※お題箱より
貴方の左心房を、僕に下さいの二人の来世
教室の窓際に立って外を眺めていた。よく晴れていて、グラウンドでは、陸上部が延々とコースを走っている。長距離走の練習をしているのだ。同じ場所を、一定の速度で走り続ける姿を眺める。マラソンは人生に似ている。
遠くでは、クラリネットの気の抜けたような音が響いている。放課後、誰もいない教室は西日がさして赤い。
「こんなところにいたの」
後ろから声をかけられて振り向くと、同じ部活の友達がいた。二つに結んだ髪は、生まれつき毛量が少ないのか、ネズミの尾のように細い。
「一緒に帰ろう」
「うん」
机の上に置いていたスクールバッグを掴んで廊下へ出る。話題は自然と、新しく来た先生のことになった。
「なんか怪しいよね。授業以外、ほとんど話さないし。いつも実験室にいるし」
「生物の先生だからじゃない?」
「爬虫類顔だし」
「顔は生まれつきだから、悪く言っちゃだめだよ」
やんわりと窘めるが、横を歩いていた友達はぶんぶんと頭を振った。
「別に悪口じゃないよ。逆に褒めてるの」
そうなら素直に言えばいいのに。照れからくるのか、彼女は少々曲がった言い方をする。だらだらと話しながら角を曲がると、眩しい白色が目に入った。
「あ」
ふたつの声が重なった。噂をすれば、先生が教室から出てくるところだった。スーツに白衣を羽織っている。隣にいる友達は俯いてしまったけど、私は視線を逸らさなかった。かたくなに見つめてみる。どのくらいなら動揺するか試してみることにしたのだ。
相手は気づいているはずなのに、まるで視線を合わせない。どこか遠くの一点を見つめている。すれ違いざま、
「源先生、さようなら」
と、声をかける。名前までつけたので無視できなかったのか、やっと視線があった。
先生は眉間に皺を寄せながら、ものすごく冷たい声で、
「さよなら」
とこたえた。先生の通ったあとには、湿ったような薬品の匂いが薄く残った。
名残惜しい気持ちや、胸が高鳴るということは一切ない。ひたむきに後ろ姿を観察する。それは美術の授業で石膏像を眺める感覚に近かった。足元から伸びる長い影が職員室に消えるまで、しっかりと見送った。
友達のほうを振り返ると、彼女は口元を両手で押さえていた。
「大丈夫?」
「全然。てかよく声かけられるね」
みんな大好きな、生物担当の源先生。どうして人気があるのかというと、単純に顔がものすごく整っているからだった。教師ではなくて、芸能人としてでも生きていけるかもしれない。片目を隠すような少し変わった髪型をしていたけれど、それが本人の醸し出す雰囲気と妙にあっていた。
顔がひとなみはずれて良ければ、ぶっきらぼうで誰とも関わろうとしない閉塞的な性格も、さっきのような不躾な態度も、全てプラスに変換される。学校には彼のほかにも理科の先生で黒岡という人がいたけれど、そっちはかなり冷遇されていた。髪はくせがつよくて、整髪料をつけすぎているのかいつも少し濡れていた。おどおどとして自信がなく、生徒の顔色を伺うので、一部の男子からいじめを受けていた。いま流行っているのは、黒岡が黒板に書くときに、後ろを向いたタイミングで消しゴムのカスを投げる遊びだ。重いものではないから本人は気づかない。ただ、白い消しかすは暗い色のスーツにつくと目立つし、フケみたいに見える。変なタイミングで笑い声があがるので、理由の分からない黒岡は狼狽えて、声がうらがえった。だいの大人がそんな扱いをされているのは正直不快だ。好きとか、嫌いとかの感情は別として。
「顔がいいって羨ましいな」
「ほんとだね」
こたえる声は高くて、隠しきれない高揚が滲んでいる。
みんな、新しく来た、源先生のことが好きだった。
生物室は薬品の匂いに満ちていた。長細い机に、男女三人ずつ、むかい合うように座る。グループは出席順ですでに決まっているから、入り口で友達と別れた私は、迷うことなく一番奥の机に向かった。丸椅子に座り、机に教科書を置いた瞬間、見計らったように、向かいにいた男の子が前のめりに話しかけてきた。
「今日の実験さ、なにすると思う?」
「えっと……」
黒板を見るが何も文字が書いていない。教壇には、透明な瓶と銀色のトレイが何組か乗っていた。中には小さなハサミやピンセットが入っている。しかし、道具を見ても何をやるのか、いまいちピンと来なくて首を傾げていると、待ちきれないといったようすで、またもや男が口をひらいた。
「解剖だよ。か・い・ぼ・う!」
なんの前触れも無く、前の扉がガラッと音を立ててあき、ぶんぶんと蜂の羽音みたいに煩かった教室が嘘みたいに静かになった。視線が一点に集中する。先生は俯き加減で教壇の前まで来ると、持っていたバインダーを少々乱雑に机へ置いた。衝撃にみんなびくりと肩をはねさせる。最後まで喋っていた、襟足をのばしすぎている同級生が、あわてて口をとじた。
「君たちの憶測どうり」
先生がチョークを持って背を向けたので、息を飲んで見つめる。がつがつと叩きつけるように文字を書いていく。でかでかと現れた言葉を目にして、方々から呻き声があがった。
「今日は蛙の解剖をおこなう」
ぽい、と黒板のヘリにチョークを投げるようにしておくと、先生はぱんぱんと手を軽く叩いて、指先についた粉を落とした。屈んで下から何かを取り出すと、水槽がでてきて、なかで手のひらサイズの蛙がひしめき合っていた。これから身に降りかかる運命に感づいているのか、なんとか逃げようと、壁にぶつかるようにして元気に跳ねている。
「うえ。気持ちわりぃ」
向かいの男が言った。おおいに同意する。彼の呻きに引きずられるようにして、まわりから続々と抗議の声があがったが、先生は聞こえないふりをして、淡々と説明を続けた。
「本来だったらこのような場合ウシガエルを使うが、近年、外来種の値段が高騰している。だから、今回の実験ではアフリカツメガエルという種類を使う。手順は黒板に書いている。グループのリーダーが道具を準備するあいだ、他の者は目を通しておくように」
それぞれの机から、代表者が教壇へ向かう。全員が集まったところで、先生は説明を始めた。瓶の中に粘性のある液体を入れ、その中に蛙を放り込んで蓋をしている。本当にやるのか、と衝撃にかたまっていると、リーダーが瓶を手にして戻ってきた。
「麻酔がきいてくるらしいよ」
「全然、そうは見えないけど」
瓶の中で健気な跳躍を繰り返している蛙を見ながらこたえる。これ以上ないくらいジャンプして、体のあちこちを壁にぶつけていた。
「今回の目的は」
教室がまたもや静まり返る。こんなとき、不思議だと思う。他の先生だと、声を張りあげたりしないとなかなか全員が鎮まるということはないのに(とくにこのような実験の授業では)源先生だと、たいして大きな声でもないのに、場が静寂に包まれる。聞きいってしまうのだ。低くて、冷淡な音は耳にすとんと落ちていく。
「腹部を切開し、五臓――肝臓、心臓などだな。と、六腑――これは大腸、小腸、胆のうだ。それらのつき方をよく確認すること。そして、」
机に置かれたノートに視線を落としながら告げる。
「心拍の状態を記録する」
ざわざわとしたどよめきが波のように伝わった。
「蛙のお腹を裂いても、心臓は動きますか? 死んじゃいませんか?」
「それを今から確認するんだ」
呆れを隠さずに先生は答えた。目には、隠しきれない侮蔑の感情が浮いていて、質問をした生徒は恥ずかしそうに半分うかせた腰を落とす。首元まで赤くなっていた。
「あの態度は……ちょっと、酷くない? なんで、みんなあの人が好きなの」
独りごとを呟くと、真剣に前を向いていた友達がくるりと振り返る。小声で「あれがいいんじゃん!」と言った。
もしかしたらと、教室を見渡す。女生徒の多くは、先生の一挙一動に釘付けになっていた。
私のほうがおかしいのかもれない。そういえば、芸能人のグループでは、リーダーより、その脇にいる人のほうが好ましく感じた。
自分の感覚は、すこし世間とずれているのかも。それは大いにあり得る、と、シャープペンの芯をひりだしながら思った。
「まず腹部を切開する」
数分後、あんなに跳ねていた蛙が嘘みたいに静かになっていた。麻酔が効いているためか、男子がふざけて瓶を左右に動かしたり斜めにしても、カチカチの状態で体をぶつけている。とくに斜めにすると足をひらいたまま瓶の底を滑っていくので、笑いそうになってしまった。死んでいるのかと思ったけど、そうではないらしい。体が硝子にあたるとかすかに瞬きをした。
比較的抵抗のない男の子――彼は家でリクガメを飼っているらしい――が、瓶から蛙を取り出して仰向けに寝かせた。蛙は冷たい銀の板の上で、大の字になって白い腹を見せている。四肢をまち針で止められるとまるで磔にされた人間のようで、心が痛んだ。
「では上皮を剥ぐところからだ。太ももの脇から、逆T字になるように切れ込みを入れろ」
ここからが問題だった。あたりからは悲鳴が飛び出る。皮を剥いでもまだ薄い膜が残っていて、そこを切ると内臓がみっちりと詰まっていた。ホラー映画を見ることに抵抗がないから平気なほうかと思ったけれど、現実は全然ちがう。全てが生々しく、圧倒的なリアリティに打ちのめされる。
先生は、机を回りながら、抑揚のない声で説明を始めた。体の半分で聞きながら、視線を落とす。あばらに守られるように臓器があり、胃の少しうえにある心臓に目を落とす。わずかに動いていた。衝撃で言葉が出ない。心臓はスーパーで売っている鳥のハツと似ていて、まず上部が膨らみ、そして波打つようにへこみが下へ向かう。
「このように」
すぐ近くで声がして、はっと我にかえると、近いところに先生が立っていた。暗い瞳が私を見下ろしている。
「心臓は一定のリズムを刻み、血液を体内に循環させる。さらに大きく四つの部屋で構成され、それぞれ右心房、右心室、左心房、左心室となる」
すっ、と細い指が机にのび、蛙の心臓のうえで止まった。
「この、膨らみのある上部が左心房だ」
痛いくらいの視線を感じる。みんな先生のほうを見ているけれど、同じように顔をあげることができない。先生は真横にいて、体をぴたりと寄せるようにして立っている。薄い服の向こう側からオーラみたいな体温を感じた。
近い。近すぎる。対抗するように白い指がしめす小さな物体を睨みつけた。蛙の心臓は人差し指の先ほどの大きさで、だんだんと動きが鈍くなり、やがて大きく膨らんで戻ったきり、動かなくなった。
最後の一回を見届けたタイミングで、授業を終えるチャイムが鳴った。白い指が机から遠ざかり、人の熱が消える。足音が遠ざかると息を吐いた。無意識で呼吸をとめていたようだ。
先生は何事もなかったかのように教壇に戻ると、こう言った。
「蛙はそこに置いていけ。俺が片付ける。今日やったことはテストに出るから、おのおのノートにまとめておけ」
ほっとした空気と、安堵の声が教室に満ちていく。みんな後片付けをしたくなかったのだろう。一気に場の空気があかるくなった。私もほっとしながら教科書とノートをまとめる。薄い手袋越しだとしても、内臓に触りたくなかった。
その場限りの実験グループと解散し、友達と合流してぞろぞろと出口へと向かっていると、後ろから声をかけられる。振り向くと先生が机に手をついて私を眺めていた。蛍光灯に照らされた肌は白くて、具合が悪そうに見える。
「すまないが、掃除が終わったら手伝いにきてくれないか」
「私、ですか……?」
「そうだが」
先生は人気があるので、たまに女生徒が実験器具の掃除を手伝っているのを見たことがある。だいたいがクラスの中心的な人物で、スカートはこれでもかというほど短く、校則で言われない程度に髪を染めているような子だ。廊下の先から鋭い視線を感じて目を向けると、ちょうど想像していた同級生が嫌そうに顔を顰めていた。断ってほしいのだ。目をつけられるのも嫌だなと思ったけれど、先生の指示を断る適当な理由も思い浮かばず、曖昧に頷いた。
「では、放課後ここに」
簡潔に告げると、先生は手袋をはめながら机に向かい、生徒の残した蛙の死骸をバケツに放り込んだ。
放課後、授業が終わってからすぐに生物室に向かった。緊張しながら白い扉をひいたが、なかには人の姿がなく、拍子抜けしてしまう。横に長い机の間をぬうように進み、窓までたどりついた。学校の中でいちばん気に入っているのは、なんといってもこの窓だ。天井まで伸びるようにあるので、大きくて開放的だし、ふちに触れると金属特有の冷たさが指の腹に伝わって心地いい。
ぼんやりとグラウンドを眺めていると、ガラガラと扉を引く音がしたので振りかえる。俯き加減で歩いてくる背の高い人が見えた。歩くリズムにあわせて長めの前髪がゆれるので、本能的に目で追ってしまう。
「すまない。待たせたな」
「私も今来たところです」
曖昧に笑ってこたえると、先生は両手に持っていた書類をどさ、と机に置いた。ここで待っているように言い、すぐに踵をかえす。遠ざかる背中を見つめながら、重いものがあるなら一緒に行って手伝うと提案すればよかったと、遅れて気付いた。と同時に、自分の気の利かなさに少し呆れた。
冷たい理科室を眺める。壁には人体のポスターが飾られていた。なんだか最近こういうものばかり見るなとぼんやり思う。ポスターは半分が人の表面のイラストで、もう半分に臓器が描いてある。腎臓や肝臓なんかが、わりと詳細にかかれていた。
本当に全部入っているのだろうか。にわかには信じられないと、お腹に手をあてて押してみる。シャツの上から指は柔らかく食い込んだけど、もちろん中身を感じることはできなかった。
「何をしているんだ」
慌てて振り向くと、怪訝な顔をした先生が立っていた。腰にあてていた手を戻し、なんでもありませんと早口でいう。先生はさほど興味がないのか、特に気にせず口をひらいた。
「掲示物の張り替えをして欲しいんだが」
いうのと同時に、壁のほうへすたすたと歩いていくので、小走りで後を追った。先生は壁際にある白い棚にもっていた木箱を置くと、ポスターの画鋲を外す。
「画鋲を踏まないようにな」
そう私に注意をしながら、画鋲を入れ物にしまい、慎重な手つきで蓋を閉めた。プラスチックの四角い入れ物には、先端が針のように尖った小さな画鋲が満杯につまっている。
「この棚に乗ってかまわない。君くらいの重さなら大丈夫だろう」
私の体重なんて知らないくせに。そう心のなかで呟きながら、乗り上げるようにして棚にあがる。比較的高い場所からポスターをはがしていった。古いものをどこに置こうかと視線を走らせると、先生が手を伸ばしてきたので素直にわたす。
「足場が悪くてすまない」
「いえ」
黙々と紙を剥がすあいだ、私たちに会話は無かった。はじから少しづつ移動しながら作業を続ける。急にばりばりという音が響いたので横目で見れば、先生がポスターを丸めてゴミ箱に捨てていた。
「あの」
「ん?」
先生はこちらを見ずにこたえる。かさばっている紙をぐいぐいと片手で押し込んでいた。
「解剖で使った蛙って、ゴミと一緒に捨てたんですか」
ぺろりと広げられた体。確か記憶の最後はバケツ行きだった。目の前にいる男が無造作に投げ入れたのだ。先生はどこか冷たくみえる。だるそうに、学校の庭の先にあるゴミ捨て場に蛙の入ったゴミ袋を投げ込む姿が、ありありと脳裏に浮かんだ。
「いや。裏の花壇に埋めた」
「やっぱり捨てて……え?」
片方の眉毛をあげながら、先生は訝しげに見つめ返す。こちらの動揺を感じ取ったのか、にやりと笑った。
「なんだその顔は。失礼な小娘だな」
「こむすめ」
そんな呼ばれかたをされたのは生まれて初めてで、違和感が駆け巡る。古風な言い方だと思った。先生は窓のほうを見ながらぽつりと呟く。
「生き物はみんな、死んだら土に還る」
同じように窓の外を眺める。空が広い。開け放った窓から風が吹いて、金木犀の香りがした。秋の空気だ。
先生は思い出したように、机にあった木箱を差し出してきた。深さがあまりなくて、ひらたい箱みたいなそれは、標本だった。
「こんな話をしといてなんだが、次に飾るのはこれだ」
「全然、土に還れてないじゃないですか」
「細かいことは気にするな」
受け取りながら中を覗くと、羽を広げた蝶々がピンでとめられていた。羽と胴体をひとつずつ。そういえば蛙もこんなふうに磔にされていた。一方は生きたまま体をひらかれ、もう片方はこうして展示される。
感傷的になってしまう心には蓋をして、空いたスペースに標本を飾った。壁にかけるだけなので簡単だった。やがて全ての作業が終わり、棚からおりて遠くから眺める。右から、青い蝶々。左にいくにつれて色味が濃くなり、昆虫にかわる。最後はカブトムシだった。
名前をよばれて振り返れば、先生が窓際に何かを吊るしていた。
「なんですか? これ」
「プリズムだ」
「ぷりずむ」
おうむ返しをしながら見慣れない物体に視線を戻す。ピラミッドのような形の硝子がいくつも窓に吊るされていた。数えてみると十はある。
指で押して軽く揺らしてみると、硝子のなかで、虹色の模様が波みたいに動いた。
「プリズムは光の屈折を利用している。進入角というものがあって――まぁ、説明は割愛する。そろそろだな」
肩を掴まれて、くるりと九十度ほど回転させられる。
次の瞬間、私は息を呑んだ。
西日がプリズムを通り、標本に光があたっていた。蒼い蝶の羽。黄金色の小さな虫。それらに七色のうすい光があたり、不思議な色合いになっていた。風にゆられてプリズムが動くのと連動して、光の模様や色が変わっていく。
「すごい。綺麗」
おもわず感動のため息をもらすと、先生は満足げに笑った。思い出したように窓に吊るされたひとつを外し、私の手に握らせてくれる。
「いいんですか?」
「あぁ。だが他の生徒には内緒にしていてくれ」
「嬉しい。大切にします」
胸にあてながらお礼を言うと、先生は聞こえないふりをして壁の標本を眺めている。だけどいつもきつく寄せられた目元がゆるんで優しい雰囲気になっており、喜んでくれているのだと知った。
月曜日はそうじて憂鬱になるものだけれど、一時間目が体育の日は、気分の落ち込みが凄まじい。運動が嫌いなのではない。むしろその逆で、好きなほうだと思う。今日は陸上だった。グラウンドに秋のさわやかな空気がぬけていく。
そんななか私は、長距離走の練習をしているみんなの邪魔にならないような位置で地面にしゃがみ、手持ち無沙汰に草を抜いている。すっかり草を抜くことに慣れ、集中しすぎてあたりの雑草がなくなってからやっと、俯いていた顔をあげた。何周目か分からないけど、顔見知りの子がかたまって前を走っていく。目が合うと手を振ってくれたので、同じように手を振りかえした。今日はよく晴れた秋空で、こんな下で走れたらさぞかし気持ちが良いだろうと思う。もっとも、それを友達に言うと憤慨されるので、私は姑息に口をつぐむ。
心臓の動きが少し変なのは生まれつきで、本来、一定のタイミングで刻まれるところ、私の心臓は最後の四つ目がつまる。タンタンタン……タタン! という具合に。
健康に問題はないが、きわめて珍しい症状なのでたまに病院に行って検査をしている。ある日、健康診断で発覚してから、激しい運動は控えるように言われ、運動が好きだった私は落胆した。そんなこともあり高校では華道部に入った。生花にあまり興味はなかったけれど、美術も音楽も得意ではなかったのだ。華道部はほとんど帰宅部となっていて、他にも活動的でない部活は理工部があったけれど、顧問が苦手だったからやめた。それはもちろん、源先生だ。
人を見た目で判断してはいけないと考えをあらためたのは、先日おこなった展示物の張り替えがきっかけだった。プリズムの光は先生の印象を一気に覆してしまうくらいに綺麗で、またいつでも見にこいと言われたけれど、結局ふたたび足を運ぶことはなかった。先生はクラスの中心にいるような、派手な子たちに人気で、私は彼らに目をつけられることを恐れていた。平穏な学校生活を送るのに、先生は危険因子だと直感的に悟っていた。
目の前を横切る赤とんぼを目で追うと、ひとりの男性が目に入る。俯きながらずんずんと大股に歩いているのはさっきまで頭を占めていた人で、心臓がすこしはねた。
気づかないといい。でも気づいて欲しい。そんな複雑な気持ちで見つめる。先生は腰の位置が高くておまけに足が長かった。長い足が地面をけって、前に向かう。
先生はそのまま行ってしまうと思ったけれど、予想に反して立ち止まった。信じられないことに小さく手を振ってくれたので、私もおなじように手を振りかえした。
懸念はあたってしまった。
夜、お風呂に入ってから髪を乾かしていると、友達からラインがきた。ベッドに放置していた携帯をのしのしととりにいき、寝っ転がりながら画面をのぞく。
――なんか大変なことになってるよ。
添付されていたリンクを押すと、掲示板が現れた。初めてみるものだった。これはなんだろう、と思ってページを読み飛ばしていくと、唐突に自分の名前が出てきて息がとまる。
書いてあったのは、私がだれかれかまわずヤッている、という内容だった。不特定多数の人がそれにたいしてコメントしており、意味がよく分からなかったけど、誉めているわけでないということだけはわかった。
足元から崩れていくようだった。目の前が暗くなり耳も遠くなる。どうしよう、なにこれ。どうしよう。現実に引き戻すように手の中の携帯電話が鳴った。画面に表示されていたのは友達の名前で、迷ったけどでることにした。
「もしもし」
「見た?」
「うん……。でもこんなの嘘だよ。私何もしてない」
「知ってるよ。こんなの信じるほうがおかしいって。最後まで読んだ? 微妙に擁護してるようなコメントついてるよ。そんなキャラじゃないって」
「見たけど……。地味でそんなことできるタイプじゃない、根暗だって……ほとんど悪口だよ」
苦しくなるけど隅々まで見てしまう。意外なことに反論のコメントも多かった。だけどフォローの言い方が、地味で、ダサいからそんなタイプじゃないというものばかりで、これはこれで傷つく。
「なんか最近、変わったことあった?」
友達の問いに過去を思い出す。とくに変わりはない。
ふと窓辺に吊るされたプリズムがうかび、あ、と声をあげた。
「源先生と仲良くなった」
動物の唸り声のような音を出して、友達は、それだと言った。最近、派手なグループの一人が先生に告白したのだという。でもすっぱり振られてしまった。その腹いせだろうと彼女は推理した。
「もう関わらないほうがいいよ。まだ大丈夫だと思うけど、このままだといじめられるよ」
いじめ。その三文字は私を一瞬で恐怖の底に突き落とした。
立場が転がるのは簡単で、一度そうなったらなかなか元に戻れずに卒業まで地獄のような生活になることを、生徒はみんな知っている。
先生とはもう関わらないし、存在を空気みたいに薄くする。そうかたく誓ってから、私は電話を切った。
翌朝、吐きそうな気持ちで教室に向かった。席にでかでかと落書きをされたらどうしよう。歩いている途中で消しカスを投げられたらどうしよう。悪い想像をさせながら廊下を歩いたけれど、心配するようなことはなかった。それはそうだ。もし何かが始まるなら、教室に入ってからだろう。それに昨日の今日なので、まだ知らない人も多いはずだ。
空きっぱなしの扉から真っ直ぐに机に向かう。全身を耳にして挙動を探った。心臓が無数の針でさされたように苦しい。
「あ、きたきた。あの子だよ、例の」
やっぱり首謀者は目立つクラスの中心的人物だった。何も聞こえなかったフリをして席に座る。全身から汗が出ていたけど、傷ついていないし何も知らないというそぶりで、鞄から教科書を移動させた。
朝礼が終わったあと、のろのろと時間稼ぎをするようにノートを取り出していると、机の間を、波を渡るみたいにしてこちらにやってくる女の子の姿があった。
「なにしてんの? いこ」
「うん」
移動教室のときにいつも一緒に行動を共にしている子だった。声をかけてくれた。とんでもない安堵のなか、誰もいない教室をあとにする。
夕暮れの廊下をとぼとぼと歩く。大きな窓から西日がこれでもかというくらいに差し込んでいた。額のあたりに手をかざしてひよけにしながら前を向くと、ちょうど夕日が山の向こうに沈むところだった。
今日はとても疲れた。大変な一日だった、と心の中で呟く。丸い火球を睨んでいると目の奥がちかちかした。
近くで人が笑っていると、自分が笑われているような気がした。自分の発言にはものすごく気をつけた。なんだか、十センチの鉄骨を渡っているような緊張感だった。もちろん、命綱はない。
目のはじに変な緑色の点々が見え始めたころ、ふと視界が暗くなった。瞼に手のひらの感触がする。背中の後ろに人の気配がした。恐怖のあまり叩き落とすようにしながら手を外し、勢いよく振り返る。
そこにいたのは今いちばん会いたくない人だった。大袈裟な反応に目を丸くしていたのは源先生で、夕日をバックにしているからか、いつもより血色が良い。
「なんですか。いきなり」
とげとげしい声に怯んだ先生は、次の瞬間には眉間に皺を寄せた。
「太陽をあんなふうに直視したら目が悪くなる」
「だからって、普通に声をかければいいじゃないですか」
ばつが悪そうに俯く先生を見ながら、私の心の中は荒れていた。さっと視線を走らせる。誰かに今の状況を目撃されたら。何も変なことはしていないけれど、また標的にされるかもしれない。
「もう私に話しかけないでください」
「なぜ」
「嫌いだからです。気持ちが悪いから、です!」
口の中が一気に砂漠になったみたいだった。喉の奥がはりついている。これ以上の言葉が出てこない。先生は動物みたいに目を丸くしていた。よほど驚いているのか、はじめて見る表情だった。
私は心のどこかで、大人はどんな言葉をかけられても傷つかない生き物だと思っていた。子供が言っていることだと、さらに言えば、難しい時期なのだと苦笑いして終わりだと思っていた。
それらが単なる妄想だと知ったのは、数秒後のことだった。夕日をうけてあたたかい色を滲ませていた瞳がどんどんと陰っていく。その奥で悲しみがゆらいでいた。
「そうか。悪かったな」
呆然としていると、ぽんと頭に手を乗せてから先生は歩き出す。背中は真っ直ぐで、一見いつもと変わらないように見える。だけど、どこかが違った。
廊下を曲がる寸前、何を思ったのか先生は振り返る。棒立ちでいたのでばっちりと目が合ってしまい、相手はまだいたのか、という顔をした。
気まずさのあまり目を逸らすと、優しい声がした。
「気をつけて帰れよ。今日はこのあと雨が降る」
顔をあげる。大きな窓があるだけで、すでに去ったあとなのか、先生の姿はなかった。
なさけなさと理不尽な悲しみが押し寄せて顔を覆う。
私は臆病者だ。いじめられるのが嫌で、孤独になるのがたえられない。自分を守るためなら、他人を傷つけてもかまわない――と、そんなことを、本気で思ってしまったのだから。
なんとなく帰るのが嫌になり、いったん教室に戻ることにした。扉を開ける直前、中からかやかやとした声が聞こえたのでくるりと背を向ける。あてもなく彷徨っているとたどり着いたのは理科室で、電気がついていないことを確認してからそっと中に入った。
室内は黒い遮光カーテンで締め切られていたのでとても暗い。普段だったら怖くなってしまいそうだったけれど、今は逆に安心できる。波のようにつらなるカーテンを少しだけひらくと、外から薄い光が差し込んできた。まだ夕日の残りかけみたいな光がつきあげるように山からでていて、素直に美しいと思った。
いちばん手前の机に座り、バッグを机の上に置いた。つるんとした白い板に覆いかぶさるようにして、自分の腕に顔を埋める。額が机とふれているところだけ、とても冷たい。
この時間になるといつも響いている気の抜けたようなクラリネットの練習がまだ聞こえない。雨が降るというのは本当だろうか。注意してみると、普段よりも人の気配や話し声がすくない気がする。
まっすぐに帰ったほうがいいことは分かっていたけれど、体が鉛みたいに重くて、言うことをきかなかった。頭のなかで、さっきのやりとりを、なんどもなんども反芻した。
瞼が落ちてくる。襲い来る眠気に逆らうことをせずに、私は目をとじた。
「――い、起きろ」
ゆさゆさと肩を押されて、強制的に目が覚めた。電気がついているせいか部屋が明るい。しぱしぱとする目で声のしたほうを向くと、飛び込んできた顔に息が止まった。
先生だった。いつも羽織っている白衣は着ていない。かわりにシャツとスラックスを身につけていた。ビジネスマンとして百点満点の服装だったけれど、見慣れた白衣が無いだけで違う人に見えた。
「誰ですか」
「寝ぼけているのか」
呆れたようにため息をつきながら、先生は前を向く。つられて目を向けると、いままで見たことがないくらいの雨が降っていた。水が窓の上から滝のように流れていく。だんだんと意識が覚醒するにつれて、どどど、ばたばた、とものすごい雨音が耳に届いた。
「あ…、電車。どうしよう」
「もう無理だな」
片手でスマートフォンを操作していた先生が画面を見せてくれた。表示された文字を上からじっくり読む。使う沿線はほとんどが運転見合わせになっていた。
「電車が止まってる」
「だから早く帰れと言ったんだ」
椅子から腰をうかしながら先生が言った。
両親は共働きで、家に帰るのはどちらも十時過ぎだ。車で迎えに来てもらおうか。そのころには雨足が弱まっているだろうが、仕事が終わるまで近くの駅まで待つのはつらすぎる。ぼうっと窓を眺めながら、時間つぶしのため、最寄りのマクドナルドやカフェの場所を思い出していると、遠くから声を掛けられた。
「家まで送る。早く帰りの準備をしろ」
ゆっくりと振り返る。射抜くような瞳と目が合った。案外あかるい色だったのだと、あらためて思う。
もう準備はしていたので静かに立ちあがり、丸い椅子を机の下にしまった。スクールバックを片手で持ちながら駆け寄る。早足で隣を歩きながら、そういえばと、数時間前のやりとりと思い出した。
謝らないといけない。人として、いけないことを言ったのだし、恐らく傷付けてしまった。それなのに、そんな相手に世話になろうとしている。
「あの、」
「職員用の駐車場は遠いんだ。裏から行ったほうが早い。下駄箱から靴を持ってこい」
廊下に出たとたん早口で指示をされ、背中を押された。押し出されるように前へ踏み出す。立ち止まって振り返ると、ビジネスバッグを手にした先生が、早く行け、と口のかたちだけで伝えてきた。
車に備え付けられているテレビの情報によると、今日の猛烈な雨は台風によるものだった。最近はテレビをほとんど見なくなったので、(テレビよりもユーチューブのほうが数倍面白い)食い入るように台風情報に耳をかたむけていると、運転をしていた先生が興味深そうに視線を送る。
「テレビを見ないのか」
「はい。最近は全然」
――市内では冠水している箇所があり、車での走行では注意が必要です。
かんすいってなんですかと、隣にいる教師に尋ねようと思ったところ、鋭い舌打ちが耳に届いた。
「駄目だな。道がふさがってる」
「わぁ。すごい。海みたい」
たずねるまえに答えが出てきた。手前の車が意味深な動きをしている、と思ったら、ぐっとUターンをしたのだ。すれ違いざまに軽くクラクションを鳴らされる。なんらかの合図なのか、先生は片手をあげてこたえていた。
暗くてよく分からないが、道の先が黒くなっていて、目を凝らすと水の流れが見える。まるで川のようになっていた。
先生はナビで地図を出している。そのまま止まっていると、横を一台の車が追い越していった。軽自動車だった。スピードをゆるめないまま、勇ましくも川のようになった道路に突っ込んでいく。タイヤのサイドから水が巻き上げられ、噴水のショーみたいになった。
「私たちも、つづきますか?」
「馬鹿言うな。エンジンに水がはいる」
「じゃあ、あの人は?」
泳いでいく軽自動車を指差しながらきくと、先生は軽く笑いながら「知らん」と言った。左手でギアを操作し、ゆっくりと車体が後退していく。身を乗り出すようにして、うしろを確認しているのを、隣で眺めた。
「雨は夜八時ごろに弱まるそうだ。お前の家に行く道路は全て冠水している。……この近くに俺の家があるんだが」
囁くみたいに小さな声量だったけれど、確かに聞こえた。
「嫌か。近くに頼れる親戚はいるか? 住所を教えてくれるなら向かえる」
「行きます」
親戚なんて近くにいない。戦場に向かう武士のような、かしこまった言い方でこたえると、先生はこちらを見てから、ふっと目じりをさげた。
着いた先は白い四階建てのマンションで、四階建てだけどエレベーターが無かった。よりによって先生の部屋は最上階のようで、階段をもくもくと歩く。
「いつ引越ししようと、帰宅するといつも思う」
疲れたようすでドアにカギを差し込みながら先生が言う。私の家はカードを押しあてるタイプの鍵なので、古風だと思った。マンション自体が古いのかもしれない。
「先生の給料だったら、すぐに引っ越せるんでしょう?」
「お前は俺の何を知っているんだ」
呆れたように言いながら、先生が扉を押しあける。玄関は狭かった。廊下と一体になったようなキッチンがあり、その奥がリビングのようだ。濡れた靴を脇によけて置くと、じんわりと水が滲んで丸い染みをつくった。
部屋の中はわりと広くて、ごちゃごちゃとしている。机の上に平積みされている本を眺めていると、平日にどんな暮らしをしているか分かるような気がした。物はあまり多くない。ただ片付けていないだけという印象だった。
へとへとになって帰ってきて、すぐに部屋の壁際に鎮座している黒い皮のソファに寝ころがる。その日のうちに洗濯をする余裕はないかもしれない。長い前髪をかきあげてから、ネクタイをゆるめ、地面に落ちていくような重たいため息をつく。そして、――。
「珈琲だ」
勝手に人さまの生活を妄想していると、急に現実に引き戻されてびっくりする。そこに座れと手でしめされ、さっきまで夢想していたソファへ遠慮がちに腰掛けると、片側が沈んだ。先生がどかりと座っている。距離が近くすぎるので抗議したくなったけれど、二人掛けのソファだし、世話になっていることを思い出してやめておいた。
硝子のテーブルに置かれたコップを手に包むように持つ。なかはまろやかな色の液体で満たされていた。
「これ、カフェオレですよ。珈琲じゃない」
「細かいな。だまって飲め」
しぶしぶと口にする。なかみはやっぱりカフェオレで、ミルクが多いけれどちゃんと温かかった。牛乳をあたためて、丁寧に作ってくれたらしい。
「そろそろ心配しているころだろう。君の親に連絡してくる」
返事を待たずに先生は腰をうかした。遅れて扉のしまる音がする。手持無沙汰になった。どこで電話をしているのだろうと振り返ると、廊下から光がさしていた。
珈琲を飲んで一呼吸つくと、まわりを観察する余裕が出てくる。おくれて、服が濡れていることに気がついた。なるべく雨をよけてあるいたけれど、どうしても防ぎきれなかった。雨はまだ酷く降り続いていて、カーテンが開いたままの窓では、向こうの景色が歪んでいる。ばたばたと叩きつけるような音がしていた。
窓から視線を外すと、棚が少し空いているのが見えた。中から黒い紙が出ている。なぜか無性に気になって、そっと立ちあがった。壁際にたどりつく。小指だけで小さな扉を押すと、なかにノートが詰まっているのがわかった。
一般的に考えて――、無断で見るのは道徳心が欠けているだろう。人間性が疑われる。やっぱり見なかったことにしようと手を離したとき、頭のなかに掲示板の文字が浮かんだ。虚実で埋め尽くされたそれらを思い出すと、心臓がどろどろと粘性をもったようにうずく。
こんなふうになったのは、そもそも先生のせいだ。
場違いな怒りが浮かんでくる。さらに好奇心には勝てなくて、一番上の冊子を手に取った。床に置いてまじまじと見つめる。ノートかと思ったけれど厳密には違った。黄土色のざらざらとした表紙には、「スクラップブック」とかかれている。
ページをめくり、目に飛び込んできたものに思考が停止した。最初は何か分からなかった。白と黒の写真。下のほうに視線を落とすと、既視感のある写真がある。四つのピンで貼り付けにされた蛙。腹部は切開されて、中身が飛び出ていた。
次のページをめくる。こんどは人間の心臓の写真があった。それもひとつではない。大小さまざまの心臓があらわれ、こんなに沢山の心臓の写真を一気に見るのは初めてなので、めんくらってしまった。
どうして、こんなものを。写真の横に添えられた、手書きでかかれた英語の文字を指でなぞっていると、背中のほうから声がした。
「駄目だ。出ない」
携帯を手にした先生が部屋に入って来るのと、棚の扉をしめたのは、ほとんど同時だった。時間がなく、戻せないまま扉へ不自然に添えられた手を目にして、先生はなんと思っただろう。押しつぶすような沈黙が答えのような気がした。
「すみません……」
「何を見た」
気が付くと先生は真横に膝をついていた。声に怒りが含まれていないことに一先ず安堵しながら、「心臓」と口にする。
「そうか」
先生はその場に胡坐をかいた。ぼうっと外を眺めている。同じように前を見ると、大きな窓に夜景が広がっていた。ビルからもれる光が水彩で描いたように滲んでいる。
「ごめんなさい」
沈黙に耐え切れずに謝罪を口にする。先生はいいとも悪いとも言わなかった。ただ黙って雨の音を聞いている。気まずさのあまり下を向いて耐えていると、やっと先生は口をひらいた。
「本当は、教師なんかじゃなくて、外科医になりたかったんだ。昔からどうしてか、臓器――特に、心臓に興味があった」
なんと言っていいのかわからない。真っ先に浮かんだのは、自身の心臓のことだった。私はとりわけ、心臓を意識して生活してきた。おそらく、まわりにいる誰よりも。
無意識にシャツの胸元を握りしめていると、先生が息を吐いた。
「君に頼みがあるんだ」
先生はもう窓なんか見ていなかった。明るい色の瞳のなかに、怯えた顔をした少女が映っている。
「君にしか頼めない」
「嫌です」
ぐっと身をのりだすようにして言われて、顔を背け反射的に手を前に出す。胸板を勢いよく押したけれど、予想よりも筋肉がついていて、びくともしない。
怖い。あきらかに普段と雰囲気が変わっている。じっとりとした空気が雨のせいだけではない。身を縮こませていると、耳元に顔をよせられた。喉の奥がひきつるような音を立てる。
「君の心音を聞かせて欲しい」
「え?」
気の抜けた声が出た。顔をあげて確認してみるが、冗談を言っているようすではなかった。真剣な瞳に嘘をついていないと確信する。この人は本気で言っているのだ。
よく知らない部屋で、関わりの薄い男の人に、変な要求をされている。行き過ぎた非日常は思考を鈍らせた。震える指でセーターを脱ぎ、薄いシャツだけになる。じっと黙っている先生の手を掴んで、左の胸元にもっていった。普通だったら嫌がるだろうけど、なぜかこの段階になると、すっと頭が冴えていた。
先生はよく鼓動が感じられなかったのか、グッと強めに押す。少し息がつまる。左の胸の下に、骨ばった手のかたさを感じる。
「あ」
先生が驚いたような声をあげたのは、ちょうど、心拍のタイミングがずれたときだった。
「変でしょう。私の心臓」
同意するように頷きながら、先生はななめ下に視線をおとし、やがて目を瞑った。ちゃんと聞いてくれているみたいだ。真剣な横顔を眺めていると、口から勝手に言葉があふれた。
「最近、ネットで悪口を書かれていたんです。先生と仲良くしたから」
「どうして俺と仲良くしただけで、そんなことになる?」
顔をあげながら先生が言った。声に、俺には関係ないという憤慨した感情が滲んでいる。もっともな意見だけれど、先生の気持ちは重要ではなかった。理由がうまく説明できなくてもどかしい。
「もう勘違いされたくなくて。廊下でひどいことを言って、ごめんなさい」
いちばん伝えたいことはそこだったので、先生の質問には答えずにそう言った。いまだ胸の下に手をおいたままの先生は、私の謝罪にながいため息をつく。
「自分でも、びっくりするくらいにショックを受けた。だがまぁ、理由が分かったからいい。そうだ、俺も秘密を教えよう。――外科医になりたかった、というのは嘘だ」
「どういうこと?」
反射的に離してしまった手をものすごい力で引かれる。気がつくと相手の胸に押しあてられていた。
薄いシャツの向こうで、張り裂けそうなほどに心臓が鳴っている。まるで内側から叩いて飛び出してきそうだった。驚きで体を硬直させていると、そっと背中に手がそえられて、力がかけられる。世界が少しだけかたむいた。
抱きしめられている――と気が付いたのはすぐあとだった。ぴたりと合わさった肌。頭のうえのほうで、浅い呼吸音が響いている。
別に強く拘束されているわけではない。背中にまわった手は力なく添えられているだけで、逃げ出したければいつでもできたし、相手もそれを望んでいると感じた。それなのに振りほどくことができない。胸に押し寄せてくるのは、理由のわからない懐かしさだった。
肉と骨を挟んだ先に命の中心があり、これ以上ないくらいに心臓がわめきはじめる。相手のシャツを、皺が寄るほどに強く握りながら耳をすましてみる。先生の鼓動は本人を体現したように規則正しくて、いっぱく遅れて私の音が重なった。