劫火_02 - 3/3

笑い声が木の間から響いていた。皿の底をフォークで引っ掻くような、不快で、神経を逆撫でする声だ。
それは四方八方から聞こえてくる。
月は出ていなかった。夜の闇が押し潰すように迫ってくる。左手に刀を構えて、右に左に動く影を目で追った。両手が使えないということは酷く不自由だ。襲われそうになっているような今は、特に。
何の相談もせず男と背中合わせに立つ。静かな呼吸の音が耳に届く。木が黒い切り絵のようなシルエットを作っていた。
遠くの方で金色の光が光る――が、数回瞬くうちに消えた。
風が吹く。血の匂い。水滴が飛んできて反射的に目を閉じる。
目を開けた瞬間、ものすごい近さに毛むくじゃらの腕があった。
横から腹をものすごい力で抱えられる。一本の光が走った。細い筋が真っ直ぐに振り下ろされる。次の瞬間、毛にまみれた動物の腕は、体から綺麗にはなれて、地面に転がった。
咆哮。斬られた腕がこっちまでごろごろと転がってきて、断面を向ける形で止まった。果肉のような赤に埋まるようにして、白い骨が覗く。
一撃で肉を断ったようだ。
僅かな星の光に照らされて化け物は振り向いた。姿形は猿に似ていたが大きさがけた違いだった。人間の三倍はある。
黄色く濁った瞳が怒りで燃えている。化け物は一度大きく吠え、残ったほうの腕を振り上げながら物凄い速さで突進してくる。
応戦しようとするが、いまだ膝丸に体を抱え込まれたままだ。拘束は緩まない。
邪魔になるだけだから刀を鞘に納めた。
膝丸は私を抱えたまま一気に踏み込むと、二回刀を振った。振り下ろされた敵の爪を避けながら、全身をばねにして飛び上がる。動きが人外のそれだった。
浮遊感。真下に化け物が見える。相手は反応が遅れていた。
勝負は一瞬だった。刀を地面に垂直にしながら重力に沿って首の後ろに押し込む。二人ぶんの荷重を乗せられて刀はメキメキと肉にめり込んでいった。ぐっと手首を動かすと、血がスプリンクラーのように吹き出す。
むせかえるような匂いが辺りをみたした。生暖かい血の雨が降る。
猿は口を開けた状態で前方に倒れていった。重い体が地面に打ち付けられて土埃が舞う。膝丸は刀を引き抜きながら軽やかに言った。
「大丈夫か」
全身に返り血を浴びた状態で、心配そうに顔を覗き込んでくる。答えようと口を開いたとき、風を裂く音が耳に届いた。
「危ない!!」
男の襟元を掴んで巻き込むようにしながら、地面に伏せる。すぐそばの地面を腕の大きさほどの鍵爪が通っていった。
硬い地面が無惨に抉れている。爪は途中で意図せず猿の死骸を引っ掻けていき、巨体が空を舞った。それが着地する前にまた風が動く。
体が勝手に動いて男を引き摺りながら藪へと飛び込んだ。土が削れる激しい音がする。
目を向ける。さっきまでいたところが地割れのようになっていた。あそこに居たら、と思うとぞっとした。
敵の姿が見えない。
気配もぱったりと消えている。
微かな空気の流れを感じて、反射的に膝丸を突き飛ばした。
「なぜ分かる!」
返事を聞く前にまた男の襟を掴んで前へ飛んだ。粉塵が舞う。
数秒遅れて爆音が響いた。
後ろを振り替える。大きな鳥が蔦に足を絡ませて、じたばたと藻掻いていた。
耳障りな鳴き声を発しながら鳥はめちゃくちゃに身を捩った。姿かたちが鷲によく似ているが大きさがけた違いだった。一つ羽ばたく度に重たい風が吹く。あまりの風圧に立っていられず膝をついた。
膝丸もなかなか立ち上がれずに悔しそうに地に伏せている。拘束から抜け出した鳥が足を離して空へ飛んだ。
風の壁に押し潰される。
体が地面にめり込んでしまうようだ。
不意に音がしなくなった。さっきまで近くにいた膝丸が、吹き飛ばされ、離れた場所にうつ伏せになっていた。後頭部から血が滲み、薄緑色の髪から赤黒い液体が滴っている。気絶しているのか、ピクリとも動かない。
手元を見るが刀が無くなっていた。
天から響いてくる轟音に顔をあげる。
羽をいっぱいに広げた鳥がせまっていた。限界まで開かれた脚は人の胴ほども大きく、鍵爪は先端が刀のように尖っている。
スローモーションのようだった。
焦げ茶色の風切り羽の、縞模様まで見えたところで目を瞑る。
――やっと死ねる。
胸に広がったのは、崖から突き落とされるような恐怖と――圧倒的な解放感だった。
右からの衝撃。
羽が頭の横にぶつかる。
目の奥で赤色が舞った。
あまりの痛みと衝撃に、一瞬で意識を飛ばした。

水の音がしている。高いところから水滴が落ちて反響し、澄んだ音を響かせていた。
薄く瞳をあけると、よく磨かれた水晶のような石が見えた。つるりとして表面が僅かに湿っている。
痛む頭を押さえながら周りを見る。洞窟のような場所だった。見渡すばかり岩肌で、表面がうっすらと濡れている。
眠い。眠たくてたまらない。
命の終わりはあっけないものだった。くたりと体を横たえながら、ゆるく瞳をとじる。
襲い来る眠気をふり払うようにして、頭の奥で悲鳴が響いた。男の泣き叫ぶ声だ。聞いていると胸が引き裂かれそうになる。どうしてそんなに泣いているのだろう。どこか痛いところでもあるのだろうか。
そんなに悲しく、泣かないでほしい。そう強く思ったが、声を発することも、腕を持ちあげることもできなかった。
冷たい床に横たわりながらぼんやりとしていると、何かが歩いてくる気配がする。
人間ではないと直感的に分かった。逃げないと、と思ったけれど、体は言うことを聞いてくれない。そうしているうちに動物のシルエットが浮かぶ。短い毛に覆われた獣の脚。黒い爪は太く、簡単に命を散らすことができる。立ち込める霧から出てきたのは予想外の生き物だった。
「まだだ。まだ、こっちへは来るな。お前がどう選択するのか俺は知りたい。醜い人間。神を忘れた愚者共め。――同族が地獄に堕ちるさまを、この目でしかと、見届けさせておくれ」
落ち葉みたいに深い声だった。
困惑しているうちに軽く左手を持ちあげられる。指先に冷たく湿った感触が伝わった。
不思議な生き物が鼻先を押し付けていた。
体に熱いものが駆け巡る。それは血を通り、体と、骨をまるごと癒していった。
頭の中で忘れていた声が聞こえる。
叫び声。まるでサイレンのようで、とても煩い。高い鈴の音にまじって、遠くで高笑いが反響している。
「忘れるなよ」
返事をしようと口を開いたと同時に意識が浮かぶ。
体がゆらゆらとゆれていた。
今度は水のなかにいた。暗い海底から天井を見る。光が屈折して白いカーテンのようになっていた。
ぼんやりと眺めているうちに、人の影が下りてくる。
それはしっかりと私の細い手首を握り、まるで導くように、光のほうへと引っ張っていった。

目をあけると、美しい男の顔が近くにあった。
頭を隠していた布は潔く取り払われて、明るい色の髪が揺れている。
私の脚は裸足で空中をぶらぶらとしていて、横向きに抱えられているのだと知った。景色がみるみるうちに後ろに流れていく。視界を塞ぐようにして迫りくる草木をつぎつぎとなぎ倒す勢いだ。
膝丸がものすごい速さで駆けている。なぜか縫い付けられたように口が動かなかった。喉がカラカラで声が出ない。もどかしい気持ちで顔をあげ、心底驚いた。
膝丸が走りながらだらだらと涙を流していたのだ。よほど強く噛んでいるのか、口元からは薄く血が滲んでいる。ほとんど牙のように見える犬歯が頬の内側を裂いて、そこから赤い液体が流れていた。
瞳が絶望の色に染めあがっている。
見ているこっちが恐怖するような、暗いものだった。
「……ひ、ざまる」
必死に息を吸いながらなんとか呼びかけると、膝丸はやっと足を止めた。これでもかという程に瞳を大きくする。
「き、君。意識が戻ったのか」
まるで自分自身が痛めつけられたような、複雑な表情をしている。普通に喋っていても壊れてしまったように静かに涙が流れていた。
必死に目を合わせながら、なんども頷く。
「も、もう。平気、だから」
「駄目だ。すぐに町へ行く。医者に診てもらおう」
問答無用に足を動かし始めたので、襟元を慌てて引き寄せる。膝丸は途方に暮れたように歩みを止めた。
「どうした。早くいかねば」
「いい。大丈夫。いらない。自分で何とかできる。……それより、ゆっくり寝たい」
たどたどしく告げれば、膝丸は暫く迷っていたようすだったが、片方の手を持ち上げて、恐る恐る私の頭に触れた。傷口を確かめるかのように髪をかき分け、頭皮に指を滑らせる。
大きく息を飲んだ。
「信じられない。嘘だろう。あれだけの傷が治っている」
「ほんとう?」
「あぁ。さっきは頭が裂けていて、血が止まらなくて……もう、駄目かと思った」
男の怯え切った目を見れば言っていることが真実だと分かる。
とても驚いたけれど、同時に、妙に納得した。
生かされたのだ。何者かは分からないが、恐らく夢に出てきた存在に。
どこかすっきりとしつつもぼんやりと膝丸の顔を見つめる。ほとんど泣き出しそうな表情をしていた。なんだか初めて見る顔だった。
改めて意識してみれば体は思ったよりずっと元気で、手持無沙汰に足元を見つめた。
ぶらぶらと揺れているつま先が空中に浮いている。
「あの、恥ずかしいから、おろして」
「本当に大丈夫なのか。痛い所は無いか」
「うん。平気。むしろ体がかるい」
やっと男は足を進める。結局、横向きに抱えられたままだった。たぶんもう降ろしてくれないだろう。
とても疲れてしまった。死にかけたなんて信じられない。頭が割れている自分を想像したら、さっと血の気が引いて、近くにあった襟元を子供のように握る。
膝丸は驚いたように立ち止まると、しげしげと握り込まれた手を見つめて、ほんの少し目を細くした。
そのまま、猫のように顔を寄せてくる。
吐息が肌を撫で、くすぐったくて首を竦めた。
両手がふさがれているからか、顔を髪のあたりにこすりつけていた。何か確かめるみたいに、なんども、なんども。
森の中は深い闇に包まれていた。
深夜だ。
闇と向かい合っていると、記憶がなだれ込んでくる。醜悪に曲がったかぎ爪と獰猛な瞳。美しく整列された風切羽。
いつまでも猫みたいにぐりぐりと頬をこすりつけていた男は、満足したのか息を吐いて顔を覗き込んでくる。ちゃんと生きているか確認するみたいに、瞳を見つめていた。
よく見たら二人とも血まみれで、どろどろだった。べったりとした血が、肌や服にこれでもかというほどこびりついている。
「もう少し待ってくれ。すぐ水場をさがそう」
膝丸は足を動かした。歩く度にカチャカチャと音がしている。身を捩り下のほうを見ると、美しい太刀と、黒い刀が腰に差さっていた。
さっきから鳴っていたのはこれだったのか。良かった。無くしたかと思っていた。
「鳥から逃げているときに飛ばされてしまったのだろう。化け物の死骸の横に落ちていた」
膝丸が丁寧に説明してくれる。胸の奥にとんでもない安心がこみあげてくる。衝動のまま首筋に顔を埋めた。落ち葉のような深い香りがする。男の人の匂いだ。
「膝丸。本当に、ありがとう」
人の温もりが心をほどけさせる。
沈黙が辺りを満たした。訝しく思い、顔を離して視線を合わせれば、予想と反対に男は口角をあげていた。
「君に感謝されると、とても気分がいいな」
ごきげんなようすで足を進める。軽い足取りだ。纏う空気が柔らかく、こっちまで楽しい気持ちになってくる。
そうしているうちに水の音が聞こえてきた。川が近い。
サクサクと枯草を踏みしめる音が足元から響いている。心地が良くて思わず眠ってしまいそうだった。うつらうつらとしていると、どさくさに紛れて、またさりげなく髪の毛に頬をこすりつけられた。こんな風に甘えられるのは初めてなので恥ずかしい。
いつの間にか川についていた。瞳を蛇のように細くした膝丸は、少し上ずった声を出す。
「君。ここにも湯が湧いているぞ」
「本当?」
視線を水面に向ける。たしかに一部分だけ湯気が出ているところがあった。
嬉しくてついはしゃいだ声をだしてしまう。
膝丸はガラス細工を扱うような慎重さで地面におろしてくれた。そして、右手の紐に手を掛ける。
「いいの?」
みるみるうちに緩くなる拘束に目を見張る。自分がやったときにはびくともしなかったのに。硬く引き締まった赤い紐は、膝丸が触れると、蜘蛛の糸のように簡単にほどけてしまった。
「湯から戻ったらまた拘束する。申し訳ないが」
本当にすまなそうに膝丸は言った。不安でいっぱいの顔で。
うん分かったと、子供のように返事をし、久しぶりに自由になった右手をぶんぶんと振りまわしながら、岸へと向かう。荷物を岩陰に置き、替えの服を準備しながら横を見ると、膝丸は腕を組んだまま反対側を向いていた。しかし全身を耳にしている。周りを警戒してくれているのだ。それが分かる背中だった。
血がべったりとついた服を脱ぎ捨てる。蛇の脱皮みたい、と思いながら、乾いた石に置いた。
川に足の先を入れ、そのまま奥へとザブザブと進む。
まだ冷たいけれど、水の流れが気持ちいい。
月はほとんど出ていなかった。まわりは真っ暗で、星がよく見える。
暫く歩いていると温かい場所を見つけた。足の指の間を水が通る。浸かったところから癒されていくようだ。とぷんと腰を落とし、髪を洗い岸に戻ると、膝丸は背中を向けたまま銅像のようにしていた。
お礼を言って新しい服に着替えたあと、ついでに汚れた服を洗う。汚れた布の塊を川のぎりぎりに置いた。ごしごしと手で擦ってみるけれど、染み付いた汚れはなかなかとれない。途中からは足で踏んだ。
自分の分が終わったので、膝丸の予備の服も洗った。ひとつもふたつも変わらないと思ったからだ。
流水が固まった血やら汚れを溶かしていく。黙々と無心で手を動かした。
作業をしていると心配になったのか膝丸が戻ってきて、興味深そうに手元を覗き込み、自分の服だと分かった瞬間、驚きの声をあげる。
「あ、心配しないで。下着は洗ってないよ」
荷物の方を見ながら呟くと彼は安堵した表情を浮かべたが、すぐに顔を顰めた。
「主にさせることではない。俺がやる」
「だからもう主じゃないってば」
布を水から引き上げて力強く絞る。水がボタボタと激しい音を立てて落ちていった。
ぼうっとしていた膝丸は、水が砂利を叩く音を聞くと、慌てて側に腰をおろした。
二人でぎゅうぎゅうと水を絞る。思いっきり生地を捩じったり、引っ張ったりしていたら、だんだんと垂れてくる水の量が少なくなってきた。
あらかた水が取れたので近くの枝に服をかけて、火の近くにいこうと腰をあげる。しかし、すぐに手首を掴まれてしまった。
壊れたロボットのようなぎこちなさで振り返ると、膝丸はどこから用意したのか赤い紐を持っていた。無表情に見つめてくる。見逃してはくれないのかと、苦虫を噛みつぶしたような顔を浮かべていると、男は途端に申し訳なさそうに肩を落とした。
「待って。焚火を作ってからにしよう。それからでも遅くないでしょう?」
少しだけ考えた後、彼は静かに頷く。それにほっと胸を撫でおろしながらさりげなく距離を取った。
ぶらぶらと川の近くを歩きながら、良く乾いた木を探した。ちょうどいい大きさのものがあったので手を伸ばした――が、ふと気付いてしまった。
これは、チャンスでは。
息を殺しながら後ろを振り返る。さっきと同じ場所に男の背中があった。地面に膝をつきながら、一生懸命に火をおこそうとしているのが影の揺らぎから伝わる。
膝丸は夜に弱い。目が良く見えないのだ。
荷物は身に着けたままだ。手首に巻き付いている紐もない。
木を探すふりをして、ぶらぶらと歩きながら距離を取った。散歩をするような気軽さで奥へと進む。
あともう少しで藪に入る――という所で、後ろからせわしない足音が響いてきて、作戦は失敗に終わった。ため息をつきながら視線だけ向けると、怒った顔をした男がいた。
「どうしたの。私はそこらへんで木を集めるから、膝丸は火を起こしていて。二人で分担してやろうよ」
「なぜ木を集めるだけなのに荷物を持っている。それに、刀も」
素晴らしい観察力だ。さすが刀剣男士。もうここまで来ると変な言い訳も思い浮かばなくて、本当のことを口にした。
「チャンスかなと思って」
重苦しい沈黙が辺りを包んだ。近くの草の影から虫の声がしている。吹き抜ける風が冷たくて、剥き出しの腕をさすった。
男はどんどんと瞳の色を無くしていく。
「そんなに俺が嫌か。一刻も早く離れたいか」
「……そういうんじゃないよ」
ざり、と石を踏みしめる音が聞こえた。流れるような動きで右手首を捩じられ、既に持っていたのか、荒々しく紐で結ばれる。
「君が俺を嫌いでも、憎くても。俺は君から離れられない。こうすることしか出来ない」
どんどんと空気が重くなっていく。
赤い紐に繋がれた自身の腕と、相手の腕を交互に眺めた。膝丸は何を考えているのか分からないがひたすらに地面を見つめている。
「可哀そうだね」
咄嗟に出てきた言葉の、あまりのそっけなさに自分でも驚く。他人事みたいに響いてしまい、ごまかすように咳ばらいをした。
諦めたようにため息を吐きながら散らばっている木を両手で抱える。さっきまでいた岸までとぼとぼと戻った。
膝丸は俯きながら一定の距離をあけてついてくる。ときどき突き刺すような視線を感じた。
枯れ木を地面に無造作に置き、空気が通るように組み合わせていると、膝丸はまた木を擦り合わせ始めた。体育座りになりながら横顔を眺める。
頬から顎にかけてのラインがシャープだ。
「そんなに見られると、恥ずかしいのだが」
「ごめん」
手元から煙が出始める。急いで、横から乾いた藁やら葉っぱやらを火種の近くに置く。数回息を吹きかけると真っ赤な炎が生まれた。
ぱちぱちと火が爆ぜる音を聞いていると心が落ち着く。
炎は偉大だ。夜の闇を明るく照らしてくれるし、冷えた体を温めてくれる。
何となく空を見つめた。木がまるくくりぬかれたように無くなっていて、その間から満点の星空が見えた。
ゆっくりと背を後ろに倒して大の字になる。河原だから背中に石があたって痛い。でも野宿だから仕方がない。
目を閉じれば、優しい虫の音と、川のせせらぎが聞こえた。時々体の上を冷たい夜風が撫でていく。良い夜だ。とても。
右手が軽く吊られる感覚がして目を開けると、すぐそばに男が立っていた。またもや首がもげそうな体制で地面を見つめている。
しかしいつもと違うのは、金色の瞳が此方を見つめていることだった。
「どうしたの?」
無言で傍らに立たれているとさすがに怖い。
膝丸はそれには答えずに、静かにくっと紐を引いた。
「何か不満があるの」
「特にない」
何がしたいのかよく分からない。地面に寝ころんだまま挙動を見守っていると、彼は口を開いて、また閉じてを数回くりかえした。
「お腹でも痛いの?」
「いや」
「じゃあなに? 意味が分かんない」
「…………隣に、寝てもいいか。この間のように」
なんだそんな事かと拍子抜けしながら頷く。膝丸はすかさず膝をつけて、すべりこむように体を横たえさせた。
「痛くない?」
「少し。……いや、かなり」
「石が背中にざくざく刺さってすごく痛い。お話したら、あっちの木の根元に行こう」
「おはなし?」
片言の言い方が、まるで出来損ないのロボットのようで、声をあげて笑ってしまった。
「うん。膝丸に話したいことがあるの」
彼は頬を引きつらせていた。悪い予想をしているのか、悲しみくれた表情で、「分かった」と呟く。
夜というのは不思議だ。伝えるつもりのなかった言葉がするすると出てきてしまう。
「今日で分かったと思うけど、一緒にいると、とても危険なんだ」
二人で黙って星空を眺めていた。男は何も言わない。でも、全身を耳にして聞いてくれているのだと気配で分かった。
「自分だけならまだしも、誰かが巻き添えになるのが本当に耐えられない。だから、すぐにでも元いた所に帰ってほし、うぐっ」
視界を赤色が舞った。手首の紐だ、と気が付いたのは少し後だった。一瞬のうちに口元を手のひらで塞がれて言葉が出なくなる。うーうーと唸りながら、覆いかぶさるようにしている男を睨みつける。
「すまない。君の気持ちはよく分かった。だが、それを踏みにじってでもそばに居たい。共に居ることを許して欲しい。頼む」
手が鼻先まで覆われている。段々と息を吸うのが苦しくなってきて身を捩ると、やっと気が付いたのか手を離してくれた。
「……はぁっ! 死ぬかと思った」
「すまない」
「すまないじゃないよ。三途の川が見えるところだった」
男は謝罪を繰り返しながら、恐る恐る肩に手を伸ばし労るように撫でてくれる。そのまま髪の毛に触れていった。
お互いの顔は炎に半分だけ照らされて、輪郭がはっきりと浮かんでいる。
「君の口から消えるなどと聞くと、胸が捻りつぶされるような感覚になる」
「大げさだよ」
苦しそうに胸を押さえているのを横目に否定すると、彼はとんでもないと、頭を左右に振った。薄い緑色の髪の毛がさらさらと揺れる。
「大げさではない。君がそれらを口にするたびに、俺は体の端から死んでいくのだ」
ほら、と言いながら指先を頬に押し当ててくる。体が震えた。氷みたいに冷たかった。
「冷え性なんじゃないの?」
「違う。とにかくもう二度と、そのようなことは口にしないでもらいたい」
「無理だね。何度だって言うよ。膝丸は、元いた本丸に帰るの」
お互いが聞き分けのない子供みたいだ。しかし一切の妥協も許さない口調で告げると、男は地面に数段めり込むように頭を下げた。
「どうしたらいい。どうしたら……。もういっそ、神隠しするしかないのだろうか」
ぶつぶつと物騒なことを呟いているので恐ろしい。星に目を戻したところ、とある閃きが浮かんだ。
「じゃあこうしよう。この紐を解いて。そうしたら今後、膝丸の嫌がるようなことは二度と言わないから」
ぴたりと念仏のような音が止んだ。
「本当か」
うん、としっかり頷く。膝丸は迷っているのか小さく唸り声をあげていた。
散々迷っていたようだが、結局交換条件を飲んでくれたようで、手首にそっと指が触れる。きつく縛っていた感触が無くなり、拘束が消えた。
「こっちは?」
解放感に胸を躍らせながら、もう片方にある左手の赤い組み紐をかざす。
途端に膝丸は顔を顰めた。
「そっちは駄目だ。絶対に」
駄目だったか、と落胆してしまう。でも右手だけでも自由になれたので良かった。
辺りは静まり返っていた。そのまま緩く腰をあげて、木の根元へと向かう。
「そうだ」
静かについてくる気配に向かって声を掛ける。ぴりぴりと空気が震えた。
「助けてくれてありがとう。膝丸」
息を飲む音が静かな森に響く。膝丸は深く息を吐きながら、どういたしまして、と言った。

鳥に襲われた日から、さらに数日が経った。が、私たちはまだ森の中にいた。
しかしお互いに流れる空気は段違いに良い。太陽が頭の真上に来るころ、山道の中腹で、足を休めるために立ち止まった。
次の場所までは険しい道を越える。ほとんど登山に近かった。山は、登るにつれて道がどんどんと細くなっていく。とても歩きにくく、おまけにすぐ脇は崖だった。
道は当然整備されていないし休憩所なんかも無い。近くにあった大きな平たい岩に座って眼前の風景を眺める。はるか遠くの方まで見渡せた。山が連なり、さらに向こう側には白い線を引いたような海が見える。
さらさらと風が吹いて髪が後ろに流れていく。ふと横に気配を感じて振り向くと、近い場所に男が腰掛けていた。
「触れていいか」
「うん? どうぞ」
いきなりなんなのだろう。神妙な顔をして言われたので咄嗟に返事を返すと、男はまじめな顔で膝に手を伸ばした。見聞するような手つきで触れていき、自分の腿に乗せる。足が引き延ばされて、服の裾から白い脹脛がのぞいた。
「なにをしようとしているの?」
姿勢がきついので僅かに体を向けながら聞くと、男は無言で足首に指を走らせた。
「辛かろう」
そのままやわやわと足を揉んでくれる。
最初はぎょっとして身構えてしまったけれど、丁度良い力で筋肉を押されると確かに気持ちがいい。蓄積した疲労が指先から溶けていくのが分かる。
「いい」
うっとりとした心地で思ったままを口にすると、相手の口角がほんの少しだけ上がった。
そのまま足首まで触れてくれる。右足のあとは左足だった。
後ろに手を付けながら、ぼんやりと眺める。膝丸はせっせと手を動かしていた。少しだけ丸まった背中。風に揺れる髪の毛は淡い草の色だった。
「膝丸も、手入れ部屋があれば癒せるのにね」
マッサージが終わってお礼を言いながら足をひっこめる。
男は何かを思い出すように遠くを見つめた。
「懐かしい。あの部屋は実に便利だった」
「手をかして?」
不思議そうにしながらも右手を差し出してくる。そっと肘まで服を捲って、手首から触れていった。少しだけ圧力をかけて揉んでいく。
眉間に皺を寄せていた男は、温泉に入ったときのような弛緩した声を出した。
「何をしている?」
「マッサージをしてる。気を込めながら」
ぐっと指先に力を入れながら答えると、男はかたく瞳を閉じた。見ると僅かに体が震えている。
「大丈夫? 気持ち悪かった?」
びっくりして手を離しながら尋ねる。膝丸はどうも我慢する傾向がある。言いたいことが言えない性分なのかもしれない。でも、そういうのは危険だ。
ためこんで、風船が弾けるかのように怒りを放出されたらたまったものではない。
そんな心配をよそに、膝丸は離れる指先を名残惜しそうに見つめていた。
「とても心地が良かった」
半信半疑になりながら反対の腕に手を伸ばす。先ほどと同じように力をかけると、彼は恍惚とした表情を浮かべた。普段のきりりとした鋭さは消えて、だらしなく頬が緩んでいる。
「霊力があっても、手入れ部屋じゃないから、上手く癒せなくてごめんね」
指を押し込み、区切るように呟いた。遠い過去に想いを馳せる。審神者にならないかと誘われたのは六歳のときだったけど、その頃から恐らく才能があった。どこか自分は違うと感じていた。理由を知ったのは、ずっと後のことだ。
古い平屋を思い出す。本家と分家があって、自分は本家に身を置いていた。
物心ついたころから不思議なものを見ることが多かった。自分の先祖には巫女がいたと家族から聞いたことがある。
でも、それが何だというのだろう。
現実ではそんなこと、全く価値が無かった。
今だからこそ、こうして触れているだけで感謝される。だけど、ひとたび現世に戻ったら、自分は無価値な人間なのだ。ずっと、そう教えられてきた。
不穏な空気を出している私には気付かないまま、膝丸はぼんやりとしながら思い出すように呟いた。
「効率よく霊力を補給する方法があると、昔に聞いたことがある」
「へぇ。初めて聞いた。どんな方法なの?」
「例えば、接吻などだな。他に効果が高いのは――」
そこでぶつりと言葉が切れてしまう。でも、何となく先が予想できた。
驚きのあまり指先に力がこもる。にわかには信じがたい。が、昔は生贄などの風習も各地であったから――爪や、髪を神様にそなえるとか。あながち間違っていないのかもしれない。
膝丸は自分で持ち出した話題に居心地が悪くなったようで、取り繕うように咳をひとつすると、「まぁ、付喪神はそもそも頑丈だからな。そんなことをする機会はないだろう」と笑った。
先程聞いたことはとりあえず脇において、せっせと手を動かした。
「聞いてもいいか」
「どうぞ」
「君は刀を扱うのが上手い。誰かに教えてもらったのか」
ちら、とすぐそばに置かれている黒い刀を見つめて口を噤む。言うべきか迷ったけれど、特に隠すことでもないと思ったので、教えることにした。
「実は私、剣とか刀とか、全く使えないんだ」
「しかし……」
眉間に皺を寄せて不審な表情を浮かべる男の顔を見つめる。一旦手を離して近くに置いてある刀を握った。
当然ながら神様は宿っていない。黒い、無名の刀だった。
「これ、戦場でたまたま拾ったんだ。戦うときは物の記憶を借りているの。人に使われていた記憶を」
「それも君の術か」
「うん。だから私自身は何も出来ないし戦う技術も持っていない。でも、突き飛ばすとか、捻り技とかは、生活の中で自然と身につけたよ」
初めてこの方法を教えてもらって、試してみた時は慣れなくて大変だった。物や持ち主の感情がなだれ込んできて、あまりの気持ち悪さに三日ほど寝込んだ。
「なるほど。納得した」
神妙に頷きながら膝丸は頷く。
「うん。そういうこと」
何となく穏やかな気持ちで風景を眺めた。遠くで鳥が飛んでいた。羽をいっぱいに広げて円を描くようにまわっている。
日がだいぶ傾いていた。あと数時間もすれば太陽が沈んで夜が来る。いつまでもこうしていたい気もしたけれど、重い腰を上げる。
目だけで合図をし、無言で岩からおりた。
先にはあいかわらず一本の獣道が続いている。空を飛んでいた鳥は、いつのまにかいなくなっていた。

一週間後、無事に山を越えた。途中で思い出したように何度も化け物が襲ってきたけれど、今回は右手が使えるし膝丸が頼もしく守ってくれたので、あまり苦労することは無かった。
町について一日目は泥のように眠った。安い宿の薄い布に包まって眠る。深夜にふと目を覚ますと、隣に敷いた薄い布団の上で、男が無防備に足を投げ出していびきをかいていた。流石の彼も疲れがたまっていたようだ。笑いをかみ殺しながら布団をかけてやった。
翌日。またもや変な時間に起きてしまった。深夜だった。物音がほとんどしない。
直感のまま、布団を抜け出し外に出る。庭は月の光に照らされてぬれたように光っていた。良い夜だなと思いながら、ぼんやりと先に続く道を見ていた。すると、上空から軽い羽音が届く。視界の端から突如現れて矢のように横切り、足元に荷物を落としていったのは、伝令係の鷹だった。
なんだろうと疑問に思いながら包みを拾う。思ったより軽く、柔らかい風呂敷を解くと懐かしい色が飛び込んできた。
「巫女服だ!」
流石政府だ。対応が早い。数日前にやり取りをして、必要になりそうだから頼んでおいたのだ。少し離れた場所の折れた木にとまった鷹は、せっせと身づくろいをしている。
おいで、と小さく声を掛けると、ぐっと体を前に倒して飛び立った。滑るみたいに飛んで近くの柵に器用に乗る。
手を伸ばし頭の平たくなっている所を撫でると、瞳を飴みたいに細くした。細い小枝のような足に括られている紙を慎重に摘まんで抜き取る。紙は端の方が欠けて湿っていた。
細かい字で言伝がされてあった。文字を追うたびに眉間に皺が寄っていくのが自分でもわかる。四方位を清めることへの許可のみしか書かれていない。一番知りたかったこと――膝丸の対処については、一切の記述が無かった。
これはどういうことだろうと、考えながら鳥の背中を優しく撫でる。つるつるとした感触が手に心地良かった。頭の良い鷹は腰ほどの高さの柵の上で足を休めながら、静かに身をゆだねている。
政府にはいっそ清々しいくらいに無視をされている。何度も膝丸の事を伝えたし、どうにかしてくれと頼んだ。過去へ飛んでから、明確に何かをお願いしたことは初めてだった。
それなのに。いつまでたってもそのことに関してだけ返答が無い。意図が分からなくて混乱した。
ぼうっとしながら突っ立っていると、後ろから声がかけられる。
「主。どうしたのだ」
振り返れば、玄関先に膝丸がいた。慌てて出てきたのか、襟元ははだけているし、髪の毛は寝癖で元気に跳ねている。目が覚めたときに布団がもぬけのからだったから、びっくりして飛び起きたのかもしれない。そんな光景が浮かぶような姿だった。
視線に気がついた膝丸は思い出したように腰の帯を締めなおしながら、ゆっくりと近づいてくる。
「明日は晴れそうだね」
空には親指の爪の形をした三日月がぽっかりと浮かんでいる。男は同意するように静かに頷いた。
「腹が減らないか」
「こんな時間に?」
と、答えながら室内へと足を向ける。彼は必死に跳ねている髪の毛を撫でつけながら後を追ってくる。軽い足取りを聞きながら、心ではさっきの手紙の内容を考えていた。

翌日。私と膝丸は、早朝のまだ誰も起きてこないような時間帯に、町の中心地から少し外れた小道を歩いていた。久しぶりに着た巫女服は歩く度にさらさらと音を立てる。生地は清潔で、ぱっきりとした白衣が目に眩しい。
足を踏み出すたびに緋袴の裾が揺れた。髪の毛は後ろでひとつにまとめてある。栄養失調気味だから、お世辞にも綺麗とは言えなかったけど、今朝は幾分かましになっていた。
膝丸が椿油を塗ってくれたからだ。
宿で目を覚ました彼がこちらを一瞥したのと、緋袴の帯を締めたのは、ほとんど同時だった。
布団から抜け出そうとした状態でぽかんと口を開けているので、苦笑いを浮かべた。
「今さらって感じだよねぇ」
夢と現実を彷徨っているような表情をしていた男は、はっとしたように瞳を大きくさせた。
「そんなことはない!」
勢いよく立ち上がりながら畳に置いていた刀を握る。上から下までしげしげと見つめてから、「主だ」と呟いた。
それから、髪を何とかまとめようと奮闘していると、気配が近づいた。意識がそとに向かっていたから、膝丸が手を伸ばしていたことに気が付かなかった。
急に首筋に触れられて、飛び上がるほどに驚いてしまう。
「な、なに」
「俺がやろう。良い物をもっているんだ」
と、手に持っている透明な小瓶を振りながらいう。いつの間に買ったのだろう。彼の手には椿油が握られていた。
小さく頷いて肯定の意をしめせば、膝丸はそっと髪の毛に指を滑らせた。
元は黒かった髪も、まともな食事をとっていないせいで毛先が赤茶色になっている。毛先もばさばさだ。途端に恥ずかしくなって、身を捩った。
しかしそれにはお構いなしに、男は手のひらにほんのちょっとだけ油を垂らすと、指の間までまんべんなく伸ばしていった。薄くなった油を毛先に滑らせて、真ん中を握った。なんどか指の間を通すようにすると、どこからか丸い櫛を持ち出して、髪を慎重にとかしてくれる。
手持無沙汰になってぼんやりと前を向いた。畳の上にだらりと姿勢を崩して女の子座りをしながら外を眺める。まだ日が昇っていないので何の音もしないので、とほうもなく静かだ。
背中の後ろで熱心に作業をしていた男は、細い紙を持ってごそごそとしていた。暫くすると終わったのか、満足げに息を吐く。
「もういいぞ」
反射的に襟足に手をのばす。髪がひとつにまとめられて、顔周りがすっきりとしていた。
頭を振ると馬のしっぽみたいに髪の毛が揺れ、見違えるほどに綺麗になっていた。お礼を言いつつ立ち上がり、風呂敷に包まれた荷物を手に持つ。
宿を出てからはお互い無言で黙々と歩いた。町は美しく整えられていて、山道に比べると歩くのは簡単だった。まだお店は軒並み閉められており、寂しい空気が辺りを満たしている。
細い道が続いていた。右側に竹がちらほらと植えられている。進むにつれて竹の量は増していき、すぐに竹林のようになっていた。
どこを見ても、竹、竹、竹。――涼やかな青色が視界を覆っている。竹は幹の部分は薄い白色だった。高くまで伸びて、空を覆っている。
いつの間にか日が昇っていたようで、朝のやさしい光が地面に降り注いでいた。
しかし、空気は清浄とはいえない。透明な水彩画に一点だけ黒い絵の具を落としたような淀みを感じる。よくよく見てみると、竹は葉が細くしぼんでいて、だらりとたれているものが多かった。
ひとまずそれには構わずに進んでいくと、円形に切り取られた場所に出た。中心に大きな石が置いてあって、直感でここは特別な場所なのだと分かった。
「ついたみたい」
たぶん、とつけたしながら荷物を地面に置いて、ごそごそと中をまさぐる。手に硬い感触があたり、取り出したのは、竹で出来た横笛だった。
訝し気な男と目を合わせると、岩の近くに足を向ける。後ろで足音が鳴ったので、来るなと目だけで伝えた。
風が大地をなめるみたいにわたる。
大きな石のすぐそばまで歩くと、さっきまで何も無かった石の上に、生き物がいた。それは一匹の青大将で、くりくりとした目玉がこちらを見つめている。何の感情も読み取れないけれど、ただの蛇ではないということは、直感で理解した。
お辞儀をして大きく息を吸う。風の音が止んだ。どんどん心が研ぎ澄まされていく。
横笛を口に運んだ。緊張で腕がふるえる。自分の一挙一動が監視されていると分かる。空気を伝わる振動と、目の前の小さな存在から発する圧力に似た何か。
笛に息を吹き込んだ。心のままに音を繋ぐ。風が優しく髪を揺らす。高く清い音が竹の間を抜けていく。
曲はあっという間に終わったけれど、緊張のあまり何時間も経ったかのように感じた。体の中のものを出し切るみたいに空気を吐き、ゆっくりと顔を上げると、いつの間にか蛇はいなくなっていた。
景色が暗くなっている。地面に影が落ちていて、空が厚い雲で覆われていた。ゴロゴロと雷の音が鳴っている。
空気が振動する。風が向こうから波のように押し寄せてくる。竹が横に殴られたように傾いていた。
笛を胸に抱えたまま恐怖に身を竦ませる。
――何かくる。
衝撃が届いた瞬間、ぐっと体を引き寄せられて、後頭部に手が回る。ぐるんと体が反転させられた。
風の塊が通る。髪の毛が後ろに流れていき、轟音が鼓膜に響いた。
腕のなかから苦労して薄目を開く。
地面に細長い影が落ちているのが見えた。
二本の髭。四つの脚とかぎ爪がくっきりと映っている。うねうねと動く胴体は蛇のようだった。
それは瞬きする間に終わった。気が付くと辺りは何も無かったかのように静寂が戻っている。
「あ、ありがとう」
いまだにきつく抱きしめられているのでやんわりと伝えると、やっと拘束が緩くなった。そっと体を離す。
「大丈夫か。どこか痛いところはないか」
ペタペタと頬を触りながら心配そうに男は言った。
「うん。とくに何も。膝丸は大丈夫だった?」
「俺も問題ない。しかし、本当に素晴らしかった」
感動が収まらないという様子で、胸の辺りを握っている。
「実家で習ったんだ」
そうかと言って彼は噛みしめるように瞳を閉じた。
辺りを見渡すと、風景ががらっと変わっていた。竹林は青々と輝いて空気が澄み切っている。
「成功したんだよね」
「あぁ。しかとこの目で見た」
膝丸は元気づけるように肩に手を置いた。
照れ隠しで視線を落とすと、地面に何かが落ちているのに気がつく。屈んで拾い眼前に掲げた。薄くて透明なそれは、ホタテの貝殻のような形をしていた。
なんだろうと首を傾げていると、膝丸が横から覗き込み瞳を大きくさせる。
「鱗だな。お礼に落としていったのだろう」
なるほど、と返しながら角度を変えて観察する。鱗と言われて納得した。水晶のように透き通っていて、僅かに傾けると光が屈折して彩雲のように色が混じる。とても綺麗だ。
暫く見とれてしまったが、壊してしまってはいけないので、荷物の中へと大切にしまった。

竹藪の中で旅装束に着替えてから、来た道を戻った。三十分ほど歩くと人の多い通りに出る。道に一歩足を踏み入れると、途端に世界が煩雑になった。人の話し声でがやがやとしている。
体感的には一時間程度しか経っていないように感じたけれど、実際はその何倍もの時が経過していたようだ。もうお昼も過ぎてしまっていた。
大仕事をしてお腹が空いたし、とても疲れてしまったので、途中で目についた甘味屋に寄る。外に置かれている簡素な椅子に腰を下ろすと、深く息を吐いた。
まだまだやることは残っている。運ばれてきたお茶を飲みながら人の往来を眺めた。今日は子供が多い。賑やかな声がそこかしこからあがっている。
隣に座っている膝丸は目深に布を被っていた。私が着替えている間に小川の傍で髪の毛を黒く染めたようで、また色が変わっている。いちいち染めるのも大変だろうと思い、別行動を提案したけど、案の定却下された。
別に逃げようと思ったわけではない。遠征のときのように隠れて行動してみては、と思ったのだ。刀剣男士なら人目に付かないようにするのはお手のものだろう。わざわざリスクをおかしてまで一緒にいる理由は無い。
そんなことを思っていると、ある考えが浮かび、衝動的に下から覗きこむ。突然の行動に男は面食らって少しのけぞった。
「な、なんだ。急に」
「刀に戻ったら全部解決じゃない? 髪も染めなくていいし、お金も減らないよ」
主語も無く急に本題を切り出した。
どうやって貯めたのか分からないけれど、出会ってからは宿代のほとんどを彼が出してくれていた。帰りの段階になると、いつの間にか会計を終わらせている。
膝丸はすぐに意味を理解して、口をへの字にさせる。
「却下する。刀の状態でそこらに置いて行かれたら最後だ。俺はその場から動けないじゃないか」
「そんな酷いことしないよ。ずっと持ってる。……あー、でも膝丸は目立つから、布に入れて背負っているかもな。四六時中」
ぴくと口の端が痙攣する。男の琴線に触れたらしい。石のように動かなくなった。ずっと所持しているという所がツボだったのかもしれない。そこを攻めることにした。
「うん。ずっと帯刀しているし、寝る時も横に置くし、もちろん何かあったときはすぐに顕現する」
「ずっと」
「うん。一生」
一生はおおげさかなと、言ってから少しだけ後悔した。でも思いのほかまんざらでもなさそうな表情を浮かべていたので、これはいけるとふんだ。
たたみかけるように言葉を続ける。
「朝から晩までそばにいる。病めるときも健やかなときも。だからお願い、膝丸様」
名を呼んだ瞬間に息を飲む音が聞こえた。暫く頭を抱えていた男は、本当に困ったように唸っていたけれど、やがて、すべての誘惑を振り切るように頭を振った。
「やっぱり駄目だ! この話はもう終いだ」
「残念」
理性が勝ってしまったようだ。さりげなく横に置いていた刀を私の手の届かないほうへ移動しているのが目に入り、ちっと舌打ちをしてしまった。そんな子供じみた態度に膝丸は軽く笑ったあと、静かに前を向いた。
「人の身であったほうが何倍もいい。好きに動けるし、こうして会話をすることも、君と同じ景色を見ることが出来る。もちろん刀でいることに不満はない。だが今は人の姿でいたい」
穏やかな声色で言われて、ぐぬぬと唸ることしか出来なかった。
交渉は失敗に終わってしまったので、すぐに頭を切り替えることにした。懐から紙を取り出す。広げて文字を読んでいると、横から興味深そうにのぞき込まれたので、見えるように少しずらした。
「聞き込みをするのか? 屋敷の時のように」
「ううん。今回は違う方法にしようかなって思ってる」
通りを観察していると、親子が同じ方向に足を進めていた。隣の男に目で合図をし、静かに腰をあげる。
何となく流れに乗りながら歩くと、民家から外れて森の脇を通る道へと出た。
奥に行くと少しずつ人が多くなっていった。近くで縁日をやっているらしい。賑やかな笑い声が聞こえる。
半歩後ろをついていた膝丸が、ふと口を開いた。
「君と一緒だと女に声をかけられない。楽で仕方がない」
一瞬何を言っているのか分からなかったが、あぁ、と納得した。
「茶屋とか縁日って、出会いの場だったみたいだよ。良かったね。それくらい魅力的ってことだよ」
のんびりと答えると、彼は黙ってしまった。
「誰かの元へ行けとは言わないのだな」
不思議に思って立ち止まると、彼は地面を見つめていた。
「君は酷い事ばかり言う。元の本丸へ戻れとか、誰かいい人を見つければいいとか。そんなふうに扱われると、いくら俺だとて傷つく」
確かに言った覚えがある。それも沢山。今でもその考えは変わっていないけれど、今は黙っておこうと思った。
最初は行動を共にするのが苦痛でたまらなかった。でも、彼のひたむきさを見ていると心を揺さぶられてしまう。それが積み重なって、だんだんと受け入れるようになっていた。
通路の真ん中で突っ立っている二人の間を人が避けていく。川をせき止めている石のようだった。
たらりと垂れる腕が目に入る。ろくに手入れができない手は細かい傷がついていた。
考えるより先に体が動いていた。白い指先が触れる。
思ったよりずっと温かいから驚いてしまう。でも、相手のほうがもっと驚いていると、気配で感じた。
目も合わせないまま無言で手を引く。いつ離されてもいいように、ほとんど力を入れずに歩いた。
力強く握り返してくれる手は酷くかさついていて、記憶のどの男士よりも皮膚がかたい。今までまともに手入れをしていないからだ。きっと本丸で手入れをすれば、卵の殻をむくように綺麗になる。体中に負った傷も、一瞬で無くなるだろう。
それなのに、一緒にいてくれると彼はいう。過ぎた自己犠牲に泣きたいような気持ちが浮かんでくる。どうしてそんなに優しいのだろう。本丸では沢山の男士がいた。正直、膝丸とは、顕現してからたまに気にかけるくらいで、まともにコミュニケーションを取ったこともなかった。残酷な考え方だけれど、彼は沢山ある物の中のひとつにすぎなかった。相手にとっては、一人の持ち主だとしても。
途端に申し訳ない気持ちがこみ上げてきて、気付かれないように手を離そうと力を抜けば、指先が絡まる。離れるなと言外に伝えているように感じて、心臓が大きく跳ねた。
同じくらいの力を込める。気まずい気持ちを抱えたまま、口を噤み、黙々と歩いた。

暫く人の流れに乗って歩いていると、やがて神社へとたどり着いた。夕暮れ時なのに人が多い。
理由はすぐに分かった。入り口の付近で縁日をやっていたのだ。予想より子供が多く、その倍ほどの大人がいる。沢山の屋台が並んでいた。
手を繋いだまま木の影に移動した。そのまま息をひそめて人の流れを観察する。
膝丸も黙って祭りの賑わいを眺めていた。こういうとき、何も言わずにいてくれるのはありがたかった。話しかけられると、かえってやりにくい。
呼吸に意識を集中させ、気配をさぐる。
数秒後、何も感じられなかったむねを伝えると、彼も静かに首を横に振った。
早々に諦めた私たちは、屋台を順に覗きながら、神社の方に足を向けることにした。途中で団子を二本買って、一つを男に差し出す。彼は瞳を大きくさせて、礼を言いながら受け取った。
だらだらと歩く。空気がかさついている。季節はすっかり秋になっていた。
道は緩やかに登り坂になっている。地面が固められて簡単な階段のようになっていた。登り切ってしまうと唐突に境内が現れた。人は誰も居なかった。
なんとなく人込みに疲れてしまったので、神社の脇に移動した。平たくなっている乾いた地面に座る。膝の上に肘をつき、そこに顎を乗せて少しだけ休んだ。遠くでお祭りのあたたかい灯りが見える。
いつのまにか半身が触れるくらいの距離に膝丸がいた。同じようにぼんやりとしながら景色を眺めている。少し距離が近い気がするけれど、別に嫌じゃなかったからそのままでいた。元が刀だったからこのくらいの距離がおちつくのかもしれない。
そんなことを考えていると、小さく呼ばれたので顔をあげる。奥に、ひとりの女性と子供がいた。
女はとても美しかった。横顔に僅かに影を落としている髪は濁りのない黒色で、後ろでひとまとめにされている。横顔から涼し気な目元がのぞく。
でもおかしい、と緊張が体をつつんだ。人の気配がまるでしていなかった。それに、階段は一か所しかない。もし後ろから同じように歩いて来ていたら、前を歩いていた私たちは気が付いていただろう。
女性はしゃがみ込んで、向かいにいる女の子に風車を渡した。貰った子はとても喜んで、その場で息を吹きかけている。
和紙で出来た風車はくるくると元気よくまわり、色がまじりあって複雑な表情をみせた。
膝丸は眉間に皺をよせて刀に手をかけている。彼は妖の気配に敏感だった。無言で目を合わせると、左手で印を作った。懐に仕舞っていた和紙に息を吹きかける。蝶の形になったそれは、女の子の方に吸い寄せられるように飛んで行き、やがて肩口に止まって溶けるように消えた。
膝丸は刀を握り立ち上がろうとする。が、袖を引いてそれを制した。
一瞬の内に女が消えたからだ。残された女の子だけが、風車を手に持ったまま不思議そうに夕暮れに赤く染まった空を見つめている。