すくわない(22)

あんなに体が痛かったのに手入れ部屋で数時間過ごし、目を覚ますと嘘みたいに苦痛は消えていた。負傷した翌日は体を慣らすために休みをあてられる。鞘の汚れが気になったので、日差しがやわらかくおちる縁側で布巾を片手に乾拭きしていると長曽祢虎徹がたずねてきた。よっ、と気軽な調子で声をかけてきたので、おうとこたえる。隣に座ったのを目にして茶でも出そうかと腰を浮かせると、いい、と片手を振ったので甘えさせてもらった。

「いまの本丸に不満はないか」

ある程度予想していたが実際に言葉に出されると心臓が嫌な感じにはねた。これはちゃんと話を聞かなくてはと道具を脇に置いて向きなおる。長曽祢はこわいくらいに真っすぐな目をしていた。

「仲間内でいくつか話し合ったんだ。だが肝心の主はあんな調子だ。どうしたらいいと思う」

「なんでオレにきく」

純粋な疑問だった。長曽祢は意外そうな顔をする。視線をさまよわせると、言いにくそうに口をひらいた。

「お前がいちばん中立そうに見えた。あけすけにいえば主に執着していない」

「ふぅん」

妙に納得できるような、それでいて反抗したくなるような単語だった。後半については、とくに。どう答えていいのかわからず曖昧に頷いていると、問題はそこじゃないと長曽祢は話をもどした。

「とりあえず、今の状態を変えたい。主の負担も大きいしな」

「本人に言うしかないだろ」

「それができたら最初からやってる」

男の瞳がかげる。そういえば、最近女の姿を目にしていない。長曽祢は心をよんだかのように言葉を続けた。

「主が本丸に来る頻度が減っている。最近はもっぱら遠隔で指示をしているだろう。これは短刀が聞いたんだが、辞めることを視野に入れているらしい」

「それは前からだ」

切り捨てる言いかたになってしまい自己嫌悪に陥るが、男は気にしていないようで、言葉を続けた。

「こんのすけと喧嘩しているのを聞いたそうだ。このままだと本丸を停止させられると。主はそれでもかまわない、自分のかわりなんて腐るほどいる、と言ったそうだ」

「それだけだと分からねぇな」

とはいえ他人の目から見ても女は役目に対して乗り気ではないのはたしかで、いいようのない怒りがわいてくる。中途半場な気持ちならさっさと辞めてしまえと心の中で毒ついた。だがどうして、そこまでして続けるのだろうという疑問がうまれる。投げ出してしまうことなら、すぐにでもできるはずだ。政府の人間も馬鹿ではないはず。戦績が悪くなるくらいなら審神者を別の場所で使うことだってできる。そうした場合、元の生活に戻ることは不可能なのだろうか。たとえば、記憶を消すかわりに、などの条件付きで。思考が泥沼にはまっていく。

「……辞められない理由があるのか?」

ひとりごとに近い声量だったが向かいの男は拾ったみたいで、ん? と小首をかしげる。なんでもないと頭をふると、話を始めた。

「嫁ぐのなら、まだ納得できるのになぁ」

なぜか胸の奥に嫌な感覚が広がった。理由がわからなくて困惑する。長曽祢はなにを勘違いしたのかにやにやとした顔でこちらを見てくるので眉を寄せる。

「手入れくらいは、ちゃんとしてほしいよな。錆びたらそれこそ終わりだ」

まぁな、とよわよわしい笑みを浮かべながら同意した男は話したいことは終わったみたいで、体のむきを少し変えて庭を眺めた。同じように視線を外に向けると、左から細い影が廊下にのびて、予想外の人物が姿をあらわす。ちょうど、さっきまで話していた人だった。

あっけにとられてみあげる二人を目にして主は不思議そうに首をかしげた。張り詰めた空気がほどけてあどけなさが残る。この表情はいい、とそんなことを思っていると、次の瞬間には真顔になった。彼女は刀に視線をおくる。

「長曽祢虎徹」

「はい」

呼ばれた男は反射的に返事をする。さっきまでは胡坐をかいていたのに、いつのまにか正座になっていた。冷たい目で見下ろしながら主は淡々と告げる。

「明日の戦場で二番の隊長をお願いしたい。場所が難しいから相談したいことがあるから、あとで執務室まできて」

「拝命した」

硬い声で男がこたえる。女は和泉守と目が合うとほんの少し眉を寄せた。それが彼女のみせた唯一の表情の変化だった。だが、一瞬ですぐにもとの能面みたいな顔に戻る。女は長曽祢を一瞥し、

「皆に伝えてください。今日の夕方に負傷者をまとめて手入れをするから、軽症でも部屋に来い、と」

男の返事をまたずに女は早くその場を離れたいとばかりに執務室へ戻っていく。心臓がへんな動きかたをした。主に対して緊張してしまうのは自分だけなのだろうかと隣の男に視線をやると、顔がこわばっていたので、安心するような情けないような、複雑な気持ちになる。

 

 

 

主に執着していない、その言葉が胸に残っている。普段は意識していないがふとしたときに思い出すとそればかり考えてしまう。たとえばそう、夕餉の準備のために山盛りのニラを刻んでいる今なんて(野菜はあとで餃子にするらしい)、考えごとをするにはうってつけだった。料理は得意でないので大きさはバラバラだが他の具材と混ぜていくといい感じにまとまるので、和泉守は刻み係に任命されていた。ひたすら目の前に積まれた野菜に包丁を入れる。ボウルに山盛りになると誰かが回収していき、いつのまにか空になった器が置かれている。だから無心で作業できた。

ほとんどの仲間は主に反論しないし全面的に肯定しているが、それぞれの意見は持っていた。信念のようななにか――それは和泉守のなかにもあり、主に対してあるていどは許容できるがどうしても許せない一線があって、最近の主はそれをやすやすと踏みこえてくる。ダン! と野菜の上に刃を落とす。予想外に大きな音がした。燭台切が振り返って心配そうな目を向けてきたが気が付かないふりをする。先日の彼女の振る舞いを思い出すと腹が立ってしかたがない。最近の主は特定の刀以外は執務室に呼ばなくなっていたし徹底的に避けるようになっていた。女は審神者に選ばれるだけあって、気を感じる能力がするどいのか、短刀顔負けの偵察能力で逃げた。避けられた刀は少なからず傷ついた。現世でもこんな振る舞いをしていたら友人がいなくなるのではと思ったが、心のどこかで否定していた。きっと向こうではうまくやっている。根拠はないが、そう思った。

腹にたまるのは寂しさではなく純粋な怒りだ。短気だと他人から評されることが多く自分でも自覚している。だから、今の主と顔を合わせて言葉を交わすと絶対に喧嘩する自信があった。彼女を見つめる視線が鋭いものに変化しているのが自分でもわかる。時間が経つにつれて女はだんだんと気持ちを立てなおしており、沈んだ目をしていたがこの頃は睨み返してくるようになった。まるで敵を前にしたような剣呑な目を向けられると、ますます怒りが膨れあがる。その奥にある悲しみには気づかないふりをした。己の心を自覚してしまうと、捨てられることを恐れて言いたいこともいえない物とおなじになってしまう気がした。この本丸では、執着にあらがってでも、真をとなえる者が必要だった。たとえそれが原因で、主から嫌われてしまったとしても。

 

 

結果的に主は審神者を辞めることはなかったが、政府の監視がきつく、みるからに疲弊していた。執務室からときどき大きな声が響いてくることがあり、様子を見に行った短刀が心配している。

同じ空間にいると姿を見かけることがある。女はのろのろとした足取りで廊下を歩いていた。おそらく風呂や厠に向かう途中だ。本人は隠しているつもりでも背中や髪の毛の先にいたるまで疲労が滲んでいて、足をふみだすのも億劫そうだった。ある日、みかねた歌仙が声をかけたが主はひとこと返してその場を去る。残った男は打ちのめされたみたいにその場から動かなかったので、よほどきついことを言われたのだろうと察して声をかけた。

「大丈夫かよ」

「あぁ、問題ないよ。僕がすこし、おせっかいがすぎるのがよくないんだ」

自重するように笑った歌仙が顔をあげる。

「あの」

声のほうへ目をむけるとさっきまでいなかったはずの女がいた。主は俺と歌仙に視線をやり、控えめに言葉を発する。

「来週の週末、予定をあけておいて」

「……オレ?」

「そう」

「構わないが、理由をきいてもいいか」

「政府の施設へ行くのに、護衛と、刀の検査をするみたいだから貴方にお願いしたい」

歌仙がちいさく、「検査?」と呟くのが聞こえた。審神者の耳にも届いたようで、そう、と静かにこたえる。

「詳しい内容は結果に関わるから教えられないって」

「その役目、僕では駄目かい」

「おい」

腕を掴んで制するが歌仙は反応しなかった。彼女は眉を顰める。

「もう決めたことだから。それに、歴史とか前の持ち主とかの関係で和泉守兼定が適任らしくて」

やってくれる? と目だけで問いかけてくる女に、頷きをかえす。主はかるくお辞儀をして執務室へ戻っていく。二人でしばらく背中をみつめていたが、廊下の先に消えたところで歌仙が息をついた。

「はぁ、どうしてこうも緊張してしまうのだろう。昔もこんなだったかな」

「さぁな。それより、どうして代わろうとしたんだ?」

振り向いた歌仙は頬をゆるませた。

「護衛の役をとろうとしたわけじゃない。なんだかとても嫌な予感がしてね。だって……、いや、考えすぎか」

「最後まで言ってくれ。遠慮はいらない」

言葉が尻すぼみになり消えてしまったので先を促すと、歌仙は言いにくそうに口をひらく。

「あれはあきらかに嘘をついている。なぜ主と特別仲が良くない君が選ばれた? 護衛なら普段は燭台切が選ばれる。そもそも、検査とは何をするのだろう」

女はたまに健康診断を受けに病院に行っていたが、いままで一度も刀剣が検査をうけたことはない。頭のなかでは別の二文字が浮かんで消える。それは、実験、だった。

 

 

 

翌週の金曜日、政府の施設へと向かった。ゲートをくぐると目の前に広い空間が広がり目を細める。全体的に白っぽく、降り立った場所は楕円形に明るくなっていて、足を踏み出すと擦るような音を残して光が消えた。ぐるりと見渡した女はぴたりと止まる。まわりにはなにもなくどこへ向かえばいいのかわからない。仕方ないので黙って横に控えていると、女は弁解するように、

「初めて来たので」

と呟く。しばらくあたりを見渡していたが壁になにか見つけたようで、あ、と小さく声をあげ軽く駆けだした。慌ててあとを追う。壁に寄って初めて分かったのだが表面に薄い切れ込みのようなものが浮いていた。女が確かめるために手を伸ばすと線が両側に広がったので、とっさに肩を引き寄せる。驚いて固まっている女を片腕で引き寄せつつ動向を観察すると、線だと思っていたのは扉で、両側にひらいていく。十人くらい入れそうな四角い空間が突如出現した。

「エレベーターかな」

女が呟いた単語が何かよくわからないので答えずにいると腕をそっと引き剥がされた。そのまま迷いなく中に入ろうとしたので手首を掴む。

「オレが先に行く」

振り返った女は少しだけ困惑していたが譲るように横にずれてくれたので足を踏み入れる。なにか起こるかと体をかたくしたが心配は杞憂におわった。床を足で叩き、

「大丈夫そうだぜ」

と口にした瞬間、主が飛び込んできたので閉口してしまう。物怖じしない性格なのか、浅はかなのかよくわからない。すぐに扉が閉まり、ぴったりとあわさると平坦な空間に放り出されたかのようだ。低い振動音が鳴って内臓が浮く感覚がする。

「何か操作したか?」

「いえ、なにも」

窓がないので外がどうなっているかもわからない。しばらく上昇を続け、なんの前触れもなしに機械がとまる。扉があいて、先には廊下が続いていた。どこもかしこも真っ白で、窓もあかりもないのに遠くまで見渡せる。どちらも突っ立ったままでいたがエレベーターは動かなかった。

「行けってことか」

返事のかわりに主は軽く踏み出し廊下へ出た。しばらく歩いていると右側の視界に動くものがあり立ち止まる。壁に線が浮きあがり、四角の形になるとやがてまた扉になる。気が付かずに先へどんどんと進んでいく女に向かって呼んだ。

「模様が出てきたぜ」

女は戻ってきて顔をゆがめて、「分かりづらい」と言った。おおむね同意しながら頷く。女が手をかざすと扉がひらいて奥に部屋があらわれる。人影が見えたので警戒すると、どうぞ、と声がかけられた。かるく会釈をしながら入室する女についていくと、一定の場所まで来たときに静電気と似た衝撃とともに体がはじかれる。皮膚に細かく走った痛みにかるくのけぞると、奥にいる男性が、

「刀剣は外で待っていてください」

と言う。全く従いたくはなかったがしぶしぶと廊下へ出た。振り返ると主の背中が見える。まっすぐに伸びていて静かだ。怯えているのかわからない。後ろ髪を引かれる思いで半歩さがると扉は消えてただの壁になってしまった。

 

 

どのくらい時間が経ったのだろうか。壁に寄りかかり外で待機していると急に背中の抵抗がなくなり、驚きのあまり変な声をあげそうになった。振り返るとまたさっきの部屋がある。奥に中年の男がいて、ぺこりと顎を突き出すようにしてお辞儀をし、「どうぞ座って」と言った。

「主はどこだ」

慎重に足を踏み入れ、部屋を見渡してもそれらしい姿がない。コの字型に置かれた白い机の一番奥に男がいるだけだった。入り口らしきものが見あたらず、右手の指が痙攣したかのように動く。

「別室で医者に診てもらってます。体調が良くなかったようなので」

淡々とした調子で言ってのけた男は顔をあげる。座っていた椅子から立ちあがると、横を向いたまま、ぱんと両手を打った。音に反応するように端から室内が変化する。白い壁は暗いコンクリートに覆われて家具が消えた。空気さえも変わり、湿度をもった風が頬をなでる。

「あなたには実験に付き合ってもらいます」

コツコツと革靴の音が響く。手招きされてしぶしぶ足を前に出すと、部屋の真ん中まで呼ばれた。

「手を後ろに」

「……主は許可したんだな」

「勿論です」

ほら、と言いながらどこからか持ち出した紙を見せつけてくる。それは同意書で、検体の欄には刀の名前が書いてある。はねるところが少しあがるのは彼女の書く字の癖だった。あきらめて手を後ろにやると、男は「助かります」と呟きながら触れていく。なにかが手首に巻かれていく感覚があった。

「そこにちゃんと立って。どうですか」

よく見ると足元に赤いバッテンが書いてある。テープのようで、劣化し、ところどころめくれている。手に力を込めてみたが拘束は外れない。それどころか足も床に縫い付けられたように動かなかった。

「んだよ、これ」

不快感を隠さずに言うと、男はうんうんとひとりで頷きながらこたえる。

「よかった。ちゃんと効いているらしい。政府で作ったものです。暴れ回られると困りますから」

後ろに回り込んだ男が腕に触れ、次の瞬間、手首にチクっとした痛みが走った。

「てめぇ! 何をする!」

「弛緩剤です。念のために」

注射器を箱にしまい、改めて向き直った男は和泉守の前に出て抑揚のない声で説明を続ける。

「今回、実験したいことはひとつ。男士はどんなことがあっても秘密を守れるか――です。刀剣男士は優秀な武器ですがひとつ重大な欠点がある。いいですか、あなたたちが守るべきは主ではなくて歴史です。それだけ覚えていてください」

「いまさら、なにを」

「ちなみに今のところ九十振ほど実験しましたが最善の結果を選べたのは四振だけです。では頑張ってください。あなたの行動は審神者の評価にもつながりますからね。……もうそろそろか。あと五秒、四、」

「おいまて、オレの話をきけ、」

「……二、一、」

 

頭の奥でジユッとした感覚が広がり、あまりのおぞましさに握り拳をつくる。血管から血が溢れ出して漏れ出ているみたいだ。頭痛と一緒に吐き気が襲ってきて、目を瞑り他のことを考えていると肩を叩かれる。顔をあげると別室にいるはずの主がいた。

「おはよ」

面食らっている間に横の頬へ衝撃が走る。けっこうな力で殴られたようで口の中に血の味が広がる。避けきれなかったのはとっさのことに反応できなかったのと、体の自由が効かなかったからだ。

「あ……? なに、が」

カチャ、と高い音が鳴ったので顔を向けると女が見たこともない器具を手に持っていた。菜箸ほどの長さの針だ。細くて鋭い先端が光を受けて輝いている。反射的に体を起こそうとしたがそれは叶わなかった。首を僅かに下げると椅子に拘束されている。手は後ろのほうで鎖に繋がれていて、手首と足首に拘束具がはめてあった。

「拷問か? 古くせぇやり方だな」

これくらいなら壊せるかと冷静になり始めた頭で考えていると、それを打ち消すように、

「あばれても意味ないから」

と女が冷たく言い放つ。ガラガラと音を立てながら台を寄せすぐ脇でとめた。腰の位置の高さの台は少し覗くとうえに乗っている器具がみえて、だいたいどんな用途のものか予想がついたが、なかには不明なものもあった。

「さて、始めますか」

「まってくれ」

首を傾げながら動きを止める姿に舌打ちをする。目の前の女はあきらかに幻想なのだが声や動き、ちょっとした仕草が主にそっくりだ。

「その姿をやめてくれ。もっと別の……適当なのがあるんだろ」

「なんだ、そんなこと。この部屋に入った瞬間、あなたの脳波を計測して、最も適した形になるから、%BAさら変えられないよ。まぁ大体は持ち主が多いかな」

女はぐっと顔をよせた。鼻孔をくすぐる匂いに覚えがあり、どんどん具合が悪くなっていく。

「さっそく始めるけど、本丸のIDを教えてくれたらやめるから」

「誰が言うか、馬鹿が」

「その意気だよ」

鋏のような形をした器具をカチカチさせながら女が笑った。

 

 

 

「うーん。さすが刀剣男士。痛みにアプローチするやり方は効かないか」

「あたりめぇだろ。くだらねぇことしやがって」

前髪の奥から血がとめどなく流れ出てくるのが鬱陶しい。女はつまらなそうに道具を棚に置くとわざとらしくため息をついた。どんな過激なことをされるのかと身構えていたが想像を超えたことはなく拍子抜けする。数時間経つとさすがに体力を消耗してくるが、相手は女の姿なのでさほど力がないらしい。何度か渾身の力で殴られたが骨を折るだけで済んだ。

「なぁ、もうこんな無駄なことはやめようぜ」

「そうなんだけど……」

汚れた鉄の道具を綺麗な布で拭きながら女が答える。振り向くとようすを確認しに顔を覗き込んできたので反抗心を込めて逆を向いた。黒い床がぬらぬらとしているのはおそらく血のせいだ。出血の量を自覚したら途端に頭が重くなってきて、ぼうっとしていると背をもたれかせている椅子がギシと不吉な音を立てた。「よっ、と」と言いながら女が腹に乗ってくるので焦って顔をあげる。

女は返事のかわりに乱暴に髪をひっぱり、強制的に顔を横にむけさせた。遅れて首筋に痛みが走る。白い手に注射器が握られている。液体が血管にひろがる感覚に顔をゆがめた。

「なにをいれた?」

「素直になる薬」

抵抗したいが弛緩剤がいまだに効果を発揮しているようで筋肉がうまく動かない。女の白い手が頬に触れて、懐かしい温度に、そういえばずいぶん触れられていないと実感してしまう。そんな気持ちを見透かしてか女は体をたおして自然なしぐさで顔をよせる。顔を背けて目を瞑ると、「さすがに傷つくなぁ」と女がのんきに言った。

「頼むからやめてくれ。戻ったときどんな顔して、あいつと向き合えばいいかわからねぇ」

肉体にあたえられる痛みのほうがずっと良かった。早く終わってくれ、早く早く早く――そう強く念じていると。沈黙を裂くように、軽い笑い声が響いておもわず目をあける。女はいつのまにか体を起こしていた。手を下にもっていくと、わずかにずらして膨らんだ下腹部をなでたので反射的に腰を引く。悔しさに下唇を噛んで耐えた。

「散々、嫌いだとか言ってたのに」

「殺す。幻覚だとしても関係ねぇ。切り刻んでやる」

「わたしは好きだよ。貴方のこと」

腹からこするようにして女が身を寄せて、もう一度おなじ言葉をつぶやいた。口から浅い息がもれて体から力が抜けてしまう。

「……黙れ。なにも知らないくせに」

「知ってるよ。いつも、みんなのことを考えてくれているってこと。もちろん、私のことも」

女が猫の気ままな挨拶のように口づける。あえぐように息を吸うと自然と舌が入ってきた。死に物狂いで身をよじればきっとこんな薄い体なんて振り落とすことができるはずなのに。悔しくて視界がにじむ。女が手を伸ばして拘束を外す。自由になった手は刀には向かわずに背中へと向かう。淡く抱きしめると同時に、空間を切り裂くように高い電子音が鳴った。