潮騒_03 - 4/6

布団からむくりと体を起こしたまま、しばらくぼんやりとしていた。障子の向こうから、雀か何かの鳥の鳴き声が聞こえていた。爽やかな冬日だった。しばし虚空を見つめていたが、おもむろに首元に手を伸ばす。そのままぽりぽりと掻いた。
ふと思い立ち、ずるずると這うように移動して机の上の手鏡を手にとる。それは暗い赤色で、加州と万屋で買ったものだった。小さな鏡を手にしたまま、再度、怠慢な動きで布団へと戻る。布団の上にぺたりと座りながら、恐る恐る鏡を除きこんだ。
首筋が、一部だけ赤くなっていた。一見、蚊に刺されたようにも見える。しかし白い肌の上に場違いな赤色が、どこか花びらのようだと思った。思いながら、昨日の事は夢ではなかったのだと絶望する。そのまま、バタンと横向きで布団に倒れ込んだ。
加州が執務室に来るまで、しばらくそのままでいた。自身は朝食をみんなと取らないので、呼びに来る者はいない。障子から漏れる朝の光を浴びながら、ゆるく目を閉じた。

「あるじー。起きてる?」
と、加州が障子の向こうから呼びかける。もうそんな時間か、とぼんやり思いながら、起きてるよと小さく返した。断りを入れながら加州が障子を開けて入って来る。寝巻のスウェットのまま力なく布団に横たわる私を見て、加州は瞳を大きくした。
「……それ、どうしたの」
ゆるく怠慢な動きで上体を起こした私を見て、加州が驚愕したように言う。視線は首元に注がれていた。それに、うーんと煮え切らない返事をする。
「あいつに、なんかされたの」
軽やかな動きで布団の脇に膝を付けて、加州がいう。瞳には怒りの炎が小さく灯っていた。
「刀剣男士って、そういうのがわかるの?誰に会ってたとか」
あいつ、と言ったことには、分かるのだろうと思いながら聞く。それに対して加州は、あーと気まずそうに言葉を濁らせた。よほど言いにくいのだろう。視線が、小さく揺らいでいる。しかし心を決めたのか、ひたと目を見つめた。
「……わかるよ。俺たちはこう見えても神様だから。むしろ、そういうのには敏感かも」
それに、と加州は申し訳なさそうに続ける。
「主がどこにいるか、とかも何となくわかるよ」
と、少し伏し目がちになりながら加州は言う。その言葉に私は驚きで固まった。
「……でも本丸にいるとか、そのくらいで、具体的にどの部屋にいるかとかまでは俺達でも分からない」
どこか弁解するように加州が続けた。その言葉にホッとため息をつく。その様子を見て安心したのか、躊躇いがちに加州が続けた。
「……このことを知ったら、主はもっとここに来なくなるんじゃないかって思って。どうしても言えなかった」
小さく下を向きながら、ごめん、と言う。たしかに、少し前の自分だったらそれを聞いて、本丸に足が遠のいてしまったかもしれない。どこか監視されているみたいで怖いと思う。でも今はそれが許容できると感じた。うなだれている男の肩にそっと手を触れる。
「教えてくれて、ありがとう」
加州はぱっと顔を上げる。瞳がほんの少しだけ濡れていた。困ったように笑いかけると、途端に猫のような瞳が喜びで細くなった。

いつも通り、加州と広い机に向かい合って仕事をしていたら御手杵が来た。
のしのしとまっすぐに歩いてきて、当然のように審神者の後ろに座る。そのまま大きな体を折り曲げて体を抱え込まれた。彼は桜が舞うくらいご機嫌だったのに、だんだん険悪になるのを背中で感じた。
「……主、これどうした」
首筋に貼られた絆創膏を長い指先で、つ、と撫でながら御手杵が言う。声に怒気が含まれていた。思わず顔を上げて、困ったように加州を見つめると、苦笑しながら紅い瞳が見つめ返す。
「まぁ、色々あって」
と、だいぶ端折って言うと、御手杵は苦しそうな声を出した。同意なのかと聞かれて、小さく首を振る。明るい色の髪の毛が柔らかく揺れた。
彼の柔らかく包み込むような雰囲気がそうさせたのだろうと思う。気づいたときには昨日の出来事を洗いざらい二人に話していた。審神者はこのようなことに耐性が無かったのだった。もちろん、膝丸の独白の部分は、言わないでおいた。自分の心にとどめておくべきだと感じていたからだ。
話を聞き終えると、前後から何とも言えない呻き声が響いた。予想と違う反応に、少々困惑する。二人とも膝丸に激怒すると思っていた。
「……それは、あいつに同情するなぁ」
と、何とも言えない表情で御手杵が言う。加州も思わずといった様子で頷いていた。彼らの言葉に小さく衝撃を受けた。私は、何かを間違っていたのかもしれない、とぼんやり思う。御手杵の言葉に、加州が小さくため息をついた。
「主も、ちょっと思わせぶりな所があったんじゃない?」
あいつ真面目そうだし、と綺麗に塗られた爪先を見ながら加州が言う。その言葉に、小さく反論する。
「そ、そんなことない」
言いながら、すでに心では肯定していた。少し前まで、一つ屋根の下で暮らしていたのだ。しかもそれだけでなく、流れで一緒に添い寝したこともあった。起き抜けの、幸福に塗られた蜂蜜色の瞳を思い出す。
そんなことを思い出しながら、後悔が体を襲うのを感じた。自分でも、異性にそんなことをされたら勘違いしてしまうと思う。
「……ちょっと、距離を置いてみたら」
どうしようと小さく呟く私に見かねて、加州が声を掛ける。
「……刀と距離を置くのは、主の得意分野だもんなぁ」
と、全然悪びれずに御手杵が言った。その言葉に少々むっとしてしまう。
「じゃあ手始めに、御手杵からやってみようかな」
仕返しのように言いながら、長い手足から抜け出すように身をよじると、後ろから焦ったような声が聞こえた。途端に腕の拘束が強くなる。
加州は爪の先を見ながら、静かに言う。
「ちょっと、考えてみたほうがいいかもね。……あいつのためにも」
その言葉をかみしめながら、審神者は小さく頷いた。

御手杵は、本丸に呼ばれてから初めて、審神者に対して“怖い”と思った。
最初は、彼女は普段通りに見えた。違和感が心を包んだのは、御手杵が審神者の話を聞いてから数週間が経った頃からだった。
緩く穏やかな午後。御手杵はいつものように審神者の後ろにくっついて、彼女の体温を感じていた。時折首筋や髪の毛の先から、柔らかい香りが立ち上ってくる。その香りを小さく吸い込むと、頭がくらりとした。一番心地いいと感じるのは、彼女の霊力が触れた所からじんわり伝わってくることだった。質のいい霊力に触れると、温泉に浸かったときのように身体と心が癒されるのを感じた。
頼りない肩に頭を預けながら、しばらくそうしていると彼女が顔を上げる。
「……お手洗いに行ってくる」
と、小さく呟くと、するりと拘束を解いて立ち上がってしまう。冷たい朝に強制的に布団から剥がされたときのような、不快感と強い名残惜しさが心に広がった。
そんな御手杵の心のうちなど露ほども知らずに、すたすたと審神者は廊下へと消えてしまう。御手杵はその静かな後ろ姿を見つめていた。

「……主。入っていいだろうか」
訪ねてきた声に、どうぞーと加州が酷くけだるげに答える。敷居をまたいで現れた男が、加州と審神者の定位置にいる御手杵にそれぞれ目を向け、小さく眉を潜めた。
「……主は」
訝しげに尋ねられた声に、加州が、厠とぶっきらぼうに答える。男はそうかと小さく呟いた。
御手杵は、入室してきた男の薄い緑色の前髪と綺麗な姿勢を眺めた。そして、ふと気づく。主は、彼がここに来ることが分かってあえて席を外したのだ。それに気付いたら、途端に目の前の男が哀れに思えて情けなく眉を下げた。御手杵の表情の変化に、膝丸は怪訝な顔をする。
すかさず加州が、遠征の成果物でしょと言いながら手を伸ばす。膝丸は、思い出したようにはっとして、机にそれらを置いた。用が済んでもなお、何か言いたそうに突っ立っている男に加州が冷たく言う。
「お風呂でも、入って休んだら。明日出陣でしょ」
不意にぺらりと予定表と、出陣記録の束に指を走らせながら加州が言った。その言葉に膝丸は小さく返事をし、少々名残惜しそうに来た道を戻っていった。御手杵は後姿を見送りつつ、大きく息を吐いた。知らないうちに息を詰めていたのだった。

最初は疑心的だったが、回数を重ねるたびにそれは確信に変わっていった。御手杵は、自身が気づいているのだから、本人はとっくの昔に気付いているだろうと思った。そして、そう思うと、心が少しチクリとするのを感じた。
実際、審神者は巧妙だった。彼女が本丸にいるのはせいぜい週に2日くらいだったが、その貴重な日と、膝丸の遠征や出陣の日をさりげなくかぶせるのだった。そしてなにより御手杵が驚くのは、審神者の普段の生活だった。先日のように、執務室に膝丸が来るのを察知すると、するりと席を外す。それだけではなかった。ある日、彼女は廊下で急に立ち止まり、忘れ物と独り言のように呟くと、くるりと踵を返した。どんどんと遠ざかる後ろ姿を見送りながら御手杵は、忘れっぽいなぁと薄く笑った。数秒後に向かいから膝丸が現れたので大きく目を見開くのだった。その拒絶は、気づかないように審神者との間に薄い膜が張られていくようだと思った。
彼女自身の霊力が他の審神者と比べても高いということに、薄々気が付いていた。膝丸の気配を短刀顔負けの洞察力で探知できるのもそうだし、何より、普段触れている所から流れ込んでくる霊力がそれを物語っていた。主の事を、霊力の低いぼんくら、と罵っていたのは誰だっただろうと、ぼんやり思い起こす。今まで御手杵は、その者の言葉を信じてしまっていた。
そして、と御手杵は最近思うのだった。“あれが俺じゃなくてよかった”と。
膝丸はもともと頭がいいのだろう。審神者が自身を避けていることに早々に気づいたようだった。それが疑いから、確信に変わる様子を、その日御手杵は間近で見ていた。その時膝丸は、お菓子を持ってきたと無理やり理由をつけて執務室に足を運んでいた。しかしそこにいるはずの人物がいないことを知ると、失望に瞳を黒く塗りつぶしていった。
わずかな期待に縁どられた瞳が、みるみる失望と悲しみに変わっていく様子を御手杵は近くで見ていた。その時、御手杵の中で槍には無いはずの心が軋むのを感じた。彼女は、目の前の彼がいなくなったら執務室に戻ってくるだろう。そして、机に置かれたおやつを見て小さく歓声を上げ、御手杵と加州に笑いかける。それを持って来てくれた者には、わずかにも心を向けずに。そこまで想像して、ある考えが頭をよぎったのだ。
もし、目の前の男が自分だったら。少し想像して、ぞっとした。身体が氷に突っ込んだ時のように冷たくなるのを感じた。きっと審神者だったら簡単にできてしまうだろう。今は、奇跡的に近くにいることを許されているが、いつ御手杵も拒絶されるか分からないのだ。彼女自身で、物との距離などどうにでも変えられてしまう。御手杵は、先ほどまで触れていた彼女のぬくもりが残る手を、無意識に、ぎゅう、と握りしめた。

審神者は、ゆっくりと本丸の庭を歩いていた。季節は冬に差し掛かろうとしていて、周りは枯れ木や枯草だらけだった。特に見ていて楽しいものは無い。しかし、それには構わずにぼんやりと足を進める。審神者の瞳は、何にも見ていない。
あれから、自分でできる限り、徹底的に膝丸とは距離を置いていた。刀剣男士から私の存在が分かるのなら、逆もできるかもしれないと思い、試してみたら簡単にできたのだった。
しかし、と足元の枯れた枝を見ながら思う。今のやり方で正解だったのだろうか、と私は小さく唸った。これで普段の淡々とした生活に戻って、めでたしとなるはずだった。私のほうは特に変化はないのだが、相手は違うようだった。その変化は、最初は勘違いかと思ったが、だんだん無視できなくなってきていた。
異変に気づいたのは光忠だった。
「膝丸さん、最近食欲が無いみたいなんだ」
と、洗い物をしながら光忠が心配そうに言う。その言葉にどきりとしながら、そうなんだ、と平静を装いながら言葉を返す。光忠は、隣で黙々と洗い物をする私を横目に、主、何か知ってる? と重ねて尋ねてきた。その問いに慌てて首を振る。そんな私を金色の瞳が困ったように見つめた。

一度、膝丸が重傷で帰ってきたこともあった。その日、自分は仕事だったので、加州に手入れ札を使ってもらうように伝えた。
深夜。仕事終わりの服のまま、静かに手入れ部屋に入ると、布団の上で膝丸が力なく横たわっていた。灯篭が十二畳ほどの和室の室内を柔らかく照らしている。音をたてないように近寄り、枕元に正座をする。相手は深く眠っているようだった。あまり寝れていないのだろうか。目の下にくっきりと隈が浮かんでいる。目の前の寝顔があまりにも白く生気が無くて、ぞっとする。悪いイメージが頭をよぎって、思わず自身の手を彼の口元に当てた。
「……生きてる」
ホッと息を吐きながら、何となく脱力して正座を崩した。しばらく寝顔を見つめていたら、不意に膝丸が苦しみだしたので、どこか痛むのだろうかと、思わず布団から出ている手を握る。意識はないはずだが、強く握り返してきた。すぐに自分の霊力を送り込む。途端に相手の表情が、険しいものから穏やかなものに変わっていく。しばらくその変化を見つめていたが、すうすうと穏やかな寝息が聞こえてきて、小さく胸をなでおろした。固く握り込められた指を一本ずつ外す。彼が眠りから覚めないうちに、退出しなくてはとぼんやり考える。緩く腰をあげ、扉に向かって一歩踏み出した。
「……主」
と、後ろで弱弱しく縋るような声が聞こえたが、その声には聞こえないふりをした。まるで相手との境界を分かつように、重い襖をぱしりと閉める。

そんなことを考えていたら、ずいぶん遠くに来てしまった。枯れ葉でぼうぼうの土手の間に小さな川が流れている。そういえば近頃は禊をさぼっていたとぼんやり思った。川の冷たさを思い出して、ぶるりと身震いをする。そのままゆるく視線を上げると、驚きで瞳を大きく見開いた。
視線の先に居たのは、今ちょうど考えていた者の後ろ姿だった。こちらには背を向けて、土手の上で小さく体育座りをしている。いつもの澄み切るような雰囲気が消えて、背中はしんなりと水分のなくなった葉っぱのようだった。川を眺めているのだろうか。彼はおもむろに手元の石を掴むと、苛立ちをぶつけるように川の中に投げ込んだ。ぼちゃん、と石が水面を打つ大きな音がする。彼の動きに合わせて、戦闘服の後ろの金の金具が、光を受けてきらりと光った。
振り向かないで、と心で強く念じながら、ゆっくりと方向転換した。相手は、私が後ろにいることに全く気が付いていないようだった。全身を集中させながら、一歩ずつ、静かに足を踏み出す。それを数回繰り返した。少し距離が取れて、ほっとしたのがいけなかったのか、バキッと足元から音が響いた。枯れ木を踏み抜いてしまったようだ。途端に体が硬直する。
後ろの相手が勢い良く立ち上がるのが気配でわかった。背中に刺すような視線を感じる。
間髪入れずに駆けだすと、焦ったように後ろで何か言われたのが分かった。だけれど、足を止めることなどできなかった。足を止めて向かい合った先にどんな瞳があるのか、知るのが怖かったのだ。全速力で走りながら、心の中で嵐のような感情が吹き荒れて、目の端にわずかに雫が滲むのが分かった。

困り果てて友達の椿に相談をしたら、今すぐ来て、と言われた。
彼女とこのような話をするのは初めてなので、面倒くさがられたらどうしようと恐る恐る電話を掛けたのだが、意外と相手は乗り気だった。はじけるような声色が、端末の向こうから耳に届く。鈴のような軽やかな声で、本人もつれてきて、と言われてぎょっとする。もちろん拒否をした。もうずいぶんと膝丸とは話をしていないのだ。自分からはとても誘えないと思った。

思いがけず彼女と会えることになって、胸を喜びで満たしながら、いそいそとブーツを履いた。玄関の式台に座りながら、ごつめのエンジニアブーツに片足を入れる。明日は、平日なので友達の本丸のゲートから直接現世に帰る予定だった。
履きなれないブーツに手間取っていると、後ろから声が掛けられた。
「また出かけるのか」
視線を上にあげると、廊下に膝丸が立っていた。凛とした立ち姿を確認すると同時に、しまった、と思った。浮かれていたために気がぶれて、相手の気配を探知することができなかった。自分の失態に小さく下唇を噛む。
「……男か」
と、言いながら不意に膝丸が隣に腰掛ける。とっさに加州の言葉が頭をよぎり、いいえ、と敬語で答えた。その他人行儀な対応に、膝丸はひどく傷ついた顔をした。やっとのことでブーツの金具を止めて、失礼します、と言いながら玄関に向かって足早に歩き出す。焦ったように呼び止められたが、遮るように扉をぴしゃりと閉めた。

駆け足で自身のゲートまで急いだ。まさか追ってはこないだろう、と高をくくっていたが、背後で期待を裏切る足音が耳に届いた。すぐさま駆け足を、全速力に切り変える。だいぶ距離が空いているから、このまま振り切れるだろうと思い、足の速度をぐんと上げた。
後ろからなにか悪態のようなものが聞こえたが、足を止めることはしなかった。だが、審神者は刀剣男士の機動というものを忘れていたのだった。

ゲートまであと少しで手が届く、というところで体ががくんと後ろに引っ張られる。あぁ、と思わず口からため息ともつかない声が漏れた。諦めたように振り向くと、私の腕をがっしりと掴みながら、ぜぇぜぇと荒い息を吐いている膝丸がいた。
「……そんなに、俺が、嫌いか」
彼も全速力で走ったのだろう。苦しそうに息をしている。あんなに離れていたのに大したものだと彼の足の速さに感心する。呼吸に合わせて上下に動く胸を見ながら、小さく首を振る。
「なぜ、逃げる」
悲しみに塗りつぶされた瞳に見つめられて、小さく動揺する。さりげなく腕をはがそうとしたが、逆に強く力を込められる。痛みを感じてわずかに顔をしかめた。
途端に、慌てて力が緩められた。そのまま向かいの男は言葉を続ける。
「……この間の無礼な行い、本当にすまなかった」
と、深く頭を下げられる。そのまま土下座しそうな勢いに動揺する。ふと、彼を避けるきっかけとなった出来事を思い出して、思わず首元に手をやる。とっくの昔に赤みは消えていたのだが、思い出すと、そこがうずく気がした。
「もういいよ」
と、小さく口に出した。その言葉に、怯えたような瞳を向けてくる。私はどんな顔をしていいかわからなくて、あいまいに笑った。
「……謝罪は受け取ったから、もう離して」
言いながら、ちら、と自身の腕をしっかりと掴んでいる黒手袋に目を向けた。緩く相手を見やると、とても複雑な表情をしていた。
「他の男士の元へなど、行かないでくれ」
と、腕を握られたまま弱弱しく言われて、私は小さく唸ってしまう。遠からず近からず、というか、当たっているのに間違っている。この勘違いをほっておくとまずい気がする。どうしたものかと悩んでいると、ふと彼女の言葉が頭に浮かんだ。
「……じゃあ、一緒に行く?」
と、おずおずと提案する。それに膝丸はこれでもかというくらいに琥珀色の瞳を見開く。
「俺が行ってもいいのか」
邪魔なのではないか、と訝しげに続ける膝丸の横で、彼女に電話を掛けた。膝丸を連れて行ってもいいかと聞くと、電話の向こう側で歓声が上がる。問題ないようだ。
「いいって」
と、通話を切りながら言うと、ずいぶん器が大きいのだなと膝丸は小さく呟いた。

彼女のゲートの座標は誰にも知られてはいけないことになっているので、今回は馬で行くことにした。二頭でそれぞれ行きたかったのだが、今日私はそのまま現世に帰るので、仕方なく相乗りすることにした。
馬に乗る前に、膝丸に目を向ける。その時、彼が戦闘服のみということに気が付いた。
「なにか、防寒着を持ってくる?」
気が利かなくてごめん、と小さく謝る。それに膝丸は小さく首を振った。刀剣男士は寒さに強いのだという。静かなたたずまいをぼんやりと見つめたが、そうだ、と思い出す。
「これをあげるよ」
と、言いながら自身の首に巻いていた赤色のマフラーを、呆然と突っ立っている相手の首にぐるぐると巻き付ける。相手の身長が高いのでわずかにつま先立ちになった。私のその様子を見て、彼は慌てて屈んでくれる。
膝丸はあたふたと慌てていた。私は彼の首に巻かれた赤色を見て、多少見た目が温かくなった、と思った。
「これでは、主が冷たい思いをする」
と、言いながら巻いたばかりのマフラーを外そうとする手を押さえて、私が答える。
「私、雪の多い地域で育ったから、寒さには強いんだ」
だからこのくらいの気温だったら全然平気、と続けると、小さく彼は俯いた。
「俺は、主の事は何も知らないのだな」
寂しそうに彼は呟く。膝丸に限らずとも、自身の事を知っている刀はそんなにいない。だからそれで落ち込むことはないと思いつつ、小さく肩をすくめた。
「じゃあ、これから知っていけばいいんじゃないかな」
と、何も考えずに言葉を返す。私の言葉に、膝丸が途端に嬉しそうな顔をする。そのきらきら光る瞳を見ながら、もしかしたら、と私はぼんやり思った。今のような言葉が、“おもわせぶり”なのだろうかと思い立つ。自分は全然そんなつもりが無いから、質が悪いと心に苦い気持ちが広がった。
先に私が馬に跨る。二人乗りするので、鞍や鐙は外していて、馬に着けているのは軽いゼッケンのみだった。蔵に行けば、二人用の馬具もあるのだろうが、探すのが面倒だった。それに、余計な重みを馬に与えたくないという気持ちもあった。大人二人でも、馬には相当な負担がかかるだろうと思う。
いつもは鐙に左足をかけて、その反動で跨るのだが、今日はその鐙が無い。慣れない乗り方に四苦八苦していると、脇腹を抱えられて身体をグイと持ち上げられた。そのまま鉄棒をするときのように馬に乗り上げる。驚きで声があがった。そのまま躊躇いがちにおしりを押されて、やっと馬に跨ることができた。顔を真っ赤にしながらお礼を言う。心なしか、相手の顔も赤いように見えた。
対して、膝丸はいとも簡単に馬に跨った。飛び乗り、というのだろうか。どこか得意げな顔をじとりと見つめる。
簡単に確認をしてから小さく脇腹をけると、馬がゆるくギャロップした。流すように走っていく。普段は思いっきり走ることが多いのだが、今日は馬の負担を考えてやめておいた。それでも二人分の荷重があるのだろう。時折ぐらりと重心がずれた。
「……あの」
と、躊躇いがちに後ろに声を掛ける。なんだ、と静かな答えが返ってきた。
「もっと、しっかりつかまってくれませんか」
脇腹に添えられた黒い手袋を見つめながら、小さく言う。後ろを振り向けないので分からないが、狼狽した雰囲気が伝わってきた。後ろにいる膝丸は遠慮して脇腹に軽く手を添えているだけで、その触れるか触れないかの状態が逆にくすぐったかった。それに、自身と相手との間に少し空間が空いていて、馬の手綱を引きながら重心が掴みにくいと感じていた。
それでもなお相手は動かなかったので、小さくため息をつく。無理やり相手の手を脇腹から外して、自身の腰に巻き付けた。後ろで息を飲む音が聞こえる。少々乱暴だったかなと後悔していたら、少しずつ身を寄せてくれるのを気配で感じた。それに安心しつつ、数秒後に若干の後悔が心を満たした。二人乗りは初めてだったが、こんなに密着するのだということを初めて知った。
背中からおしりまで、相手と触れている部分がずいぶんと熱かった。薄いシャツを着ているからだろうか、ずいぶんと早い心拍の響きが背中に伝わってきた。しばらくすると慣れてきたのか、相手はさらに密着してくる。腰に回された腕にも力が込められて、ぐいと軽く引き寄せられた。さきほどからおしりに何か当たっている気がするが、その考えは頭から排除した。
審神者には、馬の歩みがもどかしいくらいの速さに感じた。このペースだといつもの二倍の時間がかかってしまうだろう。そう思っていたら、不意に肩に重みを感じた。小さく視線を向けると、薄い緑の髪の毛が見えた。体をかがめて、自身の肩に頭を預けているようだ。そのまま深くため息を吐かれる。
「……彼奴の気持ちが、今ならよくわかる」
と、くぐもった声が耳元で聞こえる。どこか、恍惚とした響きがあった。その言葉に、緑のジャージと茶色のふわふわとした髪の毛が頭に浮かんで、小さく笑みを漏らす。そういえば、御手杵は執務室でいつもこの体制をしていた。
膝丸はそのまましゃべらなくなってしまったので、無言で手綱を引いた。ふと周りに目を向ける。周りの景色は冬枯れていた。舗装されていない一本道を馬と刀と二人きりで歩く。民家は遠くのほうに一つだけあるのみだった。ふと視線を脇に向けると、土手があり、その向こうに小さな堀があった。体を少しだけ傾けて小川を覗いてみると、小さな魚が泳いでいるのが見えた。時折、鱗が太陽に反射してひらりと光る。
息を吸い込むと、まだ雪が降るほどではないが、冬の初めの冷たい乾いた空気が肺を満たした。後ろの人物の事をふと思う。そういえば、あまり寝ていないようだったと思い出し、このまま寝てしまったのだろうかと心配になった。馬上から落ちたら大変だと思い、一度手綱を右手でまとめて持つ。そのままの流れで左手を相手の黒い手袋越しの手に添えた。そのまま上から握りこんだら、少々遅れて指を絡めてくる。
「起きていたの?」
と、相手の反応に驚きつつ尋ねる。しばしの沈黙の後、あぁ、と肯定の返事が聞こえた。
「寝ていてもいいよ」
熟睡されたら困ってしまうけれど、と小さく言葉を続ける。うたた寝くらいだったら、大丈夫そうと根拠もなく考えた。相手は、しばし迷っていたようだが、ぽつりと呟いた。
「……寝てしまったら、もったいない」
主と過ごせる貴重な時間なのに、と続けて言われる。その言葉に、心がチクリと痛んだ。
「じゃあ、せめて急ぐね」
友達の本丸に着いたら、膝丸を休ませてもらおう、と思い馬に合図を出そうとした。しかし、それを制するように、手綱をもつ右手を封じられる。膝丸の動きに困惑していると、後ろから声が聞こえた。
「ゆっくりで、構わない。……むしろ、着かないでくれとさえ思っている」
と言いながら、膝丸は自嘲気味に笑った。その言葉に、私は顔に熱が集まるのを感じた。

「……すごいな」
と、大きな長屋門を前にして感服したように膝丸が呟く。私も初めてこの門を見たときそう呟いた、と思いながら、ふと自分の本丸の門が頭に浮かんだ。思わずぎゅっと目をつぶり、力が至らなくてすみません、と呟く。私の声に、そんなつもりでは、と隣で焦った声が聞こえた。
そんなやりとりをしていたら、勝手に扉が開いて行った。重厚な両開きの扉が重そうに開いて行く様子を見ながら、あれ、と思った。普段は、自身で扉に手をかざさないと開かないのだった。思わず左手を見つめる。
「もう、遅い!」
と、普段より大きな声で椿が叫ぶ。扉の先に、黒髪の女性と、赤く燃えるような髪色の男士がいた。椿の様子が普段と少し違うと感じた。なんだか、いつもより声が高かった。
「……男では、無かったのか」
椿を見ながら、呆然としている膝丸を横目でじとりと見つめる。神様の独占欲や嫉妬は厄介だと、改めて思った。
「あなたが、膝丸さんね」
椿が、よろしくと言いながら、黒い手袋ごと両手を握り、ぶんぶんと上下に振っていた。黒い夜のような瞳が、きらきらと光っている。白い手が滑らかでまるで陶器のようだった。膝丸は、予想以上の熱烈な歓迎にすこし驚いていた。
「彼女が、えっと……時雨さんです」
頭の中で彼女の通り名を思い出しながら、膝丸に紹介した。私の言葉に、椿がにこりとほほ笑む。同性から見てもほれぼれとするくらい完璧な笑顔だった。
「源氏の重宝、膝丸だ。よろしくたの……」
「素敵ね!」
最後まで言い終わらないうちに、椿が膝丸にタックルした。膝丸から、カエルがつぶれたような声がする。椿の行動に不安になりながら彼女の近侍を、ちらと見やると、彼は小さくため息をついていた。
「……そのへんにしておけ」
と、言いながら大包平が椿を膝丸から引きはがす。椿はむくれたように唇を突き出していた。

「あなたは、難しく考えすぎなんじゃない」
尋ねるというよりは、結論付けるように、椿は言った。膝丸と彼女の近侍は、席を外してくれているようだった。十二畳ほどの広さの執務室に、二人の声が響く。椿はさっきから机の上のミカンを食べている。小動物のようにもぐもぐと口を動かす様子が、素直に愛らしいと思った。
「……椿は、怖くない?」
と、少々俯きながら言う。その言葉に彼女は、なにが?と瞳で問いかけた。
「私たちが向き合っている彼らって、いったい何なのかな」
物、刀、神様とひとつずつ口の中で呟く。聞こえないくらいに小さい声量だったが、椿には届いたようだった。
「……全部だよ」
でも人間じゃない、と淡々と椿が続ける。その言葉に、ほんの少しだけ絶望している自分がいた。私のそんな姿を見やりながら、でもと椿は澄んだ瞳で続ける。
「それって、そんなに重要?人間とか、人間じゃないとか」
彼女の言葉に、分からないと首を振る。
「……ゆっくり考えていけばいいよ」
ミカンを口に放り込みながら、優しい口調で椿が言った。途端に胸の中に温かい何かで満たされて、小さく彼女に微笑んだ。彼女の言葉は不思議だ。どんなに不安な時でも、彼女の唇から大丈夫と言われると、途端にそう思えてくる。

楽しい時間ほど、あっという間に過ぎていく。外はすでに薄暗くなっていた。
ゲートまで椿とのんびり歩いていると、視線の先に、白い馬の手綱を引いた膝丸と、彼女の近侍の大包平がいた。
自分の自宅の座標を打ち込み、ゲートへ向かって一歩足を踏み入れると、あれ、と椿が言った。
「あなたは、行かないの」
と膝丸を見ながら言う。膝丸は顔に疑問符を浮かべた。
「だって彼氏でしょう?」
こてんと頭を傾けながら、愛らしい顔で続ける。もちろん冗談だが、膝丸には通じなかったようだ。違う、と言いながら顔を真っ赤にする膝丸を笑いながら、椿は彼の黒い背中をばしんと勢い良く叩いた。
そのままの勢いで、椿が膝丸に何か耳打ちをしていた。戸惑いながらも中腰の姿勢になってくれている膝丸を見て、小さく微笑む。まるで姉弟のような二人の様子を見ながら、仲良くなれてよかったね、と膝丸に声を掛けた。言われたほうは、情けなく眉を下げるばかりだった。鈍く光りはじめたゲートを見ながら、後ろを振り返り、じゃあと手を振る。残った者たちは、静かな後ろ姿と、肩の上で揺れる明るい色の髪の毛が光の向こうに消えていくのを見つめていた。

静かな道場に、小さな呼吸音が響いていた。400㎡位の広さのこの場所は、昼間は手合わせをする者たちで賑わっているが、あと一時間程で日付がかわるだろうという今の時間帯には、誰一人居ないのであった。
壁に掛けてあった木刀の柄をぎゅ、と握りながら、ふと上を見上げた。天井がとても遠くにあって、どこか小学校の体育館のようだと感じる。冬を迎えようという今の季節だと、裸足の足裏から伝わる冷たさに身が固くなる思いがした。
体に当たるとさぞかし痛いだろうと思いながら、硬い木の棒をブンと振り上げる。噛み締めた口から、ふっと息が漏れる音がした。
審神者は、刀の持ち方や振るいかたなどは、全くわからないずぶの素人だった。遠く昔、小学校の頃に習った剣道の記憶を手繰り寄せながら、黙々と素振りをする。持ち方も、足さばきも適当だが、誰も見ていないからいいと思った。
刀のかたちをした木の棒の、少し丸まっている切っ先を眺めながら、審神者は感情を持て余していた。心の中から、沸々と沸騰するように沸き起こるそれは、楽しいや嬉しいとは反対にあるものだった。そうこうしているうちに、また感情がぶり返してきて、小さく顔を歪めた。
それは紛れもない怒りだった。普段は、比較的、冷静で穏やかなほうだった。素振りをしながら、どうして自分はこんなに怒っているのだろうと思う。今日一日を振り返ってみた。
例えば、朝の満員電車で、ぎゅうぎゅう詰めにされたときに、前の人に舌打ちをされたこと。会社で、帰る間際に仕事を押し付けられて残業になってしまったこと。仕事を押し付けた本人の言っていた”重要な用事”が、彼氏と会うことだったこと。そしてそれを終わった後に知ったこと。
そこまで考えて、審神者はふう、と息を吐いた。だけれど、どれもこれも仕方がない、と思った。残業は断ると面倒なことになるし、都会にいる限り満員電車は避けられない。そこまで考えながら、テレワークができるように上司に相談してみようかと、ふと思い立つ。体を動かしていたら、少しだけ冷静になれたのだった。

あと少しだけ続けてから部屋に戻ろうと、硬い木刀を握り直したとき、後ろから声をかけられた。
「……主か?」
後ろから突然響いてきたぶっきらぼうな声に、ビックリしてしまい、口から小さく悲鳴が出た。急いでそちらを振り返る。
訝し気に近づいてきた姿を目にして、心の中で舌打ちをした。今は誰にも会いたくなかった、と胸の中で呟く。そう思いながら、近づいてくる男に目を向ける。見るからに固そうな髪の毛、鋭い黄色の瞳に、顔に刻まれている大きな刀傷――そこに居たのは同田貫正国だった。
とうとう向かい合わせの位置まで来た男は、昼と同じ巫女服のまま木刀を手にしている審神者をまじまじと見つめた。顔にこんな時間に何をしているんだと、ありありと浮かんでいて、思わず苦笑いをする。

「まず、握り方が違うな。」
何かを言いたそうにしていた同田貫だったが、とうとう我慢できない、と言った様子で呟いた。
「……ですよね」
まぁ、こっちは素人だし、と思いつつ木刀を下ろそうとする。途端にその動きを遮るように手を添えられた。
「せっかくだから、教えてやるよ」
と、目も会わせずに男が言った。内心かなり驚きながら、こんな機会は滅多にないかもしれないと軽く頷いてみる。

案外、同田貫は面倒見がいいようだった。
私がいくら失敗しても、何回でも根気強く教えてくれた。素人の目線に立ってくれているのが、言葉や態度から伝わってくる。それに、教え方もややこしくなく分かりやすい。

一通り教えてもらって満足していると、男がにやりと笑った。
「それじゃあ、実践と行くか」
言いながら、壁に掛けてあった木刀を手にして戻ってくる。
「いや、それはさすがに遠慮します……」
ぎらぎら光る黄色の瞳を見ながら、一歩後ろへと後退りした。戦闘狂と手合わせなんて怖すぎる。相手は途端に一歩前へと踏み込み、距離を詰めてくる。
「なんでだよ。俺が相手じゃ不満か?」
「そんなことは無いですけど」
掛けられた言葉に、やんわりと拒否をすると、相手は途端に白けた雰囲気を出した。
「……なんだよ。あんた、根性ありそうな目をしてると思ったんだけどな」
期待はずれだったか、と小さくため息を吐きつつ言われて、負けず嫌いの血がざわりと騒ぐのを感じた。

木と木がぶつかり合う、硬質な音が響いた。何をどうやって攻撃したらいいのか分からないが、そこら辺は適当でいいと言われたので、深くは考えないで刀の形をした木の棒を振るう。
実践をする前に、同田貫は自分からは一切攻撃をしないと言った。実際に、相手は私の攻撃を受けるばかりで全く反撃しないのだった。どうにか、まぐれでも一本とれないかと、振り切った一撃が簡単にいなされる。手から離れた木刀が、床に当たってガランと派手な音を立てた。その音に緊張の糸がぷつりと切れてしまう。その瞬間、力が抜けたように座り込んだ。普段ほとんど運動をしないためか、肩で大きく息をしてしまう。静かな道場に彼女だけの荒い息使いだけが響いていた。

力なく座りながら俯いてしまった主人を見て、同田貫はやり過ぎたか、と心配した。謝ろうかと一歩踏み出すのと同時に、彼女がふっと顔を上げる。
その時目に入った瞳に、彼は黄色の目を丸くした。彼女の瞳にあったのは、怯えや辛さといったものではなく、ほんのり滲むような悔しさだった。
遠慮がちに手を差し出すと、嫌がって振り払われるかと思ったが、素直に手を取ってきた。冷たい手を想像していたが、予想に反して暖かく、男は小さく驚く。
「私も、強くなりたい」
はにかみながら言われたその言葉に、心臓がほんの少しだけ踊るのを感じながら、同田貫はにやりと口角を上げるのだった。

その日から、同田貫の日課の中に、”審神者に剣の稽古をつける”が新たに加わった。とはいっても、審神者が本丸にいるのはせいぜい週に二日程度だし、次の日に会社がある日は稽古をしないと決めていたので、ほとんど彼の生活は変わらないのだった。

「お待たせしました」
少し遅れて現れた審神者は、前回と同じ巫女服ではなく、緋色の衣に黒い袴を履いていた。聞くと、初期刀に借りたのだという。確かに、加州清光は審神者と身丈が同じくらいだったな、と思った。さりげなく自分用に買わないのかと聞いてみると、審神者は小さく肩をすくめて言う。
「……あんまり、物を持ちたくなくて」
すこしだけ、心が縮む思いがした。

「やっぱり、勝てない」
この間と同じように床にぺたりと座りながら、悔しそうに女が呟く。上から上下に動く肩を見下ろしながら、主人の言葉に少々呆れてしまう。勝てなくて当然だと思った。そして、あの言葉は本気だったのか、と少しだけ驚く。先日、やるからには何か目標を決めよう、と稽古中にふと同田貫が提案したのだった。それに首をわずかに傾けて、審神者は思案する。顎に手を当てながら、小さく唸る女を見つめながら、このしぐさは子供のようで愛らしいと、ぼんやり思った。審神者は、しばし悩んでいたようだったが、ぱっと顔を上げる。
「私、あなたから一本取りたい」
だから、それを目標にする、と小さく拳を握りしめる審神者を見つめながら、これは時間がかかりそうだな、と小さく笑った。

早朝。まだ日が上りきっていない頃、同田貫は、なんとなく早く目が覚めてしまい廊下を歩いていた。足の裏に床の冷たさを感じながら、今日の予定を頭の中に思い描く。たしか朝から馬当番だった、と思いながら馬小屋のほうへと脚を向ける。別にこんな早朝から始めなくてもいいのだが、早く終わればその分自由な時間が過ごせる。この本丸は、その辺りが緩いのだった。程よく放任主義で、やるべき事をきちんとやっていれば、他に好きな事をしていても何も言われない。同田貫はその方針を気に入っていた。

外靴に履き替えて外に出ると、冬の初めの冷たい空気が肺を満たした。あたりが薄ぼんやりとした色に満たされていて、まだ夜の気配が残っているようだった。そのまま歩みを進めると、敷き詰められた砂利がザクザクと音を立てる。
馬小屋の近くまで来たときに、かすかに言い合うような声が聞こえて、僅かに眉を潜める。こんな時間に誰だろうと訝しく思いながら、自然に足音を消した。そのまま、声がするほうへゆっくりと脚を進める。

声は、馬小屋のすぐ後ろの、馬たちを放牧する広場の入り口から響いてきているようだった。物陰からそちらを除くと、珍しい組み合わせが目に入る。一人は、自分の遣える主人だった。いつもの巫女服に、赤いマフラーだけを巻いている。その格好を見て一瞬、寒くないのかと思ったが、存外本人は平気そうだった。そのまま、視線を横に向けると、燃えるような赤い髪の毛が目に入る。きりりとした灰色の瞳に威風堂々といった出で立ち――審神者に向かい合っていたのは、大包平だった。言い合っている男女を眺めながら、なんだか赤色が多くて目に喧しい、と場違いな事を思った。そして、この二人が一緒に居るのを見るのは初めてかもしれない、とも思いつつ、成り行きを見守る。

「だから、一人で練習するって言ってるの!」
と、拳を硬く握りながら審神者が訴えている。時間帯を気にしてか声を潜めていた。いつも審神者は男子に対して敬語なので、あまり聞かない気軽な言葉遣いに少しだけ驚く。
「刀剣の横綱であるこの俺が、練習に付き合ってやろうと言っているんだ!」
光栄に思え!と腕を組みながら向かいの男が言う。傍目から見ても余計なお世話だが、本人は100%の善意で動いているのだ。男の言葉に、女は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「付き合ってもらわなくて結構です!」
と言いながら、苛立ちをぶつけるように、手にした木刀を振るう。一応は加減したようだった。この間より綺麗な形になっている。それを、男はどこからか持ち出したのか、同じ形の木刀で受け止めた。
「やっと、その気になったのか」
と、邪気の無い顔で笑いながら、女の攻撃を簡単に弾き返す。さらに良く見ると、利き手と反対の手に木刀が握られていた。それは、万が一、彼女を傷つけてはいけないという、彼なりの優しさだったのだが、審神者にはそうは写らなかったようだ。瞳に闘志の炎が宿る。
「……馬鹿にしないで」
と、低く言いながら女は不思議な構えをした。木刀を片手で逆手に持ち、左手で相手を図るように前で固定する。それはどことなく、格闘技の構えに似ていた。
大包平は、先ほどとは違う審神者の様子に、灰色の瞳をきゅうと細めた。口角が緩く上がっている。
細く呼吸をしていた審神者が、一気に間合いを詰めた。大きく振りかぶって攻撃するが、当然のように受け止められる。
そこからは、一瞬の出来事だった。木刀を弾かれた審神者は、その反動を逃がしながら下方向から蹴り上げる。それに男は驚きの表情を浮かべた。再度右側から振りかぶって、男が一歩避けるが、審神者はそのままの勢いで後ろ回し蹴りをした。予測しにくい動きに男が僅かに顔を歪める。
ふと、女が立ち止まると、木刀の切っ先を下に向けた。その動きに、相手がもう終わりかと残念そうな表情をする。審神者は、相手が油断した所を、二、三歩と近づいてから、徐に勢いをつけて前方へ回転した。体が一回転して、流れるように右足が男の首下辺りに叩きつけられる――胴回し回転蹴りだった。

大包平は、何が起きたのか全く分からなかった。審神者の姿が視界から消えた、と思ったら、次の瞬間首元に衝撃が走る。彼女も本気で蹴り込んではこなかったようで、強い痛みは感じなかったが、力を受け止めきれなくて後ろに倒れこんだ。気がつくと、視界いっぱいに早朝の優しい色の空が広がっていた。倒れた先が干し草の山だったので、冬の硬い地面に激突することは免れたようだった。
上から干し草がぱらぱらと落ちてくる。が、今しがた起こった出来事が信じられなくて、彼はそれを払うことが出来なかった。

足の甲に確かな衝撃を感じて、審神者は小さく、勝った、と心の中でガッツポーズをした。視界の端で、スローモーションのように倒れていく男を捉える。しかし、油断したのがいけなかったのか、きゃっと小さく悲鳴をあげながら、女はバランスを崩した。足が縺れたまま、一歩前に踏み出す。そのまま立て直せずに、干し草に埋もれて呆然としている男の上へと、吸い込まれるように倒れこんでいった。
数秒遅れて、朝の空気を切り裂くような、二人分の絶叫が聞こえた。

硬い縁側に座りながら、刀身を眺める。刀の向きを変えると、日の光を受けて刀身がきらりと光った。動きに合わせて、波紋が目の錯覚で波のようにわずかに動いているように見える。そのまま、油をしみこませた布で拭った。手を動かしながら、ふと横に置かれた鞘を見つめる。ほとんど装飾がされていない武骨なそれが目に映った。途端に、遠い昔に誰かに言われた、”不格好”という言葉が頭をよぎって、小さく自嘲気味に笑う。同田貫は、本体の手入れをしながら、自分の依り代と静かに向かい合う。天下五剣や、刀剣の横綱のような美術品としての美しさは無いかも知れないが、実戦向きのいい刀だと思った。

「戦向きの、いい刀ですね」
と、徐に声を掛けられた。自分がまさに今考えていたことを言葉にされて、ドキリと心臓が跳ねる。声のしたほうに目を向けると、近い所に審神者がいた。
「一切の無駄をそぎ落としたような姿が、清く思えて、個人的に好きです」
と、なんでもない事のように言葉を続けた。まるで、今日はいい天気ですね、と言うのと同じくらい気軽な言い方だった。
「……お、おぉ」
突然来てなんてことを言うんだ、と思いながら、おざなりに返事を返す。審神者の言葉を噛み締めると、顔に熱が集まるのを感じる。桜の花びらが舞ってしまわないように、ひそかに奥歯を噛み締めた。
「隣に、座ってもいいですか」
と、遠慮がちに尋ねられて、同田貫は驚きに瞳を丸くした。審神者のほうから慣れあおうとするは大変珍しいと思いながら、手入れ道具を脇にどかす。
同田貫が場所を空けてくれたのを確認すると、彼女はそこに静かに腰を下ろした。一気に距離が近づいて、わずかに体に緊張が走った。審神者は、そんな男の様子など気にも留めずにぼんやりと庭を眺めている。その表情からは何も読み取れなかった。同田貫は作業を再開する風を装いながら、ちらと横目で審神者を観察した。少しだけ伸びた前髪の奥に、焦げ茶色の瞳が見える。その瞳は、目の前の庭を似ているようにも、はたまたその向こうの空を見ているようにも見えた。それでいて、目の前の風景を全然見ていない風にも思える。その既視感のつかめない瞳に、胸の奥がざわざわとするのを感じた。どこか、とんでもない遠くへと審神者が行ってしまうような錯覚に陥る。
「この間、朝に大包平と喧嘩していただろ」
と、沈黙に耐えかねて、隣でぼんやりと風景を見つめている女に声を掛けた。審神者はその声に気まずそうにこちらへ視線を寄こす。そして、困ったように小さく息を吐いた。
「……そうなんです。あの人、最近は筋トレにすら、手助けしようとしてくるので困っています」
一人で練習したいのに、と言いながら小さく眉間に皺を寄せる審神者を横目で見つつ、その言葉に小さく笑った。確かに、最近二人が共にいる姿をたびたび見かけるな、と思った。先日も、執務室に戦果の報告に行くと、腹筋している審神者の傍に大包平が居たのだった。大包平は、審神者の脚が浮かないようにしっかり足首を押さえながら、審神者が起き上がるたびに声を掛けている。
「いいぞ! あともう少し頑張れ!」
限界を超えろ! などと大きな声で吠えている男に対して、審神者は本当に嫌そうな顔をしながら、うるさいと顔を振っていた。
恐らく、大包平の言う”練習に付き合う”などという言葉は建前で、単に審神者の近くにいれる機会を逃したくないのだろうと、同田貫は予想した。刀たちは、やはりどこか持ち主に依存している。同田貫はあまり意識したことは無いが、基本的に自分たちは”主に認められたい”という気持ちが強いようだった。それはある種の本能のようなもので、主人にどのくらい大切にされるかが、自分たちの存在意義でもある。だから彼女の、刀と一線を引くやり方に、不満を抱いている者は少なく無かった。自分自身も、審神者から、”お疲れ様”などの挨拶以外の言葉を投げかけられることは無い。だが、同田貫にとって、そこはあまり重要ではなかった。自分は、日々戦いに出してくれ、余すことなく使ってくれる今の主人に対して、おおむね満足していたし、それ以上を求めるつもりは毛頭ないのであった。それはさておき、刀剣男士たちの多くは審神者との関わりに飢えていた。
そんなことは露ほどにも知らないのだろう、と思いながら、同田貫は小さくため息をつく。その時、不意に後ろの障子の向こう側から話声が聞こえた。

「……今更、主面されてもなぁ」
と、大きくため息をつきつつ紡がれる言葉に、同田貫は一瞬で体が硬くなるのを感じた。素早く隣の人物を見ると、確かに今の言葉が彼女の耳にも届いたはずなのに、先ほどと表情はまるで変わっていなかった。その、何の感情も読み取れない横顔に、背中になにか、ぞわりとしたものが走る。
「最近は、刀剣男士に稽古をつけてもらっているらしいじゃねぇか。そんなことしている暇があるなら、審神者の仕事をしっかりやれってんだよなぁ」
お前もそう思うだろ、とおもむろに問いかけて、近くの刀が遠慮がちに肯定するのが聞こえる。それに、歯を食いしばった。適当に話を合わせやがって、と思い、心の中にドロドロとしたものが沸き起こるのを感じた。そして、それは次の言葉で臨界点を迎えた。
「……俺は、あんな女を、主とは認めていない」
と、吐き捨てるように言われた言葉に、もう黙っていられないと腰を浮かす。途端、左手をぎゅっ、と握られて体が固まった。視線をそこへ向けると、自分の硬くささくれだった手を、白くて滑らかな手が包んでいた。そのまま視線を上に向けると、真っすぐに前を向いている横顔があった。瞬間、くっと息を飲む音が、自身の口から洩れるのを聞いた。女の表情は、想像していたものとはどれとも違っていた。悔しさや、もしくは瞳に涙を浮かべているとばかり思ったが、同田貫の瞳に移った彼女は、静かな表情をしていた。すべてを受け止める海の底のような、透明な横顔に、途端に心を奪われてしまう。
しばし、呆然と審神者を見つめていたが、最後にぎゅっ、と強く手を握ると女はぱっと手を離した。そして何も言わずに立ち上がると、くるりと踵を返して、元来た道に帰っていく。どんどんと遠ざかる、何の未練もないような背中に、どこか損失感が胸に広がるのを感じた。

深夜。誰もいない道場で、同田貫は正座をして目を瞑っていた。静寂が、耳に痛いと感じる。徐に、は、と息を吐くと空気が白く染まった。それに、もう少しで厳しい冬が来ると静かに悟った。そして、同田貫は来るか分からない”ある人物”を静かに待っていた。普段は稽古をするときは前もって伺うのだが、あえて今日は声をかけなかった。しかし、ほとんど確信的に同田貫は、”絶対に来る”と思っていた。
そのまま正座をして待っていたが、時刻が日付を跨ごうというところまで来てしまい、もう帰ろうかと諦めの気持ちが襲ってきた。その時、昼間の言葉が思い出されて、小さく歯を食いしばる。そして、もう帰ろうと浮かせかけた腰を、もとの位置に戻すのだった。
どれくらいそうしていたのだろう。寒さに手足の感覚がなくなりかけたころ、奥の扉が、がらりと開く音が聞こえた。静かにこちらに向かってくる足音を聞きながら、ゆっくりと瞼を開ける。
「……お待たせ」
と、審神者が言った。昼間のままの静かな表情だった。