暫く歩いているとひらけた場所にでた。短い草が生えている野原で、奥は森に続いているが、それ以上行ってはいけないと本能的に感じ足をとめる。わきに水が流れているちいさな堀でかるく顔を洗った。ついでみたいに豪快に水をぱしゃぱしゃさせる。汗をたくさんかいていて、服が背中にぴたりと張りついていた。
堀を飛び越えるようにして木陰に足を踏み入れ木の根に腰を下ろす。どっと疲れがでて息をついた。空は広くて青緑色の田んぼが広がっている。遠くの景色のなかでときどき動くものがあり目をこらしたら人影だった。木に背中をあずけて目をとじる。風の音しか聞こえない。茂みに向かって声をかけた。
「出てきたらどうですか」
さっきから左側の木の影に隠れて誰かいる。うまく隠れているが、気配だけでだれか分かった。膝に手を置きながら空を見つめていると、木の影から膝丸が現れて、何も言わずに隣に座る。清潔な香りが鼻をくすぐる。
「どうしてわかった」
あえてこたえずにいると膝丸は横目でちらちらと見る。どうしていいかわからない子供みたいに体育座りの膝の上で手を組んで、そわそわと指を動かしていた。そんな振る舞いをする彼はめずらしく、興味深く観察したかったが視線をあわせることはしなかった。ふとさっきまで渦巻いていた怒りはきれいになくなっていることに気がつき、とたんにばかばかしくなってしまう。
「……帰りましょう」
腰を浮かせかけるが、がくんと体が引っ張られた。視線をむけると服の袖がつかまれている。もちろん男の手だ。叩き落とそうかと考えたが思いなおしはずそうとこころみるが、なかなかうまくいかない。ひとりで奮闘していると、「さっきの言葉は訂正してほしい」と膝丸が弱弱しい声でつぶやいた。
「どうして?」
ほんとうに訳が分からなくて手をとめる。彼は服のうえから心臓のあるらあたりを握りながら、「俺にもよく分からない」と言った。
「じゃあわたしにもわからないです」
呆れながら座りなおすと、膝丸は安心したように手をはなした。服はしわになっている。ぶちぶちと手元の草を引き抜いたり千切ったりして行き場のない感情を発散させていると、黙っていた男が口をひらいた。
「お前に嫌いだと言われて、」
「お前?」
つめたく睨むと、相手は怯んで言い淀み顔をゆがませた。
「君に、拒絶されて。胸が気持ち悪くなった」
「手入れでもします?」
返す言葉にどうしても棘がふくまれてしまう。草を抜き続けているせいで、わたしの座っている地面の雑草が綺麗になくなってしまった。
「だっておかしいでしょう。今までの行動を振り返ってみてください。それに、嫌いな相手にいくら嫌われたって、どうとも思わないはずじゃないですか」
「それは、そうだが」
「わたしはあなたに嫌いと言われても、もう前みたいに傷つきません」
「傷付いていたのか?」
膝丸は驚いたように目を合わせてくる。
「あたりまえでしょう?」
「平気な顔をしているから、どうとも思っていないのかと」
「ちゃんと傷ついてましたよ。心があるので」
手についた草をぱんぱんと叩いて落とす。もう充分だろう。終わりの空気を感じ取って、男はため息をつきながら立ちあがる。
「安心してください。兄の本丸に戻ったら、ちゃんと一か月仕事をします。無駄口はききません」
男の喉から変な音が鳴った。言い切ったことでわたしの心は晴れ晴れとしていた。足取り軽く、丘をくだる。足のあいだを風がとおりすぎていく。
戻ったら、加州に居なくなったことを詫びて、トマトを厨に運ばないといけない。
楽しい時間はあっというまに過ぎていく。最後の夜に、初日とおなじように宴会を開いてくれた。たくさんの刀がいてほうぼうでしゃべり笑うので、声が波のように被さる。楽しそうな喧騒のなかでわたしだけが落ち込んでいた。
「どうにかならないのかねぇ」
男の審神者がしみじみと言いながらビールを口に運んでいる。わたしは手持ち無沙汰に枝豆をつまんだ。また明日からいつもの日常がはじまると思うだけで自然と目のはじに涙が浮かんだ。みかねた加州が主人に向きあう。
「ねぇ主。この子、見習いで来てもらったら。一度迎え入れてから、自分の本丸を持てるようになるまで、期間をだらだら引き延ばせばいいじゃん」
顔をあげるが、相手の顔をみたとたんかえってくる返事が予想できた。
「許可がおりないと思う。ひととおりできてたから」
ぐっと下唇を噛み締めてかんがえる。たしかに、いまさら学ぶことはなにもなかった。手入れも鍛刀もできる。だが兄はそれができない。そのかわり戦術に関してはすばらしい技量を発揮した。冷静に分析して、ときに残酷な決定もくだす。未来がみえているみたいだった。わたしはそれらが苦手だった。刀たちが血を流して帰ってくるたびに動揺し、いちいち心を痛めてしまう。同情は戦いのなかで一番無駄だということは重々わかっている。
暗い思考に漂っていると、元気つけるように加州が肩を叩いた。
「別にもう会えないわけじゃないから。演練とかあるし、ときどき手紙も書くし」
「ありがとう」
「俺もなにか方法がないか考えてみるよ」
男の審神者が手を伸ばしてぽんと頭に触れる。子供あつかいされることは不本意だけど、不思議と嫌じゃない。そんなことを考えていると遠くから呼ぶ声がしたので、ひとこと断ってから席を立つ。
大広間は襖が全て開放されていて、テーブルがどこまでも続いていた。五十か、おおめにみて八十はいるかもしれない。奥の一段あがったところに孔雀が羽を広げているような豪華な形の花が飾られており、目が自然と引き寄せられる。しばらく彷徨うように歩いていると、ひらひらと視界で揺れるものがあった。奥の席に髭切がいて、にっこりと笑いながら手招きをしている。その手前に黒い人が俯いているのが目に入って、足を動かすのが億劫になった。特徴的な髪の色ですぐに誰かわかってしまう。春のやわらかい葉をおもわせる若草色が苦手になりつつある。
とまっているわけにもいかず歩みを進めれば、すぐにたどり着いてしまう。愛想笑いを浮かべると、髭切は「お座り」と言って近くにあった座布団をたたいた。なぜか二人の間に座らせられる。膝丸に背を向けるように斜めに足を崩せば、髭切は「おや」と目を丸くする。
「弟と仲良くなれなかったの?」
「良好だと思います」
膝丸が舌打ちをした。髭切がたしなめるように肩を押す。
「嫌いだそうだ」
そうなの、と髭切が瞳で問いかける。苦笑いしながら「まぁ」とあいまいな言葉をかえした。ほかになにも言いようがない。
「弟はこの子に謝ったの?」
面白くなさそうに一人でぐびぐひとお酒を飲んでいた膝丸が兄の言葉に動きをとめた。
「いいです、いいです。気にしてないですから」
「よくないでしょう」
髭切は穏やかに続ける。
「謝りなよ、拗ね丸。酷いこと、沢山言ったのでしょう。主に洗脳されているからって、言っていいことと悪いことがあるよ」
「洗脳などされていないし、拗ねてもいない」
「されてるよ」
黙り込む男に、髭切は呆れたように息を吐いた。
「この本丸には弟が居ないから会えて嬉しかったのに。君が僕の妹になる?」
「髭切さんが兄だと甘えてしまいます」
くすくすと笑うと、地を這うような声が聞こえてくる。
「お前は妹じゃない。兄者の弟は、この俺だ……」
「じゃあ謝って。僕は不誠実な男は嫌いだよ」
膝丸が傷ついた顔をした。昼の姿が重なりなんだか申し訳なくなってきた。髭切はぼんやりと喧騒を眺めながらお酒を口に運んでいる。「ねぇあれ見て。面白いよ」と何かを指さし教えてくれたが、あまり集中できない。
髭切が唐突に「残念だな」と呟いたのと、手を引かれたのはほとんど同時だった。「ひっ」と動物みたいな声が出てしまい赤面する。いつもは黒い手袋に包まれた膝丸の手が腕をやわらかくつかんでいる。
「いままでの非礼を詫びる」
普段のようすからは想像できないほど自信のない声だった。
男は項垂れていた。前髪が重力に沿って垂れている。
「申し訳なかった」
「大丈夫です。そんな、顔をあげて」
本音を言うと、ほんとうに悪いと思っているなら、これ以上関わらないでほしかった。明日から他人みたいに過ごさせて欲しい。いちどついた印象はかわらない。対峙しているだけで逃げたくなる。お互い干渉しないで、線をひいて付き合っていたほうがいいに決まっている。
心がざわついている。でもそれでいいのかと自問する声がする。相手は謝ってくれた。おそらく、歩み寄ろうとしてくれている。それをなかったことにしていいのか。変化することはこわい。ずっと知らないままでいることは楽だ。男がゆっくりと顔をあげる。目があうとわたしの考えていることが伝わったのか、さびしげに笑った。みたことのない表情に動揺してしまい、
「ちゃんと勤めは果たします。残りの期間、よろしくお願いします」
と伝えた。兄の本丸は刀の数が多い。仕える期間が終わったら、また元の関係に戻るだろう。
髭切が手を伸ばして弟刀にちょっかいをかける。膝丸が顔をあげる。二人はわたしを挟んで会話を始める。肩の力がぬけて、ふと机に点在する水滴が気になった。布巾をかりて拭いていると、髭切の声が耳に入って手がとまる。
「本丸に戻ったら、お前がこの子を守るんだよ」
「え?」
勢いよく振りかえれば、琥珀色の瞳と目があった。冷たさはもう感じない。
「貴方の頼みなら」
膝丸は確かにそう答えて、なにか考えるそぶりをしたあと、静かにうなずいた。早く否定しないと。流れのままにいると大変なことになる予感がする。大丈夫ですとか、心配いらないですとか、そういう言葉をいわないと。真っ先に浮かんだのは兄の顔だった。兄はどう思うだろう。きっとよく思わないはずだ。訂正しようと二人を見るが、話題はもう別のものへと変わっていて、私は途方にくれる。