はなにか言いたそうだったけれど、視線をさけて味噌汁を飲む。今日の具は玉ねぎだった。光忠はあまり市販の合わせ出汁を使わない。あたり前みたいに出汁をとるところから始める。料理の腕がいいので、毎回感動してしまう。光忠が重い空気を消すように、
「そういえば、あともう少しだね」
と言ったので、頷きながら、
「やっと折り返し地点ってとこかな」
とこたえる。魚の身を箸で割る。返事がないので顔をあげると、光忠はわたしを飛びこえて扉のほうを見ていた。どうしたの、と口をひらくよりはやく、第三者の声が耳にとどいた。
「今すぐ俺の部屋まで来い」
振りかえれば、壁に寄りかかるようにして膝丸がいた。もう夕餉やもろもろの準備は済ませているのか、黒っぽい浴衣に身をつつんでいる。柱に寄りかかるようにしながら、光忠とわたしに視線をむける。
「ごめん。ご飯……」
「大丈夫だよ。夜食が欲しくなったら、こっそりおいで」
声を潜ませて会話をしていると、「早くしろ」と、いらだたし気な口調で膝丸が言った。心の中で溜息をつきながら椅子から立ちあがる。男のそばまで行けば、彼は廊下の先を顎でしゃくって、「先に行っていろ」と言った。すれ違うようにして廊下に出る。膝丸は厨に用事があるようで、中に足を踏み入れたのを雰囲気で感じた。
薄暗い廊下を歩くと、見慣れた風景がひろがる。膝丸の部屋は誰もおらずとても静かだった。ものが少なく、人が住んでいないみたいだ。座布団が二つ用意されていたけれど、なんとなく避けて畳に直接膝をつく。そっと目を閉じて耳を澄ますと、池のほうから蛙の鳴き声がした。どうして部屋に呼ばれたのか、かんがえてみても検討がつかない。仕事の時間はとっくに終わっている。何かまた気に触ることをしてしまったのだろうか。手持無沙汰に襟元をなおしていると、なんの前触れもなく障子があいて驚いた。膝丸だった。彼は部屋に入ってくると、手に持っていたお膳を机に置く。
「夕餉の途中だったのだろう」
端的に言うと、彼は踵を返していなくなってしまった。白いご飯をまじまじと見つめる。たしかにほとんど手をつけていなかった。誰のせいで途中になったのか、と口のなかだけで反論して箸をとる。汁物からかすかに湯気が出ていて、温めなおしてくれたのだと知る。煮魚の白い身を箸で割り裂いて口に運んでいると、いつのまにか戻ってきていた膝丸が正面の座布団に腰をおろした。
小さな丸いお盆から湯呑みを取り出して机に置いてくれる。烏龍茶だった。
「ありがとうございます」
礼をいうと男は生返事をした。日本酒を手酌で注ごうとしていたので、そっと酒を手に取り杯にそそぐと男は瞳を細くした。神様ってみんなお酒がすきなのだろうか。
袖が下がって白い肌があらわれる。男の視線が爪先にいくのがわかった。わたしは自分の体のなかで一番好きなのは手だと思う。この指先は、刀を癒すこともできるし、なおすこともできる。
「お前が酒を飲める年齢なら良かったのに」
膝丸は男らしい手で杯を受け取って口に持っていく。形のいい喉仏がごくりと動いた。障子が開け放たれていて庭のあかりが見える。きれいだなと思う。じっと体を捩り光を見つめていると、。膝丸が、「早く食べろ。冷めてしまう」と言った。箸をにぎりなおすのを膝丸は眺めている。人に見られながらご飯を食べるのは緊張する。仲の良くない相手ならなおさらで、所作を見定められているようで落ち着かない。一応、作法は身につけているつもりだった。あまり、自信はないけれど。
膝丸はずいぶん雰囲気が変わった。もう酷いことはいわないし、最近は周りの刀から守ってくれる素振りさえ見せる。
「明日非番だろう。どこかへ行かないか」
持っていた箸を落としそうになった。肘が机にぶつかって派手な音をたてる。
「誰と?」
「俺とだが」
膝丸は怪訝そうにこちらを見つめてくる。わたしのなかの冷静な部分が、それはそうだとこたえる。ここには二人しかいない。
「どうしてですか」
「別に深い意味はない」
揶揄われただけだったようだ。ほっとしながら、「ごちそうさま」と手をあわせ、お盆ごと食べ終わった食器を持って立ちあがる。背を向けたところで、手品みたいに持っていたお盆が消えた。
「あっ」
「ここにいろ。少し付き合え」
お盆は膝丸の手のなかにあった。呼び止めようとしたが、男は颯爽とどこかへと消えてしまう。
柱の影から顔をだし暗い廊下を見つめた。外から冷たい風が頬を撫でて、火照った体をさましてくれる。心臓がどきどきとしていた。
夜も遅いせいか音があまりしない。のろのろと縁側にでて、足を投げ出すように座る。子供のようにぶらとさせてみた。満月が上のほうで輝いていて、庭は優しい月の光に照らされている。敷き詰められた玉砂利が光を受けてぼんやり光る。立てた膝に顔を横向きにしてのせ、息をはいた。
「待たせた」
急に声をかけられて口から変な声が出た。足音が全然しないことに感心していると、膝丸は当然のように隣に座り手に持っていたお酒を廊下に置いた。わたしは二度見してしまう。まだ飲むのと心の中で呟きながら、何か期待している目をしている男を睨みつけて、瓶を手に取る。力がもともと弱いので蓋をあけるのに苦労していたら、ひょいと取りあげられて、軽い音が鳴る。お酌をすると、神さまはうれしそうに瞳を細くする。
とくに会話もなくぼんやりと庭を眺める。星空が広がっている。知っている星座を見つけたが屋根の雨どいがすこし邪魔で、下から覗き込むように身をのりだすと、胴に腕がまわる。
「危ない。落ちてしまう」
「大丈夫です」
腰に回った手をさりげなく押しのけながら反抗する。保護者のような目線がむずかゆい。手を外そうと躍起になっているうちにぐっと引き寄せられて、視界が横に揺れた。抱きしめられている。心臓がどきどきと胸を打つが頭の部分は冷静だった。男の動きは手慣れていた。何人もの女に同じことをしてきたのだろう。この女たらしめ。絶対にほだされたりもんか。そんなことを思いながら体を固くしていた。膝丸は髪の毛に指を絡ませると、そのまま顔を近づける。首筋を吐息が撫でる。何をするのかと拘束されたまま睨みつける。酔ったように目が潤んでいる。
「君は自分の価値を知らない。そして、俺達も気づかなかった。いまは俺だけが知っている」
言いながら首筋に顔を寄せる。今にも口づけようと言う距離で、膝丸はぼうっとしたまま言葉を続けた。
「なんだかおかしい……。いつもと体がちがう」
膝丸はなにかを我慢しているように眉間に皺を寄せている。
頭にあることが浮かんで、優しい拘束から抜け出し部屋に戻った。壁際に行く。刀掛けに収まっている重厚な太刀に手を伸ばした。胸にしっかりと本体を抱えて出てきたわたしを見て、膝丸は眉を寄せた。元いた場所に戻る。太ももの上に本体を置いて、鞘に手を置いた。膝丸は興味深そうに横から眺めている。
呼吸に集中すると、心が一段深い場所に落ちていく感じがする。左手で柄の辺りから先までを撫でる。
「以前、プロのスポーツ選手の記事を見たんです。すごく印象に残っていて。内容は、どの世界でも、トッププロになるほど道具を大事にするというものでした。ここぞというときに助けてくれる気がするとありました。彼らの使う道具はなん百年も存在しているわけじゃないし信憑性が薄いかもしれないけれど、本丸にいると、そういうこともあるのかなと信じたくなってしまいます。……って、大丈夫ですか」
膝丸は眉間に皺が寄って目を瞑っていた。苦しそうにも見える。刀を元に戻そうと腰を浮かせかけるが、大きな手がそれを阻止した。
「続けていい」
肩口に頭を乗せながら男が言った。長い前髪にかくれて表情は見えない。まただ。心臓がうるさい。動揺を悟られないように手を鞘に滑らせた。男は満足そうに頷きふたたび目をとじる。
外出に誘ってくれたのは冗談かと思っていた。酔ったはずみででた言葉だろうと。あれから膝丸は寄りかかったまま寝てしまって、揺さぶっても叩いても起きないから布団に運んだ。これがほんとうに大変で、引きずり、ほとんど最後は転がすようにして移動させる。こんなに乱暴にして起きないことを不思議に思ったが、よほど疲れていたのだろうと考える。部屋に戻り布団に入ると、すぐに眠気がやってきて、落ちるみたいに寝た。夢は見なかった。最近はあまり夢を見ない。前は同じ内容をなんども見ていた。どんな夢だったか、歩きながら思い出そうとするがうまくいかない。
今朝、先に起きたわたしが洗面所で顔を洗っていると、浴衣を身にまとって膝丸が現れた。髪の毛がはねている。普段しゃっきりしている人の素の姿を見てしまい、どきっとする。
「おはよう」
「おはようございます」
男はガサガサの声で絞り出すように挨拶すると、隣の椅子に腰かけて項垂れる。二日酔いだろうか。これもめずらしい姿だった。
「このあと、部屋に水をお持ちしますか」
「たのむ」
のろのろとした動きで立ちあがり、彼は脱衣所へ向かった。わたしがいるにも関わらず腰の帯に手をかけるので、視線を外す。ものすごい早さで髪をとかして、下を向いたまま早足で出口に向かった。背中のほうから声をかけられる。
「約束、忘れるなよ。夕刻前に長屋門の前で」
振り返った先にすでに男の姿はなかった。数秒遅れて、磨りガラスの扉の向こうからシャワーの音が聞こえる。
部屋に戻り頭を抱えていると、心配した光忠たずねてきたのでことの顛末を話す。彼は隠れていないほうの目を丸くして、「そう。頑張ってね」とよくわからない励ましをかけてくれた。
どこにいくつもりかまるで分からなかったけれど、とりあえず浴衣を取り出して畳の上に並べた。椿の柄が一番好きだけど、少しだけ迷って藍色の生地に白い花と波のような模様が入っているものにした。
髪の毛をまとめて小物を選んでいたら思いのほか時間が過ぎていた。約束、と言っていたが、そもそもわたしは、行くとも行かないとも言っていない。
強引な神様だ。
門の外側には一本道が続いている。数年前、一人で歩いてきた道だ。右側には白い漆喰が塗られた塀があり、道を挟んで反対側に田んぼが続いていた。まだ青い稲が風に揺れている。堀の間に白っぽい何かがいて、目を凝らしてよく見ると狐だった。いつも屋敷でみるしゃべる狐ではなく、本物だ。懐かしさを感じる。実家にいたときは野生動物がたくさんいた。ここに負けないくらいの田舎に住んでいたのだ。
「ちっちっ。おいで」
手を前に出して呼びかけるが、狐は銅像のように動かない。前足をちょこんと揃えてしゃんとしている。神社にいる石像みたいだ。諦めずに呼びかけていると、上から黒い影が差した。
「何をしている」
太陽を背にして膝丸がいた。黒っぽい浴衣に身を包んでいる。戦装束ではないけれど、手にはしっかりと刀を持っていた。
「あそこに狐が」
「どこに?」
手を掴まれ吊られるようにして立ちあがる。立ち眩みのせいか視界が揺れる。堀へと視線を向けるが、狐はいなくなっていた。
「見間違いではないのか?」
「そんなんじゃない。確かにいたよ」
むきになって言うと、男は、そうかとうけ流し先を促す。二人で一本道を歩いた。あと数時間したら日が沈んでしまうが、夏の夕方はまだまだ明るい。絶対いたのに。いくら野生動物だとしても、草の音ひとつ立てずにその場を離れるなんてことができるのだろうか。
「おい。ちゃんと歩け」
腕を掴まれて意識を現実に戻した。考えごとをしながら歩いていたせいか体がよろけてしまった。膝丸は呆れている。
「ごめんなさい」
ばつが悪くなって取り繕うように笑うと、男は手を繋いでくれた。
「わたしと仲良くしてたら、みんなから何か言われない?」
「言われるな」
「じゃあ、やめたほうがいいんじゃ……。わたしなんかといないほうが、」
言いかけた言葉を飲み込む。膝丸は足を止め、冷たい目で見おろしている。
「お前はいつも自分を卑下した物言いをする」
「それは……実際にそう思っているから」
すこし前までだったら貴方だって馬鹿にしていたじゃないか、とも思ったが、口にはださなかった。いまは喧嘩をしたくない。どうせもうろくに会わなくなるんだし。そう考えると自然に手に力がはいる。
「ねぇ見て。すごくきれい」
歩いているうちに日が落ちていたのか、気がつくと地平線が赤く染まっていた。
夕日が今にも落ちそうだった。じっと太陽を見つめていると視界が暗くなる。
「目が見えなくなるぞ」
瞼に冷たい感覚が伝わる。真っ暗な世界に、緑色の粒が光ったり消えたりしている。太陽を直視してしまったためだ。
「どこにいくの」
膝丸は手をゆっくりとどかしながら、「すぐ分かる」と言った。
道を暫く歩いていると少しずつ人が多くなってきた。川に沿っていくつもの屋台が軒を連ねている。いい香りが漂ってきて、お腹からぐぅと大きな音がなった。隠すみたいに咳払いをする。男は楽しそうに笑った。既視感があると思ったら、万事屋のある通りだった。膝丸は先に用事を済ませると言って、素通りする。細い道に入ると喧騒が遠くなった。日が落ちて薄暗い道の先に小さな祠と古いお賽銭箱があり、男はしゃがみこむと、懐から白い封筒を出しお賽銭箱に入れた。お金を入れたとたんに隙間から光が漏れてすぐに消えた。覗き込むと中身はなくなっていた。疑問が顔にあらわれていたのか、膝丸は立ちあがりながら文化財保護のために寄付をしたのだと教えてくれる。一年に一度、ここへは来るらしい。
「知らなかった」
「どうせなら、今の時期が良い。よく祭りごとをしているんだ」
「へぇ」
それも知らなかったな、と反対側を眺める。オレンジ色の光がもれている。どこかでお囃子のような笛の音も聞こえた。行きかう人々のなかには男士の姿がまぎれている。とすると、隣を歩いているのは審神者だろうか。ぼんやりと考えていると目の前で手をひらひらとされて意識がはっきりとする。
「用事は終わった。さて、行きたいところはあるか?」
「えっ」
てっきり、本丸にすぐ戻るのだと思っていた。どうこたえればいいのかわからずうろたえていると、おなかから音がして、顔が熱くなる。
「まずは腹ごしらえか」
頭にぽんと手を置かれてとっさに頷いてしまう。たしかにおなかはすいていた。大通りにもどると喧騒が増した。
「何が食べたい?」
「やきそば」
ちょうど目についた看板の文字を口にする。頷いた男は流れるような動きで会計を済ませてしまった。手に袋をもって戻ってきた膝丸がこっちだと案内してくれる。暗くてよく見えないが、先が階段になっている。滑りやすい場所を見つけては、気をつけろと教えてくれた。いちど脇道に入って黙々とのぼると唐突に階段が終わり、神社があらわれた。比較的ちいさい神社だった。ぐるっとまわり込んで、側面の階段になっているところに座る。せっかく用意したので、浴衣が汚れたら嫌だなと思ってしまったが、思ったより床は綺麗だった。男から焼きそばを受け取る。
まだあたたかい。太ももの上にビニール袋を敷いて、その上に焼きそばを置いた。食感はもそもそとしていたけど美味しく感じる。屋台で買った食べ物ってどうしてこうもおいしく感じるのだろう。半分だけ残して分けようと思ったがやんわりと断られた。
「ひとくちだけでも?」
予想外にさみしげな声が自分から出て、驚いてしまう。相手も同じようにびっくりしたのか目をすこし見張っていた。薄い飴色の目を見つめているうちに、この刀と時間や出来事を共有したかったのだと知る。「いまの忘れて」と俯きながらつぶやくと、膝丸は箸を借りて麺を口にほうりこんだ。しばらく咀嚼したあとちいさく、「もそもそしている」と言ったので笑ってしまった。
「わたしもおなじこと思った。でも外で食べるとおいしいね」
「それは同意する」
膝丸はそうそうに箸をおくとぼんやりと境内を眺めた。入り口の近くにある手洗い場の水は枯れていて、口をあけた龍の銅像があるが、足元に苔が生えている。四本の爪のうち一本は欠けてしまっていた。絶景とは言えないけれど、流れる空気は穏やかだった。無言でいても疲れない相手って貴重だなと考えていると膝丸はおもむろに立ちあがる。
「行くか」
「はい」
前を歩き始めていた膝丸は、階段の手前で振り返り手をさし出した。小走りで駆けて追いつく。手を繋いで階段をおりるとくすぐったい気持ちになった。小道を抜けて大通りに出た時には完全に夜になっていて、露店のあかりが目に飛び込んでくる。さっきより人どおりが多い。回遊魚みたいに右から左へと行ったり来たりする人の群れに、普段あまり人混みにいくことがないせいか、見ていると具合が悪くなってくる。
膝丸は力強く手を引いて、流れにとけこんでいった。すこし前を歩いていく。わたしが人にぶつからないようにしているのだと気がついた。
「こっちだ」
ぐいっと体が横向きになる。左へ道をいくと灯りが少なくなった。右手に大きな柳の木が見えたところで、やっと膝丸は足をとめた。横に立って先を眺める。先は土手になっていて、暗くてよく見えないが奥に川があった。耳をすますとかすかに水の跳ねる音がする。来た道を振り返れば、赤い光が浮かんでいて、あちら側はお祭りみたいに賑やかなのに、こちら側はやけに静かだ。
暗闇の中で目を凝らすと先客が何人かいた。土手に立ったり、乾いた地面にタオルを敷いて座っている。決まって皆、川を見つめている。何かを待っているみたいだった。河原を暫く歩いていたら地面がなめらかな場所を見つけたので直接座る。膝丸も横に腰をおろした。肩と肩が触れ合う距離に緊張してくる。静まれ静まれと念じていると、男がぽつりとつぶやいた。
「役目を終えたら、魂はどこへいくと思う」
難しい質問だと思った。そっと横顔を眺めるが、なんの感情も読み取れない。
「海に行くのだと思います」
「なぜ?」
「人の祖先をずっとたどると魚にいきつくらしいです。だから海が帰る場所に浮かんだかもしれません。膝丸様は?」
「敬称をつけなくてかまわない。お前とは、もともと主従関係でもない」
男は続けて、言葉遣いも気にしなくていいと言ってくれた。そのほうが嬉しいとも。
そして傍らに置いていた刀をつかむと軽く地面をたたいた。
「俺は下に落ちていくのかと思った」
「鉄に戻るから?」
思ったまま口にしてしまい、その瞬間に後悔した。脳裏に折れた刀が浮かぶ。膝丸は気にした風もなく「どうだろう」と呟く。衝動のまま男の服の裾を握る。前を向いていた男は驚いたように振り向いた。
「やっぱり今のなし。膝丸は折れないし、鉄に戻らない」
口にだしたら、本当になってしまうような気がした。
「ずっとそばにいて」
膝丸の顔が困惑から喜びにかわっていく。彼は顔を寄せて猫がするみたいに、頭に口付けをした。否定も肯定もしないことに心がちゅうぶらりんになる。わたしは君が願うなら、死なないことにすると言ってほしかった。無理だとわかっていても。でもそうは言わなかった。刀は嘘をつかない。
自分の死について考えるとき、不思議と恐怖は襲ってこない。その反対に、身近な誰か――それも大切な人の死について考えると、足元が溶けてなくなってしまうような感覚に襲われる。
瞬きひとつすると金色と目が合った。膝丸が覗き込み「もうすぐ始まる」と静かに言う。
何が始まるのと訊く前に、視界が一段と暗くなった。どん、とお腹に響くみたいな音が聞こえる。いつの間にか露店も提灯もみんな火が消えていて、辺りは暗闇に包まれていた。突然音連れた暗闇に恐怖してわたしは男の服の裾を握った。
「怖がらなくていい。あそこを見てみろ」
今日は月も雲に隠れてしまっている。必死で目を凝らすと、黒い人影が見えた。岸の向こう側で、何人かの人が川に向かって何かしていた。淡い光がちらちら揺れている。川上から流れに乗って光が近くまで来たとき、それがなにか分かった。紙でできた灯篭だ。最初は一つ、二つだったのに、数が少しづつふえていく。灯篭は目の前を通り過ぎて、やがて川下へ消えてしまった。
ふと泣き声が耳に入って、声のしたほうを見ると、女の人がいた。その場に泣き崩れている。横で男士が慰めている。灯篭が手から花びらみたいに落ちてしまった。
嗚咽を漏らしている女へと近づく。うしろで膝丸が放っておけと怒っている声がしたけれど無視をした。地面に落ちてしまった灯篭は、火が消えて紙がよれてしまっている。汚れを簡単にはたいて、泣き崩れる女に渡す。彼女は目があった瞬間、ぐしゃりと顔を歪ませた。灯篭を受け取る手は小さく、そして幼かった。彼女はわたしよりずっと年下にみえる。目に大粒の涙を浮かべているの前にすると心が痛む。
「どうしたの」
なるべく静かに聞くと、横に立っていた太刀が怪訝な顔をした。詳細は聞いていないが、ここがどういう場所なのか感じ取っていた。刀が何か言う前に女が口をひらく。
刀が折れてしまった、と彼女は言った。
「大好きな人だった。でも気持ちを伝えられずに、戦場でそのまま」
少女はしゃくりながら、火の消えてしまった灯篭を胸に抱えたまま、小さく会釈をした。
「待って。見送らないの」
「火をもってないの」
諦めた口調で彼女は言った。火は一本だけ渡されるのだという。誰かから借りることは出来ないのだそうだ。
頭の中でひらめきが浮かんで、考えるより先に手が動いた。
「少しの間だけ、待ってもらえる?」
「う、うん」
瞳に困惑を浮かばせながら、彼女は手を伸ばした。両手で白い紙で出来た灯篭を受け取る。見た目よりずっと重く感じた。
「おい。余計なことに首を突っ込むな」
見かねた膝丸が近くまで来て呆れた声をだす。
なんとなくいつも持っていた火打金と鍛刀のときに使うお札を用意して、思い切り石をぶつける。もとは本丸で使っているものなのでお札にも石にも不思議な力があるのか簡単に火がついた。慌てて火を灯篭にうつす。
「うまくできた」
額に流れる汗をぬぐいながら煌々とあかるくなった灯篭を渡すと、彼女は何度もお礼を言った。振りかえり、お辞儀をしながら少女は向こう岸にもどっていくのでそのたびにちいさく手を振った。
「さっきのは?」
いつの間にか隣に来ていた膝丸がたずねる。
「いつも持ち歩いているんです。戻すの忘れてたんだけど、かえって良かったかも」
彼は感心したように頷いた。
川の流れは止まらない。光はすぐに遠くへ行ってしまう。
「つぎ生まれ変わるとしたら、風がいいなぁ」
膝丸は不思議そうな顔をした。うまく言葉にすることができなくて、あいまいに笑う。
膝丸はため息をつくと、急に静かになってしまった。
「どうかした?」
刀はゆっくりと振り向き目を合わせる。瞳の中にはさっき見た炎に似た何かが揺らめいていた。
「俺は、次に機会があるなら。……君の刀になりたい」
時間が止まったみたいだった。
わたしは彼の手を取って、ありがとうと呟く。
二人で光を眺めていた。最後の光が海に帰るまで。