名前を呼ぶ声が聞こえる。低くて籠った声だ。
プールに似た場所で、わたしは力なく横たわっている。床は冷たくて、天井で淡い光が揺れていた。あたりは青暗く、ゆらめくカーテンのように屈折する光が反射している。こぽこぽと音がはねる。水の中にいるみたいに。
もう一度、名前を呼ばれる。
遠い場所から呼びかけるみたいに。こんどは、はっきりと。
わたしは嬉しかった。もう二度と呼ばれることはないと思っていた。ほんとうの名前、懐かしい響き。獣のような香りとともに視界に銀色が舞う。手を伸ばしたけれど、あと少しというところでするりと逃げてしまった。
あれはなんだろう。姿が見えない。でも確かに傍にいるということだけはわかる。
それは暫く天井を泳いでいたけれど、飽きたのか降りてきてすぐ隣に身を寄せた。
安心が波みたいに押し寄せ目を瞑る。
ここは静かな世界の淵。
わたしを脅かすものは何もない。
朝、目を覚ましてからいちばん初めに飛び込んできた景色は、水底からのぞむ光などではなく、真っ黒な天井だった。じわじわと現実が押し寄せてくる。よく分からないけれど、いい夢だった。
夢の名残を求めてもう一度眠ろうと思ったけれど、気持ちとは反対に意識は段々とはっきりしてしまう。現実の輪郭が濃くなり、駄目押しのように、ぴぴぴ、と枕元の目覚まし時計が鳴った。のろのろとした動きで体を起こす。障子の向こう側が明るい。今日も天気が良さそうだ。
髪をかきあげたが、急に体がなまりのように重く感じて、手はぽとりと太もものあたりに落ちた。やけに青白く、薄暗い和室のなかで奇妙に浮いて見える。まだ若い色をしている畳から視線を遠くに向ければ、唐紅の着物が衣紋掛けにかかっている。まるで鳥みたいに。いまにも飛んで行きそうに、自由な風貌で袖を広げている。--でも実際は、閉じ込められていると言ったほうが正しい。
老人のような動きで体を持ちあげ浴衣のまま洗面所へ向かった。まだ朝も早いので廊下を通る者は少ない。途中、背丈が高く髪の赤い刀とすれ違った。「おはようございます」ともごもごとした調子で呟くと、目だけ細める形で答えてくれる。はたから見たら無視しているようにうつるだろう。でも反応を返してくれるだけ彼は優しい。この屋敷でわたしは地位が高くないし、主人の教育が行き届いているので、殆どの刀は無反応を貫く。
ふと今日からお世話(という言い方があっているのかはいまだわからない)する刀の顔が浮かんで反射的に胃が痛くなった。凛とした後ろ姿。黒い重厚な太刀、金色の瞳。それが暖かい色でわたしを捉えたことなんてただの一度もない。十二歳の頃から兄の本丸に放り込まれたけれど、刀たちがわたしに笑顔を向けたことなんて、ほとんど無かった。
思考は黒く淀む。行きたくないという言葉がなんども頭にわいて胃がどんどんと痛くなる。顔を洗ったら部屋に戻って薬を飲もう。そう決意しながら、薄い生地でできた暖簾をくぐって丸椅子に腰掛けた。早く済ませないと男たちが来てしまう。ここでは女はわたしひとりなので、なんとなく、朝の無防備な姿は見せたくなかった。起き抜けで辛いけれど、なるべくてきぱきと手を動かした。髪をとかして歯を磨く。冷たい水で顔を洗うとだいぶ気分がすっきりとした。鏡の向こう側にいる女と向かいあうと、具合の悪そうな顔をしていた。心なしか、げっそりとしている。
「今日も頑張ろう」
どこか宣言するように呟く。静かに立ちあがり、洗面所を後にした。
「失礼します」
朝餉の準備をしたのちに向かった先は、太刀である膝丸の部屋だった。彼は髭切とは別の部屋を与えられて生活している。これは本丸の主である、兄の方針だ。
刀はすでに着替えを始めていた。完全に背中を向けているのでどんな表情をしているのかは分からない。和室の中心で、裸の上半身をさらしている。男は畳に置かれている白いシャツを手に取る。かがんだ瞬間に背中の傷が浮き彫りになった。まだ完全に癒えていない、ミミズがはったようなあとが目に飛び込んで息をのんだ。挨拶もそこそこに部屋の奥に移動し、刀掛けに手を伸ばす。低い唸り声のような音が耳に届いた。
「触るな」
体がびくりと震える。言葉に嫌悪がにじんでいる。咄嗟に手をひこうと思ったけれど、ミミズの跡があたまに浮かんだ。
「でも」
と口に出した途端、空気が凍りつく。うえからぐっと濃い影がのびる。わたしの言動のどこで刀の機嫌を損ねてしまったのかわからない。男の発する気にあてられて息を吸うのが辛い。怖い、怖くてたまらない。おおきな蛇に睨まれているネズミのように小刻みに震えていると、死角から手が伸びてきて鞘を掴んだ。背後の男が素早く本体を手に取る。刀の側面におびえた女の顔が映った。
「でも、なんだ?」
喉元にあてたれた鉄の冷たさに体が石のようになった。どっど、と、心臓が喚きだす。動いたら皮膚が切れる。指の先も動かせない。喉から勝手に情けない音がひゅうひゅうでてくる。どのくらいたっただろう。一瞬のようにも思えたし、永遠のようにも思えたころ、庭先で鳥が羽音を立てて飛んでいった。男は音がしたほうにちらりと目をやり、
「世話などいらん。俺が許可するまで口を開くな。一切の物音を立てず、いないものとして過ごせ」
とため息まじりに言った。
言われるがまま、四つん這いのような姿勢でやっとのことで部屋のすみまでたどりつく。することもなくなってしまったのでせめて邪魔にならないように膝を抱えて体育座りをする。ちいさく体を丸めながら、このまま消えてしまいたいと思った。恐れかくさずに言うならーーわたしも膝丸が嫌いだった。お互いが嫌ならこんなことはしないほうがいい。そのほうがよっぽどうまくいくのに。シャツのボタンを丁寧に留めていく男の背中に一瞬だけ目をやる。痛々しい傷は初めから無かったかのように清潔な白に隠れてしまった。
兄は頭が良くて戦術に長けているが力が弱かった。力というのは腕力などでは無くもっと霊的なものだ。だから男士の傷の治りも遅い。本丸の空気も気を抜くと淀んで重たいものになった。掃除をしながら清めていくのはわたしの仕事だった。
じっと石のように固くなりながら目を伏せていると、準備が終わった男は無言で刀を掴んで腰にかける。あたりまえのように廊下へ出ていこうとするのであわてて後を追う。膝丸はこちらのことなど一切考えずに大股で歩いていく。みるみる遠くなる背中を必死で追いかけた。
息を切らしながら庭へ出るとちょうど第一部隊が出陣していくところだった。膝丸はその部隊に組み込まれていたようで、合流すると門の向こう側に消えていった。小さな光を残して刀の姿は消えてしまった。きっと今日もどこかの時代へと向かったのだろう。見送りがすむと急に力が抜けてまともに立っていられなくなった。早く部屋に戻りたい。胃が痛くて、すこし休みたかった。
だけど、これからまた他の刀と対面しないといけない。食事の準備を手伝うのだ。やすんでなどいられない。服の上から胃のあたりを押さえながら厨に向かって歩いていると、曲がり角から黒い影がさした。
「おっと! 大丈夫?」
太い腕がおなかを支える。正面衝突はさけられたようだった。ぶつかりそうになったところを助けてくれたのは、今しがた考えていた刀だった。
「光忠さん、ごめんなさい……」
思いのほかよわよわしい声が出て、気恥ずかしさに顔が赤くなった。男は見えているほうの目を細め無言で手を引いてくれる。歩けるかという問いかけに力なく頷いた。空いている和室にわたしを押し込んだ男は、流れるような動きで押し入れから布団を取り出した。敷かれたばかりのそこに子供のように寝かせられる。
「今日は手伝わなくていいよ。本当は手入れもお休みできたらいいんだけどね」
「でも、やらないと。あとで怒られちゃう」
光忠は何か言いたげだったけれど、空気を変えるように明るい声をだした。
「今、誰の元につかえているの?」
「……膝丸様」
黄色い瞳が動揺でゆれる。彼は珍しく呻き声を漏らした。ここの膝丸は本丸のなかでも厳しいと有名だった。あと数時間もしたら、さっき見送った第一部隊は帰還する。刀の神さまは身も心も鉄のように冷たい。
「戻るまでまだ時間があるから、少しの間だけど、ゆっくり休んで」
低くてやさしい声が鼓膜を震わせる。返事をするより前に視界が暗くなる。瞼の裏に手のひらが当てられていた。光忠は比較的優しい刀だけど、やっぱり手は冷たかった。
数時間後、目を覚ました時にはすっかりあたりは暗くなっていた。さっと血の気が引く。慌てて布団から抜け出し、髪を撫でつけながら廊下を走った。
内心どきどきとしながら、でも表面上は何事もなかったようにして門の前に立つ。よわい風がさらさらと草をゆらす。帰還の時間には間に合ったようで、ほっと胸をなでおろした。そうしているうちに空気がゆらいで、何処からともなく血の匂いが立ち込める。空間を突き破るようにして最初に現れたのはへし切長谷部だった。歩くたびに桜の花びらが舞っている。今日の誉は彼のようだ。心なしか上機嫌のように見える。頭を下げて地面に視線をおとす。じっと息をひそめて彼らが居なくなるのを待った。皆、わたしのことなど居ない者のように扱う。少しばかり高揚した口調で、がやがやとした喧騒がすぐ前を通り、そして離れていった。
ほっと安堵の息がもれた。今日は手入れが要らなそうだ。
見送りもすんだので自室に帰ろうと思い顔をあげた。小さくなる背中をぼんやりと眺める。違和感が襲ってきて、あれと口走る。二人足りない。
足を僅かに引きずるような音とともに視界の端に赤色が滲んだ。黒いブーツが地面に筋を残す。血が滴って、白くてつるりとした玉砂利が禍々しい色に染まった。無言のまま、目の前を膝丸が横切っていく。どこもかしこも傷だらけで、額からの出血がひどかった。彼は横にいる短刀に何かを告げると、玄関ではなく庭に向かって足を動かした。手入れ部屋に行くのだとすぐに分かった。慌てて駆け寄ると足元でがちゃがちゃと楽器みたいに石が音を立てて、わたしに気が付いた男が大きく舌打ちをした。
「もう忘れたか。触れたら、手首から跳ね飛ばす」
伸ばした手をひっこめる。横で一部始終を見ていた今剣が、呆れたような表情を浮かべ「へやのじゅんびをしてきますね」と駆けていった。
片足を引きずりながら進む男の数歩後ろを子供のようについていく。どうしていいのか分からない。時折よろめくので支えてやりたいけど、触れた瞬間に腕から先が無くなってしまうと思うと近寄れない。結局、おろおろとしながら後をついて行くことしかできなかった。そうこうしているうちに手入れ部屋が見えてくる。
靴を脱ぎ縁側から直接室内に向かう。また、余計なことをするなと怒られるのではとびくびくしながら、先まわりして部屋の障子を引いた。男はよほど辛いのかこんどは何も言わなかった。後ろでごそごそと靴を脱ぐ音が聞こえる。その間にさりげなく手入れ道具を準備した。
敷かれた布団ではなく、畳の上に腰を下ろした刀は大きく息を吐いた。本体を慎重に横に置く。そのまま項垂れて目を閉じてしまった。
ここは離れたところにあるので人の声がほとんどしない。蜩の声が遠くで反響している。夕日の残りで世界は赤く染まっている。ここだけ切り取られた世界みたいで、くらくらとした。
こんな時、大体の男士は苦痛に耐えかねて刀を差しだしてくる。どんなに表面上で嫌っていても、手入れ部屋では対等に扱ってくれる。だけど膝丸は違った。ひたすら痛みに耐えている。そうしていても誰も助けられないのに。本丸の主である兄の横顔を思い出し、深呼吸をした。この狭くて不自由な世界でわたしは与えられた役割を果たさないといけない。たまった唾を飲み込んで傍に寄ると、瞼があいて金色の瞳がぎょろりと動いた。
「あ、兄の、命令なので。手入れだけはさせてください」
主の命ということを強調して言えば、彼のまとう空気がほんのすこし変わった。苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべた男は、本体を掴むと乱暴に放りなげる。ガシャンと硬い音がして、ごろんところがったそれは膝にぶつかってとまった。鞘には目に見えてわかる傷ができていた。一礼をし、慎重に抜けば鋼が鈍い光をはなつ。刀身を柄から外していると、射抜くような視線を感じた。顔をあげなくてもそれが誰のものかは分かる。この狭い室内に、人の形を持ったものは二人しかいない。
せっせと刀についた油やら血やらを取りのぞいていると、おもむろに男が口をひらいた。
「お前は、なぜここにいる?」
「え?」
予想外の質問に、手に持っていた刀を落としそうになった。男は胡坐をかいたまま肩ひじをついて、つまらなそうに手元を見つめている。
「さっさと荷物を纏めて逃げればよいではないか。誰もお前を追いなどしない。消えた事すら気が付かないかもしれん」
ぐっと口を噛み締めて手を動かした。挑発に乗ってはいけない。ここで何か口答えをすれば相手の思うつぼだ。もし反抗的な態度をとれば、膝丸は恐ろしい程の早さで刀をもぎ取り、わたしに振るうだろう。一切の迷いも無く。
「気に入らない」
無視をしながら黙々と手入れを続けていると、畳に黒い影が広がった。男がぬっと立ちあがりすぐそばに来ていた。手が伸びてきて強い力で肩を押される。ざっという音をたてながら畳に転がると、頬に風があたった。顔の横に刀が突き立てられていた。つい先ほどまで血にまみれていた刀は嘘のように綺麗になっている。刀身には怯えた女の顔が反射している。
「その目はなんだ」
「ひっ」
口から変な音が出た。薄くあいた口からたえず空気の漏れる音がしている。刀にうつった自分と目を合わせた。瞳は夕闇を反射してうすく血の色をしていた。時がとまったかのようだった。ぐわぐわと責め立てるように蜩の鳴き声が押し寄せてくる。しばらくそうしていたが、男は飽きてしまったのか静かに立ちあがった。
「答えぬか」
ちいさく呟きながら上着に手をかける。そのまま何事も無かったかのように廊下へと向かった。血は消えて足取りもしっかりとしている。内側から喚く心臓を宥めるようにしながらたくましい背中を呆然と見つめる。そういえば戦場から帰って間もないので、湯汲に行くのだと思い至る。早く浴衣を持って来ないと――もたもたと立ちあがると、冷たい声が響いた。
「今日はもう戻れ」
「わかりました」
内心かなりほっとしながら礼をし、手入れ部屋をあとにした。胃の痛みはおさまったけれど今度は頭が痛い。こめかみのあたりを押さえる。自然と早足になった。
夕日は沈みきっていた。手を移動させて左目を押さえる。世界がどこもかしこも血の色で、まるで地獄の中にいるみたいだ。――地獄。そう。ここは地獄そのもの。諦めに似た気持ちが胸を満たして、すこしだけ笑った。どこにいても行き止まりだった。それはあながち間違いではないかもしれない。だって、いつまで経っても楽にならない。本当は、膝丸の言う通り、本丸を捨ててどこか知らない場所に逃げ出してしまいたい。足が動かないのは、ほかでもないわたしが臆病者だからだ。全部、わかっていた。
夢を見た。
何度か見たことがある景色だったからすぐに夢だと分かった。プールの底でくたりと横になって天を見ている。世界は淡くぼんやりとしていて、音は水の中にいるみたいに反響していた。ここは静かでとても心地が良い。
横になったままでいると、何かおおきな生きものが降りてきて傍に寄る。姿は見えなくても、誰かが傍に居るのだということだけが肌でわかった。
「きみは誰」
なんど尋ねてもまるで答えをくれない。
くるりと寝返りを打って、小山のような影に身を寄せた。ふわふわとした毛並みとほんのすこしの獣の匂い。人ではないのだろうとぼんやり思う。なんとなく犬のような気がしていた。昔に実家で飼っていた犬が夢に出てきてくれているのかもしれない。
どちらのものか分からない血潮の音を聞きながら目を閉じる。
この匂いを知っている気がする。でも、思い出そうとするたびに、視界がちかちか点滅する。
「駄目だ……。思い出せない」
諦めたように呟けば、それは湿った鼻先をこすりつける。
気にするな、というように。