土埃が舞っている。離れた場所で刀を振るう男たちを眺める。なんとか姿を捉えようと思ったけれど、まるで動きを追えなかった。時々奇声に似た声があがる。きっとあれは髭切だろうと、空を舞う鮮血に思った。
隣で大声をあげ指示を出している男の姿をさりげなく横目で見る。神経質そうに目じりがあがっていて、兄妹といえどあんまり似ていないなと感じながら、兄の的確な指示を隣で聞いていた。
彼の一声で風向きが変わる。たった一つの指示でこうも戦況が変わるのかと驚いてしまう。何を考えているのか分からない黒い瞳で、彼は状況を的確に見極めているようだった。風が動くように場の空気が変化して、気がつけば味方は勝利をおさめていた。相手の審神者と簡単な会話をした後、兄はちっとも嬉しそうでない顔で、真っ直ぐに出口へ向かう。相手に背を向けた瞬間、貼り付けた笑顔が引っ込み真顔になったのを目にした。兄をたたえる男士達におくれをとらないよう足を踏み出した。こめかみに鈍痛がはしる。まただ。最近よく頭痛がする。だがいまはタイミングが悪い。演練中で、もたもたしていたら、みんなわたしのことなど置いて行ってしまう。気配に敏感な男士たちはわたしのようすがおかしいことに早々に気が付いたようで、ちら、と後ろを振り返る。すたすたと前を歩く兄に何か耳打ちをした。兄は「あ?」と低くうなりながら面倒くさそうに振り返る。黒い瞳と目があう。
「どうした」
戻ってきた兄がたずねる。
「いえ……」
くちごもる私にため息をつくと、彼は休憩所のほうを指さす。
「でも本丸に帰ったほうが早い、よ」
休憩所から視線を戻すと兄の姿がなかった。出口を見れば仲間の姿が見えて、それが向こうの世界に消えてしまったとき、置いて行かれたのだと理解した。でも不思議なことに心に襲ってきたのは恐怖ではなく、すっとした気持ちだった。それならそうと仕方ない。痛むこめかみを押さえながら立ちあがると、世界が前後に揺れた。あれ変だなと思っているうちに、ぐっと腕を引かれる。振り返ると、心配そうな顔をした青年がいた。
「あのさ、さっきから見てたんだけど。大丈夫? 顔真っ青だよ」
「え、あぁ……うん」
口を開いたが思ったように言葉が出てこない。やんわりと掴んでいる腕を外しながら、ぎこちなく笑う。「ほんとう?」と顔を覗き込んでくる男と目を合わせる。黒い服を身に纏い腰には刀をさしている。瞳は紅の色だった。どこぞの本丸の加州清光は、じっと瞳を覗き込むと、「まじか」と呟いた。
「ほんとうに赤い目なんだ」
「え?」
どういう意味だろう。まるでわたしのことを知っているみたいだ。警戒し後退ると、慌てたように手を引かれた。
「まって。取って食おうってわけじゃないから。とりあえずどこかで休もう?」
彼は口元に笑みを浮かべた。人込みを避けるようにどんどんと進む。正直、何も考えられないくらい頭痛が酷くなっていたので男のあとを追った。
気が付いたら人込みを抜けて川の近くに来ていた。大きな川で、近くに赤い橋がかかっていた。柳の根元に腰をおろすと、彼は着ていた上着を躊躇なく土に敷いて、「ここに座りな」と言った。
「ほんと、大丈夫。少し休めば平気……だから」
「嘘でしょ。ほら、とりあえず横になりなよ」
ぐいぐいと引っ張られて崩れるように膝をつく。加州は上着が汚れることを気にしていないようだった。申し訳ない気持ちになりながら寝転がる。夏の空が青く高い。眩しいほどの日差しを大きな柳の枝葉が遮ってくれている。自分たちがいる場所に丸い影をおとし、地面が冷たくて心地が良かった。閉じた瞼の上に手のひらが乗せられて、視界が暗闇に包まれる。どこのだれの物か分からない刀は静かにじっとしてくれていた。そばを流れる川の音がささやく。遠くで男士たちが戦っている音もまじるが、さほど気にならなかった。時々忘れたころに頭を撫でられる。本格的な眠気が襲ってきて横向きに脱力すると、「やっと素直になったね」と、楽しそうな声がふってきたのでうなずいた。
暫くじっとしていた。どのくらい経ったのだろう。日が僅かに傾いてきたころ、遠くから足音が聞こえた。それが近くまで来たことに気がついたけれど、どうしても顔をあげたくなくて、寝たふりをした。
「その子だれ?」
予想外の太い声に、体を硬直させる。男性だ。別に取って食われるわけではないけれど、男の人は苦手だった。だからあまり顔を見られないように、さりげなく顔をふせた。
「拾ったんだ。さっき、そこで」
「拾った……って。猫じゃないんだから」
楽しそうな加州の声とは反対に、男の声は非難じみていた。おだやかな時間はここまでかと顔をあげようとしたとき、刀は驚くべき言葉を口にした。
「ねぇ主。この子、俺達の本丸に来てもらっちゃ駄目?」
え、と二人分の声が木霊する。上体を起こして、改めて男と向かい合う。青年と言うべきなのか、判断に迷う見た目の男がいた。年は二十代といったところだろう。
それに比べてわたしは――少しばかり普通ではないかもしれない。その証拠に、彼は目があった途端驚きで目をみはった。黒い瞳のなかで少女がまっすぐに見つめている。黒い髪。白い肌。そして――瞳がわずかに赤い。輝く日の光の下にいけば、もっと分かりやすいだろう。
「この子、具合が悪いのに仲間に置いて行かれたんだよ」
「それはひどいな」
自分のことのようにかなしそうな顔を浮かべた男にむかってあいまいに笑ってごまかす。現に今、わたしは困っている。帰る方法がわからないのだ。こんなことなら、本丸にひとりで戻る方法を聞いておくべきだった。唇を噛みしめていると、「よし」という明るい声が耳にとどいた。
「とりあえず、そうだな。迎えがくるまで俺の本丸にいなよ。こんのすけに聞いて、君の本丸に連絡をとってみよう」
「いいんですか?」
戸惑いながらたずねると、刀が肩を叩いた。
「いいに決まってるじゃん!」
と笑う。加州はわたしの白い手を取って、「男ばっかりのむさくるしい本丸だけどね」と付け加えた。つられるように立ちあがる。いつのまにか日が落ちて、辺りはうすい夕闇に満たされていた。
「あの!」
前をゆく男性の背中に投げかける。彼は振り返り、すこしだけ眉を寄せた。
「ありがとう、ございます」
深々と頭を下げる。「そんなかしこまることないって」と男が慌てて、「ほら! やっぱいい子じゃん!」と刀が言った。
兄以外の本丸に来たのはおそらく初めての経験だった。作りはどこも似たようなものらしい。白い漆喰の壁を見つめる。本丸の主である男が長屋門に手をかざすと勝手に扉が開いていった。ぎぎぎと重そうな音を立てて、全て開ききると刀が振り返る。内緒話をするように「こっち」と手を引かれた。困って審神者を見ると、「先に行ってて」とのんびり告げられる。庭をあるいてまわり、玄関の扉をがらがらと引いた刀は「ただいまぁ」と間延びした声を出した。ほかの刀の姿は見えない。
「お邪魔します」
大きく息を吸い込んで、誰も居ない廊下へよびかける。加州は赤い瞳を瞬かせた。
「女の子が来るの初めてだから、みんな緊張しているみたいだね」
「そうなんですか?」
「うん。うちは男ばっか。きっとそのうち出てくるよ」
曖昧に頷いて靴を脱いだ。埃が中に入らないように少しだけ裾を叩いた。
「こっち。とりあえず、執務室に行こう」
と言いながら、刀は手を繋いだままどんどんと先に行こうとする。彼は案外強引な所があるみたいだ。
廊下を歩きながら外に目を向けた。玉砂利がところどころ抉れて地面が見えている。誰かがつい先程まで走っていたみたいだった。短刀の誰かが鬼ごっこをしていたのかもしれない。しかしどこまであるいても人の姿がない。痕跡だけが残っているのに、ぱったり消えてしまったみたいだ。
「わたしが来て、迷惑だったんじゃないかな」
急に物凄い不安が胸に押し寄せそう呟くと、加州はとんでもないと頭を振った。
歩き続けると本丸の奥まで来た。障子を引くと和室が広がる。執務室だ。十畳ほどの広さの空間で、奥に木でできた重そうな机が置いてある。暗い赤色の座布団は、長年使っているのかくたびれていた。
「執務室ってこうなってるんだね」
加州は机の上に積まれていた資料をまとめて脇に置きながら「何か飲み物を持ってくるね。適当に座ってて」と言い、足取り軽く去っていった。
近くにあった座布団に腰を下ろしながら外を眺める。ここからは池がよく見えた。近くにはどっしりとした石作りの灯籠がある。それが夜には自動で優しい光をはなつということを、すでにわたしは知っている。
蜩の声にぼんやり耳を傾けていると、上から何かが落ちて来た。視界が白でいっぱいになる。
「ひっ」
「政府の人間じゃないな」
線の細い男が立っていた。腰に手を当ててジロジロと無遠慮に眺めまわしてくるのでわたしは自然と俯いた。男は髪の毛も、服も、どこもかしこもやけに白い。袖口から覗く腕が恐ろしく細くて、これで刀を振るえるのかと不安になった。
絶対に視線が合わないようにしながら体を小さくさせていると、彼は何を思ったのかどかりとその場に腰を下ろした。胡座をかきながら何が楽しいのか口角をあげる。
わたしはとても驚いてしまった。すぐに居なくなると、興味を無くして退室するだろうと思っていた。自分のいる本丸の彼はそうだった。だが予想に反して男は言葉をつづける。
「なぁ、少し退屈してるんだ。君の話を聞かせてくれないか」
「……わたし?」
「ほかに誰がいるっていうんだ。歳はいくつなんだ?」
「十四です」
「まだ子どもじゃないか! どうしてここへ?」
「それは……」
なんと説明していいか分からずに廊下を見ると、ちょうど加州清光が戻ってくる。「あ! さっそく来てる」と彼は少し不機嫌そうにぼやく。加州の姿を見ていると、なんとなくホッとする。
「俺が拾って来たんだよ。捨てられてたから」
「それはいいことをしたなぁ」
「そんな、捨てられていたつもりじゃ……」
言葉の途中で淀んでしまったのは、全部を否定できなかったからだ。目を伏せたわたしを元気付けるように、鶴丸が肩を叩く。
「なに、大丈夫さ。童の一人や二人、抱えられない本丸じゃない」
曖昧に頷いて、とても不安になった。
もし、このまま元の本丸に戻れなかったら、わたしはどうしたらいいのだろう。
「野垂れ死に……?」
口から漏れた言葉に二人はぎょっとした。
「流石に見捨てはしないだろう。きっと迎えに来るさ」
励ましてくれる鶴丸に乾いた笑いを浮かべることしかできない。心がどこまでも沈み込んでいくようだった。どうしよう、どうしよう、とそればかりがぐるぐると巡る。全く頭が回らない。夕闇に暮れていく庭を眺めながら思案していると、廊下から足音が響いた。
「こんのすけに聞いてみたけれど駄目だった。よっぽど強い結界が張られているらしくて、場所がまるで探知できない」
「あっ」
つい言葉が出てしまい、口に手をあてて声を押しとどめた。男の審神者は綺麗に片方の眉をあげている。
六つの瞳が私を捉えていた。説明を求められている。
「その結界はわたしが作りました。絶対敵に襲撃されたくなくて、七日かけて、頑丈なものを」
申し訳なく思った。せっかく本丸を探してくれたのに。
鶴丸だけが、「こりゃ驚いた」と笑った。
夜。宴会を開いてくれるとのことで、わたしは大広間の中心にいた。右隣にはこの本丸の主人が座り、左には加州清光がいる。そして、周りにはたくさんの男士がいた。皆どこから湧いて出てきたのだろう。いや、そんな言い方をしては失礼になる。でも、そういいたくなるくらいたくさんいた。
どこを向いても神さまたちと目があうから、恐ろしくて俯いてしまう。そして思い知る。自分の本丸では、こんな風に宴会をすることなど無かった。そう考えてすぐに、それは違うと、もうひとつの声が胸の奥から聞こえた。催し物はしていたはずだ。ただ、自分がそこに混ざることがなかった。それだけのことだった。心細く感じて、家主が貸してくれた浴衣の裾を意味もなくととのえる。白い生地に朝顔が青く染めあげられていて目に爽やかだ。
「飲んでるか?」
ばっ、と視界が白に包まれて、ふたたび驚いてしまった。変な声をあげたわたしを見て、鶴丸は本当に嬉しそうに笑う。
「馬鹿。未成年だから」
男の手が目の前に現れお猪口を取りのぞく。そのまま煽るように口に運んだ。ごくりごくりと動く喉仏を、ぼうっとしながら眺めていた。
「あのさ。言いにくいとは思うけど、あえて聞いてもいい?」
加州清光と男が目を合わせ、おずおずと切り出した。宴会が始まる前から聞き出す算段をたてていたのだろう。だけどあまりにも話のもっていきかたが下手くそだった。兄だったらきっとこんな直接的な聞きかたはしない。
「はい。なんでも」
「霊力が無いって、本当?」
主語がなくても、誰のことを言っているのかわかった。兄は不名誉な意味で有名だった。
「はい。手入れなどは代わりにわたしがやっています」
男の審神者はうなりながら口を開いた。
「だったらなおさらのこと、君を大切にするんじゃないの」
理由は複雑に絡みあっていて、とてもではないが説明できるものではない。もちろん言葉にしたいのだが、うまい表現がみつからない。血筋、嫉妬――それらの言葉がぐるぐる駆け巡って、そして心の静かなところに落ちていった。考えているわたしを見て落ち込んでいると思ったのか、刀が声をかける。
「ねぇ主、この子、本丸にしばらくいてもらおうよ。見つかりにくい結界を作れるんでしょ? それってすごい事じゃん!」
顔にかっと熱が集まる。すごいと褒められた。嘘をついているようにはみえない。体のなかで喜びが跳ねまわっている。加州清光はそんなわたしを見て柔らかく微笑む。
「俺は霊力とかどうでもいいけどね。たとえ君になんの力がなくても」
ぼそりと男が言う。何か否定の言葉を口にしようとして、やめた。たとえば、申し訳ないですだとか。そんな迷惑をかけられません、とか。それを口にした途端に自分は家無しになってしまうのも事実だった。
「本丸に置く代わりに、何か手伝ってもらったらどうだ。それこそ結界とか、手入れとか」
「やります。やらせてください」
鶴丸の提案に食い気味でこたえる。よかった。これでお荷物にならずにすむ。役割が与えられてほっとした。いまさら喉が渇いていたことにきがついてオレンジジュースに手を伸ばす。
みんながお酒を飲んでいる横でちびちびとジュースを飲んでいると、急にあたりが騒がしくなった。
「誰か来たな」
男と加州が目くばせをする。宴会が続く中、二人は静か何かを待っていた。
そうしているうちにぐっと黒い影が伸びて、黒い袴に包まれた足が覗く。腕を押さえるようにしている男士を振り払いながら顔を向けたのは、自身の良く知った男だった。
「……うそ」
障子やらなにやらを蹴破るようにして入室してきた膝丸は、目があうと眉間にくっきりと皺を寄せた。
恐怖で勝手に体が震えてしまう。自分の腕を抱えるようにしていると加州清光が肩に触れた。どうしてここにいることがばれたのだろう。膝丸は迷うことなくこっちに来る。あれだけ賑わっていた場が嘘みたいに静かになった。
男の審神者と加州清光がかばうように立ち、近くまで来た膝丸は無表情になった。理性で感情を殺している。目の端がぴくぴくと痙攣していた。
「保護して頂き感謝する。後日、改めて主が挨拶に伺う」
淡々とした口調だった。有無を言わさぬ動きで手を伸ばした刀が震えるわたしの手首を掴む。室内は嘘みたいな静寂に包まれている。手をつかまれたまま立ちあがり、先をいく男に引きずられていった。周りの刀たちは口を閉ざしている。さっきまでの高揚が嘘みたいに胸のなかがかなしみでぬりつぶされていく。後ろを振り返ると、残念そうな顔をしている刀と目が合った。
もとの家に戻るのが筋だということは痛いほどに分かっている。わたしはこの本丸とはなんの関係もない。それなのに、帰りたくないと強く思った。足を一歩踏み出すたびに心臓にナイフが入っていく。
「やあ、もう帰っちゃうの?」
廊下を出る寸前で声をかけられた。ふんわりとした口調で片手をひらひらさせたのは彼の兄とされる刀だった。膝丸の発する空気がふっと軽くなる。
「てっきり泊まるものだと思っていたよ」
膝丸が戸惑い視線をはずした隙に顔をのぞかせる。髭切と目が合った。くっと猫のように目が細くなる。
「すぐに連れて来いって言われたの?」
「いや、すぐにとは」
「じゃあ明日の朝にしなよ。もう遅い時間だからね」
外では蛙の声が響いていた。深い闇がおりている。今夜は月すら出ていないので真っ暗だった。
「この本丸に弟はいないから、泊まっていってくれたら僕も嬉しいな。名は……えっと」
「膝丸だ」
反射的に答えた男に、髭切はにっこりと笑う。
「そうそう。今日は泊まって。僕の酒に付き合ってよ」
膝丸は心が揺れているようで視線をうろうろとさせていた。手からみるみる力が抜けていく。
「いいことがあったときに飲もうと思っていた、とっておきのがあるんだけどなぁ」
「……貴方が、そこまで言ってくださるのなら」
とうとう膝丸は握っていた手をぽとりと離した。髭切が「いい子」と頭に手を置き、ついでみたいにてっぺんで跳ねている髪の毛を撫でつける。そして、近くにいた刀に視線を送った。体がぐっと横に引かれる。気がつくとさっきまでいた場所に戻ってきていた。隅の影になるような場所に座らせられる。ここまで引っ張ってきてくれた刀に礼を言うと、彼は笑みだけで答えて去っていく。加州がちいさく悲鳴をあげながら抱きついてきた。
「あんたの本丸、あんなんがごろごろ居るの? 殺気がすごくて鳥肌立った」
「練度は高いみたいです」
遠くにある後ろ姿を見つめる。どんな表情をしているのかまるでわからないが対角線上にいる髭切とはよく目があった。彼はそのたびに目を細くしたり、口を尖らせたり変な顔をする。膝丸に気付かれないように注意をしながら。遊んでいる子供みたいだった。
「すみません。すぐに帰ったほうがよかったのに」
男の審神者は静かに頭を振って斜め上を見る。言葉を選ぶような口調で、「これは提案なんだけど」と言った。
「外部研修とか理由をつけて、ここですこしゆっくりしたら? もちろん、無理にとはいわないけど。連絡は俺からするし」
「そうしなよ! そのほうがいいって」
「加州もえらく懐いているみたいだしなぁ。いやぁ、それにしても怖かった。斬られるかと思ったよ」
喧騒がもどってくる。まさか引きとどめてもらえると思っていなくて、気持ちが言葉にできない。ただ頭をさげることしかできなかった。
宴の途中だったがいつ終わるかわからないので区切りのいいところで加州と一緒に部屋へと戻った。
廊下側の机にいた膝丸は、加州と連れ立って宴の席を離れるわたしを目敏く見つけてしまう。
「寝るのか」
「こわ。早くいこ」
加州が耳打ちする。くすぐったくて首をすくめた。
「お前がまた居なくなったら、今度は俺の責任になる」
男は目をぎらつかせて言い放った。そのまま立ちあがろうとし体が揺れた。まさか酔っているのかと目を見張り、支えようとしたけれど、数日前の会話を思い出し慌てて手を引っ込めた。
「まぁまぁ、弟。そんなカリカリしないで」
横から腕が伸びて膝丸の手を握る。物腰は優しいのに、言葉には拒否を許さない響きがあった。膝丸は兄には逆らえないらしい。動揺し浮かせていた腰を下ろした。
「行こう。髭切が相手してくれているうちに」
加州に手を引かれながら廊下を二人で歩いた。磨かれた床はささくれなくつるつるとしている。視線を上に向けると吸い込まれそうな闇が広がっていた。星がひとつも出ていない。きっと、ひとりだったらとても恐ろしい風景だろうけど、今は全く恐怖を感じていない。むしろわくわくしていた。
執務室の手前くらいまで戻ると、加州はおもむろに障子を引いて中に入った。どこからか持ち出してきたマッチをこすると隅にある灯籠に火をつける。部屋がぼんやりと明るくなった。押し入れに向かったので、あとを追った。二人で布団を引き抜いてシーツをはる。
準備が終わると、加州は「これでよし」と、腰に手をあてながら満足げに言った。
「あのさ、一人で大丈夫? 事情はよく分からないけど、膝丸さん、初手からずっと怒ってたよね」
「大丈夫だと思います」
なんの根拠もなしにそう答えると、彼は苦笑いを浮かべた。「じゃあ俺も寝よっと」と加州は伸びをする。闇に溶けていく背中を見送り、のろのろとした動きで布団に潜り込んだ。視界に知らない天井が広がる。この本丸の人たちは、とても丁重にもてなしてくれている。でも、真意が分からなくて少し怖い。
本当に、善意なのだろうか。なにか利用しようとしている?
悪意は感じなかった。やさしそうな人たちだった。
「ここにいたいな」
思わず口をおさえる。まわりを見渡し、誰もいないことを確認してから布団に頭までかぶった。