劫火_02 - 2/3

起きた時には昼過ぎだった。太陽が眩しい。
頭の奥がぼんやりとしている。少し動くとこめかみに刺すような痛みが走った。心臓のリズムにあわせて稲妻みたいにつきぬける。この感覚には覚えがある。二日酔いだ。
思わず顔を顰めながら脇を見ると、穏やかな寝顔があった。
良かった。今日はちゃんと眠れたみたいだ。左手に違和感があり視線を向けると、未だにしっかりと握り込まれていた。
少し――いや、かなり力が強いので指先の感覚が無い。かたまった指の一本一本を苦労しながら外していく。右手に括られた紐と同様、外すのが難しかった。
押したり引いたり、はたまた布団に押し付けたりを繰り返して、なんとか外した。自由になった左手首を軽く振りながら男を見つめる。さっきとは打って変わって、眉間に皺を寄せていた。
小さく唸りながら手を伸ばしている。何もない布団の上をかさついた手のひらが滑る。ううう、と言いながら必死で何かを探していた。寝ぼけながらも求めているものが何かすぐに分かって、胸に痛みが走った。
仰向けになり、黒い天井を見つめる。
可哀そうだ。とても。
どこだ、どこだと譫言のような声を聞きながら、どうにか彼を解放できないかと考えた。
物というのはこうも持ち主に依存してしまうものなのか。本能ともいえる行動に恐怖をおぼえる。
主、という呼び方も昔から苦手だった。偶像を求めているような気がしたから。
結局、自分でなくても全く問題はないのだ。次の替えを用意したら手のひらを返す。だって彼らは人ではないから。
そう思っていたのに。何事にも例外があるのだろうか。
なんだか思考がまとまらない。
それはきっと起きたばかりで、そして、昨日たくさん酒を飲んだせいだった。
もうどうでもいい。唐突に投げやりな気持ちがぶりかえす。四肢を投げ出して息を吐くと、左側から衝撃が来た。口から、ぐえっ、と変な音が出る。慌てて顔を上げると、寝ぼけた男が体にへばりついていた。
「やっと、見つけた」
耳元でささやかれて体がぞわぞわした。「もうそれは最初に聞いたよ」と冷たく言いながら大きな体を押しのける。が、べったりと餅のようにくっついてしまって離すことができない。
そうしているうちに深い寝息が聞こえてきて、何となく手持無沙汰になってしまい、開いているほうの手で髪を撫でた。胸元に顔を押し付けている姿は心音を確認している医者のようだ。
どんどんと体の力が抜けていき半身が重たくなる。穏やかな寝息を聞いているとまたもや睡魔が襲ってきて、瞼をとじると優しい闇が広がった。

いつの間にか夜になっていた。膝丸がすぐ隣で正座をして、置物みたいに地面を見つめていた。
「おはよ……。よく眠れた?」
ふぁ、と欠伸をしながら聞くと、彼は神妙に頷いた。
「久方ぶりにぐっすりと眠れた。だが、君に謝らないといけない」
「あぁ。抱き着いていたこと?」
びく、と肩を大きく震わせて男は頷く。むっくりと上体を起こしながら、一連の出来事を思い出した。でも、かしこまって謝る程のことでもない気がする。
「いいよ別に。気にしないで」
はぁ、とため息をつきながらずりずりと膝立ちで窓際へと歩いて行く。開け放たれた窓から町が見渡せた。今日は一段と賑やかだった。何かお祭りをやっているのかもしれない。
懐から小さな紙を取り出して文字を追っていると、近くに人の気配がきた。
「政府からは、なんと」
隠しきれない怯えが滲んでいて、少しだけ笑った。
「まだ言っていないから。今回の便りで伝えるよ」
男はじりじりとしながら拳を膝の上に置いている。まだ何か聞きたそうだったので、言葉を続けた。
「西で子供がいなくなっているから、調査して。だって」
「いつもこのように行く所が決まるのか」
「うん。大体はそう。でも指示が無い時は、やることが無いから、昨日みたいにぶらぶらしてるよ」
よいしょ、と張り出した床板部分に腰掛けながら町を眺めた。たっぷりすぎるくらいに眠ってしまったから、全く眠くない。頭もすっきりとしていた。下の方から人の話し声が聞こえる。それらを聞いていると少し心が落ち着いた。
ぶらぶらと片足だけを外に投げ出しながら喧騒を覗くと、そっと服の裾をひかれる。
「落ちたら危ない」
「大丈夫だって」
笑いながら、いいこと思いついた、とばかりに振りかえる。膝丸は片方の眉を綺麗にあげた。
「夜の街を散歩しよう」
一瞬きょとんとした男は、次の瞬間、ゆっくりと頷いてくれた。

身支度を整えて宿の外に出る。まず目に入ったのは赤い提灯だった。道に沿うようにずらっと向こう側まで続いている。
なんの相談もなしに道をぶらぶらと歩く。今日も満月だった。卵の黄身みたいな月が夜空に浮かんでいる。
この時代の人たちは、年から年中祭りをしていた。言葉の端々で、月とか、収穫、という単語が耳に入ってくる。何となく、それらに関連する催しだと予想した。
奥に近づくにつれて人が多くなってきた。沢山の屋台が見える。金魚すくいやら、団子屋。はたまた反物を売っている店も。――結局の所、なんでもいいのだ。
祭りがある種の出会いの場だということを、最近知った。一人でこのような場所にいるとやたらと声を掛けられる。それにいちいち断るのが面倒で、最近は避けてすらいた。
「何か食べたいもの、ある?」
「特に無い」
と、仏頂面で男が答え、すぐに会話が終わってしまった。ほかの人といる時は何かしゃべらないといけない、と頭を回転させて、酷く気を使ってしまうが、この男と歩いているときにそういうことは一切無かった。心の奥で物だと思っているせいだろう。
物だから、人とは違う、神様だから人とは違う。
そんなことを考えながら歩いていると、低い声が聞こえた。
「……、お嬢さん。占いやりませんか」
建物の影に男がいた。膝丸と同じように頭に布を被っていて、顔の下半分から覗いている唇が弧を描く。白い着物に身を包んでいた。地面に直接ござが敷れていて、そこに立膝をつきながら座っている。
何度目かの「お嬢さん」のあとで少々迷ったけれど、にっこりと笑いながら足を向けた。
傍までより、子供のように座り問いかける。
「何を占ってくれるの?」
「気になることは、なんでも」
飾りのように置かれた水晶玉。細長い指がつるりとした表面をなぞる。何か見えているのだろうか。口をわざとらしくへの字にしながら唸っていた。そして、思いついたように顔を上げる。
「蛇に気を付けて下さい」
「へび? 狐じゃなくて?」
乗っかるように返事をして、ふふと笑う。男は口角をぎゅっと上げた。なんだか口が裂けたような印象になる。
「じゃあ、私も貴方のことを当ててあげる」
そっと耳打ちをするように体を傾ける。布から僅かに銀色の髪が見えた。
「本物の人間みたい。とっても上手に化けているね」
男は驚いたように瞳を大きくさせて、遅れてにんまりと笑った。頷くと同時に、勢いよく体を後ろに引かれる。
「主。離れろ、彼奴は危険だ」
「遅いな。女の方が数倍速く気が付いていたぞ」
笑い声が反響する。男は立ち上がり袖を振った。景色が真夏の蜃気楼のようにゆらぐ。煙が立ち込めて――辺り一面が真っ白になった。
濃い霧が立ち込めている。あれほどいた人がいなくなっていた。
いつの間にか刀を抜いた膝丸が隣に控え、まわりを警戒するようにぎらぎらと目を光らせている。
警戒を怠らない男と背反するようにして、私は子供のようにしゃがみながら、興味深く目の前に生えている鬼灯の花を見ていた。内側から火が灯っているように発光している。
「刀を収めて」
「しかし」
「大丈夫。それに、誤解されたら面倒だよ」
膝丸は散々迷った挙句、そっと刀を鞘に納めた。キン、と硬質な音が辺りに響く。
「ここは、どこだ……?」
「うーん。私にもよく分からない。初めての経験だから」
だんだんと霧が晴れてきた。それにつれて、異常な光景が目の前に広がる。
遠くの開けた空間に屋台が軒を連ねていた。ざっと数えただけで数百はある。飴屋、寿司、そして的屋などが見えた。
ここは山道で人気が無い、一本道だった。向こう側は沢山の人でごった返している。影が手をひらひらとさせる。そして飛び交う笑い声。
だが、正確には――人ではない。彼らは人と同じ服を着ていたが、造形はまるで違っていた。全身に鳥の羽が生えた者。猿の姿をした者。体中に目玉が張り付いたモノ――。
あっさりと境界を越えてしまった。全く違和感なく来られたことに内心で舌を巻く。それは、あの男の力が膨大だということを意味していた。
遠くで揺らめいている光を眺めていると、誰かが歩いてくるのが見えた。
トテトテと小さな歩幅で近づいてくる。腕にはひとつの鬼灯を抱えていた。それは内側から発光していて、半径一メートルほどの道を照らしている。
背丈は小学一年生くらいだった。頭に耳が生えていて、全体が黄土色の毛に覆われている――小さな子狐だった。
「え?」
あと、数メートルという所で彼は素っ頓狂な声を上げた。瞳は細く、目をあけているのか閉じているのかよく分からないが、震える手で此方を指さして声を発した。
「に、人間がいる」
頼るように鬼灯を抱きながら怯えた様子で呟き、私から隣の男に視線をうつした。
「あれ。でもこっちは人間じゃない。でも……」
「変な男に化かされちゃった。自分から来たわけじゃないよ」
先手を打って言うと、彼は小さな手を顎に当てた。
「もう。あの人は。悪戯はやめてって、あれほど言っているのに」
遠くを見つめながら低く唸っている。小さなぬいぐるみが喋っているみたいで可愛らしい。怖がらせないように身を屈めて、なんでもないような気軽さで尋ねる。
「ここから出る方法、知ってる?」
子狐は得意げな表情をした。
「もちろん。でも、ただじゃ教えてあげない」
だろうな、と思いながら困ったふりをする。悲しみに暮れた表情を作り地面を見つめた。ついでのように肩を震わせて泣いているふうを装う。
狐の子は私の泣きまねを見て、酷く慌てたように手に持っていた鬼灯を空中に放り投げた。小さな前足で必死に肩をさすってくれる。
人に悪さをする存在ではないようだ。手のひらから伝わるのは、子供特有のあたたかさだった。
「大丈夫だから、泣かないで。だけど、ただで助けることは出来ないんだ。だから、協力してほしい」
「何をすればいい?」
ぱっと顔をあげて問えば、彼はしまった、という顔をした。演技だと気づいたようだ。
思い直したように放り投げてしまった鬼灯を拾い上げると、小さく声を発する。
「僕のお父さんを、一緒に探して」
「いいよ。まかせて」
完結に答えると、彼は切れ込みのような瞳を限界まで大きくした。
「本当に? ずっと探しているんだけど、全然見つけられないんだ」
「大丈夫。最後まで手伝うよ。無事に見つけられたら、現世に戻る道を教えてね」
「わかったよ」
すっと小指を差し出すと、彼は躊躇なく小さな指を絡めてきた。しっかりと指切りをする。
それから親子のように手を繋いで歩いた。温もりが伝わる。手のひらは細かい毛に覆われていて、ふにふにとした肉球の感覚がした。彼は見上げるようにして尋ねる。
「お姉ちゃんとその人は、どうして紐で繋がれているの?」
ちら、と右手に括られている紐に目を向けて狐が問う。
「これ? 縄跳びをするためだよ」
「やってみせて!」
隣で歩いている男に視線を送ると、嫌そうに顔を顰めていた。冗談はあまり得意でないようだ。小さな体を持ち上げ腕に抱く。
「ごめんね。今のは冗談で、これはそうだな……。迷子にならないように、繋いでいるんだよ」
当たらずとも遠からずといった答えを言うと、狐は「なるほど」と大人ぶった調子で呟く。膝丸は居心地が悪そうに咳払いをする。
「でもなぜ繋がないといけないの? どうして? 友達じゃないの?」
「うん。友達じゃないよ。それに、このお兄さんとは、そんなに仲良くないんだ」
なにも考えずに口にしたあと、あ、と思った時には遅かった。膝丸から不穏な空気がにじみ出ている。顔色が悪くなっていた。傷つけてしまったみたいだ。でも、本丸に居たときも、取り立てて仲の良い間柄では無かった。気まずい空気のまま黙々と歩いていると、山の入り口に着いた。神社の境内のような階段と、手前に大きな鳥居が現れる。
「この奥にいると思う」
と、弱弱しい声で狐は言った。ぎゅうと小さな前足が襟元を掴む。それを聞いてあることを思いついた。
「お父さんが、前に使っていたものとか持っていたりする?」
「ある!」
勢いよく言いながら、彼はどこからともなく布切れを持ち出した。それは赤く正方形のもので、ところどころ糸がほつれている。
「膝丸、ちょっとお願いしていい?」
酷く焦っている男に狐の子を押し付けると、全身を硬直させて、おそるおそる両手で抱いた。狐の子はぎゅっと肩の辺りを押さえている。
それを横目で見ながら懐から白い紙を取り出す。折り紙を作るときのように折っていって、最終的に蝶の形にした。狐の子の持っている布に触れさせて、左手で印を作る。
次の瞬間、紙の蝶は命を与えられたように動き出した。隣で息を飲む音が聞こえる。羽ばたいている蝶に告げる。
「――持ち主の元へ案内して」
蝶はひらひらと羽を動かしながら前方へ飛んでいった。
「急ごう」
見失わないように気を付けながら声をかける。狐の子は男の腕に抱かれたまま前足で小さく拍手をしていた。
導かれるまま山道へと足を踏み入れた。道に沿うようにぽつぽつと鳥居が立っていて、だんだんと本数が多くなっていく。
何本もの鳥居をくぐりながら黙々と歩いていると、ふいに狐の子が言った。
「僕、考えたんだけど。紐じゃなくて、手を繋げばいいんじゃない? お父さんも良くやってくれたよ。迷子にならないようにって」
重苦しい沈黙が二人の間を満たした。どうしよう。小さな瞳が何かを期待するように右手を見つめている。膝丸は慣れてきたのか片手で楽々と抱いていた。思わず視線を下に向けると、ぴくりと男の指先が震える。
「そうだね。それがいいかも。今度やってみるね」
そつのない返事を返す。ぴりぴりと空気が振動するようだった。膝丸は表情をうかがうように見つめている。
いつもこうだ。お互い言葉数が多いほうではないから、このようなことが起きる。きっと言いたいことが言えないのだ。だから、空気でおしはかっている。牽制し合う野良猫みたいに。
結局よく分からないままだった。どうしてここまで追ってきたのか。なぜ固執するのか。膝丸は理由を教えてくれない。貝のように口を閉ざしている。
先日の夜に詰問しても答えは返って来なかったから、もうそれは脇に置いておこうと思っていた。嫌なら勝手に離れてくれていい。彼には帰る場所があるのだから。むしろそれが一番いい方法のような気もする。たとえばそう、最善の策だと。
でも実際に口にしてしまえば空気が凍る。男の周り、ほんの数ミリの所で黒く淀んでいく。ほとんど憎しみの籠ったような瞳で睨みつけてくるので、どうしていいのか分からなくなるのだ。
まるで手ひどく痛めつけられた動物のような瞳だった。これ以上傷付けられたくないから先に威嚇する。野生動物のような瞳。
いつの間にか山の奥まで来ていた。相変わらず鳥居が道の奥まで続いている。果ての無い回廊のようだった。何本も似たような鳥居をくぐると、同じ場所をぐるぐると回っているような気がしてくる。不安が胸をじわじわと浸食していく。それを押さえるように胸元を握りしめた。
蝶は先導するように空中をひらひらと舞っている。時折左に行ったり、右にゆれたりとせわしない。山道は殆ど明かりが無く、闇が押し寄せてくるような気がした。
ふと後ろの方から笑い声が聞こえた。振り返ると二人が何かしゃべっている。狐の子が腕に抱かれながら身振り手振りで説明をしていて、膝丸はそれに笑顔で答えていた。
柔らかい表情を見て、ふっと焦りや恐怖が遠くへ行ってしまった。後ろの穏やかな会話を聞きながら、私は蝶を観察する。
呼吸に意識を集中させると、蝶は急に方向を変えた。大きな道をそれて脇道へと入っていく。慌ててあとを追った。
崖の下に手のひらほどの小さな鳥居があった。鳥居は良くみると大きなものだけでなく、地面にめり込むようにして何個もあった。そのほとんどが三十センチにも満たない小さなものだ。注意していないと見落としてしまうだろう。
ふらふらと迷っているようだったが、やがて一つを選ぶと、蝶は羽を落ち着けた。
「……見つけたみたい」
そっと後ろを振り返る。ちょうど膝丸が狐の子を地面におろすところだった。
「お父さん!」
ほとんど叫ぶようにしながら鳥居に向かって走って行く。目の前までたどり着くと硬い地面に、なだれ込むように膝を付けた。
泣き出しそうな表情で狐の子が口をひらく。いつの間にか鳥居の上にひとつだけ火の玉が浮いていた。
狐の子は小さな鳥居に向かって何か話をしていた。少しだけ距離をとって遠くから眺める。ずっと術を使っていたからか酷く疲れてしまった。徹夜明けの朝みたいに体がだるい。つい立ったままうつらうつらとしてしまう。
腕を誰かに掴まれる感覚がして、はっと意識を現実に戻した。いつの間にか隣に膝丸が居て、何か言いたそうに眉を寄せている。
だらしない所を見せてしまった。急いで真面目な顔を作って、自分で自分を抱くように腕を組んだ。
しっかりしないと。何となく、弱いところは見せてはいけないと思った。
膝丸はこちらを無表情で見つめていたが、諦めたように息を吐くと視線を前に戻す。狐の子は地面に置いてあった塊を布で包んでいた。丁寧に折りたたみ、端を合わせて結ぶ。
そのまま小さな歩幅で走ってくると、満面の笑みでこう言った。
「ありがとうございました」
膝丸と目を合わせる。目で合図をすると、彼は無言で近づき狐の子を抱き上げた。
「助けになれたのなら良かった。では約束通り、帰り道を教えてくれるだろうか」
「もちろん。こっちだよ」
え、という声が二人の口から零れた。狐の子はまっすぐに頂上を指さしていた。
てっきり下山するものとばかり思っていた。
もうすでに山をだいぶ登っていた。痛み出した足を無視して前を向く。こればかりは仕方がない。心の中でため息を吐いた。
足を踏み出しながら、ここに来るきっかけになった出来事を思い出した。
暗い路地と白い顔の男が浮かぶ。不思議な雰囲気をまとった人だった。にやりと笑った口元を思い出しながら足を進めていると、腕の紐が引かれて体が後ろに傾いた。
「……引っ張るのやめて、って言ったよね」
「す、すまん」
睨みつけながら低い声を出す。狐の子は小さな声を上げて膝丸の裾を掴んでしまった。恐る恐るといったように顔を半分だけ出している。少しだけ胸に罪悪感が沸いた。
膝丸は足元で震えている狐に薄く笑いかけると、まっすぐに近づいてくる。そして目の前まで来ると、地面に膝をついた。
腰の所で上を向いている手のひらをぼうっと見つめていると、「早くしろ。彼を待たせている」という静かな声が耳に届いて、はっとしてしまう。いつの間にか横に狐の子がいた。
「足を怪我していたんですか?」
「う、うん。でも平気だよ」
「そんな! ごめんなさい。沢山歩かせちゃった」
おろおろと手に持っていた鬼灯を振り回しながら彼は言った。その間、男は辛抱強くしゃがみ続けている。
「いいから、早くしてくれ」
焦れたような声が下から響く。賛同するようにふさふさと尾っぽが揺れて、渋々背中に覆いかぶさった。ぐっと視線が高くなる。
「ごめんね」
申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら呟く。
つい先日、自分はこの男に酷いことをした。それなのに、一切合切を無かったことにして甘えている。穴があったら入りたかった。
首筋に顔を埋めていると笑い声を堪えるような音が聞こえた。不思議に思って尋ねると、膝丸がため息を吐きながら、「首元に息が当たってくすぐったい」と呟いた。
ぺしと頭を軽く叩く。一部始終を見ていた狐の子が、「とても仲がいいんですね」となごやかに言った。
全然そんなことは無い――と、否定したくなったけれど、空気を壊すのもどうかと思って黙っておいた。
ざくざくと草を踏みしめる音が響いている。何本も鳥居をくぐった。狐の子は小さく飛び跳ねるようにしながら歩いていた。
「二人はどうやってここまで来たの?」
「怪しい男に占いをしてもらって、気が付いたらここへ」
「占い……」
小さな前足を顎の辺りに置きながら考え込む。髭がぴんと立っていた。
「最近、守りが弱くなっていると聞いたから、境界が曖昧になっているのかも」
「そうなんだ。じゃあ、結界を結びなおしたら化け物はこっちに来れなくなるの?」
「うん。今の状態は良くないんだ。勘違いした人間が、無害なものたちを消そうと押し寄せてきたこともあるから」
とても気の毒に思う。何となくやることが見えてきて、力を抜いた。
何かを感じ取ったのか、狐の子はぎょっとして瞳を大きくさせた。
「すごく大変だよ。浄化も一緒にしないといけないし、四カ所もあるし」
「それなら大丈夫……だと思う」
後半は少し自信の無い声色になってしまった。審神者をやっていたのは二年も前のことだったから、上手くやれるか自信は無かった。
「もし本当にやるつもりなら、ご神体に気をつけて」
「なに?」
沈黙を続けていた膝丸が口を開いた。何となく声が固い。
「詳しく教えて?」
「四ケ所それぞれに土地を守っている神様がいるのは知ってる? 浄化は神体に対して、結界は土地に対してやるんだけど、みんな癖ものだから」
なんだか濁した言い方だったけど、意味は伝わった。そういえば――本丸にいたときもそうだった。みんな一癖も二癖もある者たちばかりだった。
「色々と教えてくれてありがとう」
ぺたりと肩口に頭を預けながら言うと、狐の子は照れたように笑った。
「膝丸も。ありがと」
ついでのように声をかける。静かに頷いてくれた。視界に一つだけ桜の花びらが舞った。
はぁ、とため息をつきながら回した腕に力を込めると、がくんと衝撃が来た。男が足を踏み外したようだ。咄嗟に体を上げて声を掛ける。大丈夫かと問うと、問題ないと緊張した返事が返ってくる。
気が付くと全身に力が入っていた。不審に思い尋ねると、
「なんでもない」
と、にべもなく返される。そっと顔を覗くと耳まで赤くなっていた。
「熱でもあるの?」
ピタ、と首元に手のひらを押し付ける。膝丸は情けない悲鳴をあげた。そのまま首を元に腕を回すと、喉の鳴る音がする。顔を寄せればあからさまに顔を避けられて、その態度にぴんときた。
「何考えているの。えっちだね」
耳元で揶揄うと、大きく肩が跳ねた。平静を装いながら、「それはどういう意味だ?」と聞いてくるので笑ってしまった。答えを教えようとすると、下から元気な声が飛んでくる。
「助兵衛って意味だよ」
「良く知っているね。すごい」
ぱちぱちと小さく拍手をしてみせると、狐の子は照れたようにせっせと耳を撫でつけた。
しかし、そこで一つ疑問が生まれる。
「どうして意味を知っているの?」
「白狐様に教えてもらった」
びゃっこ、と口の中で呟く。膝丸も興味深そうにしている。続きを待ったが、興味がそれてしまったのか、それ以上何も教えてくれなかった。
それからは黙々と山を登った。正確には足を動かしていたのは他の二人で、私は完全に脱力しながら体を預けていた。どのくらい歩いていたのだろう。鳥居の間隔がだんだんと大きくなっていた。みっしりと隙間なく続いていたのに、今では随分とまばらになっている。
空が白んできていた。道の脇にぽつぽつと狐の銅像が置いてあるのが見える。口に巻物を咥えていたり、稲穂を咥えていたり、小さな前足に玉を持っているものもいた。それぞれに意味があるのだろう。そして、皆一様に赤い前掛けをしていた。
ぼんやりとしているうちに振動が止んで、僅かに体を起こす。目の前に最後の鳥居があった。膝丸がそっと地面に膝を付けてくれる。お礼を言いながら滑り落ちる。何の変哲もない鳥居だった。向こう側には獣道が続いていた。
狐の子は小さな足で駆けていくと、一礼をし、柏手を二回打った。パンパン、という乾いた音が響く。瞬間、鳥居の中の風景が水の中にいるようにぐにゃりと歪んだ。
狐の子はふん、と満足げに鼻を鳴らして振り返る。
「無事に繋がったよ」
「ありがとう」
小さな前あしを握りながらお礼を言うと、彼は髭をぴくぴくとさせながら、空いた方の手で照れたように尾っぽを撫でた。
何となく名残惜しい気持ちに襲われたが、それを振り切るように立ち上がる。そして、鳥居に向かって手を伸ばした。手はある一点を超えると、水中に入ってしまったように見えなくなる。
そのまま足を踏み出す。世界が滲み、ひどい眩暈がした。ぐるぐると視界が回る感覚――それは二日酔いに近いものだった。
ふっと空気が軽くなって一気に音がなだれ込んでくる。
薄く目を開けると暗い路地にいた。壁に背を預ける形で座っている。占いの男に声を掛けられた場所だった。
朝になってまだ日が経っていないようで、通りは朝靄が浮かんで人の気配が無い。
ぼんやりとしたまま懐に手を入れると、硬質な感触が伝わった。良かった。金はとられていないようだ。ほっとして息を吐く。
立ち上がって伸びをすると体がミシミシと不吉な音を立てた。一気に体の力を抜き、ついでのように息を吐く。なんだか無性にお風呂に入りたかった。
人の気配がし、横を向くと膝丸がいた。いつもの布を頭にかぶっている。生地の隙間から引き締まった口元が見える。
――その時、耳の奥で誰か知らない者の高笑いが聞こえて周りを見渡した。
老人のような、もしくは青年のような声だ。
それは暫く響いていたが、だんだんと淡くぼやけていく。
次に襲ってきたのは酷い耳鳴りだった。蝉が頭の中で喚いているみたいだった。思わず頭の横を押さえながら壁に寄りかかると、焦ったような声が耳に届く。大丈夫か、という問いに、なんとか頷いた。
視界がグラグラとする。
頭に明確なイメージが浮かんだ。水の底のような場所で大きな生き物が寝そべっている。目が合うと赤い瞳を糸のように細くした。口が頬の横まで裂けて、そして――。
「大変な一日だったな」
はっとして意識を戻すと、となりで膝丸が同じように壁に寄りかかっていた。いたわるように私の腕にふれて、冷えて固まった肩を擦っている。
「うん。なんだか狐に化かされたみたい」
じっとしていれば、やっと耳鳴りも収まってきた。視界がはっきりとしてくる。
「出発は明日にしよう。同じところに泊って、今日は一日ダラダラとしていようよ」
膝丸は瞳をこれでもかという程に丸くした。それが、じわじわと喜びの色に変わっていく。
もうすっかり逃げる気持ちは無くなっていた。当然のように一緒に旅をしようとしている。それを思うと、気恥ずかしさに体が熱くなった
照れ隠しで前髪をひとつ撫で、足を踏み出した。
暗い路地を抜ける。眩しい朝日が目に飛び込んできた。
「次はどこへ」
いつの間にか隣に来ていた膝丸が言う。声がほんの少し上ずっている。歩く度に腕と腕が触れるような距離だった。実際に、たまに体の半分が軽く当たるけれど、特に距離をとることもしなかった。
「西に行こうかなぁ。長い旅になりそうだね」
膝丸は何か考え込むように空を見つめると、にこりと口角をあげた。
「かまわない。君と一緒なら。山でも、海でも、世界の果てでも」
「格好いいね」
呆れを声に滲ませながら言うと、彼は再び照れたように頬をかいた。朝日に照らされた道をだらだらと歩く。
宿に戻ったら、ひとまずぐっすりと眠ろう。
徹夜明けのぼんやりとした頭で、そんなことを思った。