潮騒_03 - 5/6

木刀と木刀がぶつかり合う、硬質な音が響く。その心地良い音を耳にしながら、同田貫は、できることなら、彼女と真剣で戦いたいと思った。そして――望みが叶うなら、自分自身をその手で振るって欲しい、とも。
審神者は、僅かに顔を歪ませながら、一切の加減も無しに刀を振るっていた。木の棒が耳の横をかすめて、ブン、と風を切る音がする。流れるように次の攻撃を仕掛けられて、同田貫は驚きで瞳を大きくした。審神者の剣術の腕が、明らかに上達していたのだ。刀剣男士に比べたら、まだまだ足元にも及ばないが、それを差し置いても彼女の成長は目覚ましかった。それに男は、動物のような黄色い瞳を、喜びで細くする。
審神者は、苦痛を感じているように顔を歪ませながら、刀を振っていた。それはどこか、今にも泣き出しそうな子供を連想させた。感情を押し殺すように固く下唇を噛みしめている。同田貫は、そんな彼女の繰り出す攻撃を受けながら、刀を通じて感情が流れ込んでくるような錯覚を覚えた。悲しみ、やるせなさ、どうしようもない悔しさ――そんなものがどっと押し寄せてくるような気がして、小さく顔を歪ませた。

考えたくも無いのに、昼間の言葉が頭に流れ込んでくる。本当は、同田貫はその時、感情の抜けた瞳で前を見つめる女の肩を抱いて慰めてやりたいと思った。過去の過ちに囚われるな、と言葉をかけてやりたかった。どんなことがあっても、自分は折れないで彼女の元へ帰ってくる、と伝えたかった。しかし、なぜかその言葉が言えないのだった。もどかしさに小さく歯を食いしばる。言葉にできない気持ちが、彼の中で雪のように降り積もっていった。
不意に、同田貫が刀を振った。今まで、一度も男のほうから攻撃をされることは無かったので、審神者は大きく目を見開いた。しかし、すぐに真剣な瞳に戻る。次々繰り出される攻撃を必死で受け止めた。その度に、どちらのものが分からない汗が飛び散って、きらりと光った。

何かをぶつけるように刀を振るっていた同田貫だったが、ふと立ち止まり、刀の切っ先を床に向けた。肩で息をしながら、審神者はその様子を訝し気に見つめる。
「……本気で、かかってこいよ」
と、言いながら、同田貫はゆっくりと構えをとった。その見知った動きに、審神者は瞳を大きくした。そして、自分も相手に習い、距離を図るように構えのポーズを取る。その様子に、同田貫は満足そうに瞳を細くした。
しゅっ、と息を吐く音の後、脇腹に衝撃が走るのを感じた。同田貫は、その痛みに顔を歪める。だが、それと同時に、心の奥のほうで喜びの感情が沸きあがるのを感じた。その感情を遠くで眺めながら、自分は血肉の隅々から戦いが好きなのだと悟った。そして、そのまま審神者を見やる。その瞳の中に、自分と同じ炎が宿っているのを見届けて、彼の心に喜びの感情が広がるのが分かった。その溢れる気持ちをぶつけるように、全力で刀を振るう。

ふと、審神者が動きを止めた。そのまま、その場で軽くステップを踏む。刀をゆるく逆手に持ち、静かに呼吸している。その様子を見て、刀を持つ手に力が入る。目の前で小さく揺れる炎を見ながら、思いっきり来い、と心の奥底で願った。
審神者が、徐に右側から刀を振ってきた。その衝撃を受け流すと、すぐに蹴りが飛んでくる。そちらはまともに受けてしまって、自分の口から、ぐっと呻き声が漏れるのを聞いた。そして、少し下がって距離を測った後、審神者は一気に前へと踏み込んできた。来る――と思った瞬間、審神者の姿が消えた。数秒後、あごのあたりに強烈な打撃が来る。目の前で星がはじけた気がした。衝撃を受け止めつつ、両足で踏ん張る。が、脳震盪を起こしているようで、視界がぐらりと揺れた。そのまま後ろに倒れ込む。

気が付いたら、視界一杯に天井が広がっていた。
倒れ込む瞬間、手を引かれるのを感じた。そのまま審神者がかばうように身を寄せてきた為、思いっきり床に叩きつけられずに済んだようだ。審神者はすぐに離れて、反対を向いてしまう。呼吸に合わせて、上下している肩が見えた。

暫しの間、呆然と、天井と審神者を見ていた。明るい色の髪の毛が、たらりと流れるように床に散らばっている。ぼんやりとしていると、ゆっくりとした動きで審神者がこちらを向く。心臓が僅かに跳ねるのを感じた。
「……すっごく、楽しかった、ねぇ」
くったりと横になりながら、ため息交じりに審神者が呟く。その言葉に、息が詰まった。
満足気に笑う瞳を見つめながら、同田貫はこれからどんなことがあったとしても、必ずこの人の子の元に戻ると、静かに心に誓った。

文机の上に並べられた書類の束をぼんやりと眺めながら、審神者は今日の予定を頭に描いていた。今週は比較的、業務が薄い日だったので、午前中で現世に帰ることにしている。明日は一日休みにしているが、とくに問題ないはずと手帳を見ながら再確認し、ひとつ息を吐いた。その息が白く彩られ、淡く空気に消えていく様を見て、冬の到来を感じた。急に寒さを感じ、小さく両手をこすり合わせる。指先が冷えて固くなっていた。そのまま机の向かいに目を向けたが、そこにいつもの紅い瞳は無かった。普段近侍をしてもらっている男――加州清光は、今日は丸一日、遠征に行っているのであった。
机の上に綺麗に並べられた紙の束を見比べながら、来週の編成を考える。作業自体は前日にほぼ終わってしまったので、残るは最終的な確認をするのみだった。薄い紙に指を滑らせながら、淡々と確認していく。焦げ茶色の瞳が、流れるように紙の上の文字を追いかけていたが、ある一点でぴたりと止まった。
「……膝丸」
ぽつり、と口から小さく言葉が漏れる。目についた名前に、思わず紙の上を滑る指が止まってしまったのは、数日前の出来事を思い出したからだった。なかなか濃い一か月だった、と小さく審神者は苦笑する。彼とは色々あったが、今は普通に会話ができる関係に戻っていた。だが、元々審神者は本丸にいる日数が少ないので、ほとんど顔すら見ていないのだった。

再び、一人きりの執務室に紙をめくる音と、時折ペンが紙に擦れるカリカリという音が響いた。外からは風の音のみが響いてきている。ごうごうという音を聞きながら、今日は風が強く吹いているようなので、僅かに残っていた紅葉もあらかた落ちてしまうだろう、と少し寂しく思った。
やっと全ての書類の確認が終わり、近侍に付箋でメモを書いていた所で、障子の外から声が聞こえた。
「主、今、居るだろうか」
なんだか少しだけ頼りない声で、恐る恐るお伺いをされた。その問いかけが、入室の許可ではなく、いつの間にか所在の確認になっていることに小さく苦笑しつつ、のんびり返答を返す。数週間前まで、声の主を徹底的に避けていた。喧嘩のような出来事の後、加州に思わせぶりは良くないと諭され、一端距離を置こうということになったのだ。そして、審神者は彼が近づく気配を察知すると、するりと逃げていた。きっと、そんな露骨な距離の置き方に、相手も気付いていたのだろう。仲直りした今でも、彼の中でそれが尾を引いているのが声色から伝わり、心に申し訳ない気持ちが広がった。

開け放たれた障子の向こうから現れたのは、つい今しがた考えていた人物だった。折り目正しく廊下に膝をついている男と、その向こうの風景に目を向ける。その時ちょうど落ち葉が風に拾われて、見事な螺旋をかいて空中に舞うのが目に入り、しばしそれに見とれてしまった。
風に舞う葉に心を奪われていると、遠慮がちに声を掛けられ、慌てて意識を現実に戻す。訝し気な瞳と目が合った。何となくごまかすように、少し伸びた前髪を耳にかけながら、座布団を用意する。

静かに入室してくる男を見ながら、何の話だろうと考える。手元にある予定表をさりげなく確認してみると、彼の今日の予定は“非番”となっていた。遠征や戦果の報告でもなく、内番終了の報告でもなければ、用事は何だろうと心に不安が広がる。いつの間にか目の前に腰を落ち着けている男に目をやると、さらりと流れる前髪が風に揺れていた。
「……この間の、約束を覚えているか」
少し硬い声色を聞きながら、その言葉にどきりとした。やくそく、と口の中で反芻する。男から告げられた四文字を咀嚼しながら、それに全く身に覚えが無くて、どっと冷や汗が出てくる。神様との約束は、人同士の約束と少々重みが違う。この間、書庫で過去の文献に目を通したが、神との約束を違えた人間は皆悲惨な最後を迎えていた。ここで答えを間違えると、逆鱗に触れるのではと背中に冷たいものが走る。
頭をフル回転させていると、再び遠慮がちに声を掛けられた。それに恐る恐る顔を上げると、こちらを見やる男の顔が映った。
「先日の、勝負の話だ」
「勝ったほうが、負けたほうの言うことを聞くって話?」
言葉を返しながら、なんだそんなことかと小さく胸をなでおろした。そして、どんどん流れていく景色と風に揺れる白い鬣を思い出す。習慣になっている禊の後、膝丸と小夜と本丸までどちらが早く帰れるか勝負したのだった。結果は審神者の圧勝だった。あの日は、勝負は一先ず置いておいても、思いっきり馬と走れて気持ちが良かった。その時の風を思い出すと、何となく恋しくなって、帰りに馬小屋によって愛馬を撫でてから帰ろうと思いたつ。
「小夜は、主命を受け賜わったと聞いたぞ」
俺は何も言われていない、とぶちぶち呟く男を横目に、審神者は何かを思い出したように、あぁ、と気の抜けたような声を上げた。

穏やかな昼下がりだった。
ぶらぶらと廊下を歩いていたら、先方から歩いてきた一人の刀剣男士に声を掛けられた。
「……小夜が、あなたに声を掛けられるのを楽しみにしていますよ」
通り過ぎる直前で掛けられた言葉に、あ、と小さく声を上げつつ足を止める。忘れてた、と呟きながら斜め上を見上げると、心底呆れたような瞳が目に映った。そのまま目の前の男士を見る。桃色の髪の毛が流れるように胸下まで降りていた。全体的に線が細く、儚げで一見戦闘には向かなそうな男だった。だが彼はそんな見た目とは反対に、戦場に出すと水のように冷たい瞳を喜びの色で輝かせる。
審神者に声を掛けてきたのは、小夜左文字の兄刀だった。流れる川のような、静かでどこか憂いを含んだ瞳に見つめられながら、女は困ったように口を噤む。
「あなた、今日の業務は忙しいのですか」
と、ほとんど興味のなさそうに宗三左文字が尋ねる。それに小さく首を振ると、男はほんのわずかに口角を上げた。
「では、問題ありませんね」
独り言のように呟きながら、さっと審神者の手を取り、ぐんぐん廊下を歩いて行ってしまう。突発的な彼の行動に疑問符を浮かべながら、おとなしく長い廊下を、ほとんど引きずられるようにしながら歩いた。

「僕たちの部屋へ、ようこそ」
と言いながら、少々乱暴に部屋に投げ込まれる。思わず畳に手を着きながら、ようこそと歓迎するふうを装いながらこの仕打ち、と思いつつ小さく睨みつけた。男のほうは、そんな審神者の様子には気にもとめずにどこ吹く風の表情をしている。
「主、どうしたの」
と、言いながら、奥から男の子が走り寄ってきた。水色の髪の毛を上のほうで結い上げている。予想外の来訪者に少々戸惑っている様子が感じられた。
「小夜、彼女と遊んであげなさい」
宗三左文字が気だるげに言う。その瞬間、弟の刀の瞳に喜びの色が広がった。感情を隠すように服の裾を握っている様子がなんだか可憐らしくて、審神者は思わずふわりと笑った。そんな二人の様子を眺めつつ、宗三左文字がぽつりと呟く。
「……あなたは、働きすぎなんですよ」
紡がれた言葉はため息と共に空気へ溶けていき、目の前で笑っている女には届かなかった。

「主命っていう程、大層なことはしていないよ」
と、先日の左文字兄弟とのやり取りを思い出しながら否定する。結局、小夜と遊んだ後、審神者からのお願いという形で、三人で柿を食べたのだった。柿は時期でとても美味しかった。兄の刀は審神者に対して平気で毒を吐くようなもの言いをしてきたが、男子たちに腫物扱いされている審神者にとっては、かえってそれが新鮮だった。普段は少々ネガティブ気味な小夜も、あの日は良く笑っていたと思う。
存外楽しい時間だったと、思い出し笑いしていると、鋭い視線を感じた。そちらに目を向けると、膝丸が黄色の瞳でじっとこちらを見つめている。その刺さるような視線に少々たじろいだ。
「俺に、してほしいことはないのか」
と少々食い気味に聞いてくる刀に、小さく唸り声を上げる。自分で大体のことはできてしまうので特にやってほしい事も無かったが、何か言わないと帰ってくれなそうだと感じた。うんうんと唸っていた審神者だったが、数分後、何かを思いついた様子でぱっと顔を上げた。
「書庫の整理をして欲しい」
「それは、業務として主の居ない間にやっておく」
と、ぴしゃりと跳ね返される。その勢いに少々押されながら、すぐに別の案を考えた。考えながら、勝負に勝ったほうがこのように頭を悩ませるとは、どういうことだろうと少々混乱した。
「……じゃあ、髭切さんを見つけてきて」
ふと頭に浮かんだ願いを言うと、目の前の男は小さく狼狽する。
「戦場に出るたびに探しているが、なかなか見つからなくてな。だが案ずるな。兄者は必ずこの本丸に来てくれる。俺も、最善を尽くそう」
と審神者を励ましつつ、他の案をと言われて再び頭を抱える。
「あー……。じゃあ、明日はお休みということで」
一応主命に含まれるのでは、と淡い期待を込めて目の前の男を見やると、ひどく冷たい瞳が目に入った。その冷たさにたじたじとしてしまう。
「休みなら、十分貰っている」
もっと使ってくれて構わない、と言われて、ぐぅと喉の奥から音が鳴った。早々に案が尽きてしまった。そもそも、改めてお願いしたいことも無いと気づいた。
「逆に、何かしたい事は無い?」
困り果てて、目の前の男に尋ねる。言いながら、なんだか本末転倒だなと思った。主人の言葉に、男は待ってましたとばかりに瞳を輝かせる。
「主と、万屋に行きたい」
少々前のめりになりながら、膝丸が告げる。期待で黄色い瞳が揺れていた。さらに、何かをこらえるように、黒い手袋に包まれた手をぎゅうと握りしめている。
「……私と、デートしたいってこと?」
と、審神者はどこか誘うような、又は茶化すような調子で言う。
「勘違いするな! に、荷物持ちとしてだ!」
勢いよく否定しながら、慌てふためく男を横目で見つつ、冗談だよと笑った。

大きな姿身の前ではしゃいでいる二振りの刀剣男士を眺めながら、今の自分は、まるで着せ替え人形のようだと思った。足元に目を向けると、色とりどりの着物が畳の上に散らばっている。その乱雑な様子に、小さく苦笑してしまう。つい先ほどまでは歌仙まで来て、着物の色やら柄を決めていたのだが、途中で内番があるからと、名残惜しそうに部屋を後にしていった。帯留めはどれがいいか、とはしゃいでいる者たちを見下ろしながら、審神者がぽつりと呟く。
「こんなに飾らなくても、いい、」
「なに寝ぼけたこと言っているの主さん!」
言葉の途中でかぶせ気味に言われて、びっくりしてしまう。ちらりと声の主に目をやると、拳を握りしめて力説する乱藤四郎が目に入る。とても可愛い女の子のような容姿をしているが、彼も普段は戦場を掛ける刀剣男士なのだった。
「せっかくのデートなのにいつもと同じ巫女服じゃつまらないでしょ!」
「そんなんじゃないよ」
興奮している彼には悪いが、やんわりと否定しておいた。これから行くのは万屋で、用事は単なる備品の買い出しだった。女の冷めたような言葉に、乱藤四郎は不満げに頬を膨らませる。その可愛らしく膨らんだ頬を見ながら、審神者は小さく肩を竦めた。
「いきなり気合い入れて行ったら、相手もびっくりしちゃうよ」
また、“粧し込んで”などと冷たく言われたら正直傷つく、と思いつつ溜息を小さく吐く。
「じゃあ、膝丸とじゃなくて、俺とお出かけしようよ」
と、いつの間にか近くに来ていた加州が耳元で誘うように言う。そのまま流れるような手つきで髪の毛をまとめだした。肌の上をすべる櫛と、髪を梳く指の感触が気持ちよくて、とろりと目を瞑る。その言葉に、短刀の男の子が、ずるい! と反抗した。加州のお誘いはとても魅力的に耳に響いて心が揺らいだが、既のところで小さく首を振る。正直、加州と乱と万屋に言ったほうがずっと気が楽だと思った。胸の下で小さく煌めく、跳ね兎の形をした帯留めを指先で弄りながら、今日何度目かわからない溜息を吐いた。

数時間後、長屋門の脇にある大木のふもとで、審神者は地面を見つめていた。太い根が、途中から地面へと深く突き刺さるようにめり込んでいる。そのまま根元から、螺旋を描くように視線を移動させると、太い幹が目に入った。自分が腕をいっぱいに広げても、とても回りきらない大きさだった。このような大木の幹に耳を当てると、中を通る水の音――木の呼吸のような音が聞こえるという。ふと思い出したそれを試してみたい気持ちがむくむくと沸き起こったが、せっかく加州と乱が着付けてくれた着物が汚れるといけないので、実行に移すのは止めておいた。

そのままぼんやりと外の景色を眺めていると、不意に玉砂利を踏みしめる音が聞こえた。じゃり、と石と石が擦りあわされる音が、歩く歩幅のリズムでこちらに近づいてくる。思わず目の前の大木を睨みつけた。そして、奇跡が起きて足音が自室に戻ってくれないかとさえ思った。だが、そんな願いも空しく、音が自分の数メートル手前で止まり、やっと審神者は視線を大木から移動させたのだった。
「待たせて、すまなかった」
声のしたほうに視線を合わせると、ひどく穏やかな顔をした男が居た。きっちりと着こまれた戦装束に、首元に以前渡した紅いマフラーを巻いている。
「とても、綺麗だ」
僅かに口角を上げながら言われた言葉に、顔に熱が集まるのを感じた。着付けを手伝ってくれた二振りには後でうんとお礼をしないといけない。どきどきと早鐘を打つ心臓の鼓動に気付かないふりをして、長屋門に左の手の平をかざすと、ぎぎぎという音を立てながら、両開きの扉が開いて行った。

万屋までの小道を歩く。周りの風景を見渡しながら、情景にどこか現代の京都のような趣を感じた。石畳を慣れない下駄で歩きながら、この街並みの中だと、確かに着物も風情があっていいかもしれないとぼんやり考える。視線を緩く前に向けると、商店の街並が見えた。小物屋、団子屋、生活用品を売っている店などが連なっている。建物の作りはどこもこぢんまりとしていて、どれもこれもみな二階建てなのだった。黒い梁と朱色の提灯の対比が綺麗だと思いながら、まるで散歩をしているかのように、ゆるゆると歩く。
ふと隣を見やると、緊張で表情を硬くした男が見えた。その表情に、そういえば今日は一人ではなかったのだと、はっとする。一人で万屋に来ることが多かったのと、本丸を出てからほとんど膝丸はしゃべらなくなってしまったので、若干存在を忘れてしまっていた。小さく反省しつつ話題を考えていると、不意に声を掛けられた。
「その着物は、誰かが見立ててくれたのか」
静かに前を向いたまま、男が問いかける。その言葉に、小さく頷いた。
「せっかく膝丸と出かけるのに、いつもと同じ巫女服だと味気ないかなって」
と、今朝に短刀から言われた言葉をそのまま返すと、隣から呻き声に似た音が聞こえた。その獣の呻き声のような音に不審に思って顔を上げると、真っ赤な顔をして口元を手で押さえている男がいた。
「俺の、ために」
自分の表情を隠すように、口元を黒い手袋で包まれた手で押さえている男を見ながら、審神者は小さく笑った。男は必死に感情を押し殺しているようだったが、審神者には花びらの形で彼の心の高鳴りが見えるのだった。

買い出しのメモを見ながら、審神者と膝丸はお店を回っていく。さくさくとお店を巡ると、意外に早く買い出しが終わってしまった。審神者は、本人は自覚していないが、比較的仕事ができるほうだった。なので、自然と用事も淡々とこなしていってしまう。最後に燭台切から頼まれていた調味料を購入し、女は満足げに息をついた。
「やっと、全部買えたね」
笑いかける女を見ながら、膝丸は内心焦っていた。せっかく手に入れた二人だけの時間がもうすぐ終わってしまう。しかも予想よりだいぶ早くに。
「荷物持ちに付き合ってもらって、ごめんね」
申し訳なさそうに眉を下げながら、審神者は横に佇む男に小さく謝罪する。うまく言葉を返せない男の様子にはまるで気付かずに、女は帰り道のほうへとくるりと足を向けてしまった。静かな背中を見た途端、名残惜しさと、まだ帰りたくないという気持ちが男の心に沸き起こった。その衝動のまま、目の前の陶器のように白い手を取る。黒い手袋越しに女の柔らかさを感じた。
「少し、休んでいかないか」
必死に言葉を紡ぎながら、目に入った甘味屋を横目に見つつ誘う。心臓が内側から煩く響いていた。瞳を一つ瞬かせてから、審神者がふわりと笑う。その笑顔を見て、膝丸は気付かれないように安堵のため息をついた。

「ほんとに、お茶だけでいいの」
と、訝し気に審神者が向かいの男に聞いた。その言葉に、彼は気まずそうに頷く。膝丸は正直、甘いものを食べたいわけではなかった。背を向けて歩き出した女を必死に引き留めようとした所に、たまたま甘味屋が目に入ったので、それを口実に使っただけなのだった。お茶だけを頼んだ男に対して、女は抹茶パフェを頼んでいた。ここの抹茶パフェは有名で、ここへは以前加州とも来たことがあった。その時は、二人であまりの美味しさに歓声を上げ、しまいには写真まで取った。その時の写真はひそかに待ち受けにしている。
つるんと丸い白玉を口に運びながらふと前を見ると、ひどくとろとろとした表情の男の顔があった。黄色い瞳が幸福に縁どられている。それに少々たじろぎながら、なに、と小さく問いかける。
「君は、とても幸せそうに甘味を口にする。俺は、それを見るのが好きなのだ」
と言いながら、じっとこちらを見つめてくる男に、動揺を隠すようにあいまいに笑っておいた。そんな話を聞くと、途端に食べづらくなってしまう。
「……良かったら、食べる?」
気まずさに耐えかねて目の前の男に言葉を掛けた。徐にアイスクリームと白玉を銀のスプーンですくって、相手の口元へと運ぶ。黄色の瞳が大きく見開かれて、みるみる顔が赤くなっていく。硬直してしまった相手の姿を見て、不快だっただろうかと少しだけ後悔の気持ちが襲った。
「……嫌だったら、大丈夫、」
言い終わらないうちに、ぱくり、と男がスプーンの先を飲み込んだ。つるんとした白玉と滑らかな抹茶アイスが赤い口の向こうへと消えていく。審神者はあっけにとられながらそれを見ていた。男はそのまま、味わうように、もぐもぐと咀嚼する。
「今まで食べてきた、どの甘味よりも美味い」
と、口元を手で隠しながら膝丸が言う。その言葉に、今度は審神者が赤くなった。

「人と言うのは、勝手なものだよね」
ゆったりと腰に下げている刀の柄に手をやりながら、目の前の男が言う。象牙色の髪の毛が光を受けて柔らかそうに揺れていた。射抜くようにこちらを見据える瞳は、兄弟というだけあって、弟と瓜二つだった。花の密のような、琥珀の石のような透明な色の向こう側に、氷のような冷たさが透けている。それは、諦めや侮蔑の感情だった。初対面の男に、どうしてこのような視線を向けられないといけないのだろう、と思いつつ審神者は狐の面の下で小さく下唇を噛む。そのまま戦闘を始める前の動物のように、目の前の男と睨み合っていた。女は、暫し身を固くしていたが、自制するかのように小さく息をついた。そして、諦めたように脱力すると、ひどく怠慢な動きで顔を隠している狐の面に手を掛ける。ゆっくりと焦らすように面を外す白い指先を、男は心底楽しい見世物を眺めるような笑顔で見つめていた。

審神者は、机の上に広げられた紅い文を、ほとんど睨みつけるように眺めていた。普通、手紙というのは白い便箋が一般的だが、机に置かれたそれは血のように真っ赤だった。焦げ茶色の瞳が、黒い墨で書かれた文字を目で追う。筆で書かれているせいか、ところどころ強弱が付いたそれは、どこかホラー映画のキャッチコピーを連想させた。ミルクティー色の髪の毛を緩く耳にかけながら、女は小さく唸り声を上げる。
「なんか、おどろおどろしい文だね」
と、加州がポツリと呟いた。反対側から机の上の文を興味深々と言った様子で覗き込んでいる。
「政府が、刀剣男子を一振りくれるんだって」
優良本丸に認定されたから、と特に興味もなさそうに審神者が答える。言いながら、見たくないとばかりに、文を指の先で机の脇に押しやった。それを赤く綺麗に塗られた指先が摘まむ。
「ふーん。……本当だ。刀剣男士を一振り贈与って書いてある」
良かったじゃん、と加州清光は無邪気に笑いながら言う。自分の主人が認められるのは、喜ばしい事だと思った。
「だって、政府の刀だよ」
と、小さく眉を寄せながら呟く。自身の担当のへらへらとした顔が思い浮かんだ。未だに自身の霊力の件は報告していないので、政府の間では霊力の低い駄目審神者と言われていた。その為、呼び出された際には、面談の後に担当からぶちぶちと嫌味を言われている。
「まぁ、でも。まだ呼び出せていない刀もいるし」
加州清光が遠慮がちに言う。それに、ある一振りの刀が浮かんだ。琥珀色の揺らめきを思い出す。戦場に赴く度に、今日も兄を見つけられなかったと肩を落として帰ってくる姿を見て、そのたびに二人は心を痛めていたのだった。二振一具と言うだけあって、弟刀は兄を心待ちにしている。そこまで考えると、審神者は心の中で小さく喚いているプライドに蓋をした。
よし! と自身を鼓舞するように言うと、机の上に置いてあるペンを取る。気合を入れるように腕まくりをしつつ、返信用の文に文字を連ねていった。机の向こうから、加州が文を覗き込み、そこに書かれている文字を確認すると、同意するように頷いた。

数日後、本丸に政府から刀が届いた。執務室の畳の上で、加州と一緒に細長い箱を覗き込む。それは1メートル程度の桐箱だった。箱のちょうど真ん中あたりで、まるで封印するかのように赤色の紐が巻かれている。紐の端を掴みながら、顔を突き合わせるような場所にいる紅の瞳を見つめた。加州清光は、元気づけるように大きく頷いてくれる。それに後押しされるように、審神者は一気に紐を引き抜いた。
現れた刀を見て、二人は感嘆の声を上げた。そこに収められていたのは、どっしりとした重厚な太刀だった。審神者は、鼈甲のように滑らかな鞘に遠慮がちに触れ、ゆっくりと箱から取り出した。鞘から30cm程抜刀してみると、刀身が光に反射してきらりと光る。峰と刃までの境目が滑らかで、白い光を放っているような錯覚を覚えた。
「……知性と品の良さを感じるね」
独り言のように呟きながら、刀身を鞘に納めると、静かに胸に抱え込んだ。箱にしまう時間も惜しくて、そのままの状態でゆるく立ち上がる。
「膝丸を、鍛刀部屋に呼んでもらえるかな」
同じく立ち上がりつつ伸びをしている加州清光にお願いすると、にこりと笑いながら了承してくれた。それに小さくお礼を言うと、審神者は軽い足取りで、障子の向こうへと消えていく。

加州に連れられながら鍛刀部屋まで来た膝丸は、困惑した様子で土の床を踏みしめた。奥にいる審神者と、彼女の胸元に抱かれている刀を肉眼に収めると、瞳をこれでもかと言う程大きく見開く。
「兄者!」
と大きく声を上げながら、審神者の元まで走る。近い所で改めて確認してみると、見間違いでは無いと実感したようだった。疑惑が確信に変わり、瞳の端にじわりと涙が滲む。
「泣くほど喜んでもらえたようで、良かった」
審神者は小さく笑いながら、目の前の男に声を掛けた。その言葉に膝丸は、とめどなく桜の花びらを舞わせながら、泣いてはいないと説得力のない顔で否定をする。
そんな膝丸の様子を呆れたように見やりながら、加州は審神者の後ろに回り込んで、審神者の顔に狐の面を付けた。鳴き狐の面とは逆の、目から鼻までを隠すような作りだった。
「なぜ、そのような面をつけるのだ」
と、疑問をそのまま口にした膝丸に、審神者は小さく肩を竦めた。
「この面も勾玉と一緒で、霊力を押さえてくれるんだ。いきなり霊力を沢山注いでしまったら、びっくりしてしまうと思うから」
加減が難しいんだよねぇ、と言いながら、胸元に抱いていた刀を地面と平行に掲げる。
「じゃあ、行きます」
小さく呟きながら、審神者はゆっくり目を閉じた。途端にあたりが静寂につつまれる。瞳の奥の暗闇の向こう側に、金色の糸のようなものが見えた。審神者はそれをしっかりと掴むと、自分の霊力を慎重に注ぎ込んだ。
その瞬間、どこからともなく桜の花びらが舞いあがり、何もない空間から一人の男が姿を現した。静かに地面に降り立つと、閉じていた瞳をゆっくりと開く。弟刀とそっくりな瞳の色だった。見るからに柔らかそうな象牙色の髪の毛が一瞬だけふわりと揺れる。その神秘的な顕現に、審神者は一瞬、息をするのを忘れてしまった。
「やぁ。弟は、もう来ているんだね」
と、のんびりとした様子で髭切が言った。口元に僅かに笑みをたたえている。膝丸は感嘆の声を上げなから兄に近づくと、思わず両手を掴んでいた。膝丸は彼の手を握りながら、やっと兄に会えた喜びを全身で表現している。桜の花びらが空を舞っているのを、審神者は眩しそうな様子で眺めていた。
「君が、今生の主なの」
と、ひとしきり弟との再会を果たして、落ち着いた様子の髭切が声を掛けた。審神者はそれに肯定の言葉を返す。そして、顕現した際に言う定型句を述べた。それに髭切は、素直に頷く。
「では、膝丸は髭切に本丸を案内して。加州は、その間に部屋に必要なものを準備してもらえる」
と、審神者が淡々と指示を出した。あとは彼らに任せようと、くるりと踵を返す。瞬間、背後から声を掛けられる。
「……それは、ないんじゃない」
どこか、棘を含んだようなもの言いに、少々動揺しながらゆっくり振り向いた。弟にそっくりな琥珀色の静かな瞳が、静かに審神者を見つめている。
「主が、僕をここへ呼んだんでしょう。だったら、君が本丸を案内するのが筋じゃないの?」
膝丸が兄者、と小さく制するように言ったのが聞こえた。髭切は、そんな弟の制止を無視して言葉を続ける。
「第一、その面も気に食わないなぁ。“人と話すときは、相手の目を見る”って、子供の時に教わらなかった? ……こんな教養のない子供が主だなんて」
物は持ち主を選べないからね、と髭切が少々馬鹿にしたように言葉を続けた。途端に、先ほどの和やかな空気が一掃されて、気温が氷点下まで下がったのを感じた。加州が、驚きで紅い瞳を大きく見開いている。そのまま小さく、信じられないと呟いた。近侍の呟きを聞きながら、審神者はほとんど同じ気持ちだ、と思った。
言われた言葉を咀嚼しながら、しかしこうなることは予測できていた、と審神者は思った。自分の事を良く思っていない政府が投げて寄こした刀だ。きっと、順調とはいかないと予想していた。
しばらく無言で睨み合っていた。先入観かもしれないが、相手の瞳には諦めや侮蔑の色が見えているような気がする。静かにその色と向き合いながら、審神者は言われた事を反芻する。刀のように鋭い言葉に動揺もしたし、若干苛立ちを感じたが、言っていることは間違っていないとも感じた。そう思い立つと、諦めたように小さく息をつき、面に手を掛ける。
ふわりと明るい色の髪の毛が揺れて、審神者は自身の顔を相手にさらした。それに髭切が満足そうな表情を見せる。
「では此方へ」
先ほどのやり取りなど無かったかのように、扉に向かって足を進める。その後ろを、まるで散歩をするかのように、ゆったりとした足取りで刀が着いて行った。少々緊張で固くなっている女の背中と、それを追う男の背中が扉の向こうに消えていく。それを茫然と見やりながら、置いて行かれた加州と膝丸がお互いの顔を見合わせた。
「あんたのお兄さん、いい度胸しているね」
と、加州が呟くと、膝丸は困ったように眉を下げた。

冬の晴れた午後。審神者は本丸の廊下を歩いていた。前日に雪が降っていたようで、一面が銀世界となっていた。庭の赤い椿の上にも、雪が綿あめのようにふんわりと積もっている。その赤と白のコントラストに目を細める。息を深く吸うと、肺を切るような冷たい空気が体をめぐるのを感じた。審神者は季節の中で、冬が一番好きだった。雪が降った後に世界が白く染まるのも神秘的だし、雪が雑音を吸い込んでしまうのか、比較的静かなのも心地よく感じる。
外の景色に心を奪われていたが、不意に足先から伝わる冷気に身震いをした。木の廊下が、信じられないくらい冷たくなっている。早く用事を済ませて温かい執務室に戻ろうと、ゆっくりとした足取りを早足に変える。
廊下を小走りしつつ、曲がり角を横切ると、視線の先に人影が現れた。それに驚いて、彼女の口から小さく悲鳴が上がる。
目に入ったのは、最近顕現した刀だった。
象牙色の髪の毛が、太陽の光を吸い込んだような色をたたえながら、時折吹く風にあわせて揺れている。彼は硬い縁側の上で、長い脚を投げ出すように座っていた。真っ直ぐに前を向いているのだが、その横顔は、庭の椿の花を見ているようにも、その向こうに浮かぶ冬の空を見ているようにも見える。既視感の掴めない、透明な横顔。審神者はそれに、しばし心を奪われた。
「そんなに見つめられたら、穴があいてしまうよ」
不意に、視線の先にいた人物が声を上げた。その言葉に、審神者はバツが悪く感じ、誤魔化すように髪を耳に掛けた。そして、逃げ出したくなる心を奮い立たせながら、硬い廊下へと脚を一歩進める。
重い足取りだったが、遂に隣までたどり着くと、無言でそのままストンと腰を降ろした。そんな審神者の行動には気にも止めずに、男は相変わらずぼんやりと前を向いている。審神者はちらりと男に目をやったが、同じように前を向いた。
どうしてこんなところにいるの、とか、頼んでいた内番はどうしたの、とか。聞きたいことはいくつか浮かんだが、それを言葉にすることはあえてしなかった。とりとめもない言葉たちが、心の中で浮かんでは消えていく。
少しの間そうしていたが、不意に隣の男が口を開いた。
「弟は偉いよねぇ。こんな寒い日に、文句も言わずに馬の世話をするのだもの」
主もそう思うでしょう、と言葉が続く。思わず相手へと視線を向けると、とても柔らかい表情をしていた。審神者は、それには答えずに小さく口を開く。
「……髭切。体調が、悪いのですか」
男が初めて此方を向いた。弟とそっくりな瞳を、驚きで大きく見開いている。いつも穏やかで薄く笑っていることが多い彼の、このような表情は珍しいと感じた。
「弟ですら気付かなかったのに」
参ったね、と言いながら、男は徐に立て膝をつくとその上に頭をのせる。
「……ずっと前から、頭が、割れるように痛いんだ」
1つずつ噛み締めるように言いながら、辛そうに目を閉じた。それを聞くと、審神者は小さく頷きながら、静かに自身の右手を相手のこめかみに当てた。そして、そのまま軽く押す。手入れをするときの要領で、少しずつ霊力を流し込むと、相手の眉間の皺が途端に緩まるのが見えた。薄く開いた口から、思わずという風にため息が漏れる。その声色が、苦痛とは反対のものだったので、審神者は小さく胸をなでおろした。
そのままの状態でいると、一瞬、彼の肩の辺りに、黒い煙のようなものが揺らいだのが見えた。すぐに消えてしまったそれを、審神者は見逃さなかった。茶色の瞳を細めると、一度右手を離した後、躊躇いがちにそこへ手を伸ばす。
女が不意に肩に手を置いたので、髭切はびくりと体を震わせた。何をするのだろう、と興味本意で触れられている部分に神経を集中させていると、徐に手に力を込められるのがわかった。
同時に、彼の口から小さく呻き声が漏れる。審神者が、強すぎず弱すぎない力で肩を指圧したのだった。男がちらりと視線を向けると、女が思いの外真剣な表情をしていたので、小さく笑ってしまう。審神者は髭切の様子には目もくれずに、まるで、小さな子供がお年寄りの肩を揉むように、一生懸命に手を動かしている。
その様子を微笑ましく思いながら、髭切はされるがままでいた。知らないうちに肩が凝っていたのだろうか。特に苦しい所を押されると、一瞬息が詰まるように感じたが、後からじんわりと気持ちよさが沸き起こる。凝り固まった何かが解されていくのと同時に、触れられた部分から、滲みでるような霊力を感じた。時折、彼女の手から何か暖かいものが染み込んでくるような錯覚が襲う。それに身を任せるように、髭切は瞳を閉じた。
不意に刺激が止んで、手が離れていくのを感じた。それに名残惜しさを感じて、思わず縋るような視線を向けると、明るい茶色の瞳と目があった。
「指先が、とても冷たくて」
はにかむように言いながら、両手をこすり合わせている。よく見てみると、審神者は防寒着などを着ておらず、身に着けているのは巫女服だけだった。瞬間、彼女は何か用事があってここを通っただけで、長時間このような縁側にいるつもりではなかったのだと悟った。途端に、髭切の心に罪悪感が沸き起こる。
彼女の手は血色を無くして、まるで白い陶器のようだった。それがひどく儚く思えて、思わず両手で彼女の手を包むと、男は何かを思い立ったような顔をした。
「祓ってくれたんだね」
髭切はにこりと微笑んだ。体が驚くほど軽くなっている。先程まで肩に何かが乗っているように重かったが、それが綺麗さっぱり無くなっていた。知らない内に淀んでしまっていたようだったが、目の前の女が綺麗さっぱり一掃してくれたようだ。しかも、肩もみという斬新なやり方で。
「こんな方法で、清められたのは初めてだよ」
髭切は、ありがとうとお礼を言った。それに審神者は、頬を少しだけ染めながら下を向く。じゃあこれで、と言いながら未練もなく立ち上がる女を見た途端、髭切は焦りに似た何かが心に沸き起こるのを感じた。
「良かったら、僕たちの部屋においでよ」
目の前に力なく垂れている白い手を握りしめながら、髭切が言った。審神者は一瞬きょとんとした顔を浮かべていたが、特に断る理由もなく、流されるままに頷く。髭切は、彼女の反応に安堵している自分自身を、どこか滑稽に感じた。

「おじゃま、します」
小さく呟きながら、審神者は室内へと一歩脚を踏み入れた。この部屋に入るのはこれで二回目だった。前回は、生活感がほとんどないような空っぽの部屋だったが、今は若干、物が増えていた。
促されるままに座布団の上に座ると、部屋の主は胡座をかきながら、にこにこと此方を見ている。不躾な視線に、どこか落ち着かない気持ちで円窓の向こうの外を見やると、緩やかに声をかけられた。
「ねぇ、僕疲れちゃった」
そのまま、悪いけど寝てもいい? と聞かれる。審神者はそれに、小さく頷いた。どうして自分を部屋に呼んだのだろう、と疑問符が頭に浮かぶ。
相手は女が肯定したのに満足し、にこりと微笑むと、ゆったりした動きで立ち上がる。そして、座布団の上で行儀よく正座している審神者の横に座ると、ごろりと横になった。畳の上でなく、審神者の膝の上に頭をのせる。
突発的な男の行動に、審神者はぎょっとしたように体を跳ねさせた。途端に男は不機嫌そうに眉を潜める。
「力を抜いておくれよ」
膝が硬い、とクレームが入った。それに審神者は困惑しながら従う。その素直な様子に、男は満足そうに口角を上げた。
「さっきのように触れていて」
言いたい事だけ言うと、静かに目を閉じてしまった。審神者は困惑しながらも、ゆっくりと手を伸ばす。膝の上に広がるクリーム色の髪の毛に白い手を乗せた。先程まで外にいたためか、男の髪の毛は冷気を吸い込んだようにヒヤリとしていた。
相手の顔が自分のお腹側を向いていたので、せめて反対側を向いていてくれたら、と審神者は思った。この体制は流石に恥ずかしい。そして、同時に逃げ出したいほどの気まずさも感じた。審神者にとって、顕現した時の彼の印象は最悪だったのだ。
「僕は、君の事を見誤っていたみたい」
聞こえるか聞こえないかくらいの声量で、ごめんね、と呟かれた。それに、審神者は瞳を大きくする。
「政府の人から、君の話を聞いていたんだ。えっと、彼の名前は、なんて言ったっけなぁ」
「覚えていなくて、いいですよ」
へらへらとした胡散臭い笑顔を思い出しながら審神者が答えた。それに男は、そう? と相槌をうつ。
「刀の扱いが酷いって聞いていたから。君の態度に、ついむきになって、噛みついちゃった」
独り言のように呟かれたが、審神者は黙って手を動かした。不意に沈黙が訪れる。
「ねぇ、何か君の話をしてよ。さっきから僕ばかりが喋ってる」
一人で喋って馬鹿みたいでしょう、と非難するように言葉が続かれる。審神者はそれに内心困りつつ、諦めたようにぽつぽつと話し出した。
現世の生活のことや、本丸の運営のこと。近侍と食べた美味しい物のこと。必死に話題を探しつつ、たどたどしく言葉を繋ぐ。
髭切はそれらに律儀に相槌を打っていた。数分後、審神者は不意に男の反応が無いことに気が付き、下を向くと綺麗な寝顔があった。
子どものような無防備な顔に、ふっと小さく笑う。気が付くと日が傾いていて、夕方に差し掛かろうとしていた。西日が円窓から差し込んできて、眩しさに目を細める。
目の前の柔い髪に手を差し入れながら、きっと眠りこけている男は、起きたときには自分の話など忘れているだろう、と思った。自分の弟の名前さえ忘れてしまうのだ。そう思うと、ひどく安心した心地になった。
スポットライトのように差し込んでくるオレンジ色と、空間に舞うホコリが、時折外の光を反射するのをぼんやりと眺めていた。――すると、遠くのほうで自分を呼ぶ声が聞こえた。
はっとして、辺りを見回す。部屋の中は静寂に包まれていた。幻聴だったようだ。瞬間、審神者は、孤独感が波のように襲ってくるのを感じた。熱に浮かされたようにぼうっとした表情で、女は言葉を紡いだ。

「……初期刀の加州清光は、とても強くて優しい刀だった。私は清光を、一番信頼していた」
既視感の掴めない瞳で、目の前の柔く揺れる西日を見つめながら、言葉を繋げる。
「彼は、私の髪を括るのが得意だった。いつも、綺麗な黒髪だって誉めてくれて、私は彼が髪の毛に触れながら頭を撫でてくれるのが好きだった」
ゆっくりと手の動きを再開する。男の髪の毛は、ほとんど白に近いほどのクリーム色で、猫の毛のように柔らかった。それは自分の髪とも、記憶の中の彼とも、大分違って心の中で安心する。
「次の誉れをとったら何が欲しいかと聞いたら、清光は”主と海が見たい”って言ったんだ」
可笑しいでしょう? と女は小さく笑った。刀は皆、本能的に水や塩を恐れているものが多かった。お風呂さえ、顕現したばかりの刀は嫌がる者が多い。
「でも、その約束が、果たされることは無かった。……一緒に行こうねって、言ったのに」
掠れた声で呟くと、頬に冷たい感触があった。それを指ですくいとり、目の前で確認すると審神者は静かに下唇を噛み締めた。自分には泣く資格なんて無いと思ったが、後から後から溢れてくる滴を止める方法を、彼女は知らなかった。まるで時が止まったような部屋の中で、声を殺して審神者は泣き続けた。