すくわない(21)

その日は朝からやることがなく暇で、ぼうっとしていると廊下のほうがざわざわとしていることに気がついた。堀川国広が顔をあげる。青い目が庭を射抜くように見つめ、だんだんと大きくなる。

「どうした」

畳でころがっていた体を起こしたずねる。国広は猫みたいに固まったまま今度は目を細めた。刀かけに手を伸ばしたので反射的に立ちあがる。

「分からない。だけど、いい感じではないよ」

ばたばたとにこんのすけが走っていく音がした。狐はまっすぐに審神者の部屋を目指している。

「兼さん、こっち」

廊下とは反対の襖に手をかけながら堀川国広が言った。部屋を突っ切ったほうが、遠まわりになるが近侍部屋へは人目につかずにいける。前をゆく青年は足音をほとんど立てない。執務室の隣にある近侍部屋に着くとすでに何人かいて、いちばん目についた男に小声で話しかける。

「誰が来てる?」

「政府の人と、付き添いの男士かな」

誰も襖の近くによらない。隙間から覗けばなかが見えたかもしれないが、距離を取っていた。政府の人間が連れてきた刀は気が付いているだろうに、慣れているのか淡々と話している。

「わくわくしてきたぜ」

畳に片膝をつくようにして座りながら鶴丸が言う。話し声は大きくないが木造なので音をよく通す。どうやら主の勤務態度――勤務と言っていいのか分からないが――について問題があって、政府はわざわざ本丸まで出向いたようだった。

鶴丸は好奇心でいっぱいの瞳で四つん這いのような形で襖に近づき、あろうことか襖に手をかける。爪の隙間ほどの隙間に顔を近づけて覗く。

「ちょっと、鶴さん!」

「しっ! そんな大声だすな。さすがにばれる」

呆れたまま立っていると振り返った鶴丸と目があった。こっちにこいと手招きされ、ため息をつきながら近寄る。彼にのしかからないように注意しながら同じように隙間を覗くと、光忠が「えっ、ずるい。僕も見たい」と言ったので無言で体を端によせた。光忠はありがとうと小声で呟きながら近寄る。

切り取ったように細長い執務室。来客用の机を挟んで二人の男が座っている。こちらからは横側しか見えない。三十代くらいの男と、奥には銀髪の青年がいた。雑談をはさみながら段々と本丸の運営について質問がはいる。こんのすけが律儀に答えているが彼はあまりこういう場が得意ではない。変なことを言わなければいいと願った。

「もっと出陣を増やすことはできませんか」

「それは難しいですね。審神者様は現世で生活していますので。遠隔で操作することは可能ですが、式神に任せきりだと、手入れに時間がかかってしまいます。中傷までは仕方ないとしていますが、重傷だと苦痛が長引きます」

「常駐することはできないのですか」

見渡すが審神者の姿はなく、話は堂々めぐりな印象だった。こんのすけも分からないことは答えられないので、鋭い質問をされると「さあ」とか「どうでしょう」というなんとも不明瞭な返答をし、政府側の空気が白けていく。

「らちがあかないな。とりあえず、このままの出陣方針で、」

「駄目だね」

びしりと部屋の空気が固まった。男性の言葉に安堵していたこんのすけが体を強張らせる。まったをかけたのは山姥切長義で、たたみかけるように続けた。

「現状維持では成長がない。君達は今の戦況を理解しているのかな? ぬるいことは言っていられない。仕方ないさ。男士が負傷したままなのが嫌ならば常駐すべきだと、俺は思うけどね」

それに、と口角をあげながら男は続ける。

「進軍率があがれば、刀剣破壊のリスクも高まるだろうね。とはいえ破壊まで至るのは重傷のまま進んだ場合だけだ。破壊の数が今後増えるなら、運営が円滑にいっているとはいえない。損失だって大きい。そのときは遠慮なくこちらも決断させてもらうよ」

「待ってください」

静かに聞いていたこんのすけが遮るように声をあげた。丸い目が二人をとらえる。

「その言いかたは強引すぎます。まるでこちらが悪と決めつけているみたいだ」

動物というものは無表情で感情が読み取れない。狐の姿であるこんのすけもそうだった。だがこのときばかりは毛の一本まで怒っているようすが伝わった。

山姥切はため息をつきながら言葉を続ける。

「注目されているんだよ。君も分かっているだろう。監査はいきなり行われるわけではない。こちらはそんなに暇ではない」

はっとしたようすでこんのすけが顔をあげた。

「まさか、刀剣男士の誰かが?」

「そこまではさすがに言えないよ。……おい、話に入らなくていいからって、出された菓子をそんなに食べるな」

「でもこれ美味しいですよ。なにかな。お月さまみたいな見た目してる」

政府の男は、長義の高圧的な雰囲気に慣れているのかどこか緊張感がない。透明な包装紙をむきながら、「二個もらっていい?」とこんのすけにたずねるくらいだった。和泉守は直感的に、人間のほうは、この本丸をそれほど問題視していないのではと思った。マイペースな態度に長義は苛々としている。長い前髪を振り払うように顔の横に流しながら、こんのすけを睨んだ。

「ここの管狐は審神者に対していやに優しいな。プログラムを組み直したほうがいいのでは?」

ぽと、と軽いものが畳に落ちる音がする。手前にころがってきたものに視線をうつすと、ちいさな丸い菓子があった。悲痛な声が耳に届く。

「いやです! 忘れたくなんてありません! 最後までやらせてください!」

「その考えが審神者を駄目にするんだ。お前まで甘ったれてどうする!」

狐がこのように感情的になる姿を初めてみた。驚きながら成り行きを見守る。諌めたのは人間の男だった。

「長義。そのくらいにして、今日は帰ろう」

山姥切は不服そうにしぶしぶと頷く。こんのすけはゆっくりと机から前足を離し、先導するかのようにたちあがった。よいしょ、と言いながらコートを片手に立ちあがる男を先に行かせ、青年が立ち止まる。彼は一点を見つめる。視線の先は襖だった。こちらも予想していたので取りたてて動揺はしなかった。鶴丸が音もなく立ちあがる。

「こんのすけ、彼らに言っておいてくれ。これじゃあ、別に移る準備をしていたほうがよさそうだ、とね」

和泉守が勢いよく襖を開けたときには、すでに二人はいなくなっていた。

 

 

 

噂話はすぐにまわる。翌日の朝には、政府が本丸に来たこと、その目的が監査だったことが本丸中に伝わった。審神者は基本的にいない。帰ってくるときは特に時間の指定もなくふらりときて、そして決まって日曜日の夕方には帰ってしまう。見送りしたがる刀は沢山いたが気遣いは不要とつっぱね、しまいにはやんわりと禁止にした。現実のほうで問題があったり忙しかったりすると平気で先延ばしにされる。短刀なんかは健気なもので、かすかな物音が玄関のほうからすると、急いで走っていった。そして空耳だったことを確認すると肩を落として帰ってくるのだった。

だが今週は必ず来るだろうと皆が確信していた。朝がた、食事も終わり自由な時間を過ごしていると、玄関のほうから物音がする。数秒遅れて、たかたかと猫みたいな軽い足音が響いた。誰かが廊下を走っているらしい。「荷物をお持ちしますよ」とおだやかな声が響く。答える声はちいさくてよく聞き取れなかった。

「今日はいい天気だね」

「まーな」

「主、帰ってきたね」

それには答えず、胡座をかきながら、毛先の枝毛をとるふりをして髪を指に巻き付けていると、堀川国広が遠慮がちに近寄ってきてようすを見に行こうと誘う。

「しょうがねぇな」

体が一気に重くなった気がする。内番着の太ももあたりをかるく叩いて埃を落とした。廊下のつきあたりを曲がって、使われていない部屋を通る。真正面から行く気はなかった。近侍部屋にたどり着くとなぜか鶴丸が中心で大の字に寝そべっていて、あきれてしまう。

「今日は天井じゃないのか」

「満杯だった。いやぁ、主は人気者だな」

おもに短刀だが、と続けた鶴丸はごろんと横になり、気の抜けた体勢で襖を眺めている。いつかのときと似た風景だなと思いながら隣に腰をおろした。横で堀川が膝をつく。自室に刀を置いてきたことを思い出し、急に心許ない気がしてくる。本丸に敵なんていないのに。

襖を隔てた向こう側でこんのすけが審神者に政府の関係者が来たことを伝える。ぽとんと座布団を畳に落とす音。説明をひととおり聞いた女は、ふぅんと気のない返事をした。

「つまり、辞めろってこと?」

鶴丸が嘘みたい位に俊敏な動きで体をおこす。こんのすけが焦った声をだした。

「どうしてそうなるんですか! そこまでは言ってません。湾曲して受け取らないでください」

「良く思ってないのは事実でしょう。それは置いておいて……、いいんじゃない。出陣回数を増やしても」

「ですが」

こんのすけは不服そうに返す。先日の会話を思い出した。手入部屋は一度に四人しか入れない。部隊が続けて出陣したらすぐにあふれてしまう。

「手入れが追いつきませんよ」

「そんなことない」

飲み物をのむ音、コップを机に置く音。こんのすけは審神者が話し始めるのを辛抱強く待っている。

「難易度も回数も政府の人は指定してこなかった。だから比較的やさしい戦場に行ってもらえば良い。でも、いい機会だから育てたい刀をいくつかいれて、みんなでフォローしてその刀を成長させる。たぶんあっちとは目的が違うけど、日課はこなしてると言える。とりあえず、だけど」

「なるほど」

「そんなにさわぐことじゃないよ」

いうだけ言うと審神者はさっそく業務に取り掛かった。もうこれ以上はいても仕方がないとみんな静かにたちあがり、そっと、執務室とは反対の部屋へ続く襖をあける。同じような部屋をすぎていったん廊下に出た。鶴丸はかたまった筋肉を伸ばすように両手を伸ばして、あーあと声をあげる。

「明日から出陣が増えそうだ。羽でも休めておくか」

うまい切り返しができないまま廊下を歩く。審神者の言葉を胸のうちで反芻すると苦い気持ちがわいてきて、自然と顔に力がはいる。後ろをついてきていた堀川が立ち止まった。振り向くと不安げな瞳とぶつかる。瞬間、おなじ思いを抱いていると知った。女はこの本丸に未練なんてないのだ。だから簡単に、辞めるとか――手放すような言葉を口にできる。

 

翌週から出陣の回数が増えた。平日は遠征や内番でうめていたところを戦場に行くことになり、一部の男士は喜んでいた。与えられた任務も難しすぎることはなく、深く負傷する刀もでなかった。あまり戦場に出たことのない、経験のすくない刀をほかで補うような編成でなんどか繰り返しているうちに浦島虎徹や五虎退がいつのまにか特になった。彼らはとても喜んで、その日は夕ご飯をおかわりした。

過不足のない状況に、もっと早くこうすれば良かったともらす者もいた。

 

 

 

 

雨が池に打ちつけられるのを縁側に座りながら眺めていた。ちゃかぽかと音がしている。雨の勢いがつよいので廊下まで濡れるのではと危惧したが張り出した屋根のおかげで濡れることはなかった。雨の日は畑仕事も中止になる。その日は内番を振られていたのだが仕事がなくなってしまい暇をもてあましていた。堀川は買い出しに行っているので部屋は静かだ。一人で喋る趣味はないので黙っていると、雨の音がだんだんと大きくなっている気がして空を見あげる。どんよりとした雲がかかっていた。

頭のなかに先日きていた男の姿が浮かんだ。政府の人間は、二度目は審神者がいる日をめがけてきた。主は驚いていたけれど、どうぞと言って執務室に案内ししばらく話をしていた。女の後ろに控えていたのは燭台切光忠で、政府の人間が帰ったあと、作業途中の厨に戻ってきた彼は、待ち受けていた仲間から質問攻めにあい眉をさげた。和泉守は輪に入る気になれず扉の外で耳をかたむける。たいがい内容は予想がつくので冒頭だけ聞き、その場をあとにした。夕餉の前に主が大広間に顔を出し、各部隊の隊長は食事が終わったあとに執務室に来るようにと伝える。あいかわらず表情からはなにを感じているかは読めなかった。ただ、目が暗かったことだけ覚えている。

後日、さらに難易度の高い戦場へ挑戦することになったことを仲間からきいた。とくに異論はなかった。不満はないが、審神者の体力が心配だった。こんのすけが朝に部隊の編成を発表する。それにそって出陣する。傷は中傷になったら帰還する。だけどいつも同じようにはいかないし、どんな状態になるか、予想なんてできない。週末に帰ってきた審神者は午前中手入れにかかりきりになり、予定は後ろに流れて、執務室は深夜まで明かりがついているようになった。

本丸にはまだ極めた刀がいなかった。演練でまれに目にする、装束の豪華な男士のことを妬ましいと感じたことはあまりないが、力が段違いに強いので尊敬をしていた。いまは池田屋に挑戦しているが、自身の本丸では短刀があまり育っていないので苦戦し挙句の果てに敵を逃してしまう。主はそのことで政府からつめられていた。何度も挑戦するうちに少しずつ力は強くなっていったが、それをうわまわる速度で刀が負傷していくため手入札がすぐに無くなる。負傷者は部屋があくまで自室で待機することが多くなり、締め切られた障子の向こう側からうめき声が漏れて廊下まで聞こえた。

 

夕方、手入れ部屋から出てきた長身の男を見かける。装束は血でほとんど色が変わっていた。額を切っているのか前髪から血が伝って目にかかり、犬のように頭をふる。なんとなく遠くからようすを窺っていると、よろよろとした足取りで使われていない部屋へと入ったので、あわてて追いかけた。

「おい。何してんだよ」

「おー」

布団の代わりに大きめのタオルを敷きながら御手杵が答える。ぼろぼろの姿で横になるとそのままぴくりとも動かなくなった。

「どうした。手入れ部屋に連れて行くから、肩かせよ」

「……い」

「あ?」

しゃがみこんで顔を近づける。御手杵は困ったように笑い、ごろんと仰向けになった。薄明るい瞳が天井をさまよう。

「いいよ。俺は最後で。短刀から先に手当てしてくれ」

「あんたがいちばん、傷が深いだろう」

男は、だってさぁ、とだるそうに返事をする。痛みで意識が朦朧としているのか視線がなかなかあわない。

「部屋、ふさいじまうだろ。俺は図体がでかいから何日もかかるし。悪いけど、桶もってきてくれないか? 体がべたべたして気持ち悪ぃ」

なにも答えられないでいると、男はそういえば、と言葉を続けた。

「主が戻ってくるの、けっこう先なんだっけ。じゃあ、札がなくなったら、しばらくこのままかなぁ」

頬をぶたれたようにその場から動けなかった。不審に思った御手杵が、「大丈夫か?」と遠慮がちに訊くので、大丈夫だと頷く。たちあがるとき少しだけ眩暈がした。障子を閉めると外は夕日でまっかに染まっていた。握った手に力が入る。主の全てを肯定できない自分が嫌になる。言語にできない苛立ちがずっと心の奥に住んでいて、ふとしたとき、虫みたいにあばれまわるのだ。

 

 

深夜、鈴虫の声で目がさめてしまった。眠らなければと意識すればするほど脳は覚醒していき、諦めてやわらかい布団から抜け出す。少しまよったが庭に出てみることにした。縁側のすぐしたにさっきから鳴いている秋虫がいるらしく、りりりと鈴のような音が響いている。廊下は暗いのに不思議と足元が明るいのでどうしてだろうと空をみるとおおきな月が浮かんでいた。満月にとどかない、どこかものたりない月だった。

玄関で靴を履いて外に出る。空気が澄んでいてつめたい。途中、棚に置かれたノートが視界にはいったが無視をした。男士が外出するときは、戻りの時間と大体の場所を書くようになっている。

庭を歩くつもりでいたが気が変わって、まっすぐに外へと向かう。門からでると田舎の風景が広がっていた。草が広がっていて遠くには山がある。道らしき場所があったので、とりあえず右に伸びるほうに足をすすめる。しばらく歩いたところでなにもない空間に声をかけた。

「加州、いるならでて来いよ」

足音が重なり、視線をむけると隣に小柄な刀がいた。目が合うと、「どーも」と苦笑いする。なつかしさがこみあげてなぜか泣きたくなった。

「困ったことになってるね」

「おう」

「なーんで急にこんなことになっちゃうんだろうなー。あんたは心当たりある?」

ふと足が止まってしまう。ずっと心の奥につまっていたことがあった。加州の背中が遠ざかる。こちらがついてきていないことに気が付くと、彼は足をとめ振り返った。

「どうしたの」

「俺のせいかもしれねぇ」

「なにそれどういうこと? 詳しく教えて」

加州は怪訝そうに眉をよせる。

「この間、演練があったんだ。あいつが、別本丸の審神者と、ちょっと目を離した隙に喧嘩をしてた」

「主が? めずらしいね」

「相手の女は、オレたちが不当な扱いをされているんじゃねぇかって心配してた。なんとかするって言われて、忘れた頃に政府の人間が来た」

加州は、「続けていいよ」と声をかけ、手を首の後ろにくんでだらだら歩く。気まぐれさと自由さがまるで猫のようだ。

「おそらく、その女が政府に相談したんだと思う」

赤の他人にどうしてあそこまで怒れるのだろうと不思議だった。上目遣いで服をつかんでひきつけてきたときは心が少しだけ動いたことを思い出し、主にもあのくらいの可愛げがあればいいのに、と普段の冷たい横顔が浮かぶ。

「あのさぁ」

「はい」

冷たい声がふってきて、とっさに敬語でかえしてしまう。前を向けば加州がすべてを見透かすような目でこちらを見ていた。

「あんたってお人よしだからいいこと教えてあげよっか」

ぐっと体を寄せながら加州が呟く。夜の闇のなかで赤い瞳が怪しい色をはなっている。

「劣悪な環境の本丸を発見、摘発すると特別に報酬金がもらえるんだよ。維持や立てなおしをするともっとね」

「うそだろ」

「本当だって」

はぁーとため息をつきながら顔をおおう。

「それってどのくらいだ?」

加州は斜めうえをみあげる。

「うーん、だいたい蔵が建つくらいかなー。場合によるけど」

「ほんとかよ……」

予想の倍以上の金額を知らされて目眩がした。加州はそんな俺を横目に呆れたように笑い、

「またその人に会えたら、聞いてみたら」

と言うが、和泉守は賛成することができない。

 

 

例の他本丸の審神者と顔を会わせる機会は予想外に早くおとずれた。和泉守は演練の部隊に組み込まれていた。己の名が、ざらついた紙の上にあるのを見たときには正直驚いたが好都合だとも思った。今は政府の圧力もあり負傷していない刀をあり合わせで振り分けているので、選別に主の意図はなさそうだった。

演練は二回戦で、一回目が終わったあと次の戦闘にすぐいけるわけでなくわずかな待機時間があり、主はその時間を自由行動としていた。それぞれにお金を握らせあとは放任するので、輪からぬけだすのは楽だった。

演練場には多くの人でごった返しており、たった一人を探しあてることは容易ではない。記憶を頼りに先日言い争いをした相手を捜索する。演練場のまわりをぐるりとまわってみるがそれらしい姿はない。そもそも今回参加しているかさえ分からないのだと、今さらながら気がつき足を止める。人の流れに乗りながら通り過ぎる顔を確認し、これでは針山から一本を見つけるようなものだと落胆した。――そういえば、脇差の誰かが言っていた。人間を探すのは案外容易だと。人は同じ行動を取ることが多い。

思い立ったそばから前回の路地を目指すことにした。正確ではないが周辺の地形は頭に入っている。しばらく歩いていると大きな柳の木が目にとびこんでくる。さっとあたりを見渡すが人の姿がない。そんなうまくいくことわけがないかと、脱力すると同時にどっと疲れが押し寄せてきて、そばにあった椅子へ崩れるように座る。道の脇にはちいさな川が流れていた。

「喉が渇いたな……」

「同感だ」

予想外に返事が返ってきて、驚きのあまり変な声が出た。椅子の後ろへ転がりそうになりながら体勢を立てなおす。どっどと鳴る胸を押さえながら前を向くと、すぐそばに鶯丸がたたずんでいた。男は表情をかえずに、

「少しそこにいろ」

と呟き柳の木をこえるように歩いていく。迷いなく一軒の店へ入っていった。あれはどこの鶯丸だろうか。ひろいように見えて狭い世界なので短い時間でも他の本丸の男士と仲が良くなったりすることもあるが古備前の知り合いはいない。必死に記憶を辿っているうちに男が戻ってきた。みると両手に湯呑みを握っている。当然のように片方を差し出してくるので、反射的にうけとった。中身は透き通るような色をした飲み物が入っている。

「ぶれねぇな」

笑いながら礼を言うと隣に座ってもいいかと聞かれたのでもちろんとこたえる。ここにきても彼がどこの本丸の鶯丸なのかまるで思い出せないので、諦めて謝ろうと口を開けば、鶯丸が制するように片手をあげた。

「先日は主が迷惑をかけたな。噂は聞いている。政府に目をつけられて大変だろう。他の本丸のことなどほうっておけと、何度も言ったのだがな」

「もしかして、あのときの」

たしかに、あのやり取りのなかで傍観していた男がいた。口数が少なく印象が薄かったから、すっかり記憶から抜け落ちていた。

「主を探していたんだろう。だがあいにく近くにいない。かわりとはなんだが、聞きたいことがあれば俺に聞けばいい。これでも近侍なんだ」

「どうして協力する? お前に利がないだろ」

疑問を投げかけると、それもそうだと頷くので調子が狂う。とうの本人はしばらく考えるそぶりをみせたが、急に真顔になった。

「俺はいま、すこぶる気分がいい。あそこの婆さんの入れる茶は一等うまいんだ」

後ろをちらと振り返ると机を拭いている女人と目があったので会釈しておく。そばにかかっている暖簾の文字を読み、その店が休憩所だと知る。

「俺があんたのとこの主を探してると、なぜわかったんだ?」

「こう、すごく……とにかくわかりやすかった」

鶯丸はふくみをもたせて笑うばかりだ。ただ、もらったお茶は苦味がなく確かに美味くて、それだけが救いだった。

「うちの本丸には和泉守兼定がいないから気になっていたようだ。お前の顔や性格は主の好みだそうでな」

「そうか」

「うん。で、……ここからが本題なんだが、うちの本丸にこないか」

飲んでいたお茶が喉につかえる。勢いよくむせ、ほとんどを服にこぼしてしまった。ぼたぼたと手から雫が落ちていくさまを目にした鶯丸は嫌そうに眉を寄せる。

「悪い、せっかくもらったのに。だがあんた、今なんてった?」

「本丸を移籍しろと言った。理由は主がお前を気に入ったからだ」

濡れた手が冷たい。予想外の展開に頭がついていかない。拭くものがなかったので仕方なく袖で器についたしずくを取りのぞきながら、「あーあ、勿体ねぇ」と口にする。

「相棒も連れてきていい。主はよく働くし、愛嬌もある」

「……まだ言ってんのかよ」

声は存外力なく響いた。移籍するという発想はなかったが、たしかに、向こうの審神者のほうが何倍も可愛げがあったし性格も素直そうだった。鶯丸のようすを見ても無下にされている感じはしない。むしろ反対で、きっと尽くされているのだろうと感じる。だが答えはひとつしかなかった。

「断る」

「それは残念だ」

まったくそうとは思っていない言いかたに笑ってしまった。ひょうひょうとした鶯丸には最初こそ警戒したが裏表がないため好感がもてた。

「彼女が政府に報告したのは、瞬間的な感情からだで他意はない。男士たちが、どこか怯えているように見えたそうだ」

ひと呼吸おいてから、鶯丸はだが、と続ける。

「俺はどちらかというとそちらの審神者のほうが気になった。目に光がない。不安になる色をしていた」

「夏に、仲間が折れたんだ」

蝉の声が鼓膜の奥で響くが所詮幻聴だ。あの日のことはいつでも思い出せる。それこそ鮮明すぎるくらいに。

そうか、とひとことだけ呟いて鶯丸は口を閉ざしてしまう。もう知りたいことは全て聞けた。予想していたよりも単純な理由で拍子抜けしたが、大元が分かって良かった。

「ありがとう。茶もうまかった」

「演練の際には行くといい。あの店はいつでもあいている」

そうする、と手を振って和泉守兼定は背を向ける。鶯丸はもう少し休んでから帰るらしい。ちょうど休憩時間が終わるころだった。帰ったら加州に報告をしないといけない。

 

 

 

鶯丸は、茶を片手に遠くなる男の背中を見送った。足元にやわらかな衝撃がきて目を向けると、どこからやってきたのか、野良猫がふくらはぎに頭突きをしている。甘えたような声をだすので脇に手をさしいれ膝に乗せてみたらすぐに丸くなった。茶色と白の三毛猫だ。戦装束に細かい猫の毛がみっしりとくっついて、抱きあげたことをすこしだけ後悔する。

丸い背中にそって骨を確かめるように撫でると猫はごろごろと喉を鳴らした。

「どんな感じだろうな」

猫はこたえてくれなかった。そればかりか、これ以上ないくらいにまるくなるので、夏に海辺でひろう貝のようだと鶯丸は思う。

 

 

 

 

深夜に喉が渇いたので厨に行き水を飲んだ。頭が重い。明日からまた難しい戦場に向かう。この間までは折れる危険がない場所だったが今回は違った。刀剣破壊という文字が脳裏にちらつく。別にやることは普段と変わらないがどうしても恐怖が襲ってくる。自分がどうこうというよりは、仲間を守り切れるかという不安。和泉守はめずらしく隊長を任されて、認めたくはないが緊張していた。飲み終わった器を置くと思いのほか大きな音が出る。しまったと思い底を確認してみたがひびは入っていなかった。よく覗くと硝子をとおして世界が青くにじんで見える。ふと思いたち、そのままぐるっとみまわしてみると淡い人影がうつった。扉に誰か立っている。

「夜食ならねぇよ、」

最後まで言葉にならなかったのは、揺れる影が男士でないと分かったからだ。黒い生地に南天の模様がはいった袖から突き出た腕が扉をゆっくりひく。器を顔から外すと怪訝な表情をした女と目があった。何をしているのだと顔にかいている。いま何時だ、とか、なんでこんなところに、とか、疑問は頭に浮かんですぐに消えた。主はあまり表情を変えずにゆうゆうと敷居をまたぐ。隣に来ると新しく器をとり蛇口から水を注いだ。

「眠れないの?」

「……いや」

声を発してから息を止めていたと気づいた。ゆっくり息を吐きながら鶯丸との会話を思い出す。やましい話はしていないが妙に胸の奥がざわついた。そんなことはつゆ知らず女は水を飲みほす。いつもはうるさいくらいに虫が鳴いているのに今夜は静かだった。用事が終わったはずの主は、口元をぬぐうと前を向いたまま動かない。

言葉を交わすのは久しぶりで、ここからはやく逃げなければと思うのに足が動かない。右側に神経が集まった感覚がする。このままでは変になってしまう。なぜ主が動かないのか検討がつかないがらちが開かないので先に帰ろうと口をひらいたときだった。ゆっくりと主が振り返る。

「今日、どこに行ってたの。演練の休憩中に」

まるい目が自分をうつす。どっと心臓が鳴った。

どうして知っている。主は早々にあの場からいなくなっていたはずだ。

「あんたには関係ねぇだろ」

思いのほかきつい物言いになってしまい自己嫌悪に陥っていると、主はさほど気にしていないのかぼんやりと空になった器を見つめている。

「それもそうだね」

呟いた女はまた蛇口をひねるがおもったより勢いよく水が出たため驚いて閉めた。今度は注意しながら、流水で簡単に器を洗うと飲み口を下にして水きりに食器を置く。明るい髪が視界のはじでゆれて、気がつくと女はいなくなっていた。夢かと思ったが、ふたつ仲良く並んだコップが現実だと教えてくれる。のろのろとした動きで片付けると廊下にでた。涼しい風がふいて、体の熱をさましていく。そのときになって初めて、ひどく手に汗をかいていると気づいた。

 

 

彗星のようにながれる裂傷跡。横の腹にななめに走った切り傷から赤い果実に似た断面がのぞく。自分の内側を眺めるのは不思議だ。人にならなければ痛みは知ることなどなかった。だが、完全に人ならば、裂けた腹の痛みに耐えることはできないとも思う。息を吸うと体の中心から稲妻のように痛みがかけぬける。傷口は燃えているように熱をもっていた。あいている部屋に転がり込んで柱に背を預ける。畳に血が挟み込んでいくが仕方がない。中傷は軽視されがちだが痛いものは痛く、今回はどちらかというと重症よりだと思った。皮がくっついていればとりあえず繋ぐことができるので、ほとんど離れかけている腕をむりやりくっつけて服をさき、ぐるぐる縛って止血した。血が流れすぎると失神する。自力で処置をしながら、そのほうがむしろいいのではと思った。空は青くていい天気だが、主が不在だと本丸はうまく機能しないらしい。手入れ部屋もそうで、空気がどこか停滞している。

そこまで考えて、なんだか唐突に閉じ込められていると感じた。自分たちは作り物の家に無造作に置かれた人形のようだ。今は子供が飽きて放っているので家には手がはいらず動けない。手足がいうことを聞かない。頭がぼうっとする。意識を飛ばしかけ意味のない妄想をしていると、廊下を駆けてくる足音が耳に入った。それは目の前までくるとぴたりと止まる。

「部屋、開いたぞ」

顔をあげる元気がないので頷くだけにした。親切な誰かが肩をかしてくれる。礼を言おうとしたが声がでない。やけに視界が赤いと思ったら額を切っていて、のろのろ進むと足跡が床についている。