劫火_02 - 1/3

かたい木の根に腰を下ろしながら、ぼんやりと目の前で俯いている男を見つめる。ここからは頭のつむじが良く見えた。天辺の跳ねている髪は薄緑色ではなく、夜を吸い込んだような漆黒だった。
「それ、染めてるの?」
俯いて作業をしている男に聞く。彼は無言で頷いていた。左足首をそっと持ち上げ用意していた布を巻いていく。場違いなほどに優しい手つきに、ため息をつきながら言葉をかけた。
「もっと適当でいいのに」
「何を言う」
怒ったようにかえしながら、ぎゅっと布の端をきつく縛って結んでくれた。一瞬だけ痛みが走るが、それも波が引くように遠くなる。腫れは最初に比べると随分ましになっていた。ほとんど歩いても問題ないのでは、というくらいに。
「もう歩けると思う」
「まだ駄目だ。完全に治っていない」
ほら、と言いながら背を向けてしゃがんでくれる。借りをどんどん作っている今の状況が何となく気持ちが悪く、子供のように背中を睨みつけていると、「早くしろ」と冷たい声で言われた。
何度目か分からないため息をつきながら背中に覆いかぶさる。力が入り、ぐん、と視界が高くなった。
ずっとこうだ。ぶらぶらと揺れるつま先を眺めながらそう思った。再び出会ってから、彼は一度もまともに歩かせてくれない。足が完全に治るまでと、こうして荷物のようにおんぶされている。
「重いでしょう」
たまりかねて聞くと、男はふるふると首を振った。
「羽のように軽い」
嘘つけ、と心の中で反論しながら、でも確かに荷物でいることは楽だったので遠慮なく体の力を抜く。
完全に脱力すると、なんとなく男から発する雰囲気が柔らかくなるような気がした。
しかし、一つ気がかりなことがあった。どこへ向かおうとしているのかよく分からないのだ。道中それとなく聞いてみたが、本人もよく分かっていないみたいだった。
これからどうする? と尋ねる。膝丸は少し考えたあと、「とりあえず、町へ」と静かに答えた。
断片的な言葉から察するに、彼は本当に私と会うためだけにこの時代まで来たらしい。元の本丸に連れ戻そうという気持ちはないらしく、こうして再会できたので、彼は目的が果たされたことになる。
背中の上でくったりと力を抜く。もう遠慮なんてしない。男の肩に頬をくっつけるようにして景色を眺めた。朝の爽やかな空気が辺りを満たしている。今日はとてもいい天気だ。
「膝丸の行こうとしている町までは、あとどのくらいでつくの?」
少しの間のあと、彼はこう言った。
「一週間はかかる」
予想の三倍の日数を告げられて、無意識のうちに、いやだと情けない言葉が零れ落ちる。
蚊の鳴くような声を拾ったらしい男は、「俺に言われても困る」と少しだけ悲しそうに呟いた。
あっという間に日が傾いていき、気がつくと夕方になっていた。別に自分で歩いていたわけでも無いのにとても疲れてしまう。
川の近くにそっと下ろしてくれたあと、膝丸はちらと体に視線を走らせ、何も言わずに背を向ける。
ふんと鼻を鳴らしながら釈然としない気持ちで服を脱ぐ。いちいち面倒だと思った。
こんなことをするのは二度目だった。
右手が紐で繋がれているから旅装束が体から抜けない。ほら見たことかと不自由さを訴えると、彼は冷めた目でこちらを見た。視線を地に固定したまま器用に縄を傾けて服を滑らせる。重力にそって服はするするとおちていった。
「終わるまで俺が持っている。それなら問題ないだろう。湯汲が終わったら声をかけてくれ」
大きく舌打ちをしながら、生まれたままの姿でざぶざぶと川に入っていった。夏の暑さが落ちついてきたので川の水が冷たい。我慢しながら体を洗いつつ後ろを振り返ると、男は律義に背中を向けていた。全く物音も発しないし、ピクリとも動かない。
今ならこの忌々しい枷を外せるかもしれない。そう思い、丸まった結び目に指を這わせた。
「無駄なことをするな」
と、すぐに氷のような声が飛んできて背筋が冷たくなる。
おそるおそる顔をあげるが、膝丸は反対側を向いたままだった。どうして分かったのだろう。背中に目でも付いているのかもしれない。
途端に面白くない気持ちになって、静かに腰巻を胸の辺りまで持ってくる。体が隠れたのを確認すると、紐をゆるめるふりをして――思い切り引っ張った。
体ががくんとよろめく。一度こっちを向いた。足が完全にもつれている。驚愕の表情を浮かべ、金色の瞳が限界まで開かれている。
ゆっくりとスローモーションのように前方に倒れ込み――男は頭から川にダイブした。
「……ふふっ。あはは!」
尻もちをついてぽかんと見あげてくるのが面白くて、自然と笑い声が飛び出る。場違いな声に驚いた鳥が、頭上を飛んでいく。
膝丸は状況を理解できないようで、川の中で尻もちをつきながら茫然としていた。
「ははっ。可笑しい」
くすくすと笑っていると、男の口角がゆっくりと上がり、優しい笑顔に縁どられる。瞳が糸のように細くなった。
くもりから晴れ間になったような変化に驚いてしまう。出会って初めて、おだやかに笑った顔を見た気がした。
彼はずっと難しい表情をしていた。何かに悩んでいるように、地面を見つめていた。
しんとした静寂が辺りを包んで、膝丸は一瞬で笑顔を引っ込める。またくもりにもどってしまった。
無言で背中を向けて岸まで歩くと、慌てて後を追ってくる気配がする。
釈然としない。今の笑顔を見て、ほんの数ミリだけ心がゆれてしまった。

それから、たっぷり三日間は森の中を歩いた。膝丸は数時間ごとに必ず背からおろしてくれて、「大丈夫か」「疲れてはいないか」と声を掛けてくれた。
なんども下ろされたら非効率なので、もっと雑に運んでいいと言ったのに、男はけして首を縦にはふらなかった。
「疲れていないから、大丈夫だよ」
「人の子はもろい。それに君の言葉は信用できない」
面白くないので体を捩って降りようとすると、男は焦った。ばしばしと脚で脇腹を叩く。男はこれでもかと支えた腕に力を込める。そんなことを繰り返していたらいつの間にか森を抜けていた。
林を抜けると人の通れる道が目に飛び込んできたので声をかける。
「ありがとう。もう大丈夫。少し歩かないと体がなまっちゃうよ」
膝丸は渋い顔をしていたが、ばたばたと足を動かすと、諦めたのか静かに屈んでくれた。兎のような身軽さで背から滑り落ちる。腕を思いっきり空に向かって体を伸ばした。筋肉が吊られて気持ちがいい。肩がバキバキと不吉な音を立てて、血が末端にめぐる。
紐を片手で巻き取りながら進む男を横目に見る。未だに手首には赤い紐が付いていて、今の自分は散歩をされている犬のようだ。じつに情けない。
連れ立って道を歩いた。左手には田んぼが広がっていて、少し青みがかった稲が頭を垂れている。収穫の時期にはまだ早いが、立派に育っていた。風に揺られている稲を眺めていると酷くお腹が空いていることに気が付く。暫くまともにご飯を口にしていない。それは隣を歩いている男も同じだった。
近くの堀から水の音が聞こえた。木の葉の向こうからは蝉の鳴く声がしている。日が傾いていた。時刻にしたら昼の四時くらいだろうか。隣を歩いている膝丸はいつの間にか布を被っていて、せっかくのきれいな顔がほとんど見えていない。
どうしていちいち布を巻くのか。疑問をそのまま口にすると、彼は深く息を吐いた。
「本当の髪を見られたら大変なことになる。この時代に薄緑色の髪などありえない。それに、この顔はやけに目立つらしい。行く先々で女が声をかけてくるから、本当に困る」
沈み込みそうな程に暗い声だった。ふぅん、とついた相槌があまりにも心が入っていなくて申し訳なくなってくる。正直、ぜいたくな悩みだと思った。
「この時代の人とは一緒になれないのかな。かえって受け入れてくれそうな気もするけど」
頭上に広がる羊雲をぼんやりと眺めながら呟く。膝丸は糸が切れたように黙りこんでしまった。ぴたりと足を止めてしまう。繋がったままの紐が、引っ張られる。
訝しく思って後ろを振り返ると、背筋に冷たいものが走った。膝丸は道端に茫然としたまま、首が取れるのではという程の角度で下を見つめていた。手はだらりとたれている。顔のほとんどを布が隠しているので表情が分からない。
只ならない雰囲気に恐怖しながら、でもこのままでいることも出来ないので、大きく息を吸った。
「膝丸? 大丈夫? 具合が悪いの?」
何度か呼びかけると、男は寒気を感じたかのように体を震わせてゆっくりと顔を上げた。――ふたつの瞳と目があう。正直ぞっとした。感情が抜けきったような色をしていたからだ。
あきらかにようすがおかしい。逃げ出したくてたまらなかったが、心を決めて一歩、また一歩と近づいた。
膝丸は未だにぼんやりとしている。
とうとう手を伸ばしたら触れられる距離まで来たとき、微かに口が動いた。
「お……、は」
「え? なに? ごめん、聞こえない」
「俺は……ちゃんと、存在しているのだろうか」
微かな声が耳に届く。体が勝手に動いて、気が付いたときには両手を握り込んでいた。
「大丈夫。ちゃんといるよ」
安心させるように伝えると、男は瞳を大きくさせた。握った手に力が宿る。寒気を感じた時みたいに一度だけ震えると、体の中のものを出し切るように長く息を吐いた。
「すまない。少し疲れているみたいだ」
「ずっとおぶっていてくれたものね」
そっと手を離す。男は離れていく指先をぼんやりと見つめていた。
「早く町に行って、宿で休もう」
背中を軽く叩きながら言うと、彼は不器用に口の端をあげた。

町に入るとすぐに宿が見つかった。いつもより少しだけ値段はしたけれど比較的綺麗な部屋だった。日が落ちて少し経っているので薄暗いが仕方がない。隅に布団が二組置いてあったので、畳に広げる。猫みたいに体を滑り込ませるとため息がもれた。一部始終を眺めていた男は少し悩んでいたけれど、無言で背を向ける。壁に背をつけるようにしてしゃがみ込んでしまった。
「寝ないの?」
薄い布団の中から顔を出して不満をたっぷりと込めて呟く。綺麗に正座をした膝丸は刀を腰から外すと、自分と平行になるように置いた。
「あぁ」
「どうして?」
すぐに沈黙してしまうので、呆れて背を向ける。瞳を閉じると果てしない暗闇が広がった。
「寝ているうちに、逃げてしまうのが怖いから?」
独り言みたいに呟くと、ざりっと何かが擦れる音がした。ぴりぴりと緊張した空気が伝わってくる。
目を離したすきに逃亡すると予想するのも無理はない。現に、旅の間中ずっと逃げるチャンスをうかがっていた。リードのように繋がれている赤い紐を何とか断ち切ることが出来ないかと、頭を回転させていた。
でも。さきほど見た姿には、心を動かす何かがあった。逃げるということは、見捨てると同じことだった。
また置いて逃げるのかと、もう一人の自分が意地悪く囁く。頭を振って否定するが、心の奥では既に肯定していた。
人はあまり変われないのかもしれない。私はなんども同じ過ちを繰り返している。
そして――恐らく、この男を置いて行ってしまう未来はそう遠くないだろう。背中に突き刺さる視線を感じながら、そんなことを思った。

いつの間にか眠ってしまっていたようで、気がついたら朝になっていた。昨日は窓を開けたままにしていたので、日差しが眩しい。
呻きながら光をよけるように寝返りを打つと、金色の瞳とぶつかった。
「……。本当に、寝なかったの?」
起き抜けのかすれた声で尋ねる。やや崩れた姿勢で座っていた膝丸は重々しく頷いた。
暫くぼんやりとしていたが、また眠気が襲ってきて、とろとろと瞼をとじる。
膝丸はまた眠るのか、という顔をしていた。だけど、それを言葉にすることは無かった。

結局、次に起きたのは昼だった。一時間くらい眠っていたらしい。障子戸の向こうからガヤガヤとした生活音が聞こえる。ぼんやりと瞼をあけると、あいもかわらずに男がこちらを静かに見据えていた。すっかり馴染みなってしまった視線に、うんざりとしながら体を起こす。
立ちあがり浴衣の帯に手をかけたのを見て、膝丸は表情を変えずに背を向ける。
「ねぇ」
なんの前触れも無く声を掛けると、驚いたのか体を跳ねさせていた。
「やっぱり一回外してもらわないと、着替えられないよ」
紐があると脱いだ服が抜けないのだ。それに新しい服に袖を通すこともできない。中途半端に帯を外した状態で待っていると、やっと男は諦めたように振り返った。
目があった瞬間に逸らされる。黙って手首を差し出すと、膝丸はなるべく体を見ないようにしながら紐をほどいてくれた。なんとなくため息を吐きながら新しい着物を身に纏う。目を離すことも、かといってまじまじと観察することも出来ない男は視線を畳のあたりに置いていた。
支度が終わった途端に腕を掴まれ、また手首に紐が巻かれる。せっかく楽になったのに、と心が沈んだ。

数分後、私たちは甘味屋にいた。赤い紐で仲良く繋がれた手首を見た瞬間、店番の娘は瞳を丸くして、「とても仲が良いのですね」と笑った。
曖昧に答えながら隣の男に尋ねる。
「甘いもの食べれる?」
不思議そうな顔をしながらも頷いてくれたので、カステラを二つ注文した。
はい、とお皿に乗ったひときれを渡すと、膝丸は神妙な顔で受け取り、黄色いスポヲンジのようなそれを口に入れる。次の瞬間、瞳が猫のように丸くなった。
「……美味い」
「良かった」
黙々と食べている隣で、何となくリラックスした気持ちで通りを眺める。けだるげな空気が流れている。数メートル先を、太った猫がのんびりと歩いて行った。
特に話すこともないし、やることもないので暫くぼんやりとしていた。
しかし、段々と人が多くなってきて、ずっと同じ場所を占領するのもどうかと思い腰をあげる。
二人で川原沿いを黙々と歩いた。すっかり夏も過ぎ去り、ずいぶんと過ごしやすい気温になった。風が冷たくて気持ちがいい。
膝丸は黙って後ろをついてきていた。布に隠れて口元しかみえないが、発する雰囲気は穏やかだ。
土手にコスモスが沢山生えているのを見つけたので指をさすと、彼はこくんと頷く。花をかき分けるようにして進んだ。適当に乾いた地面に腰を下ろし、仰向けに寝転がると、視界一杯に空が広がる。
湿った土の匂いと、風。
「あなたも座れば」
すぐ近くで亡霊のように立っている男に声をかけると、彼はのろのろとした動きで腰を落ちつけた。大きな体を丸めるように体育座りをしている。
近くには緩やかな川が流れていて、たえず水の音がしていた。本当に時々、魚が飛び跳ねて光が動く。
穏やかな昼下がりだ。風が山のほうからやってきて、体の表面を通りすぎていった。
暫く無言でそうしていた。どのくらい経ったのだろう。半分眠りかけてきたころ、微かな声が耳に届いた。
「君は、どうしてこの時代にいるのだ」
「知りたい?」
むっくりと上体を起こしながら言うと、彼はそっと頭の布を取った。
真っ直ぐな瞳で見つめてくる。
「知りたい。とても」
瞳は好奇心に縁どられていた。本当にぎりぎりまで迷ったが――あと少しの所で踏みとどまる。
「元の本丸に戻るって決めてくれたら、教えるよ」
期待を裏切られた膝丸は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「性根の悪い娘だ」
「そうだね」
本当に心から同意する。だから、早く離れないといけない。
刀の残像が瞼の裏に現れる。このまま一緒にいたら、私の中にある汚い淀みがうつって、みるみるうちに錆びていってしまう。
そんな、馬鹿な考えが浮かんだ。

山のふもとは日が沈むのが本当に早い。さっきまでぽかぽかとしていたのに、もう気温は冷たくて、地平線が淡いピンク色に染まっている。
「おなか空いたね」
独り言のように呟くと、それに答えるように隣から、ぐぅと寂しい音が鳴った。軽く笑いながら立ち上がり、体についている草をパンパンと叩いて落とす。
「ずっとろくなものを食べていなかったものね」
男はお腹を押さえながら少しだけ困った顔をしながら頷いた。
昼に歩いた道を戻る。足取りは軽い。
今日も同じ宿に泊まることになっていた。
お金は、なぜか全て膝丸が出してくれた。どんどんと借りがたまってしまうのが嫌だったが、決して首を縦に振らなかった。昨日泊まったところは比較的清潔だったけど、その分、値段もそれなりだった。
途中で馬小屋を通りかかった時にふと思った。納屋みたいなところでも全然かまわないのに、と。一時期なんて、掘っ立て小屋で寝たこともあった。もちろん、心地が良いとは到底言えない。必ずといっていいほどにうなされたし、硬い地面に横たわると、肘や骨があたって次の日が辛かった。
そんな事情を差し置いても、お金は大切に使わないといけない。いつも値段の高い宿に泊っていたら、お金はすぐに底が付くだろう。
なのでこの間、旅支度をしながら、もっと安い所でいいときつめに言った。
「今だけは、いい恰好をさせて欲しい」
口の中でもごもごと言いながらもさっさと会計をしてしまったので、閉口してしまう。
もらってばかりは嫌だった。体の奥がむずむずする。出会ってから助けてもらってばかりだ。屋敷での一軒もそうだし、森の中でのこともそう。
「苦手な食べ物とかある?」
「特にない」
「肉も、魚も平気?」
「あぁ」
「お酒も飲める?」
「もちろん」
何となく行きたいところが浮かんだ。
こっち、と先導するように一歩前を歩く。膝丸は文句も言わず影のようについてきた。
だんだんと家が多くなってきた。煮物屋などがぽつぽつと現れて、路上で数人の男が食事をしている。煮物屋は独身の男には重宝されているようだった。何回か利用したことがあるが、家庭的な味で美味しかった。
居酒屋と書かれた暖簾を目にして足をとめる。後ろを振り向いて目線だけで確認すると、膝丸は同意するように頷いた。
中は意外に広かった。居間があり、その手前に長い椅子がある。奥がお座敷のようになっていた。大勢の人が手を叩き、ほとんど宴会のようになっている。
賑やかな笑い声を避けるようにさらに奥へと進む。ちょうど影になっている場所に長椅子がおいてあった。何の相談もなしにそこへ腰掛けると、数秒遅れて、一人分離れたところに膝丸が座った。
何となくひと心地ついて喧騒を眺める。宴会のようすを見るのは好きだった。でも、近づきすぎるとかならずといっていい程、酔っ払いに絡まれてしまうので注意が必要だ。
店の人に酒と適当な食事を頼む。娘はにっこりと口角を上げたが、次の瞬間、申し訳なさそうな顔を浮かべた。
「少し待たせることになるかもしれません」
「気にしないで。気長に待っているから。あ、でもお酒だけ先にもらえると助かります」
ありがとう、と言いながら娘は奥へと消えていく。首筋に透明な汗が光っていた。
「可愛い子だね」
「かわいい、か」
「うん。……言っている意味、よく分からない?」
頭蓋の裏側を覗くような顔をしている男に不安を感じて尋ねる。彼は暫く思案した後、いや、と首を振った。
「言葉の意味は理解できるが、俺は特にそう思わなかった」
「そう。なんか膝丸って心が無いみたいだね。淡々としているし、あんまり感情を表に出さないし」
思ったままを口にすると、彼は一点を見つめて動かなくなった。そして内側から絞り出すような声を出す。
「……そんな、ことはない。表に出ないだけで、俺だとて、感情が――心がある」
必死に言葉を紡ぐ姿に、一瞬だけどきりとした。何気ない一言で傷付けてしまったのだろうか。体を前に倒しながらじっと地面を見つめている男の背中から不穏な空気がたちこめているようで、なんだか落ち着かなかった。
やっぱり謝ろうと口を開いたのと同時に、二人の間を割って入るように酒が置かれた。「お待ちどうさま!」と明るい声が響く。お盆のような板の上に熱燗が乗っていた。徳利をもって口を相手に向ける。意図に気が付いた男は、お猪口を持って差し出した。
「いや、駄目だ。俺が先に注がねば。貸してくれ、主」
「いいよ、いいよ。もう主じゃないから」
酷く慌てたようすに笑いながら日本酒を注ぐ。彼は暫く表面を見つめて、大事そうに小さなお猪口を両手で包んでいた。
「ちょっと。すぐ飲まないと、ぬるくなっちゃうよ」
自分の分に手酌で注ぎながら告げると絶望的な顔をしたので、今度は心から笑った。
そうこうしているうちにお膳の上がごたごたになっていた。湯豆腐やら、しょうさいふぐのすっぽん煮、ねぎまなどが、腰かけの部分に置かれていく。
「こんなにいいのか」
「いいよ。膝丸が来てくれなかったら、たぶんあそこで死んでたし」
口にすると随分と軽い言葉だと思いながら、箸で湯豆腐を割った。つるんと白くて、小ねぎが乗っている。口に運ぶと冷たくて、淡い豆の味が広がった。
美味しい。お腹が満たされると心まで満たされる気がする。
そんなことを思いながら何となく男に目をやると、ぎょっとして箸を落としそうになった。
膝丸は目の端に涙を浮かべていた。膝の上に置いた拳がかたく握り込まれている。
「どうしたの?」
「簡単に、死ぬ、なんて……言わないでくれ」
「ごめん。軽率だったね」
いつの間にか被っていた布は外されていた。手を伸ばして頭の上に手のひらを乗せる。そのままするすると撫でると、突拍子もない行動に、膝丸はあっけにとられたように口を開けた。少し遅れて桜の花びらが一枚舞ったので、くすくすと笑う。
「君は酒が弱かったのだな」
「そんなことないよ」
相手のお猪口にとぷとぷと日本酒を注いだ。零れないように慌てて支えているさまが可笑しくて声を上げて笑う。
「たのしいね」
そっと耳打ちをするように体を寄せて呟くと、男は調子を合わせて顔を寄せてくれた。そうしているうちに角板の上に小さな皿が置かれる。味噌に煮詰められたそれは、熊肉だった。
「荷物をとっていった熊かな」
箸でつつきながら忌々し気に呟くと、呆れたように彼は笑った。
それから。思いのほか楽しく時間は過ぎていった。時間が経つにつれて周りも出来あがってくる。その雰囲気だけでも酔ってしまいそうだった。
本丸ではここまでお酒を飲む事はしなかった。初期刀に止められていたのだ。彼は美しい物をこよなく愛する人で、だらしなく酔った姿を見せると、不快そうに眉を寄せていた。
でもそれも遠い昔のことのように思える。隣の男も、もしかしたら、はしたなく顔を赤くして笑っている自分を見て幻滅しているかもしれない。そのまま嫌いになってくれたらいい。こんな人が主だったなんて心外だ、と言って。
日本酒は気がつけば三つも空になっていた。空いているものに手を伸ばそうとすると、優しく手を握り込まれてしまう。男の皮膚は冷たくて、火照った体を程よく冷ましてくれる。
ふわふわとした気分まま近くにある瞳と目をあわせる。男は全く目を逸らさなかった。吸い寄せられるように顔を寄せてくる。
キスをする寸前の恋人のような距離感が可笑しくて、体を捩りながらお腹から笑った。膝丸はこまったように苦笑いをしている。
お腹が満たされたしお酒も沢山飲んだので、店の外に出た。夜風が冷たくて心地いい。手は自然と繋がれていた。自分の熱がうつってしまったのか、手のひらも、指先も、ずいぶんと熱かった。
草の影から虫が鳴いている。りりり、と悲しい音が響く。上を見ると、満月が夜空に浮かんでいた。
足元がおぼつかない。まるで雲の上を歩いている気分だった。心愉しくてたまらない。
子供のように繋いでいる手を離して腕に縋り付くと、触れている部分がガチガチにかたくなった。緊張が肌から伝わってくる。それすらも可笑しくて、ふふ、と笑った。酔っ払いとは厄介だと他人事のように思う。
覗き込むように見上げると、引き締まった口元が見える。
「いや?」
袖から見えている部分をすりすりと撫でながら聞くと、男はひとつだけ身震いした。
「嫌というか……。困惑している。あまりにも、普段と違いすぎて」
「そんなことないよ」
否定はしたが、言ったそばから既に納得していた。多分、普段の自分は物静かなのだと思う。無口だとよく周りから言われていた。何を考えているか分からない、とも。
昔は他人の評価が気になって仕方がなかったけれど、今はそうでもなかった。
自分のことを知る人の居ないところで生きるということは、途方もなく寂しいことだ。でも、その何倍も心が落ち着いた。
だからこそ、唐突に現れた膝丸に対して、形容しがたい気持ちを抱いている。それは喜びとは程遠いものだった。
二年も探したと言っていた。ちょうどその頃に過去に飛んだから、ほとんど後を追いかけて来たことになる。
そこまでを考えて、執念にぞっとした。何が彼を突き動かすのだろう。持ち主に執着するのは物の宿命なのだろうか。だとしたら、少し可哀想な気もした。
なんとなしに指先を絡めると動揺が伝わったので、軽率に触れたことを少なからず後悔した。
歩いているうちに段々と酔いも覚めてきたし、嫌がっている人に無理やりベタベタとすることははしたないことだと思った。今さらのような気もするけれど。
「ごめんね」
風が吹くと少し肌寒い。落ち着いてきたので、へらりと笑って距離を取る。
体が後ろに引っ張られ、慌てて振りむくと、手綱を持つように紐を掴んでいる男がいた。やってしまった、という表情をしている。
「嫌ではない。全く」
と言いながら、左腕を差し出してくる。一瞬で意味を理解した私は、猫のように近づき腕を絡ませた。
「さっきの言葉の意味がようやく分かった」
「意味って?」
何の話? と首を傾げながら下から見つめると、男は重々しく俯いた。前髪が表情を隠している。だけど、耳元がとても赤かった。
「酔って、たががはずれた君は、とても愛らしい」
「ふぅん。お世辞でも嬉しいよ」
絞り出すように言ってくれた言葉を耳にして、衝動のまま抱きつく。目の前を桜の花びらが何枚か舞った。触れている部分があつい。それが酔っているせいなのか、はたまた別の理由なのか、今はよく分からない。
その時、すっと視界の隅で動くものがあった。夜空の向こう側に矢のように飛んでいく影が見える。
一瞬で体が氷のように冷たくなる。
もう、ごっこ遊びは止めないといけない。
馴染みの羽音を聞きながら、そう思った。

二階へと続く階段を、千鳥足で歩く。わざと酔った振りをして撓垂れかかれば、横の腹に手が回り込んできて、ぐっと体を支えられた。
不意討ちの行動に心臓が大きく跳ねたが、意識して深い呼吸を作った。膝丸に返してもらったお金は無くさないように懐に入れてある。他の持ち物は全て熊が持っていってしまったので、心残りは何もなかった。
男の腕が襖を引いた。足を一歩踏み入れると行儀よくならんだ二つの布団が目に飛び込んでくる。昼の間に天日干しされていたのか、ふかふかとしていて柔らかそうだった。
視線を壁側に向けると、開け放たれた窓の柵の所に小さな鷹がいた。足に何か紙切れが括りつけられている。鷹は目が合うと小首をかしげた。
息を詰めた。絡めていた腕を乱暴に振りほどき、相手の胸ぐらを掴む。人の変わったような動きに膝丸は目を丸くしていた。
懐に入り込む。相手の体が前のめりになり、背中にうける重さを流す――ばん! と激しい音が鳴った。
背中からしたたかに畳に打ち付けられて、膝丸は金魚みたいに口をパクパクとさせていた。息が出来ないのだろう。流れるような動きで馬乗りになり、首もとにピンと張った布をあてる。
「楽しい時間は終わりだよ。首の骨を折られたくなかったら、これを解いて。私を自由にして」
布を容赦なくぎりぎりと食い込ませると目の端に生理的な涙が浮かぶ。
このまま続けると失神してしまうかもしれない。
べつに殺したいわけではない。
早く解いて。自由にしてほしい。
圧をかけるように睨みつけた。頸動脈を圧迫されているからだろうか。僅かに首元が膨れている。息が上手く吸えない辛さに苦悶の表情を浮かべながら耐えている。
さらに強く布を押し付けると、男の顔が苦痛に歪む。
抵抗するためか、手が伸びてくる。抵抗する気か。体を緊張させ、次の手を考えた。だが、予想に反して、それは喉元をこえて、輪郭をなぞった。
「……え?」
いたわるように頬に触れられる。きかない子供を諭すような手つきだ。
驚いて手を緩めてしまった。弾かれたように身を引くと、解放された男は虫のように背を丸めて激しく咳き込む。息が吸えなかったからか、顔を真っ赤にしている。荒い呼吸の音だけが響いていた。
「どうして……なんで?」
首についてしまった赤い跡を見つめる。
そっと自分の頬に触れてみた。内側から火を灯されたように熱い。
「どうしても、俺と離れたい、のなら」
げほげほと咳き込みながら男が言う。とても苦しそうだった。丸まった背中。白い肌が月の光を受けて内側から光るように浮かびあがっている。
「どうか、首を折ってくれ。気を付けろ。俺は蛇のように執念深い。体から完全に切り離さないと、這ってでも追ってしまうやもしれん」
膝丸は赤くなって首を擦りながら、はっ、と自嘲気味に笑った。
「無様だよな。自分でも、そう思う」
「どうしてそこまで固執するの?」
本当に分からなくて混乱する。畳にぺたりと座りながら目の前の男を見つめた。
「理由を教えて」
膝丸ははっとして、何か言いたげに口を開けたけれど、強く下唇を噛んだ。そして首がもげそうな程に下を向く。
「駄目だ、言えない……。本当に申し訳ない」
数分待ったが男は項垂れたままだった。畳に置いていた指先に硬い感触が伝わる。はっとしながら視線を向ければ、鷹がくちばしを擦り付けていた。頭を左右に振りながら、撫でてほしくて催促している。
空気が重くなっている。普通の人間なら死んでいたかもしれない。そんな行いをされたのに、この男は怒ろうともしない。無抵抗に受け入れていた。
胸の内に苦いものが広がっていく。
どうすればいいのか分からない。心の中をぐちゃぐちゃにさせられながら、細い小枝のような足に括られている紙を外す。中にさっと目を走らせ、内容を頭に叩き込んだ。
「気持ちは分かったけど……私じゃどうしようも出来ないよ。政府には貴方が来ていることを報告するし。いくら何でも、政府だって黙ってはいないはず」
息を飲む音が静かな室内に響く。視線をそちらに向けると、自分を抱え込むようにして、男が畳を見つめていた。
「政府も馬鹿ではない。全て知っているだろう。前の主だって、もうとっくに分かっているはずだ」
確かに、と思う。でも変だ。長いこと放っておいたことになる。
今の私たちは危険因子なはずだ。歴史を壊しかねない。百歩譲って私は平気だ。人間だから。
たいして膝丸はどうだ。姿かたちはかろうじて人間だけれど、身体能力や雰囲気はそれらから逸脱している。そして何より、彼は年を取らないのだ。
暫くあれこれ考えていたけれど、結局まともな答えが浮かばないので、早々に思考を放棄した。考えても意味の無いことだ。分からないことは、いくら考えても分からない。
この数分でとても疲れてしまった。また失敗に終わった。拘束は未だ解けない。ここまでして駄目だったらもう無理だろう。
重いため息をついていると、男の影が動いた。
しらけた空気が流れていた。いつものように壁際に行こうとする膝丸の手をとって立ちあがらせる。彼は心から驚いた顔をしていた。そのまま布団の上に強制的に座らせると、もう一組の端をぴたりとあわせて先に滑り込む。
上目遣いをすれば困惑した二つの瞳とぶつかる。
「これなら逃げようとしてもすぐ分かるでしょ。いい加減寝て。ずっと見られているのは嫌。休みたいのに眠れないよ」
脅してまで逃げようとしていた人が何を言っているだと、もう一人の自分が呆れている。でも、全てが失敗に終わってしまったので、少々投げやりになっていた。
敷布団は煎餅のように薄く寝心地がいいとはいえない。それでも、横たわると疲れがどっと出てくる。
体は隅々まで疲弊しているのに、心は高揚していて、あまり眠気はおとずれなかった。
暫くぼうっと布団を見つめていた男は、観念したようにため息をつくと、酷く怠慢な動きで布団を捲った。ゆっくりと慎重すぎる動きで体を横たえる。
むかいあって、まじまじと見つめあう。暗闇の中で二つの瞳が爛々と輝いていた。
「お願いだから目を閉じて。怖い」
「すまない。それはできない。……ここまでされたんだ。信用なんて出来ないだろう」
首もとに指を走らせながら男は言う。縄を当てた部分の皮膚が、みみずばれのように浮きあがっていた。
途端に申し訳なく思って、指先で赤い跡に触れた。
「ごめん。私がこうしたのに。触られるのも嫌だよね」
「だから、嫌ではないと何度も言っている」
触ると痛いのだろうか。きゅっと寄った眉を見つめていると、閃きが浮かんだ。
「手を出して」
困惑しながらも、膝丸は素直に手を出す。ごつごつとした指だった。普段刀を振るっているからか、手のひらが私よりずっと厚い。それを左手で握りこんだ瞬間、感嘆のため息が耳に届いた。
心のなかで念じれば、首すじの赤色が少しずつ薄くなっていく。
手というのは不思議だ。人を傷付けることもできるし、こうして癒すこともできる。
静かな夜だった。冷たい風がなだれ込んできて、窓を開けたままだということに今さら気がついた。
「あのね。旅をしている理由だけど、私は生まれつき霊力が高いらしくて、よく、変なものが寄ってきてた」
「言わないのでは無かったのか」
「気が変わっちゃった。まぁ、独り言だと思って聞いて」
額縁のような窓の向こうに星空が見える。空気が澄んでいて綺麗だった。
「もといた世界で、霊力があることはいいことだから、政府からの評価は高くなった。それで力を貸したの。言われたままに相手を沢山消した。敵の中でも脅威になったんだと思う。だんだんと、個人を狙うようになっていった」
それ以上は上手く言えなかった。過去が追いかけてくる足音が聞こえる。
「俺が力不足だったからか。あのとき君を守れなかったから」
「全然違う! これだけは言える」
勇気づけるように握った手に力を込める。首の跡はほとんど見えないくらいに薄くなっていた。
「ほっといても狙ってくるから、旅をしながらついでみたいに戦っているの。でも私は老いるから、いつかどこかで力尽きて死ぬんだと思う。野生の動物みたいに。でもそれは全然嫌じゃないの。言いたかったのは、それだけ」
死に場所を探してさ迷っているようなものかもしれない。審神者になった時点で帰る場所なんてなかった。でも、特に帰りたい場所もなくて、それはそれで寂しいことだとも思った。
重く沈んだ空気を変えるように頑張って口角をあげると、膝丸は何を思ったのか、力強い瞳で頷いた。
「朧気だが理由は分かった。この膝丸、君の刃になり敵から守ると誓う」
左手の人差し指を額にあてられる。瞬間、体に電気のようなものが走った。
ばちっと視界が煌めく。
「な、なに? 今、何をしたの?」
困惑している私を置き去りにして、彼は力を抜く。手はしっかりと握られたままだった。
数秒後に聞こえてきた微かな寝息を耳にし、やっと布団に身を任せる。眠れなかったのが嘘のように、意識は泥のように沈んでいった。