模造刀を抱えながら廊下を歩く。いまにも雨が降り出しそうな灰色の雲が空をおおっていた。黒い刀を抱えなおし、横目に庭を眺める。あいもかわらず見事な庭園に、ほんの少しだけ心に影がさした。だけどその理由がいまいち自分でも分からず、憂鬱な気持ちを振り切るように足を前へ前へと出す。知らずに早歩きになっていた。今日はほとんどの男士が出陣しているので、本丸はいつもより静かだ。まがいものの刀など抱えている姿を誰かに見られでもしたら、とても面倒なことになる。早く、早く戻らないと――追い立てられるように急ぎ足で角を曲がったとき、前から予想外の衝撃がきた。
うっ、という呻き声。前をよく見ていなかったから、向こうから歩いてきた人に勢いよくぶつかってしまった。抱えていた刀の柄が相手のちょうどみぞうちに深く入りこんだみたいで、苦しそうに胸に手をあてている。
柔らかそうな髪の毛が目にはいり、今度は自分の口からうめき声がでた。
「なんだい、その声は」
先に謝るべきではないのかと諌められ、それはそうだとあわてて謝罪した。体制を立て直した男があらためて向き直る。自分の口が引き絞られていくのがわかった。
ぶつかったのは、よりによって歌仙兼定だった。彼は初期のころからいる刀だけれど、いまはほとんど接する機会はなく、顔をあわせるのも久しぶりだ。ここにいる男士のほとんどがそうだけれど、たまにこうして会えば、今日は本丸にいたのかとめずしそうな顔をされる。気まずくて仕方がない。
男の視線が胸元にいき、腕にしっかりと抱えられた黒い刀まですとんと落ちる。みるみるうちに眉間に皺がよって空気がかたくなった。誤魔化すのも面倒なので、重い口をひらく。
「手入れの練習をしようと思って。あんまりやってないと忘れてしまいそうだから」
本丸にほとんどいないので札任せにしてしまうことが多いのだが、思い立って蔵から刀を持ってきた。仕事がひと段落して、ふと不安が胸に過ったのだ。ずいぶん手入れをしていない。やり方を忘れてしまったのではないか、と。
最悪、手入れ部屋に押し込んで休んでもらえばゆっくりだけど回復するし、道具を使えばさらに時間を短縮できる。しかしそんな事情はさておき、出来るのにやらないのと、そもそも出来なくて札に頼るのは、結果が同じでも意味あいが変わる気がした。そう思うと居てもたってもいられず、足は蔵へと向かった。
誰かの本体を借りることも一応は考えた。なにせここには刀が沢山あるのだから。
気軽に頼める人を思い浮かべようとした段階で、思考が行き止まりになった。加州は部隊長として戦場に行っているし、光忠も同じだ。そこまで考えて、声をかけられる刀がたった二振りしか思いつかないという事実に直面し、愕然とする。
「みんな忙しいから。練習だしこれで平気。失礼します」
沈黙に耐え切れなくて、めずらしく弁解じみたことを口にする。客観的にみても失礼な態度だと思ったけれど、すぐにこの場を離れたかったから、早口で会話を終わらせ、横を通り過ぎようとした。
「待ちなさい」
まちません――と心の中で返事をし、若干かがみながら猫のように隙間をすり抜けようとする。が、歌仙は見逃さなかった。胴に手が回る。行く先をはばまれ、抗議の意味をこめて睨みつけるが、相手は静かに瞬きするのみだ。
「忘れているのかもしれないけれど」
ゆったりと刀に触れて、少しだけ腰を前にだす。これみよがしに見せつけてくるので苛々とした。
言いたいことはよく分かる。本体を使ったほうが、ずっと効率がいいことも知っている。だけど、もっと感情的な部分が邪魔をして、鞍からわざわざ刀を持ってきたのだ。
「存じています、でも」
「では話は早いね」
面倒な流れになった。誰と出会っても、こうなることはなんとなく予想できていたので、あえて人の通らなそうな道を選んでいたのに。
「練習だし模造刀でいいです。せっかくの休みなんだから、自分の好きなことをしてください」
「本番と同じ状態でやったほうが身になるよ、きっと」
さぁ行こう、とろくに返事も聞かず歌仙は前に足を踏み出す。言葉の後半はばっさりと無視をされた。こんなに強引な人だっただろうか。
足がぬいつけられたように動こうとしない。心が重いのだ。音がしないことに気が付いた男が、廊下の先で振り返り不思議そうに待っている。こうなったら仕方がない。諦めに似た気持ちでずっしりとした刀を抱えなおしてやっと、足を前にだした。
たどりついたのは歌仙の部屋ではなく、いつも仕事をしている執務室だった。男は部屋に入るなり驚いたように目を丸くして、「なにもないな」と感想を呟いた。
すでに机の上に用意していた手入れセットを手に取り、置いてあった座布団に座る。藍色の布を畳に敷き、そのうえに漆で塗られたトレイを置き、中に手入れ道具――打粉や、油。そして清潔な布など――を、順番に並べていった。黙々と手を動かしていると人の気配がしなくなったので、俯いていた顔をあげる。
なぜか歌仙がいなくなっていた。
たしかにさっきまでここにいたのに。気が変わったのだろうか。それならそれで都合がいいと、安堵しながら蔵から持ち出した刀を手に取る。本物よりずっと重く感じるのはどうしてだろう。これは審神者になるときに渡されたもので、神様は宿っていない。
そういえば、大包平の本体を持たせてもらったとき、予想よりずっと軽かったのでとても驚いた。人を斬るくらいの強度をほこりながら、同時に鋼を薄くするのは、魂を削るように難しいことらしい。そしてあの完璧な反り。美の結晶と自分でいうのにも納得する。
そこまで考えて、あいている席に目を向けた。
歌仙はやさしいと思うけれど、少しだけ口うるさい。手入れをするところを近くでまじまじと観察されたら緊張するし、何か少しでも手順を間違えば、作法がなっていないと怒られるに決まっている。
気が変わったならちょうどいい。さっきのやりとりは何かの間違いだったのだ。そう強引に結論付け、懐紙を唇で軽くはさみ、刀の柄を握りなおしたとき、微かな音が耳に届いた。
足音はどんどんと近づいてきて、やがて廊下の先でとまった。それには気が付いていないふりをして、刀を水平にかざし、かたほうの目をつぶりながら目ぐきの小さな穴をさがしていると、重いため息がふってきた。
「主」
しぶしぶ顔をあげたら、消えたと思った男がいた。手にはいつも身につけている外套が握られている。困惑したまま目を合わせると、歌仙は気まずそうに目をそらした。
「寒いかと思って、持ってきたんだ」
「別に。これくらいなら平気」
桜の季節は終わってしまった。五月は中途半端に暑くなったり、かと思えば、冬に戻ったのではというくらい寒くなる。気圧の変化も激しいので、ときどき頭痛に襲われたりもする。
今日は後者で、風がふくと肌寒い。
歌仙はしばらく外套を手に立ちすくんでいたけれど、かたくなに首をふると、諦めたように後ろの畳へと布を置いた。流れるような動きで隣のあいている座布団に座る。戦装束を身にまとっているけれど、防具は外されて身軽な恰好だ。
「私の間違いでなければ、今日、休みですよね」
道具が足りているかひとつひとつ確認しながら呟く。抜けはないようだった。
「あぁ……うん。でも心配することはないよ。正直、暇を持てあましていたんだ」
すっと目の前に刀がかざされる。手に持っていた模造刀を脇に置いて、とりあえず受け取ってみた。握ったときの印象がまるで違うので内心驚いてしまう。さっきまで自分が持っていたのは棒きれだったのではないのかと思うくらい、質感や重みが違った。
特徴すべきは鞘だ。深い碧に細かい模様が星のように散らばっている。角度を変えるときらきらと光った。
「きれい。夜をとじこめてしまったみたい」
思ったままの感想を口にしたら、妙な沈黙がおとずれてしまったので、不安になり隣を見る。歌仙はなんともいえない表情で目を閉じていた。頬が赤く、噛みしめるみたいに口をつぐんでいる。
ようすのおかしい男はひとまず無視をして、せっかくなので、手順をおさらいしてみることにした。作業に入る前に本体をかかげてから、かるく一礼をする。これは最初のころ、耳にたこができるくらいにいわれた所作だった。
横から痛いほどに視線を感じたけれど、教えられたことに忠実なだけなので、かまわず続ける。新しい懐紙を口にくわたとき、どこからともなく手が伸びてきて取りあげられた。不思議に思い視線だけで問うと、歌仙は気まずそうに目を逸らす。
「今回はいいんじゃないかな。主はあまり大きな声で話すほうではないし」
日本刀は水分が天敵で、手入れ中に唾液が飛ばないように口に懐紙を挟むのは基本だった。ひと一倍うるさそうなのに、どうしたのだろう。そこまで考えて、ある可能性が浮かんだ。
「もしかして、お話したいの?」
別に本気で聞いたわけではない。からかうような気持ちが大きかった。加州だったら、あったりまえじゃんと返してくれるし、光忠だったら、分かった? と余裕をもってこたえる。その場の雰囲気で言っただけなのに、歌仙は顔を赤くして反対のほうを向き、「だったら、どうなんだ」とふてくされたように吐き捨てた。
「べつに深い意味はないよ。なんとなく聞いただけ」
なんだか調子が狂うな。そんなことを思いながら刀を横にして目釘抜きを打つと、手の中で銃声のような音が鳴った。豆粒のようなそれを慎重に抜く。抜けた目釘は、なくしてしまわないようにしっかりと漆の入れ物にしまった。刀を鞘から抜くと、ぎらぎらとした中身が姿を現す。出てきたのは暗い色の鋼で、光を反射して目を焼いた。
「打刀のなかでも、片手で握れるほど実用的に作られていて、かつ殺傷能力が高いんだよね」
うろ覚えの知識を口にすると、黙っていた男が瞳を細くして補足してくれる。――そうなんだ。案外生臭い歴史もあってね――と、いつか聞いたことのある話を始める。多分、初期刀を選ぶときに既に政府から説明を受けたことだ。だけど水をさすことはせずに、曖昧に頷きながら、静かに手を動かす。
「――、ということなんだけど」
「うん」
刀を持つほうとは反対の手で、手首をとんとんと叩くと、剥き出しの刀身が手に残る。装飾のとれた鉄の塊に、拭い紙を手元から先まで軽くすべらせる。古い油が取りきれなかったので、ガーゼにアルコールを少しだけ染み込ませ、おなじ刀身をぬぐった。
もくもくとした作業は好きだ。集中しているとあっという間に時間がすぎていく。
「なんだか、僕ばかり喋っているね」
そんなことはないと、否定の意味を込めて首をふる。やっぱり手入れをするときに会話をするのは気が引けた。飛沫が飛んで刀身についたらと思うとぞっとする。作法とかどうとかの前に、私は潔癖症なのだ。
意識を刀から人へ戻しつつ、そっと横をうかがいみると、男は黙って胡坐をかきながら庭を眺めていた。静かな横顔だった。
昔から彼らに聞いてみたいことがあったことを思い出し、いい機会なのでたずねてみることにした。
「あの。手入れをされているときって、どんな感じですか? 痛いとか、ありますか」
純粋に興味があった。重症者は口がきけないし、こっちにもそんな余裕はない。けれど、軽傷のときに手入れをすると、彼らはじつにさまざまな反応をする。温泉に入ったときのように、なんともいえないうめき声を出す人もいれば、耐えるように体に力をこめる人もいる。肯定的な反応が多いけれど、もし、反対だったら――例えば下手くそで痛いとか――だったら、ほんとうに申し訳ないし、なんだか嫌だなと思った。
歌仙は少し考え込んでいるみたいに斜めうえを向く。ちゃんと言葉を探してくれているのだと、空気から伝わった。
「僕たちは物だけど、今は心があるから。刀を物と思っているきみは恐怖を感じるかもしれないけど……正直、とても癒されるよ。それに手入れをされると、なんとなく感情が伝わるんだ」
「なにそれ。心の中が読めるの?」
単純に怖いと思った。心の中を暴かれるみたいでぞっとする。手に持っていた刀を、遠ざけるようにそっと畳のうえに置くと、歌仙は焦ったように顔の前で手をふった。
「いや、ちがう! そういうわけではなくて……。感覚的なものだから、説明するのが難しいな。たとえば、相手が笑っていて、好きだと口にしていても、本心は違う場合、ちょっとした瞳の動きや身から発する空気で、心が分かってしまうことが、きみにもあるだろう?」
焦っているのか、とても早口だった。身振り手振りもおおきい。とっさに脳裏に浮かんだのは過去に付き合っていた男だった。その人は別の女性に気持ちが向いていたにもかかわらず、別れを決めることができずにいた。好きだと口にするときの熱や、抱きしめてもらうとき、ふとした瞬間に、相手の気持ちが前よりも離れていることを知った。
ふれている部分がどことなくひんやりとして、あぁ、もう終わりなのだと実感するのだ。
あのときの感覚はうまく説明できない。女の勘ともちがう。理由のない自信と焦燥感。あいまいな状態に耐えきれなくなって自分から別れを切り出すと、相手はほっとしたように頷いた。
「言いたいこと、なんとなくわかるよ。すきとか、きらいとか、簡単に口にできるけど、実際はむずかしい。私はうわべの言葉は信じないし、ぜったい言わない」
苦い思い出がそうさせたのか、ぺらぺらと喋りすぎてしまった。何を急に話し始めるのだろう、変なやつだと思われたに違いない。あまり本心を打ち明けるのは嫌なので、言ったあとにすぐ後悔した。
気まずい空気が流れる。うえのほうをみていた歌仙は迷ったようなそぶりをみせたあと、ぽつりと呟いた。
「これはまた、全く別の話になってしまうのだけれど。上手な人が手入れをすると、ものすごく眠くなるんだ」
興味のそそられる内容だった。少なくとも、昔の男の浮気騒動を一時的に忘れるくらいには。
ほんとう? と、瞳だけでたずねる。彼は目を細めて、本当さ、とこたえた。
そういえば。手入れをするとき、多くの男士は途中から眠ってしまう。戦って疲れているのかと思っていたけれど、なかには抗おうとする人もいて、でも途中でかならず、麻酔をかけられた人みたいに目がうらがえる。あれは近くで見ていると少し怖かったけれど、急激な眠気に逆らえなかったのかもしれない。
好奇心がむくむくと浮かんで、とある提案をすることにした。白衣を口元にあてたまま話すと声がくぐもってしまうので、内緒話をするときのように、そっと身をよせる。相手もわずかに体をよせてくれた。
「勝負をしよう。いまから、気持ちをこめながら丁寧に手入れをするから、それで眠ってしまったら歌仙の負け。起きていられたら、あなたの勝ち」
「僕が勝ったら、どうする?」
いたずらっ子のような無邪気さで男はたずねる。そこまで考えていなかった。暫く思案したあと、結局無難な答え――ひとつだけ、なんでもお願いを叶えてあげる、と言った。好きなものを買ってもいいし、本丸の運営で、こうしてほしいなど不満があったらすぐに反映すると続けると、男は納得したのか、笑顔で了承した。
「僕は負けないよ」
歌仙は自身満々に言ってのけ、始まる前から勝ち誇ったような顔をしている。にやりとあがった口角を目にし、静かな闘志に火がついた。
こっちこそ、絶対に負けない。そう心に決めて刀をにぎる。
「じゃあ、はじめるね」
歌仙は余裕しゃくしゃくで「やってごらん」と言ってのける。心をかき乱されそうになったけれど、集中するために一度深呼吸した。
手入れは慣れると数分で終わってしまう。古い汚れを取り、内粉を叩き、油をのせる。実に単純な作業だ。
薄く揉んだ紙を軽い力ですべらせる。柄の部分から先端まで、ゆっくりと丁寧に。古い油が取れたのか、布が通ったあとはいっそう輝きが増した。手を切っ先から逃がすと、男がため息をつく。
「あぁ、いいね」
やわらかな声色に気をよくして、内粉を手に取る。棒の先端、丸い布で包まれた内部には、細かい砥石の粒子が入っている。この工程がいちばんすきだった。手入れをしている、という気持ちになる。ごくごく軽く、ぽんぽんと鉄の表面にうちつけていく。この工程に入った瞬間、男はぐっと拳をにぎった。
集中力はあるほうだった。無心で手を動かしていると、がくっと横で影が動いた。驚きで手が止まってしまう。視線を向けると、男が畳に両手をついて唇を噛み締めていた。目はきつく閉じられている。眠ってしまいたくて辛いのかもしれない。道具を箱にもどして、耳元で悪魔の囁きを落とした。
「楽になろうよ」
急に話しかけられて、男ははっとしたように意識を浮上させた。僅かに目元に力がこもる。
「全っ然、眠くなんてないね。こう言ってはなんだけど、きみ、少し下手になったんじゃないか?」
と、のたまうので、少し頭にきた。
最近男士に言われて気付いたことだが、私は少々短気なところがあるらしい。
「それは失礼しました」
最後の仕上げに油を含んだ紙で刀身を拭う。これは別に手入れの作法には含まれていないのだけれど、ふと思い立って左手を刀身に添える。人差し指と薬指をあわせ、ぎりぎり触れない位置からなぞった。
どうか癒されますように。いつも戦ってくれてありがとう、という気持ちを込めて、指先に意識を集中させる。
「う、それは、ずるい……」
そんなこと言われても知らない。無言で続けていると、おくれて左肩へ衝撃がきたので、びっくりして体がはねる。
おそるおそる視線を向けると、寝落ちた男がよりかかっていた。
静かな呼吸音がしている。深く眠っているらしい。刀の茎を柄にはめ込み、持ち手の下部分をたたく。しっかりとはまったところで、封印するように目釘をさしこんだ。とりあえず全ても作業が終わったので刀を脇に置いた。さまざまな感情が襲ってきて、ため息がでる。――すごく緊張したし、とてもつかれた。だけど同じくらい充足感で胸が満たされている。足をくずして、ついでに伸ばした。
傷を負っていない刀の手入れをすることは初めてだったけど、いい経験になった。勝負にも勝つことができたし、結果は上々だ。
「おわったよ、起きて」
無意識で寄りかかってはいけないと思っているのか、男はかろうじて片腕で体をささえている。姿勢はとっくの昔に崩れている。そっと覗き込むと、眠りを阻害されて眉間に皺がよっていた。
名前を呼びながらぺしぺしと腕を叩くが、まるで目を覚ます気配がなかった。
「ちゃんと寝たほうがいいよ」
自分の部屋で、と、言葉を続けようとしたとき、男はだるそうに顔をあげる。必死に目をあけようとしているけれど、意識が混濁していて視線がさだまっていない。段々と可哀そうになってきたので、一緒に部屋に行って布団を敷いてあげようと思った。
「はやく」
「あぁ、わるいね……。ありがとう」
崩れるように頭がおち、膝のうえにのってしまう。驚きのあまり変な声が出た。信じられない気持ちで、男の横顔に視線を落とす。深く刻まれた眉間の皺がなくなり、気持ちが良さそうに瞼がとじている。
「ち、ちがう! そこじゃなくて、自分の部屋で寝ろって意味で言ったの!」
ゆさゆさとゆするけどびくともしない。かえって嫌がるみたいに顔を背け、体はダンゴムシみたいに丸まっていった。暫く起こそうとやっきになり、頭を軽く叩いたり、押したり引いたりしたけれど暖簾に腕押しで、なんとか体をずらして畳に落とそうとしたけれど体躯がよすぎて無理だった。外ではいつのまにか細かい雨が降りだして、諦めに似た感情が胸をおそった。
やや丸まった肩をみて、寒いのかと思い、畳に置いたままにしていた外套をかけてやる。そのときあらためて廊下が目に入り、この場面を誰かにみられたら嫌だと強く思った。失礼かもしれないけれど、顔の半分くらいが隠れる位置で手をはなす。こうまでしても男は一向に目をさまさない。
さっきの言葉を反芻する。深く意識が落ちたということは、手入れが悪くなかった、ということか。
手持ち無沙汰に道具の位置を揃えていると、最後に気を抜いてしまったのか、粉が舞った。眠る男の髪へ、お菓子のトッピングのように薄くて白い粉がふりかかってしまい、体が硬直する。背中が冷たくなった。どうしよう。勝手に溶けるものでもないし、このままだったらいずればれる。なんとか起こさないようにして粉をとらないといけない。
手を拭いてから、みるからに柔らかそうな髪にふれる。想像通り、絹みたいな手触りだった。うえのほうを軽くぱさぱさとして粉をとばす。
起きた時にばれないようにと、駄目押しのように手を動かしてしまったのがいけなかったのか、男はもぞもぞと身じろぎをした。焦りのあまり、慌てて手を引っ込めようとする。
黒い布の下から、ぬっと白い手が出てきて捕まえられ、わずかに引き込まれる。自分の口から怯えた声が出たところで動きは止まった。
「ごめんなさい。髪に塵がついてしまいました」
反射的に目を瞑りながら、弁解じみた言い訳を口にする。だが数秒待っても返事がなかった。おそるおそる目をあける。てっきり起こしてしまったかと思ったけれど、瞼はしっかりととじられていた。規則的な呼吸が耳に届き、ほっと胸をなでおろした。
握った手に額を寄せて目をとじる姿は真剣に祈っている姿に似ていて、どうしていいのかわからずに狼狽えていると、薄い唇がうごく。
「――で、」
「え? なに」
もごもごとしているうえにうつ伏せ気味だから全く聞き取れない。少しだけ顔を寄せ、全身を集中させた。
「もう少し、このままで」
ぷつと糸が切れたみたいに体が重くなる。手を握る強さは変わらない。儚い外見とは裏腹に、骨がしっかりしているのだと実感した。
外から聞こえてくる音が変化していることに気がつき、意識を庭へ向ける。白いはずの玉砂利は雨にぬれてしっとりと色を変えていた。彩度の落ちた世界はどこまでも静かだ。手前の池には空から落ちた雨粒がいくつも波紋をうみだす。草木は一層輝いて、雨粒に葉を揺らしているさまは踊っているようだった。
雨の奥深さと清浄さに胸がうたれる。知らなかった。忙しさにかまけて自然に目を向けることを怠っていたから。世界はこんなに美しいのに。
目の前に広がる情景や、感情を言葉にできたらと思ったけれど、適当なものがでてこなかった。綺麗ともちがう。美しさのなかにどこか切なさを感じる景色。
とぎれることのない雨音を聞いた。ゆっくりと目を閉じれば、淡い闇が私を満たす。