貴方の左心房を、僕にください(1) - 3/3

障子を軽く叩かれる音がして、慌てて飛び起きた。返事をしながら襟元を整えていると、加州が部屋に入ってくる。

「ちゃんと眠れた? 昨日はおっさんの話に付き合わされて、大変だったでしょ」

昨夜の出来事を思い出した。本丸の主は、酔いがまわるにつれて何度も同じ話をしていた。それさっきも聞きましたよ、と指摘するのもなんだか無粋な気がして何回も初めて聞くようなリアクションをしてしまったが、後半は聞き流していた気もする。

「いえ。楽しかったです」

「そっか」

冷たい廊下を二人で歩き、洗面所まで案内してもらった。顔を洗い、場所を移動して朝ご飯を食べる。昨日遅くまで宴会をしていたためか大広間にはほとんど人がいない。お茶碗に乗った白米はつやつやとしている。

片付けを手伝いたいと言ったら、加州は驚いて顔をふる。今日は初日だからゆっくりしていてと苦笑いをうかべていた。

いったん加州と別れて借りた部屋に戻る。しんと静まり返っていて、畳の上にたたまれた巫女服が置いてあった。昨日まで着ていたものだ。そっと白衣を手にとり袖を通した。生地が渇いてさらさらと肌にふれていく。前をとじないで中途半端に着る。

小さい頃、よく裏山にでかけた。人が歩くことを想定されていなかったから細い枝がいろんなところから生えていて腕や頬をさした。

その頃には自分が他の人とは違うと薄々気が付いていた。人には見えないものや気配を感じる。道端に立っている人が幽霊だと分かればいいのだけれど、はっきりと見えすぎて、実際の人との違いが分からないことが多々あった。

何もない空間に向かって一人で話しかけている我が子を見て、母はどう思っただろう。

精神病院に通っていた数か月間の記憶はほとんどおぼろげだけど、窓にしっかりとはめられた鉄の格子だけ鮮明に覚えている。なぜか二階以上にある窓は簡単にあかなかった。時間がたったあと、あれは自殺防止用に取り付けられているものだと知った。

家の裏にある高台は風が良く通った。脇道にはすすきがたくさん生えていて、さわるとみるからに柔らかそうなかたちをした穂がゆれていた。

今でも情景は克明に思い出せるのに、実際に誰と何を話しているのかは、全く思い出せない。

それから少しだけ大人になって、わたしは見ないふりが得意になった。代わり映えのしない日々を過ごしていると、ある日、スーツを着た男が現れて審神者に選ばれたと言った。こんな場所で、そんな状況で言われたから、きっと本当に頭がくるってしまったのだと思った。そのころには、母はどこかに行ってしまっていた。

翌日には荷物をまとめて指定された施設に向かった。暑い夏の日だった。長屋門に背の高い男が立っていて、きつくわたしを睨んでいる。腰には刀がさがっていた。蝉が鳴いている。頭上からたくさんいるうちの一匹が落ちてきて、二人の間に、ぽとりと落ちた。ジジジ、と不快な――頭の奥を嫌に刺激する音をたてて蝉は鳴いた。きっと最後に何か言っているのだと、今にも息絶えそうな蝉を見て思った。

「貴方の、名前は」

先導するために背を向けた男は投げられた問いに一瞬だけ立ち止まったが、聞こえなかったようで眉をひそめた。ふたたび聞く勇気はなかった。耳の奥で蝉の断末魔がなんども繰り返される。

呼吸が浅くなる。ぎゅっと目を閉じてからまたあけると視界のはじがちかちかした。白衣が持ちあがり、真っ白い腕がむき出しになる。膝丸と初めて会ったのはたぶんあれが最初だった。

おおきく息を吸う。見渡すと現実が広がっている。誰もいない和室。最近会ったばかりの、見知らぬ男の本丸。奇妙な状況だとは思う。手を意味もなく握ったりひらいたりしていると、蝉の声に交じって鈴のころがる音がした。外に目をむける。庭は前日にふった雨のせいで地面がすこし濡れている。白衣を脱いで用意してもらった作務衣に着替え、重い腰をあげて廊下へ出た。玄関につくまで誰とも出会わなかった。草履に足を滑らせてからからと戸を引き、裏庭をまわるようにして歩く。整備された道が続いていた。両側にはいきいきとした緑色の葉が広がっている茂みがあって、途中、お寺のような建物を迂回するように歩くと、視界が突然ひらけた。地面に平らに敷かれている白い砂。視線を上に持っていくと、まだ色づいていない紅葉の葉が風にゆれている。そして、向こう側には朱塗りの橋と大きな池があった。

橋の高覧に浅く腰掛けるようにして男が座っていた。象牙色の髪がやわらかそうに風に揺れている。彼は白い上着からなにかを取り出すと、池に向かって投げたので、好奇心に突き動かされるようにして足を動かした。もどったほうがいいのかな。ひとりでいたい気分なのかも。そんなことを考えているうちに距離は狭まって、橋のたもとにたどり着いてしまった。床版に足を乗せるか悩んでいると、穏やかな声が耳に届く。

「こっちに来たら戻れなくなるかも。橋は、あの世とこの世を繋ぐ意味もあるんだよ。知ってた?」

風が耳元を撫でる。髭切はとおくのほうを見ながら歌うように言った。

ここを渡ったら死んじゃうのかな。それともからかわれているのだろうか。でも、ここでそうですかと帰るのも変な気がして、ぐっと足を前に出した。歩くたびに床版はぎしぎしと鈍い音を立てるのでこわい。彼のそばまで行くと、髭切はぱちぱちと手を叩いた。嫌がられるかと思ったが歓迎してくれたらしい。ここにお座りと、高覧を手でたたいた。

庭がだんだんと明るくなり、朝から昼へと変化していく。それを二人で眺めていた。

「昨日の宴で、どうして助けてくれたんですか」

髭切はううんと唸り、わざとらしく眉間に皺を寄せた。

「弟を悪者にしたくなかったから。興味があったのもあるよ。正直、見捨てても良かったんだ。僕には関係がないことだし。弟だけ助けられたらいいなって思った。でもね、君の目」

体が硬直した。薄々分かっていたことだった。兄の本丸は正常とはいえない。この本丸にきて改めて思った。

手が伸びて瞼をなぞられる。

「いいね。こんなに貰っているのは君だけなのかな。君の兄は、ほとんど霊力が無いのなら、どうして本丸を持っているのだろう」

「わかりません。何を言っているのかも」

「そうだよねぇ」

どこか自分自身に納得させるみたいにうんうん頷いている。髭切は空気を変えるように「そういえば」と続けた。

「君は弟と仲が悪いの?」

「悪いというか……」

それ以前の問題な気がする。胸元を握り込むわたしの横で髭切が首をかしげる。

「逃げちゃだめ。どうしてこんな状況になっているのか、ちゃんと話してごらん。僕を兄だと思って」

「あなたは、わたしの兄じゃない」

「君の兄は、どんな人?」

話があるほうこうに向かうよう誘導されている気がする。頭がまわらない。髭切は不思議な色の瞳でわたしを覗いている。

「兄は、わたしより先に審神者に選ばれました」

髭切はもうこちらを見ていなかった。あいまいに返事をしながら池の鯉を目で追っている。

「わたしが審神者になったのは、政府の人に呼ばれたから。最初、おうちの人は反対していたけれど、審神者の地位や支給されるお金について聞いたら納得しました。でも、わたしは女で、兄をさし置いて評価が高くなることはよくない。だから……」

言葉が続かなくて不自然にとぎれた。

だからなに?

その先を考えるのがこわい。

「逃げないの?」

「え」

「撤退は悪いことじゃないよ。ここに見習いでくるのはどう?」

「逃げられません。昨日今日あった人に、迷惑をかけることもできません」

「あのこのことは嫌い?」

なんて答えたらいいのかとても迷ったけれど、結局正直に話すことにした。髭切は前を向いたまま穏やかに耳を傾けて、唐突に「弟も、同じこと言ってたよ」とつげた。分かっていたことなのに、しっかりと傷ついてしまう。でもそれが相手に伝わるのが嫌で、何とか必死に口元に力を入れる。だいじょうぶです。分かっていることだから。そう答えようと思ったが手をつかまれる。覗き込む目。金色のなかにわたしがいる。

「僕ね、聞いたんだ。どこが嫌いなの。理由を具体的に言ってみてって。そうしたらね、言葉に詰まってた。主がって続けるから、むしゃくしゃして酔い潰しちゃった。でもいまの答えでわかったよ。君もおなじなんだね」

最後のほうはひとりごとに近く、注意していなければ聞こえないくらいだった。おもむろに高覧から腰を浮かした男が手をひく。

つつじの生えている小道を突っ切ると、唐突に本丸の建物が見えた。ゆったりとした歩調なのに手はすこし痛いくらいに握られたままで、振りほどこうとしても指先に力がこめられる。縁側に近づいた髭切は、その場で靴を脱ぎだした。「あとで片付けに戻ろう」と言う彼に、頷きをかえす。

廊下を二人で手を繋ぎながら歩いた。道をゆくさながらすれ違う男たちは、なにか微笑ましいものを見たかのように目を細めていた。髭切は上機嫌で足取り軽く進んでいく。あまりの自由さにほんのすこしあっけにとられた。

行先は何となく察しがついていた。だから視線は自然と下を向いてしまう。でも足を動かしていればいずれは目的地についてしまう。視界のはじに人影が見えた。髭切はあっさりと手を離して背中を押す。予想外に力が強く、よろめくように前に進んだ。

廊下の先で、片膝を立ててこめかみを手で押さえていた膝丸は、ゆっくりと顔をあげた。

「兄者。どうなされた」

早く部屋に戻りたい。この刀を見ると反射的に胃が痛くなるようになっていた。しくしくとするそこに手を伸ばすと、ぐっと肩を押されて、その場に膝をついてしまう。

「この子に手入れをしてもらうんだ。僕が昨日飲ませすぎてしまったから、頭痛がするだろう」

「そんなことで手入れをうけるわけにはいかない」

明確な拒絶にいたたまれない気持ちになって腰をあげようとするが、肩に置かれた手がそれを許さない。

「わたし、いいです。部屋に戻りたい」

何がいいのか自分でもよく分からないままちいさく声をだして、縋るように髭切を見るが冷たい目をむけられた。彼が何を思ってここにつれてきたのか、わからないほど馬鹿じゃない。話をさせようとしているのだ。少しのあいだそうしていたが、とうとう根負けして頷く。髭切は満足げにほほ笑んで、肩から手を離した。

深呼吸してから、今度は膝丸と向き合った。彼は遠くを眺めている。視線は合わない。言われてみれば顔色が悪い。白を通り越して青ざめている。手をのばし、指先が肩に触れた瞬間、膝丸は大きく体を震わせて体を固くする。一瞬だけ、右手の人差し指が痙攣するように動いた。斬り捨てられるのではと恐怖したが、そんなことは起こらなかった。髭切が近くにいるせいだろう。

髭切は隣で膝を抱えるようにしゃがんでいる。目があうと笑みを深めて「いいから続けて」と言った。

手入れをするときの気持ちは少しだけコツがいる。汚いものを取り込んで、かわりにきれいなものをあげる想像をする。あとは簡単だった。よくなりますようにと願いながら触れているだけでいい。

「……もういい」

時間にしてほんの数分だったと思う。固い声にあわてて手を引っ込める。いつの間にか膝丸は姿勢を正していたので向かいあう形になる。ふせた瞼が瞳に影を落としていた。

「どうでしたか」

「……別に、どうとも」

不愛想な物言いに、髭切は眉を寄せた。

「どうともってことないでしょ。さっきまで心地良さそうにしていたくせに」

「していない! 勘違いだ」

「あ、そう。そんなことはどうでもいいけれど、お礼はちゃんと言いなよ」

膝丸はため息をつくと、しずかに顔をあげた。困ったように眉を下げている。

「楽になった。ありがとう」

あの刀が、わたしにお礼を言った。

現実ではないかもしれない。衝撃のあまり放心していると、膝丸はむずかしい顔をして庭を睨んだ。

「あの、他に不調を感じるところはないですか」

「ない」

即答だった。立ちあがり軽く頭を下げて背を向ける。髭切はまだ座ったままで膝丸となにか話をしている。廊下の角を曲がって二人から見えなくなったところで、こらえきれずに駆けだした。

うれしくて、どうにかなってしまいそうだった。

 

 

 

 

翌日は畑仕事を手伝った。土いじりは好きだ。草の立ち込めるような香りを嗅ぐと地元を思い出す。田舎だったから、夏はビニールハウスで沢山の野菜を育てていた。ナスやトウモロコシ、ころんと丸いレタスなどを。

畑に一メートルくらいの背丈に育った茎にたくさんのトマトができている区画があった。近くにあったものから収穫して平たい籠に置く。藁で編み込まれた籠は頑丈で、地面に落としても滅多なことでは壊れない。隣には加州清光がいて、彼は黙っているような性格ではなかったから、だらだらと口を(と、どうじに手も)動かしていた。会話が上手で、するするとわたしのことをたずねてくるので、警戒していたのに、気がつくと洗いざらい話してしまっていた。刀と仲が悪いこと。小間使いのように過ごしていること。

きっとこのあと、主である審神者に報告に行くんだろうなとぼんやりと思った。予想はあたって、彼はきりのいいところで手を止め「麦茶でも持ってくるね」と言う。遠くなる背中を見つめながら、嘘が下手だなと思った。だけど嘘をつけない人のほうが、個人的にはすきだ。

その場にトマトが詰まった籠を置いて横を流れる堀に向かった。さっきからそばで水音がしていた。きっと畑に水を引くためにある水路だろう。音をたよりにとうもろこしの沢山育っている場所をかき分けたら、ちょうど小川が目に飛び込んできた。傾斜に腰を下ろして靴を脱ごうとしたところで、ガサガサと音がする。もう話は終わったのか。その場に体育座りをしながら加州を待っていると、背の高さまで育ったとうもろこしをかき分けて人が現れる。それが予想と全く違う人物だったから、驚いて息をのむ。現れたのは膝丸で、目が合ったとたん気まずそうに視線をずらした。

何をしにきたのか。疑問をすなおにきける間柄ではないので、あえて言葉にはしない。そうしているうちに沈黙に耐えられなくなったのか、男は重い口をひらいた。

「兄者に言われて来た」

「そうですか」

手伝いにきたのだろうか。疑問をそのまま口にすれば、刀は違うと頭を振った。

「話をしに」

髭切はわたしと膝丸にどうしても接点を持たせたいらしい。理由はわからない。

話をしてなんになるんだろうというのが最初に浮かんだことだった。話をして仲良くなるなら溝は生まれていない。さっきまで火照ってあついくらいだったのに指先が冷たくなっていた。

「戻って構いません。髭切様に会ったときには、ちゃんと話をしたと口裏を合わせます」

目をあわせずそう言った。膝丸はこたえなかった。苦虫を噛み潰したような顔をしている。ここにいても仕方がない。胃が痛くなる気配がしたので、腰をあげてかるく会釈をした。終わりの合図だ。

もとの本丸に戻ったら、またつらい日常がはじまる。だから今だけは穏やかに過ごしたい。現実を忘れたかった。ここの人たちはみんな優しい。なにか助けになるようなことをすると、ありがとうと感謝してくれる。それがほんとうにうれしかった。

背中を向けて堀の近くに続いている小道を歩く。足元で小さな虫が跳ねていった。堀をはさんで反対側は森になっている。木の間は暗くて先が見えない。左手にはさっきまでいた畑が続いている。場所がずれているのか、トマトではなく、ナスがひしめき合っていた。畑は信じられないくらい広く、刀の数だけ食料がいるので仕方がないのだが、非効率にも思えた。目印を置いておけばよかったなと方向転換すると、焦ったような声が後ろから聞こえたので振り返る。少し離れた場所で膝丸が立ちつくしていた。

「どうしました?」

声がいままで出したことがないくらいとげとげしていて、自分でも驚く。

違う世界を知ってしまったせいだ。この数日間で気が付いてしまった。今までは自分がすべて悪いのだと思っていた。いや、思わされていた。ほかでもない兄のおかげで。

「もう……いいや」

「すまない、よく聞こえなかった」

対角線上にいる刀をきつく睨みつける。膝丸は心から驚いた顔をして狼狽えていた。でもすぐに元々の立場を思い出したのか、蛇のような顔つきになる。わたしたちは喧嘩をする動物みたいに睨みあった。

「なんだその態度は。改めろ」

「やめません。もう決めたんです。ここにいるあいだは、わたしは言いたいことをいいます」

刀は反射的に腰に手をやるが、それは空しく服の上を滑っていった。髭切が本体は置いて行けと伝えたのだろう。腰はがら空きで、それに気が付いた男は盛大に舌打ちをした。

「戻ってください」

「兄者に嘘はつけない」

「……膝丸様は、私のことが嫌いですか?」

どうしてそんなことを聞こうと思ったのか分からない。答えは決まっているのに。ただ、おなかの底で炎が燃えてしかたがなかった。火種は着々と育っていた。何年もかけてつらいことを我慢するたびにたまっていった。

相手は肯定するように目を伏せる。それだけで十分だった。ぷち、と心の中で何かがちぎれる。

「わたしだって貴方たちのことが嫌いです。ほんとうは、兄の本丸なんてきたくなかった!」

畑に場違いな金切り声が響いて、驚いた鳥が飛んでいった。口から浅い息が漏れる。握った掌に爪が食い込む。痛みにひらいてみると薄く血がにじんでいた。俯いていた顔をあげれば顔を歪ませている男がいた。ぐしゃりと何かが潰れた音がする。返事をまたずに一本道を走った。

言った……言った! やった。とうとう言ってやった! 体が軽い。心は興奮していて、今ならどこまででも走って行けそうだった。

地面を蹴りながら刀の顔を思い出す。とても驚いていた。とるに足らないものだと思っていた相手に拒絶されたからか。それにどうしてか傷ついているようだった。いずれにせよ、刀の考えていることなどわからないので、思考はすぐに放棄した。

運動不足のせいかすぐに息が切れてしまう。膝に手をついてかがんでいると、額から汗が伝って地面に落ちた。土にふくまれてすぐにわからなくなる。息を整えていると、自分のものじゃない靴が視界にはいった。

左手をつかまれてひっぱられる。驚きのあまり呼吸を忘れた。さきほど置いてきた刀だった。結構な距離があったのに、息ひとつみだれていない。それに、足音や気配が全くしなかった。潜在的な恐怖がわいてきて目をそらすと、男はなにを思ったのか手を引いて歩きだす。握られた手が熱い。頭の中は大混乱だった。歩くたびに揺れる髪の毛とたくましい背中を眺める。歩調をはやめて隣に行き下から横顔を覗くと、苦痛をうけているかのように歯を食いしばっていた。連れまわされているのが嫌でなんとなく前に出ると男もぐんと足を前に出す。そんなことを繰り返していたら早足が駆け足になって、後半のほうは走っていた。いつの間にか畑は終わっていて、まわりは草ばかりになっている。耳元で風が鳴っている。どうしてこんなことになっているのだろう。わたしは逃げていたのに。

「ち、ちょっとまって! もうむり!」

手を振りほどきながら何とか声を発した。息が苦しい。肺が焼けるようだ。喉の奥で血の味がする。

膝に手をつきながらぜぇぜぇと息を整えていると、膝丸が馬鹿にしたように言う。

「どうした。これくらいで根をあげるのか」

「どうしていやがらせばかりするの。もう、ほんとうに嫌い。はやく、どっか行って」

「まだそれを言う」

噴火する一歩手前の声が聞こえる。空気が揺れて、まずいと思ったと同時に、後頭部に痛みがはしった。髪が引っ張れている。ものに、物みたいに扱われている。その事実がおかしくて、刀の「訂正しろ」という言葉に反発心が沸いた。

「いやだ! 何度だって言う。わたしは、あなたが嫌いなの」

刀の眉間の皺がいっそう濃くなる。皮膚が突っ張って痛い。手を頭上に持っていき掴まれている部分を外そうとするがうまくいかない。男は怒りのせいか瞳のようすが変わっていた。ぎらぎらとしている。視線を真っ向から受け止めたが、もう今までのような恐怖は襲ってこなかった。

「離して」

「さっきの言葉を訂正しろ。それまで離さない」

「じゃあ髪を切ってやる」

袂を探ると指先に冷たい感触がした。さっきトマトを切る時につかっていた鋏だ。取り出して髪にあてようとする。が、男の手に弾かれて鋏はすぐにどこかへ飛んでいってしまった。利き腕を使ったらしく、髪が楽になる。距離をとって相手を見ると想像とは違った顔をしていた。

「どうして、傷ついた目をしているの?」

おもわず疑問がそのまま口からでてきた。自分のなかになった怒りがすこしだけ沈静化される。膝丸は投げかけられた問いに答えられず、口をひらいたり閉じたりを繰り返している。

空いているほうの手で自分の頭のてっぺんにふれる。痛みはだんだんとひいていたが心のショックがおおきい。なんとなく手櫛で髪の毛を整えながら、視線を傍らに立つ男に向けた。

「もう沢山話したので、髭切様も満足してくれると思います。極力、関わらないでくれると助かります、いままでみたいに」

膝丸は口をつぐんでいる。それをいいことに、「さよなら」と最後に言って背を向けた。

もう関わらないでほしい。放っておいてほしい。返事をまたずにとぼとぼと道を歩く。ここが敷地のどこで本丸までどのくらいかかるのかわからない。

ふと気になって後ろを振りかえったら、いまだ立ち尽くしている男がいた。視線はあわない。

ほんとうに、さよならの一言だけで関係を切れたらいいのに。

そして、自由に暮らせたら、ほかにはなにもいらない。

歩きながら空を見る。憎々しいくらいの快晴だった。