潮騒_03 - 6/6

深夜。
本丸は静寂に包まれていた。審神者は、一人でぽつんと体育座りをしながら、ぼんやりと外を眺めた。二階という高さから本丸の庭を見るのは初めてだったが、ちょうど雲が空を覆っており、眼下の風景は闇に黒く塗りつぶされたように良く見えなかった。庭を見るのは早々に諦めて、視線を上に向けると、黒い木のシルエットと、月の光に輪郭を縁どられた雲が見えた。
ゆっくりと形を変えていく雲を見ていたが、不意に寒気が体を走るのを感じて、審神者は身震いした。木の硬い柵に置いていた手を離して、顔の前で小さくこすり合わせると、血色を無くした白い指先が目に入った。何か考えていた様子の審神者だったが、徐に、両手を重ね合わせる。そして、おにぎりを作るときのように手を丸めると、深く深呼吸した。あたりに静寂が訪れる。
彼女の両手から、淡い光が漏れだした。徐々に両手を開いて行くと、手の中から、ふわりと何かが出てきた。それは、ゴルフボール程の大きさの椿の花だった。審神者の顔のちょうど目の前の位置で、重力を無視したようにふわふわと浮いている。折り重なった花びらが発光していて、時折ろうそくのように揺らいでいるそれを、審神者はとても綺麗だと思った。
そっと壊れないように片手を花びらに近づけると、火鉢に手を近づけたときのような温かさを感じる。
「成功したみたい」
独り言を呟きながら、審神者は目の前に浮かぶ花をしげしげと眺めた。この術は、友達の審神者に教えてもらったのだった。その子は、時々術の使い方を教えてくれる。審神者はIT系に強く、資料作成や経費の取りまとめは得意だったが、術や霊力の扱いはまるで駄目だった。夜を飲み込んだような大きな瞳と、漆黒の髪の毛を思い出す。友達は自分とは逆で、術の扱いは得意だがパソコンが使えなかった。なので、審神者は時々友達の業務を手伝う代わりに、術の使い方を教えてもらっていた。
まやかしの灯篭がうまく出来たことに気を良くして、審神者は先ほどと同じように、両手を、おにぎりを作るような形に丸めた。数分後、指と指の間から淡く光が漏れだし、女の顔をふんわりと照らす。
夢中で灯篭作りに没頭していたので、少し離れた場所から此方を見ている存在に気が付かなかった。そこに居たのは、彼女の家臣だった。黒い戦装束が夜の闇と同化している。暗闇の中で彼の瞳がちらりと光る。存在を消すかのようにじっとしながらも、目の前の女を見つめている様子はどこか蛇のようだった。淡い光に照らされた審神者の横顔を眺めながら、その男――膝丸は、本物の蛇のように黄色の瞳を細くした。

膝丸はその日、本丸の見回り当番だった。前半の担当者から引き継いだ後、かっちりとした黒いジャケットに腕を通しながら時刻を確認すると、まさに日付が変わろうとしている時刻だった。今から朝日が昇るまで、二時間に一度、本丸を見回る。冬の寒い時期の見回り当番は、さぼるものが多いし、それを審神者も黙認していた。だが、膝丸は誠実な性格だったので、こうして夜の闇と向き合っていたのだった。障子を開けると冬の冷気が室内に一気に流れ込んでくる。それに内心憂鬱な気持ちになりながら、兄を起こさないように静かに障子を閉めた。そのまま口を引き絞るように結ぶと、身を切るような冷たさの中、暗い廊下に足を踏み入れた。

順調に見回りをしていた膝丸だったが、ふと離れの二階の窓に小さく光が揺らめいているのが目に入った。その光はすぐに消えてしまって、一瞬見間違いかと思ったが、数分後に再度揺らめいたのを目にし、疑惑が確信に変わった。頭の中に“火事”という二文字が浮かんだが、まずは確かめようと、急いでブーツに履き替える。そして闇の中、音を立てずに足早で駆けた。

目の前の光景を見ながら、膝丸は、早とちりして本丸の者を起こさなくて良かった、と思った。そして、主人を前にして、両足を誰かに掴まれてしまったかのように動けなくなってしまっていた。このまま戻ったほうがいいことは重々承知しているのだが、身体が言うことを聞いてくれない。その時、術で出来た花を見ながら、審神者が柔く微笑んだ。その優しい顔に、鉄にはないはずの心がきゅうと引き絞られるような感覚がした。ざわざわと鳴るそれを落ち着けるように、無意識に腰に下げられている刀を握ると、光のほうへと一歩足を踏み出した。

審神者が五つ目の椿の花を空中へと放ったとき、みしりと床を踏みしめる音が部屋に響いた。一瞬のうちに緊張し、心臓が早鐘を打ったように暴れだす。護身用の札を取り出そうと懐に手を差し入れた所で、暗闇の中から姿を現した人物にほっと胸をなでおろした。同時に、こんな時間にどうしたのだろうと疑問が浮かぶ。雄弁に語ってくる瞳を受けながら、男は小さく苦笑した。
「外から光が見えて、火事かと思ったぞ」
と、言いながら、膝丸が審神者のほど近い所に腰掛ける。審神者は、男の言葉に小さく反省しつつ、男の行動に焦りを感じた。
「火には気を付けるので、見回りに戻って大丈夫ですよ」
なるべく傷付けないように気を付けながら、遠回しに帰ってくれと伝えた。それには気付かないふりをしながら、膝丸は柵にゆっくりと体を預けつつ不機嫌そうに呟く。
「君は、言いにくい事を伝えるとき、途端に敬語になる」
溜息をつかれて、女は困ったように眉を下げる。視線を外に向けると真っ黒な空が見えた。暗闇に瞳が慣れたのか、気が付くと目の前に満点の星空が広がっていて、その美しさに思わず息を飲んだ。
しばらくそのまま空を見つめていると、徐に膝丸が立ち上がる気配を感じた。
「俺は見回りに戻る。主も早く自室に戻るといい」
男の言葉に、女は笑顔を浮かべて肯定した。だが、自室に戻るつもりは毛頭なかった。今日は海の底のような気持ちだったので、全く眠れなかったのだ。こんな夜はたびたびあったのだが、審神者はそれをどこかで受け入れていた。
男は静かに女の瞳を見つめていたが、ふっと小さく息を吐いた。
「眠れないのか。主がそうしているのなら、見回りが終わったら、一度またここへ来る」
そう宣言すると、膝丸はくるりと踵を返して闇の中へと消えていった。夜の闇を見つめながら、審神者は先ほど言われた言葉を反芻する。じわじわと罪悪感が心を支配するのを感じた。そして、どうして嘘を気づかれてしまったのだろうと下唇を噛む。
数時間後、律義に男が姿を現した。手にお盆が握られていて、そこに乗っている徳利とお猪口に審神者は瞳を輝かせた。
「わぁ、熱燗だ」
溢れるような笑顔を確認すると、膝丸は日本酒を選んだのは正解だったと胸をなでおろした。光忠がひそかに用意している日本酒は、主人の出身のものだった。銘柄を本人に伝えながらお猪口を渡すと、小さく歓声が上がった。その反応に男は満足げに口角を上げる。
お酒は固くなった心をほぐす効果がある、と審神者は思っていた。熱い日本酒が喉を伝っていくのを感じた。舌に広がる懐かしい味に思わず頬がゆるむ。
膝丸は横目で審神者を観察していた。彼女は、お酒に弱すぎるわけでもなく、かといって強すぎるわけでもなかった。しかし、普段は引き締まった口元がゆるんで、いつもより少しだけ饒舌になるということを膝丸は知っていた。そして、あまり他の刀の前でお酒を飲まないで欲しいと思った。
頬をやんわりと上気させながら、女が手を伸ばして、空中に浮いている花を軽く押した。花はふよふよと揺れながら、少し離れた男の横頬にぺちりとぶつかる。急に視界に入ってきたそれに男はびくりと体を揺らした。
「……温かい」
男は驚きながら、暖を取るように花に手をかざした。それに審神者はどこか満足げに笑う。そして、ふっと笑みを隠して、おずおずと言った様子で言う。
「さっきも言ったけど、無理に付き合わなくていいんだよ」
心配したような瞳で見つめる。男は、それに柔らかく微笑んだ。
「俺がやりたくてやっているから、主は気にしなくていい。それに、どうせ今日は夜が明けるまで起きていないといけないからな」
こうして話しているほうが、気がまぎれるとまで返されて、審神者は困ったように眉を下げた。みんなさぼっているから、相手にもやんわりと今日は見回りを終わりにしていいと伝えるつもりだったが、総領がそういう発言をしていいのかという疑問が心に浮かび、姑息に口を噤む。
「主は、時々珍妙な場所にいるのだな」
何時ぞや君は、屋根の上で寝ていた、と膝丸はどこか呆れたように言葉を続けた。その言葉に周りを見回しつつ、審神者は苦笑した。この離れの二階はほとんど使われていなくて、床に薄くホコリがかぶっている。一階は物置のようになっているが、二階は特に使い道がなく伽藍洞としていた。ここを訪れる者はほとんどいないと言っても良かった。
「この部屋から、晴れるとほんの少しだけ海が見えるんだよ」
審神者が言うと、膝丸は胡散臭そうに前を向く。男がひそかに目を凝らしているのに気付いて、女は小さく笑った。
「本当に天気がいい日じゃないと見れないよ」
もちろん夜は見えない、と告げると、膝丸は心底残念そうな表情を浮かべた。海を見たことがあるかと聞くと、男は小さく頭を振る。
「写真や映像では見たことがあるが、実物ではないな」
いつか見てみたい、と続けられた言葉に、心臓が掴まれる気持ちがした。審神者は感情に蓋をするように、手に収まっているお猪口を見やる。
日本酒のおかげが、その後の二人は饒舌だった。男は遠征の事、戦いながら考えている事、兄の事を話した。対して審神者は、現代の仕事の内容や、故郷の話などをした。膝丸はめったに自分の事を話さない審神者が、色々なことを話してくれている今の状況が信じられなかった。それと同時に、心の中に花が咲くような喜びを感じた。
生活環境や思想が全然違うので、お互いの話が新鮮で面白かった。ずっと話していても、全然話題が尽きない。目の前の男とこんな風に仲良くなるなんて、数か月前の自分では考えられなかった、と審神者はぼんやりと思う。
ふと、あくびをかみ殺している男に気が付いて、審神者はふっと笑みを漏らす。そして、念を押すように部屋に戻るように伝えたが、いやいやと首を振る。その頑固な態度に審神者が困ったように唸ると、膝丸が口を開いた。
「そんなに寝てほしいなら、君の膝を貸してくれ。それなら問題ないだろう」
酒のせいで頬をほんのりと赤く染めながら、男が呟いた。布団のほうが休まるだろうと思い、やんわり拒否をすると、相手が途端に顔を曇らせる。
「兄者には許していたではないか」
ぶちぶちと呟いている男を見やりながら、審神者は見られていたのか、と気まずさが沸き起こった。結局あれから寝てしまったようで、目を覚ました時には部屋に誰もいなかった。
しかし、肩に部屋の主の黒いジャケットが掛けられていたことを思い出す。

そこまで思い出すと、審神者は諦めたように体育座りを解いた。軽く座り直しながら、ポンと膝を叩くと、膝丸は途端に瞳を輝かせて体を預けてくる。
「兄者にやっていたように、してくれないか」
一体どこから見ていたんだと驚きながら、そろそろと髪に指を差し込むと、二、三度手を滑らせた。途端にちらりと桜の花びらが舞う。
「季節外れの夜桜」
目に入ったそれをそのまま言葉にすると、じとりと恨めし気に睨まれて小さく目を逸らした。男は黒い手袋に包まれた手で、女の白い手を握る。
「主が望むなら、いつでも見せてやろう。君に触れられると、これは無限に沸いてくるからな」
どこか諦めたように言葉を続けながら、握った手のひらに頬ずりをされた。相手の突然の行動にびっくりして、口から小さく呻き声が漏れる。そんな審神者の行動には気にもせず、男はとろりと目を閉じる。
美しい横顔を眺めた。一人で夜を過ごそうと思っていたが、とんだ誤算だった。段々と太ももに重さを感じ、気が付くと相手は静かな寝息を立てていた。見回り番をやる前に仮眠をしただろうが、疲労がたまっているだろうと思い、昼に兄にしたときのように肩をさすった。小さくため息のような音が耳に届いて、起こしてしまったかと焦ったが、顔を見やると深く意識が沈んでいるようだった。
暫くの間、ぼんやりと流れる髪の毛を見ていた。緩く視線を上げると、暗い色の空がいつの間にか淡い藍色になっていた。早朝の透明な時間が好きだった。少しずつ空が藍色から色が薄くなっていくのを静かに眺める。先ほどまで色々なことを考えていたが、今は心の中が空っぽだった。
太陽が地平線に近づいているようで、空の色がじわじわと変化していた。審神者は、この場所から日の出が望めるということを初めて知った。日の出をちゃんと見るのは久しぶりだと思いながら、わくわくとした気持ちで柵に背中を預ける。
だんだんと太陽が地平線から顔を出す。一瞬の内に、光が向こうからまっすぐに差し込んできた。審神者は感動で息を詰めた。冬の冷たい空気の中、太陽だけがオレンジ色で、まるで燃えているようだった。少しずつ姿を現し始めたそれを、食い入るように見つめる。
雲の間から梯子のように差し込む光を見つめながら、審神者はもう一度、感嘆のため息をついた。
「……綺麗だな」
突然隣から声がして、女はびくりと体を跳ねさせた。声のしたほうを見ると、いつの間にか膝丸が起きていて、同じように朝日を眺めている。その横顔が透明で、審神者は空と同じくらい綺麗だと思った。
「一晩付き合ってくれてありがとう」
ふわふわと浮いたままの椿を外へと逃がしながら、審神者は独り言のように呟いた。その言葉に、膝丸は真面目な様子で、こちらこそと答えた。その言い方がなんだか面白くて、小さく笑い声をあげると、相手もつられたように笑った。
審神者は、思い出したように柵に手をやり、もう一度外に目を向けた。すると、焦げ茶色の瞳を大きくし、隣の男の黒いジャケットを小さく引っ張る。甘えるような女の行動に胸を躍らせながら、膝丸は視線を女の指し示すほうへ向けた。瞬間、琥珀色の瞳を大きくする。
最初に見えたのは本丸の庭だった。早起きの誰かが、庭で素振りをしているのが見える。視線をゆっくり先へと移動させると、木がうっそうと茂っているのが見え、その向こうに森が見えた。森の向こうには草原がある。そして、草原の向こうにちらりと光る白色が目に入った。
太陽の光を受けて地平線に揺らめくそれは、海だった。思わず隣を見ると、焦げ茶色の瞳が目に映る。
「ね、本当でしょう」
楽しそうに遠くを見る横顔を見つめる。膝丸は、審神者と一緒に海が見たいという思いが心に浮かんだが、それを言葉にすることはしなかった。

潮騒の音が響いている。
灰色に濁った波が、一定のリズムで押しては返す。波打ち際に佇みながら、女は空っぽの瞳で足元を見つめていた。黒い皮のブーツの先が、少しだけ水に浸ってしまっている。ふと、視界の端に何か動くものを捉えて、条件反射のようにそちらへ視線を向ける。親指程の大きさのヤドカリが、砂浜をちょこちょこと歩いているのを見つけた。暫くそれをぼんやりと見ていたが、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえたような気がして、俯いていた顔を上げる。明るい色の髪の毛が、風にふわりと揺れた。
視線の先に、燃えるような夕日があった。その光を瞳に移すと、耳元で鳴っていた潮騒の音が一段と大きくなる。それは、どこか轟音のように頭に直接響いていた。頭をぐちゃぐちゃにかき回されるような感覚に、焦げ茶色の瞳を、ぎゅう、と閉じると、耳元でひどく懐かしい声が響いた。その声に、女ははっとした様子で光を見つめる。そして、迷うことなく目の前の水の中へ足を一歩踏み出した。ブーツの中まで海水がどっぷり染み込んできたが、そんなことは全く気にならなかった。――どこか熱に浮かされたような表情で、膝まで海水に浸かりながら、もう二度と会えない刀の名前を呟く。

木の机の上に書類を複数並べながら、審神者は一人で黙々と書き物をしていた。十畳程度の和室の中へ、締め切った障子越しに柔らかい日差しが差し込んでいる。障子の外から、短刀たちが鬼ごっこをしている甲高い声が響いていた。
不意に、女は作業の手を止めて、手に持っていたボールペンを意味もなくカチカチと言わせた。眉間に少しだけ皺を縒らせながら、内容を頭の中に整理しつつ、紙の上の文字に視線を走らせる。そして徐に、端に置いている珈琲に手を伸ばした。巫女服の袖がめくれて、白い腕が露になる。珈琲を飲みながら、手持無沙汰に、首から下がっている勾玉を弄る。考え事をしているときに装飾品に触れてしまうのは、彼女の長年の癖だった。
暫く紙を見つめてじっとしていたが、諦めたように小さく溜息をついた。そして、気分を変えるように、その場で大きく伸びをする。そのままの流れで、足を前へと投げ出しながら、後ろへばたりと倒れこんでしまった。明るい色の髪の毛が、流れる川のように畳の上に散らばる。ぼんやりと天井の木目を眺めていたが、ゆっくりと瞳を閉じた。
視界が闇に覆われると、途端に五感が冴えるように感じた。気が付くと短刀たちの声は止んでしまっていて、あたりは静寂に包まれている。
このまま仮眠でもしようと、畳の上でごろりと横向きになったと同時に、外から騒がしい音が届いた。第一部隊が返ってきたのだろう、とぼんやりした頭で思い立つと、審神者はゆっくりと上体を起こす。数分後に部隊長が執務室まで報告に来ることを予想し、襟元を直し、ついでに手櫛で髪の毛を整えた。
そうしていると、廊下からバタバタと大きな足音が近づいてきた。その急いたような音を怪訝に思いながら、障子に目を向けると、長身の男のシルエットが浮かび上がる。そのまま間髪入れず、まるで引き裂くかのように障子を開けられた。障子の木枠が柱にぶつかる音が響き、びくりと体を震わせる。
目の前に現れたのは、緑色の戦装束に身を包んだ、槍の付喪神だった。鴨居にぶつかるのではという程の長身と、手に持った槍が、逆光でシルエットのように見える。審神者は、彼の尋常じゃない様子と、緑色の上着が血濡れになっているのを見ると、ひゅっ、と息を飲んだ。
彼のジャケットと赤いシャツが、絞ると水たまりが出来るのではという程の血で赤黒く染まっていた。彼の背後は見事な雪景色で、男の赤色とのコントラストに、目の前がくらりと揺れたような気がした。
時が止まったかのように硬直している審神者などお構いなしに、御手杵は執務室に大きく足音を響かせながら踏み込んだ。そして、乱暴に腕をつかんで引き上げる。おびえた瞳をしっかり見つめながら、御手杵は焦る気持ちを殺し、一言一言を噛み締めるように紡いだ。
「主、加州が重傷だ。このままだと折れてしまう。手入れを頼む」
手短に伝えられた言葉に、審神者はうそ、と震える声を出した。そのまま、縋るように目の前の明るい茶色の瞳を見つめる。御手杵は一瞬眉間に皺を寄せると、一刻も惜しいとばかりに審神者を抱え上げ、そのまま執務室を飛び出していった。

手入れ部屋に寝かされている男を前にして、審神者は心臓を誰かに握られたかのような衝撃を覚えた。加州清光は、瞳を力なく閉じていた。口は血色を無くし、ほとんど紫色になっている。彼の身に着けている白い髪留めが千切れていて、漆黒の髪が血でガチガチに固まっていた。そのまま視線を下に向けると、首の動脈の辺りから脇腹まで、刀の太刀筋のまま、斜めに裂かれていた。皮膚の裂け目から、赤い肉が覗いている。それは、まるで果物の断面のようだった。それが視界に入った途端、女は胃の中の物が逆流しそうになり、思わず口元を抑え込む。
瞬間、目の前がぐにゃりと歪んで、過去の映像がフラッシュバックした。ボロボロと欠けてしまった爪、段々と光を無くしていく瞳、体の奥から響いた残酷な音。映像が波のように襲ってきて、女は耐えられずに、ぎゅうと瞳を閉じる。
間髪入れずに、両肩を乱暴に掴まれた。思わず振り返ると、御手杵が力強い瞳で審神者を見据えていた。
「主、よく聞いてくれ」
肩にぎりぎりと食い込む指を感じながら、審神者は目の前の男を見つめた。いつもは明るく穏やかな瞳が、今は仄暗く沈んでいた。まるで深い海の底のようだった。
「今、加州を救えるのは主だけだ」
御手杵の言葉に、審神者はガツンと頭を殴られたような気がした。喘ぐように浅い呼吸を繰り返しながら、目の前に力なく垂れている白い腕にゆっくりと手を伸ばす。震える手で相手の手を握りこんだ。ほとんど氷のように冷たくなってしまった指先に、審神者は怯えて唇を噛んだ。すんでの所で口から飛び出しそうな悲鳴を押し殺し、瞳を強く閉じて霊力を注ぎ込むと、部屋の空気が途端に浄化されていった。蛇口からあふれる水のように霊力を送り込みながら、審神者は必死に祈った。お願いだから、折れないで。死なないで――心の思いが溢れて、審神者の頬を濡らしていった。溢れ出る涙を拭うこともせずに、審神者は一心に祈り続ける。

ほの暗い手入れ部屋で、審神者はゆっくりと目を覚ました。知らないうちに夜が明けていたようだが、ここは元々あまり光が届かないような作りになっている為、室内は薄暗かった。
ふと気づくと、固い床の上で横向きに寝ていたようで、半身が痛かった。小さく唸り声を上げながら、ゆっくりと意識を覚醒させると、女ははっとした様子で勢いよく起き上がる。
横に視線を向けると、安らかな寝顔が目に入った。服が綺麗になっており、傷も血も綺麗に無くなっている。呼吸するたびに上下する胸元を確認すると、審神者は糸が切れた人形のように横向きに倒れ込んだ。加州清光が生きている事を実感すると、胸に熱い何かがこみ上げてきて、ほとんど何かに感謝したいような気持ちになった。その衝動のまま、布団に置かれている綺麗な男の手を握る。胸を喜びと安心で満たしながら、ゆっくりと瞳を閉じた。
どのくらいそうしていたのだろう。ふと沸いた違和感に、ゆっくりと目を開けた。ひどく怠慢な動きで上体を起こす。ぼんやりとした気持ちで、僅かに差し込む光を眺めていると、違和感の正体に気付いて首を傾げた。――やけに辺りが静かだったのだ。手入れ部屋は元々、外部の音が入りにくいようになっているが、こんなに音がしなかっただろうか、と疑問が浮かんだ。そして、思いついたように口を開けると、あ、と小さく声を上げる。
数秒後、ゆっくりと両手を耳の位置まで上げると、神社で柏手を打つ時のように、両手をパン、と合わせた。室内に乾いた音が響く。その瞬間、女は驚愕の表情を浮かべた。彼女の世界は、静寂に包まれていたのだった。