劫火_04 - 4/4

世界は淡くおぼろげだった。
血の匂いがする。遠くの方で地鳴りと叫び声が響いていた。閃光のような光の筋。それが刀の軌道が残した残像だと気が付くのに、さほど時間がかからなかった。
ここはどこだろうと思い、空を見上げる。黒い雲が覆いつくしていた。今にも雨が降りそうな、重々しい空だった。
どんよりとまとわりつく絶望的な空気にはなじみがあった。ほとんど体で理解する。ここは戦場だ。誰かが戦い、そして血を流し、命を散らす。
あらためて見渡してみる。自身がいる場所は、原っぱの真ん中で、緑色の草が生い茂っていた。遥か遠くに森が見える。ふたたび地面に視線を落とすと、おびただしい程の刀の残骸が目に入り体が震えた。刃先が折れ、朽ちてしまった鉄が捨てられている。雨に打たれて錆が進み、どろどろに溶けている一振りが目に入り、膝丸は戦慄した。咄嗟に自身を確認する。硬い地面に突き刺さったままの刀身は鏡のように美しく光り輝いていた。
良かった。本当に。心の底から安堵した。
落ち着いてくると思考する余裕が生まれたので、今の状況を整理してみた。今自分が居るのは戦場であるということは明白だった。沢山の血と涙の匂い。そしてあちこちで刀が折れているからだ。
なぜ自分に意識があるのかということと、こんな場所に居る理由はどれだけ考えても分からなかった。だけど一つだけ理解していることがあった。自分は刀の神様で、膝丸という名前だということだ。
しかし自分は刀なので振るってくれる人間がいないと何も出来ない。だから静かに風景を眺めていた。遠くで空が光り、数秒遅れて雷鳴が耳に届いた。
暫くじっとしていると遠くで人の気配がした。このままここにいれば誰かが見つけてくれるだろうと、根拠のない自信が沸き、膝丸は一先ず心を落ち着けた。
しかしそのような浅はかな希望は、すぐに打ち砕かれることになる。
太陽が昇り、そして沈むのを見送った。月が真上に来るような頃になってようやく複数の足音が聞こえた。遠くから影のように現れた者たちを確認すると同時に息を飲む。
付喪神だった。手に持っている刀でそれが分かった。
理由は分からないが、彼らは人の形を得て戦場で刀を振るっている。
人影は六人いた。ぞろぞろと現れた者たちは疲れた空気を出している。大人の姿をした者に纏わりつくようにして、子供の姿の付喪神が駄々をこねる。
「早く回収して本丸に帰ろうよ。一刻も早くお風呂に入りたい」
小さい姿の子供は短刀を手にしていた。彼の言葉を皮切りにして皆の瞳が光る。早く仕事を終わらせて帰りたいのだと見て取れた。
何をしているのだろう。興味のままに観察して、なるほどとひとりで頷いた。
そこらに落ちている刀を見分して、魂のあるものを探しているのだ。戦場に転がっている刀は殆どが役目を終えて鉄に戻ったものだが、まれに自分のように意識のあるものがいるらしい。彼らはそれをさがしているのだ。
それを理解した瞬間、がむしゃらに身を捩って必死に呼びかけた。
「おい! 君たち! 俺はここにいるぞ!」
しかし、無情にも彼らは少し離れた場所で足を止める。子供のような姿をした者――のちに短刀だと知る――が、徐に地面に突き刺さった刀を引き抜き、歓喜の声をあげた。
「仲間がいましたよ! 主様に報告しましょう!」
嬉しそうに何かを話し、引き抜いた刀を丁寧に布に包んでいる。こんなに近くにいるのに、彼らは膝丸に気が付かずに背を向けてしまう。
膝丸は焦り、小さくなる背中に向かって訴えた。
――待ってくれ! 俺は此処に居る! 一緒に連れて帰ってくれ!
声がかれそうになるほどに叫んだが、口も手脚もない身ではどうすることも出来ない。
そうしているうちにどんどんと歩いて行ってしまう。このとき初めて膝丸は絶望という感情を味わった。
空から水が落ちて体を伝い、そして地面に染み込んでいく。
汚れた黒い雨だった。

そんなことを何度も繰り返しているうちに、ひとつ分かったことがあった。刀剣男士は膝丸のことを感知できない。限りなく近くに来ても、途中から磁力で反発するように離れていく。強く念じ、力の限りに身を捩って刀身をガタガタ言わせても、暖簾に腕押しだった。
だがそんなことで諦めることは出来なかった。一度諦めてしまったら、周りにころがる錆びた鈍らのようになってしまう。
生きたまま誰にも知られずに腐り落ちる。それだけは避けたかった。
ある日。重い足音が近づいてきて膝丸は意識を其方へ向ける。そして戦慄した。太い足と醜い大きな牙。世にも醜い姿だった。敵の大太刀が真っ直ぐに膝丸を見つめていた。
彼は暫く立ち止まっていたが、口を歪ませた。――嗤っているのだ。
背中に嫌な感覚が伝わった。よりによって敵に見つかってしまった。己はきっとこのまま折れてしまうだろう。死を悟った瞬間に体を襲ったのは本能的な恐怖だった。
身を固くする膝丸に敵の手が伸びる。石のような指に触れられた瞬間、心を決めた。
刀は横からの衝撃に弱い。すぐ近くに大きな石があった。そこに己を立てかけて、汚らしい足を乗せる。体にはすぐにひびが入るだろう。そして、そして――。
しかし、思っていた衝撃はいつまで経っても襲ってこなかった。敵は赤い目で舐めるように観察すると、くるりと踵を返す。風を切るように丘をぐんぐんと登っていった。
未だに握られているためか、景色が見る見るうちに後ろへ流れていった。
なぜすぐに殺さない?
まさか、敵の本拠地に連れていかれるのだろうか。それならば折れたほうがましだった。めいっぱいに体を捩って抵抗しても、肉体を持たない自分は何も出来なかった。
とうとう丘を登り切った大太刀は、唐突に空に向かって絶叫した。動物の吠え声に近かった。心愉しくてたまらない――と、そう言っているように感じた。
ひとしきり吠えると気が済んだのか、彼は天に向かって刀を掲げ――切っ先を下に向ける。
視界一杯に海が広がる。崖の下は岩が飛び出して、打ち寄せた波が弾けて白い泡となり、消えた。
――嘘だろう。まさか。
背中で笑い声が響いている。壊れた楽器を、無理に掻き鳴らしているような音だった。
大太刀は握った手に力を込め、思いっきり刀を投げ飛ばす。
風の音が止み、浮遊感が襲って来る。哀れな男の絶叫が空に響く。膝丸はあまりの恐怖に意識を失ってしまった。

波の音がしている。迫ってくるような音だ。
ゆっくりと意識を覚醒させる。塩を含んだ風が体を撫でていく。今は夜で、空に沢山の星が瞬いていた。優しい光を眺めながら、ここはどこだろうと、ぼんやり思う。
細かい霧のような水が刀身に触れて、冷たさに身を震わせた。膝丸は意識がはっきりとしないまま、なんとなしに視線を下に向けた。
悲鳴は声にならなかった。視界一杯に青色が広がっていた。
海、海、うみ――。寄せては返す波が岩にぶつかり、白いしぶきをあげる。
崖に突き刺さっていた。そんな非現実的な状態で、膝丸は掠れた声をだした。恐怖で身が震える。が、少しの振動でも真っ逆さまに落ちてしまいそうだったので、必死で感情を押し殺した。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。自分は何か罪でも犯してしまったのだろうか。心の中で問いかけても答えてくれるものはいない。
結局、朝日が昇るまで膝丸は怯えていた。意識を手放すことも出来ないまま、なだれ込んでくる潮騒の音に耳を澄ます。

崖に突き刺さったまま数日がすぎた頃、やっと状況を客観的に見られるようになってきた。
本当は敵に投げられた際、海に落ちるはずだった。が、幸か不幸か、奇跡的に崖に引っかかってしまった。最初は幸運だったと思ったが、すぐにその考えは変わった。
ここは只の崖ではなく、長年の波に削られてネズミ返しのようになっている。当然のように、刀は自分以外に誰も居ないし、人の気配も無い。
状況を整理すれば整理するほどに絶望で目の前が暗くなる。絶体絶命と言っても良かった。自身のいる場所は断崖絶壁で、普通人が訪れることなど無い。
一生をここで過ごさないといけない。
錆びて、折れるのが先か。地面から抜け落ちるのが先か。
意識を手放せたらと何度も思った。なまじ心があるのがいけない。魂など無い鉄の塊ならばこのような恐怖を味わうこともない。
なのに世界はそれを許してくれなかった。意識は淡くなり、時に鮮明になる。
それからどのくらいの時が経ったのだろう。初めは太陽が昇ったり海に落ちたりするのを数えていた。が、それも千を超えたあたりでやめてしまった。
世界に憎しみさえ抱き始めたころ、とうとう恐れていたことが起こった。
その日は朝から、だるさと、とてつもない気持ち悪さが体を包んでいた。なんとなしに土の辺りに目を向ける――と同時に、膝丸は声にならない悲鳴をあげた。崖に触れている部分が錆びて泥水のように変色していたのだ。
鉄も錆びれば腐食する。どろどろと溶けた部分が土と同化していた。ほとんど叫び出したい衝動にかられながら、とうとうこの時がきてしまったと絶望した。
潮風が体を撫でていく。錆は一向に止まらなかった。
あれから。さらに果てしない時が流れた。思考は暗く、沼に溜まった泥のように淀んでいる。いっそ狂ってしまえたら良かったのにと、ほとんど根元まで錆びてしまった己を見つめながら、胸の内で呟いた。おもむろに羽音が響いて意識を其方へ向ける。近い場所に鳥が止まっていた。海鳥だった。五センチ程度しかない出っ張りに足を乗せ、ビー玉のような瞳で刀を見つめていた。膝丸は気味の悪さを覚えながら視線を受け止めていた。
今日は特に具合が悪い。潮風が体を撫でるたびに貫かれたような痛みが走り、締め付けられるような圧迫感が襲う。それが錆びのせいだということは、とっくの昔に気が付いていた。
海鳥はくるる、と喉を鳴らすと頭を少しだけ引いて――いきなり地面を突っついた。
突発的な行動に膝丸は仰天した。鳥はおもちゃで遊ぶように刀をつついている。ほんの数センチしか支えが無いためか、刀身がぐらぐらと揺れた。土との隙間が生まれる。体を裂かれるような恐怖が襲ってきた。
――止めろ! あっちへいけ!
鳥は何も聞こえないかのように、暫く鋭いくちばしでしつこく攻撃していたが、数分すると飽きたのか、大きく羽を広げた。海に向かって身を投げ、風を掴んで空に戻っていった。
膝丸はあっけにとられたように見送ることしか出来なかった。恐る恐る己を見つめる。刀はほとんど地面から外れかかっていた。少し風が吹いたら落ちてしまいそうだ。
その時初めて、鮮明に、死を覚悟した。
こんな状態では、一日も持たずに落下し海の藻屑となるだろう。

翌日。膝丸は静かにその時を待っていた。今日は朝から雨が降っている。雨粒が大きくて、水に打たれるたびに体に痛みが走る。遠くで雷の音が響いて、空に光る稲妻を見た。海はこれ以上ない程あれていたが、膝丸の心は静かだった。
死は安らかなものだといい、と、ずっと思っていた。希望があるうちは生に縋り無様にのたうち回っていたが、絶望しきった今は、心は凪のように穏やかだった。
もう死んでしまいたい。折れたらきっと楽になれる。
海に叩きつけられた瞬間に刀身が折れたら最高だった。仮に海に落ちても意識があったら――と想像してしまい、また体が恐怖で震えた。
ひとおもいに砕け散りたい。一心に祈っていると、風が動いた。
雨を飛び越えて届いたものがあった。足音だ。男ではない。ずっとずっと小さく軽い。のろのろと、引きずるようにこちらへ近づいてくる。
こんなところまで人が来るわけがない。現に、今まで一人たりとも来なかった。幻聴だろうか。それとも、とうとう気がふれてしまったのかと、ひとりで可笑しく思っていると、ぐっと上から影が差した。
突然現れたものに心を奪われて、呼吸が止まる。世界が静寂に包まれた。
一人の女が崖のぎりぎりに立って手を広げていた。白衣が風を受けて揺れている。白い翼みたいだった。全身で風を受け止めている。
信じられない気持ちで見つめていると、女が下に視線を向けた。みうるみるうちに困惑が顔に広がって、小さく小首をかしげた。
目が合った瞬間、雷に打たれたような衝撃が体を貫いた。
命を振り絞るように叫ぶ。
――頼む、お願いだから、手を伸ばして。俺をここから掬い上げてくれ!
必死の祈りが通じたのか、女は服が汚れるのも構わずに地面にべたりと腹をつけて、顔を横向きにしながら、刀に向かって手を伸ばした。
だがあともう少しの所で届かない。手のひらがむなしく空をさまよい、開いたり閉じたりする。
体の半分が海にせり出されて、もう少しで投げ出されてしまいそうだった。崖の上から放り出されたら命はない。彼女のことを思うなら止めたはずだ。
だが、その時の自分は、どうしても自己を犠牲にすることが出来なかった。
助かりたい。この場所から掬い上げてくれるならなんだってする。なんど星に祈ったか分からない。
女は案外往生際が悪く、必死に手を伸ばす。服はすでに泥水を吸って汚れていた。頑張れ、頑張れと励ます。だがどうしても、あともう少しという所で届かない。
指先が柄に触れる所まできたが掴むことができない。爪が表面を掻き、むずがゆい気持ちになった。
そうしているうちに、ふっ、と指先が離れてしまう。
諦めてしまうだろうか。そんな思考が頭をよぎり、ぞっとした。もし手があるなら必死で伸ばしていただろう。地獄から救いを求める亡者のように。気まぐれに下ろされた蜘蛛の糸を必死でつかもうとしている。
女はとうとう諦めたのか手を戻した。発狂しそうな程の激情が襲う。荒れ狂う炎が体を駆け巡った。ほとんど泣きだしそうになりながら、必死に、諦めるなと叫ぶ。
必死の想いが通じたのか、女は腕を一度引く。そして、反動を利用しながら、勢いをつけて前に押し出した。
指先が柄に触れた。指の一本一本を肌で感じる。ぐっと力が入り、不意に訪れた浮遊感に身が竦む。
気が付くと女が目の前にいた。
このときの感情を、なんと表現したらいいのか分からない。怒涛の展開に心が追い付かなかった。歓喜。良く知りもしない女だが、口があったら叫び、体があったら、思いっきり抱きしめてしまいたかった。
しかし、すぐに心は絶望に突き落とされる。女は感情の読み取れない瞳で刀を上から下まで眺める。そして、
「錆びてる」
と、無感情に呟いた。
只の感想のような口ぶりだった。まるで物みたいに――いや、実際にはまちがっていないのだが、まるでそこらへんの石ころを眺めているような目をしていた。
残念そうに息を吐くと、錆びて劣化した切っ先を地面に向ける。膝を折る気配がした。地面が近づき、空の面積が大きくなる。全身を恐怖が貫いた。
――待って、頼む。嫌だ嫌だ、いやだ……!
どんどんと土が迫ってくる。
漆黒の髪に隠れて女の表情が見えない。
――後生だから! 置いて行かないでくれ! 俺を、こんな場所に捨てないでくれぇっ!!!
恐怖、焦燥、悲しみ――それらの感情が、津波のように襲ってきてどうにかなってしまいそうだった。どうしても捨てられたくない。置いて行かれたくない。だから必死に祈った。
俺はここに居る。魂が宿っている。錆による痛みに軋む体を無理に動かし、訴えかけた。
女の動きが止まる。気持ちが通じたと錯覚した。聞きのだしてしまいそうなほどに小さな声で、「試してみようかな」と呟く。
なにを――と答える前に、おもむろに空中に刀をかざされる。
視界一杯に空が広がった。墨をぶちまけたような黒い空だ。空はまるで、泣いているかのように雨を降らしている。
暖かい手が柄のすぐそばに触れて、ふるりと身が震えた。白い指先が刃をなぞる。上質な霊力が流れ込んでくる。快感に視界が白くなった。触れられた部分から癒されていく。身もだえするほどに気持ちが良い。瞬く間に錆が取れ、体が軽くなっていくのが分かった。
体の表面を撫でるような手が切っ先まで届き、やがて空を切った。感嘆のため息が出る。急に視界がクリアになった。疲れたような表情を浮かべた女と目が合う。夜を吸い込んだような瞳。
雨に打たれて色素を失って青くなってしまった唇が開かれる。
そして、はっきりと名を呼ばれた。
視界が弾けて光のトンネルをくぐる。あたたかい感覚が血管を通し、体全体になだれ込んできた。
心臓の鼓動が聞こえる。力を入れると指先が僅かに動いた。
肉体を通して見る世界は、恐ろしく鮮やかで、美しかった。風、空、そして草原。瞳の端から水が流れていく。が、すぐに雨と混じってしまった。
澄んだ瞳をした女と向き合う。今の気持ちをなんと言葉にして良いのか分からなかった。ありがとうの五文字ではとても伝えられない。
女はこちらの感動などみじんも知らず、疲れたように息を吐き、さっさと背を向けてしまう。すっかりなじみになってしまった感情が襲ってきた。恐怖だ。
刃の穢れは取り払われたが、心に蓄積された錆は取れない。
この女について行っていいのだろうか。己は恐らく欠陥品だ。迷惑なのでは、と真っ先に思った。
進むことも戻ることも出来ず、どうしていいか分からずに震えている膝丸を、丘を降りていた女が途中で足を止め、不思議そうに見つめている。
ひたすらに地面を睨む。確かめるのが怖い。錆びていた刀などいらない、と言われたら。体も、きちんと動くか分からなかった。現に、足は地面に根っこが生えたようになっていた。
錆びてる――と耳元で声が木霊する。やっぱり捨てて帰ろう。戦場に似合わない声だと思った。やさしくて、まるくて、あたたかい声。
拒絶を想像しただけで足元から崩れ落ちていきそうだった。襲い来る感情の波に必死で耐えていると、目の前に白色がひらめく。
それを視界に収めた時、膝丸は信じられなくて瞳を大きくさせた。
いつの間にか戻ってきた女が手を差し出していた。綺麗に整えられた爪が見える。受け止めるみたいに手のひらが上を向いていた。
縋るように手を伸ばす。指先が触れると体がしびれるような感覚が襲う。狼狽える男にはかまわずに、女は力を込める。思わず息を飲む。あたたかくて、心まで包まれていくような気がした。ずっと触れていたい、と思ってしまう程に。
困ったような笑顔を浮かべ女は背を向ける。幼い子供のように手を繋いだまま、二人で草原を駆けおりていった。
雨は優しく頬をうつ。半歩先を行く静かな背中を眺めた。白衣が風に揺れている。走るたびに黒い髪が上下している。胸の辺りがこんなにあたたかくて苦しいのは、掬ってもらえたからだろうか。
雨雲の切れ間から太陽が顔をだす。陽光が天使の梯子のように降り注ぎ、草原までおちている。
世界は輝きに満ちていた。涙が、あとからあとから溢れて止まってくれない。
膝丸は白く儚い手を握りしめ、心の深いところで誓った。
見つけてくれてありがとう。この恩は決して忘れない。

押しつぶすような闇だった。微かに潮騒の音がしている。
地平線に光が滲む。炎だ。真っ赤な炎で建物が焼き尽くされている。戦争の残火だ。手前で影が動く。刀を持った神が、躍るように戦っている。
だが肝心の人の姿が見えない。遠くで切り絵のように影だけが動いている。劇を見ている気になった。作られた世界で、目まぐるしく踊る命を傍観している。助けに行きたい、力になりたいと強く思ったが、体の自由が利かなかった。
そうしているうちに、小さな影が太刀を浴びて足元から崩れ落ちてしまう。端から紙が砕け、破片が風に乗ってこちらまできた。
波音を越えて絶叫が耳に届く。早く戦場に向かわなくては。せっかく自由に動ける手足を貰ったのだ。だが、気が焦るばかりで体は石のようにピクリとも動かない。不審に思ってしたに視線をうつすと、膝丸は驚きのあまり言葉を失った。
下半身が地面に埋まっていた。胴から先が見えない。
錆のにおいが立ち込めて――それは世にも恐ろしいものだった。無我夢中で藻掻くと、僅かな隙間が生まれた。死にもの狂いでそこらに生えている草を掴んで体をひきずりあげる。ずるずるという聞き慣れない音に疑問を覚える。答えはすぐに分かった。喉を引き裂くような悲鳴が自身の口から飛び出る。
腰から下が変化していた。まず目に入ったのは、緑色のざらざらとした鱗だった。爪ほどの細かい透明な鱗がみっしりと肌を覆いつくしている。月の光を反射してぬらぬらとしていた。
全体が筋肉なのか体を僅かに動かすだけで腹が波打つ。あまりのおぞましさに視界が真っ暗になった。上半身は人型を保っているのに、下半身が蛇のようになっていたのだ。
腹の辺りで別の生き物が暴れている。内側から溢れでる瘴気で吐き戻しそうになってしまう。呼吸が浅くなる。うまく息が吸えない。
その時、ふと地面に投げ捨てられている刀が目に入った。そうだ。審神者だったら――主なら何とかしてくれるかもしれない。静かな後ろ姿を思い出すと、暴れていた心臓が落ち着いた。
恐怖から逃げるように前へ移動すると、人影が揺らめいた。
求めていた人の姿を視界に収めた瞬間、心から安堵した。黒い髪の毛が風に揺れている。押しつぶすような闇の中で白衣が内側から発光しているように思えた。
現れた女性――主は、海のように透明な瞳で膝丸を見つめている。
「あぁ、良かった。主、聞いてくれ。気が付いたときにはこうなっていたのだ、」
最後まで言い切らないうちに、右からの風圧が男の髪を揺らす。膝丸は突如襲ってきた衝撃に目を見張った。間髪入れずに視界で光が弾ける。あまりの痛みに絶叫した。地面に蹲りながら痛みの根源を見つめる。右肩がばっくりと裂けていた。筋肉の繊維と奇妙に白い骨が見えたが、溢れた血で赤く滲んでしまう。心臓の鼓動に合わせて傷口が燃える。体を丸くして必死に肩を庇いながら蹲っていると、銀色の閃光が降ってきた。
小さな破裂音の後に血しぶきがあがる。二度目の衝撃に膝丸は目を見開いた。口が金魚のようにあくが言葉がでない。
視界の隅に黒い塊が放物線を描き、重い音を立てて地面に落ちた。見なくても分かっている。残ったほうの左腕だった。
「なっ、ど、どうして」
血を吐きながら問う男に、女は冷たく言い放った。
「自分の姿をよく見てみたら」
沸いてきたのはまぎれもない悲しみだった。今まで感じてきたどれとも違う、海のように深いものだった。
絶望と失血のためか肌が白くなっている。青い静脈の透ける首筋に刀があてられる。触れた部分から血が噴き出すような気がした。弁解の言葉を口にしようとするが、喉の奥から血が溢れてしゃべれない。血だまりの中に埋もれながら、霞む視界の奥で主を見つめる。
「化け物なんていらない。貴方は私の刀じゃない」
さよなら、と、言い捨てて女は背を向ける。
「ま、まって、くれ」
痛みで意識が飛びそうだった。力を振り絞り、声がかれるまで叫ぶ。最後の方は喉が潰れて掠れた音になってしまう。小さくなっていく背中に叫び続ける。
体の中が燃えるように熱い。発狂したくなるような激痛の中、必死で身を捩る。手を伸ばしたいが既に体から切り離されて無くなってしまっていた。仕方がないので、ずりずりと体を引きずりながら前へ進む。
ぴしぴしと硝子の砕けるような音がした。腕を無くし地を這う姿は、酷く蛇に似ていた。

布団を跳ねのけるようにして飛び起きる。朝だ。障子の向こう側から差し込む光がやさしい。無意識で浴衣の合わせ目に手を伸ばす。夢の名残を追って心臓が早鐘を打っていた。
おそろしい夢だった。匂いも、風も、声すらも脳にこびりついている。確かにここは現実のはずなのに、気を抜くと暗がりへと落ちてしまいそうな気がした。部屋の隅を見ると炎がちらつく。
流れる汗をぬぐいながら横を見ると、自分とよく似た姿をした兄刀が寝ていた。うつ伏せで顔を向こう側へ向けている。起きているときはいつも口元に笑みをたたえているのだが、寝ているときは横に伸びていた。
柔らかい象牙色の髪。兄の姿を眺めていると、いくらか心が落ち着いた。
そっと布団から抜け出し、着崩れてしまった浴衣の帯を締めなおしながら歩く。光の下へ出たいと思った。
廊下に出ると、朝の新鮮な空気が肺をみたした。木でできた床板の静かな冷たさが足の裏から伝わって心地が良い。そのまま外を見つめると、新緑の間を二匹の小さな鳥が、笛のように鳴きながら飛んでいった。
爽やかな気配でみちた庭を見つめていると、少しずつ心臓の鼓動がゆるやかになってきた。
しかし、心の奥が落ち着かない。何かが警報を鳴らしている。
突きあたりの角を左に曲がって脱衣所へと入った。間仕切りのように垂れている布を押して中に入るとヒノキのいい香りが届く。絞れるのでは、という程に汗をかいていたので、朝餉の前に湯を浴びようと思ったのだ。
藍色の腰帯に手をかける。
ふと、目に飛び込んできたものに衝撃をうける。喉の奥で変な音が鳴った。
手の甲から腕の中腹まで、みっしりと透明な鱗に覆われていたのだ。小さな台形の鱗が等間隔に並んでいる。一見すると芸術品のようだった。それか、よく出来た作り物。
間違っても、自分の手だとは思えなかった。
震える指先で一つに爪をかけはがす。針で刺すような痛みが走った。
ゆっくりと腕を持ち上げ、眼前に晒す。視界が奇妙に歪んだ。
それからのことはよく覚えていない。気が付くと裏庭にきていた。部屋に戻った記憶はないが、手にはしっかりと本体が握られている。
庭は夏の朝日を受けて輝いていた。前日に雨が降ったのか、草花に露がのっている。
悪夢のあとだったから、幻覚だったのかもしれない、と、少しの期待を込めて右腕を覗く。が、淡い希望は粉々に砕かれてしまった。いつのまにか鱗は手の甲から肘にまで及んでいた。腕だけを見たら人外のそれだった。
――化け物なんて、いらない。
女の声が木霊する。恐怖が津波のように襲って心臓を握られる。呼吸が浅くなる。ふと刀が目に入り、縋るように鞘から抜いた。木の影に隠れるようにしゃがみながら、切っ先を薄い皮膚にあてる。
そこからは早かった。刃を斜めにしながら肌の上をまっすぐに滑らせる。かすかに引っかかりながらも鱗は面白い程に取れていく。鱗が完全にはがれる瞬間、皮膚を削られるため強い痛みを感じたが、胸を絞るような悲しみと、焦りの前ではかすんでしまった。
血が流れ尖った草に落ちていく。魚の鱗を剥がす要領で、無我夢中で手を動かしていると、そっと肩を叩かれた。
体が硬直する。
鱗を早く消してしまいたくて周りへの注意がおろそかになっていた。刀を握った手が震えている。怖くて、俯いた顔をあげることが出来ない。
どうすることも出来ずに刀を握りしめたまま俯いていると、上から穏やかな声がおちてきた。
「およし。血だらけだよ」
「あ、あ、あにじゃ……」
顔を勢いよくあげれば、困惑したように赤く染まった腕を見つめている兄刀が目に入る。
彼は何かを言いかけ、腕から周りに散らばった鱗に目を向けると、眉間に鋭い皺を刻んだ。
「ち、違うのだ。朝に悪夢を見て、気が付いたら鱗が生えていた。ただ、それだけだ。……お、俺は! 化け物などでは、決してない!」
最後は叫ぶような声色になってしまう。が、それも仕方のない事だと感じた。
思わず縋るように血で濡れた手を伸ばすと、兄は驚いたように体を跳ねさせる。助けるように手を引いて、立ち上がらせてくれた。
「わ、分かったよ。とりあえず、おちつこう。話はあとで聞くから。うーん、そうだね。まず湯汲をしてから、手入れ部屋に行こう。今日の内番は休みにしてもらうように僕から言っておくから」
彼は元来のおおらかさで目の前の非現実さを受け入れたようだ。兄に拒否されたら心が粉々に砕け散っていただろう。審神者に拒絶されることも耐えがたいが、兄にそうされることも、想像するだけで苦痛だった。
幸い、戻りの道では誰にもすれ違わなかった。カラスの行水のような素早さで湯を浴び、手入れ部屋に横になる。
手入れ部屋には初めて足を踏み入れたが、家の裏側にあるようで全く日が差さず、室内は薄暗かった。広い天井を見つめる。ひややかに見下ろしているように思えた。
寝返りを打って障子に背を向けると、控えめな声が聞こえた。
「弟。大丈夫?」
「兄者……」
返事と共に音もなく障子が開かれて、細い光と共に兄が入って来る。眩しさの余り目を細めると、障子が閉められて辺りは暗くなった。
布団から上体を起こす。兄は畳に胡坐をかき、感情の読み取れない声で、「見せて」と言った。
のろのろとした動きで袖をめくると、薄く皮がはがれてしまった腕が現れた。あんなに一生懸命こそげとったはずなのに、肘の近くに三つほど鱗が残っているのが目に入り、喉の奥で変な音が鳴った。咄嗟に枕元の本体に手を伸ばすと、冷たい声が届く。
「それは駄目。これ以上自分を傷つけることは僕が許さないよ」
しかし、と口を開けばにっこりと笑いながら何かを取り出す。丸まった包帯だった。雑に床に向かって投げたため、ころころと転がってしまう。
包帯の端を腕にあてながら兄は呟いた。
「お前、崖にいたのでしょう。どうして誰にも見つからなかったのだろうね」
「俺も先ほどまで、それを考えていた」
ぐっと強く引くと、包帯はおどろくほどよく伸びる。結び目を作ってくれている兄に礼を言った。
「夢の中で、下半身が蛇の姿になっていた。もしかしたら……逸話に引っ張られすぎているのかもしれぬ」
「ふぅん」
静かに頷く。ずっと考えていたことがあった。
「兄者。すぐに主に言わなければ。俺は明らかにおかしい」
「それは駄目」
「なぜ?」
少しだけ迷ったように瞳を揺らすと、彼は珍しく口ごもった。憐れみを含んだ色で膝丸を見つめる。
「彼女、審神者業の合間に敵を退治しているんだ。本人は秘密にしているつもりだけど。そんな彼女に、正直にこれを伝えたらどうなると思う?」
世界が崩れていきそうだった。主の顔が浮かぶ。本丸に呼ばれてから数日しか経っていなかったから、人となりは分からない。だがよりによって妖怪退治をしているような娘が、己の刀が化け物だと気が付いたら、どうするだろう。
脳裏に浮かんだのか赤い光だった。炉の炎だ。灼熱が体を通り過ぎて、骨も残らない。
最悪な想像をしてしまい、勝手に体が震えて歯がカチカチと鳴った。
「あ、兄者。俺はどうすればいいのだろう。怖い。怖くて、悲しくてたまらない。俺はあの人に救われた。傍に居たいし、もっと、もっと力になりたいのだ」
おそらく自分は刀解されるべきだ。それが一番いい方法だということはすでに理解していた。しかし心が頷いてくれない。
こんなに早く別れが来るとは思わなかった。折れてしまったら――死んだら、もう二度と会えない。
兄はかける言葉がみつからないようで、眉間に皺を寄せながら何か考えていた。なんとか気持ちを落ち着かせようと自分で自分を抱くように腕を回すと、ぴしぴしと耳慣れない音が室内に響き、二人は驚いて同じ方を見つめた。
左手の、何も無かった方の腕が鱗まみれになっていた。
口元を押さえて悲鳴を懸命に堪えていると、震える体をそっとさすられる。兄だった。自分が傷つけられたように悲しい瞳で腕に視線を落としている。
「良くお聞き。このことを話したら、十中八九、お前は刀解させられてしまうだろう。僕たちは刀で、主を守ることも役割に入っている。主の身に危険が及ぶなんて論外だからね」
「ではやはり」
「最後まで聞いて! これがもし呪いの類だったら、必ず解呪する方法がある。普通に生活を続けながら、その方法を探すんだ。僕も手伝うから。だからもう泣くのはおよし」
大丈夫、大丈夫、と呪文のように続ける。魔法のように心にしみていった。
「もし本当に化け物になってしまったら。この兄が、殺してあげる」
膝丸は安堵した。敬愛する兄なら、一太刀で己の命を散らしてくれるだろう。彼は絶対に約束を違えない。
そして、他でもない兄に殺されるのは、炉に投げ込まれて熱に溶けるより、よっぽど幸福な終わり方だと思った。

それからは万が一にもばれないように心を砕いた。いつ鱗が出てくるのか見当もつかない。湯汲の時間もずらしたし、なるべく必要以上に仲間と関わらないようにした。周りの刀たちは、最初こそ新参者の刀と仲良くしようと心を砕いてくれたけれど、兄が上手い言い訳を作ってくれて――自閉的な個体だとかなんとか――、段々と話しかけられることもなくなった。
寂しくないと言えば嘘になるが、時々、挨拶程度の会話をするくらいの関りはあった。それだけで十分だった。好意的な眼差しが敵意に満ちたものに変わるのだけは絶対に避けたかった。だから、慎重に日々の言動に気を使った。存外神経をすり減らしていたみたいで、夜に布団に入るときはどっと疲れていた。兄は、そんな俺を憂いの帯びた瞳で見つめていた。
そんな生活の中でひとつだけ、心のよりどころとしている時間があった。それは夕餉だった。別に食事が取り立てて好きというわけではない。そんなことは二の次で、己の興味はもっと別のことにあった。
ここは大勢の男士たちがいる。陽気なものも、反対に無口なものも。大広間に全員が集まるのは、この夕餉のときくらいだった。何十もの人。みな美しい神様だった。圧巻な光景だとすら思った。
普段と同じように、兄の隣に座りながら、さりげなく主の後ろ姿を見つめる。思ったより肩幅が小さいと気が付いたのは最近のことだ。彼女の隣は立候補制で――少しばかり面倒なのではとはた目では思うのだが――、じゃんけんで決めていた。特等席はいつも人気で、席決めは戦争のようだった。膝丸は決して立候補することはない。
今日勝ったのは短刀のようだった。高い笑い声と、意外と低く、落ち着いた女の声が鼓膜をやさしく震わせる。
他人の笑い声を聞いていると心がとても落ちつく。女の席はテーブルを挟んで、さらに左にみっつ右にずれた場所にあった。そこに居るということは分かるけれど、決して手が届く場所ではない。主は後ろを振り返らない。この距離感が、自分たちの関係性をうまく表しているような気がして、膝丸は湯豆腐を口に運びながら自嘲的に笑った。

月に一度回ってくる近侍の日だけが、生活の楽しみだった。
机の上に置いているカレンダーにこっそりとバツ印を書いている後ろ姿を見て、布団に寝ころびながら兄は笑っていた。内心で恥ずかしさを感じながら、でもこの行為をやめることは出来なかった。近侍は順番で、しかも本丸にはたくさんの男士がいたので、当番が回ってくるのは数か月に一度なのだ。
初めて任された日。緊張のあまり気持ちが悪くなっていた。とてもではないが、仕事どころではなかった。さまざまな感情が綯交ぜになって――今鱗が出たら終わりだと、それだけを考えていた。無表情で一言も話さない俺を主はどう思ったのかは分からない。でも、緊張がうつったのか、彼女も始終体をかたくし居心地悪そうに座りなおしていた。
やっとのことで仕事を終えた夕方。主は書類を纏め机に叩き落とすようにして紙の角を揃えながら、なんでもない事のように疑問を口にした。
「膝丸は、私のことが嫌いなの?」
思考が停止した。なぜそんなことを聞いてくるのだろう、と思うと同時に自分の言動を振り返った。声をかけられそうになったら身構えて、体が触れそうになると身を捩って避けていた。もちろん、秘密を悟られたくなくて無意識でしてしまった行動だが、主はその度にショックを受けたような顔をしていた。これでは嫌われていると勘違いされても無理はない。
違う。自分の気持ちとまるで反対に受け取られている。否定を口にしたいが、舌が渇いてうまく言葉にならなかった。途方に暮れながら人形のように突っ立っていると、それを同意と受け取ったのか、主は苦笑いを浮かべた。もういいとばかりに、ひらひらと手を振る。あっちへ行けと言われているようで心が酷く軋んだ。
「ごめんね、変なこと聞いて。ゆっくり休んで。じゃあまた」
早く出ろとばかりに背中を押され、若干前のめりになりながら廊下に出る。振り返った瞬間、障子が閉められた。
胸を襲う感情は何だろう。心臓のあたりが痛い。皮膚を掻き毟って叫び出したい衝動に駆られた。失敗したのだと気が付いたのは部屋に戻ってからだった。
また、なんて来ない。あの障子を閉めた瞬間に、主は俺との間に目に見えない線を引いたのだと悟った。

予想通り、翌日から主は俺を避け始めた。でも決して冷たいわけではない。顔を合わせれば笑って挨拶してくれるし、何か聞きたいことや困ったことがあれば、真摯に耳を傾けてくれ、相談に乗ってくれる。
だが、本当にそれだけだった。
負い目のある自分は短刀のように無邪気に近くに寄ることが出来ない。軽口を交わすことも、白い手をとって温かさを感じることも。
心の奥底から襲って来る悲しみにたえる。そして、何度繰り返したか分からない魔法の呪文を唱える。
大丈夫。――きっと大丈夫。普通にさえ戻れれば、俺もみんなと同じように主と笑い合える。そんな日が、きっと来る。

経験の浅い膝丸は戦場より内番をすることが多い。その日も午前中に畑に行って野菜の収穫をした。籠いっぱいに取ったナスやトマトを厨の隣に備え付けられている貯蔵庫に置き、流れる汗をタオルで拭きながら庭を横切った。が、耳に届いた笑い声に足を止める。
太陽の光がさんさんと落ちる縁側に、主と陸奥守が座っていた。彼らはスイカを食べながら談笑している。庭先に指をやり、ときどき肩を寄せ合って笑っていた。仲の良い光景にチクリと胸の奥が痛んだ。
早く立ち去れ、見ていても何もいいことなどないのだから、と理性が親切に警告してくれているのに、足は棒のように動けなかった。根っこが生えてしまったのかもしれない。
二人は庭の影から覗く男のことなど、これっぽっちも気が付かずに、子供のようにじゃれあっている。
あれが自分だったら――と、少しばかり苦々しく思っていると、陸奥守に動きがあった。彼は何を思ったのか体を傾けて主の腿に頭を乗せた。そのまま猫が甘えるような仕草をする。
「くすぐったいからやめて」
女が恥ずかしそうにすると、陸奥守はそれならと一度体を離し、縁側に寝転がった。主の太ももを枕のようにして。
主はとても驚いていたが、振り払うことはしなかった。しょうがないなぁと笑いながら、白い手で男の跳ねた髪を撫でている。
瞬間、膝丸の心の中に炎が生まれた。それは醜く腹の中をのた打ち回り、ぐっと鎌首をもたげる。嫉妬のあまり内臓が焼けてしまいそうだった。
腕から硝子を砕いたときのような音が聞こえる。嫌な予感に下を向くと、案の定、片方の腕が鱗まみれになっていた。
風が動いて、気が付くと右側に兄刀が立っていた。さりげなく腕を隠す位置に身を置いて、鱗が見えないようにしていてくれている。
「鬼になってはいけないよ。お前の場合、蛇だけど」
掠れた笑いしか出てこなかった。項垂れる膝丸の肩を抱きながら、髭切は手入れ部屋へと足を向ける。
暗い和室で、膝丸は腕に包帯を巻いてもらいながら思いつめたように指先を眺めた。
「兄者。鱗は、嫉妬や悲しみなど、負の感情に襲われたときに発生するようだ」
「そうかい」
そっけないように聞こえるが、兄が本当は心の底から心配しているのだとすでに知っているので、膝丸はほほ笑む。
「俺は今日から心をなくそうと思う。そうすれば、あのような光景を見ても嫉妬に狂うことが無い。心を殺して日々を過ごす」
「どうしてそこまでするの」
兄の純粋な問いに、膝丸の瞳にみたこともないような光が宿る。
「主は、俺を地獄からすくいあげてくれた。それに報いたい」
髭切はそっと膝丸を抱きしめて、いい子、と呟いた。

待ちに待った近侍の日が再びやってきて、膝丸は朝から浮かれていた。
「兄者。不足ないだろうか」
「うんうん。大丈夫だから早くいきなよ」
しきりに太ももの紐を結びなおしたり上着の埃を気にしたりしている膝丸に、髭切は呆れていた。なぜかいつもより外見が気になった。もだもだとしている男にしびれをきらしたのか、兄はすっと立ち上がり背中を押し、無理やりに廊下へ向かわせる。肩越しに、「主と過ごす時間がどんどんと減ってしまうよ」とささやかれて、はっとして頷いた。
数分後、膝丸は執務室に来ていた。木で作られた低い机を挟むようにして向かい合う。一度覚悟を決めたからか、もう怯えることも無いし、必要以上に緊張することも無かった。
しかし、リラックスしている男とは対照的に、今度は審神者の方が体をかたくしていた。引き絞られた口元を見ていると、先日、別の男といるときに浮かべていた表情との、あまりの落差に悲しくなる。つられるように落ち込みながら書類に手を伸ばしたら、おなじタイミングで紙を取ろうとしていた主と指先が触れた。
「あ」
どちらともいえない声が重なって、申し訳なさそうに謝られる。どうしていいか分からなかった。何も責めていないのに、主は体を小さくさせる。いたたまれない空気が二人の間を満たして、膝丸は、お茶を持ってくると適当な用事をつけて席を立った。
どうしてこうもうまくいかないのだろうと、厨に向かうまでの廊下を歩きながら思った。厨につき戸棚をあけ、いくつもの茶葉が行儀よくならんでいるが、どれが主の好みのものなのかさっぱり分からなくて、さらに泣きそうになってしまった。

昼を済ませたあと、主が申し訳なさそうに、「万屋に行きたいから、護衛について来てくれる?」と言った。内心小躍りしたいくらいに嬉しかったが、外側には出ていなかったようで、彼女は苦笑いを浮かべる。
「嫌だったら、他の人に頼むけど」
「そんなことはない」
気を使っていると思われたのか、女は外出の支度をしながら、しつこいくらいに「本当に嫌だったら言ってね」と繰り返した。その度に悲しい気持ちになったから口を塞いでしまいたくなったが、その代わりに無言で荷物を受け取る。無言で、二人で玄関まで歩いた。珍しい組み合わせに好奇の視線が刺さる。たったそれだけのことなのに、体がよじれるような喜びが体をみたした。
一歩外に出ると、煩いくらいに蝉の声がしていた。ふりそそぐ日差しが眩しい。女の首筋に透明な汗が生まれる。
「大丈夫か?」
せめて日よけになればと身を寄せたが、主はぎょっとして離れてしまう。
「そんなに心配しなくても平気」
と、笑いながら言った。大げさなくらいに身を捩られて失敗したと後悔していたが、彼女の笑顔を見たらそんな気持ちは一瞬の内に吹き飛んでしまった。
門を出て、道を暫く歩くと万屋の通りが見えた。外出することは初めてなので、興味深く店を覗いた。小物屋が圧倒的に多かった。伝統的な二階建ての建物が多かったが、聞くと、もっとさらに遠くへ足を運べば近代的な店もあるとのことだった。
たった数時間だったが、幸福な時間だった。ふと足を止めた生活雑貨屋で、必要なものを選んだ。どちらがいいか迷った時に、主は悩みに悩んで、最後は膝丸に聞く。ねぇ、どっちがいいと思う?
平和過ぎて――そしてあまりに会話が自然過ぎて、今まで過剰なくらいに避けてきたことが馬鹿らしく思えた。膝丸が冗談を言えばあるじは瞳を丸くして、
「そういうことも言えるんだね」
と、子供みたいに笑った。
心臓はよろこびで兎のように跳ねていた。この調子なら主と仲良くなれるかもしれない。最近は鱗が出てくる気配もない。この幸せがずっと続けばいいと、心から思った。
帰り道、ヒグラシの鳴く小道を二人で歩いた。半身が触れ合うような距離で、実際に腕やら肩やらがぶつかったりもしたが、もうお互い、必要以上に距離を取ったりはしなかった。
空が夕日の色に染まっている。胸を切なく軋ませる黄昏時だった。
こんなに胸が苦しいのは夏のせいだろうか。それとも、戻ったらまた暫く、主とこうして笑い合うことができないからだろうか。
膝丸は知らなかった。幸福と不幸は紙一重で、一瞬の内に光は闇に変わってしまうことに。
何の前触れも無しに。後ろから、危ない! という叫び声が響いた。主と同時に振り返る。思考が停止した。まっすぐに前を向いた女の横顔が夕日に照らされている。驚愕に目を見開いていた。
戦場に出ている膝丸は知っている。戦いの中では、ほんの数秒が生死の分かれ道になると。
道の奥に敵の大太刀がいた。何の気配も、音もしなかった。さっきまで談笑して歩いていた道にのっそりと影が浮かんでいる。夕日を背にして立っているので、地面に影が長く伸びていた。
何人かの刀剣男士が戦っている。敵は襲い来る刀を蜘蛛の子を散らすように薙ぎ払うと、赤い瞳をこちらへ向けた。
膝丸は戦慄した。敵は攻撃を受けてもびくともしない。理由は分からないが、横にいる主をまっすぐに見つめて口を開けた。笑っているのだと、すぐにわかった。
敵は重い地響きのような音をとどろかせて突っ込んでくる。主との間に立ち刀を抜いた。夕日を受けた刀は燃えるように光っている。
正直、刀を交える前から分かっていた。己の力が及ぶ相手ではない。だがせめて、この間に逃げてほしかった。主が逃げる間の、ほんの数秒が稼げればそれで十分だった。
一瞬で大太刀が目の前に現れる。頭を突き抜ける臭いがした。
衝撃が上からきて、一瞬で肩口から腹まで肉が裂けた。血がスプリンクラーのように吹き出る。普通の人間だったらここで絶命していたはずだ。しかし膝丸の瞳から光は消えなかった。緑色の閃光が走る。素早さを生かして背後に回りきると、後ろから斬りかかった。
打撃は圧倒的に相手の方が強かったが、速さは何倍も膝丸が上だった。死角にはいりながら何度も斬りかかる。いったん距離を置いて刀を握りなおした。次の攻撃を頭に描きながら。
敵が焦りで口を歪ませる。が、すぐに目の色を変え、おかしな方向に刀を構えた。
槍を投げるように体をねじる。腕を思いっきり引く。
膝丸は、敵が何をしようとしているのか一瞬で理解した。軌道の果てに主がいたからだ。
それからは一瞬だった。血が噴き出すのも構わずに地面を強く蹴った。盾になるように女に覆いかぶさると、後ろからとんでもない衝撃が来る。視界がはじけて赤く染まった。
こんな状態になっても意識を手放すことはないのかと、己の頑丈さを呪う。
裂けた内臓から吹き出た血が喉から溢れる。心臓の鼓動に合わせて稲妻が体をめぐる。
苦痛に耐えきれずに膝をつくと、熱い手が頬に触れた。主が目から涙を流していた。跪いて何かを叫んでいる。が、水の底に沈んだようにこもっていて聞こえにくい。
敵の刀先が腹から飛び出していた。腕はちぎれかけていて少しも動かない。
絶望に黒くそまった瞳を受け入れる。愛おしさと切なさが胸をみたす。
ここが自分の最期の場所なのだと悟った。刀として、主を守り折れるならこんなに幸せなことはない。 君は悪くないと伝えたい。どうにかして流れる涙を止めたかった。
主の心に傷を作って消えるのだけは避けたかった。ごめんなさいごめんさないと、主は頭をさげている。
とても喋ることなどできないから、口内に溢れる血を飲み込み、必死に口角をあげた。
無事な方の手を伸ばし震える指先を握る。
水に濡れた瞳をいっぱいに広げて主は寒気を感じたように震えた。あの日の光景は一生覚えているだろう。夏の夕暮れ。ヒグラシの鳴く声。夕日で染まった空には茜雲が浮かんでいた。
時が止まり、主は怯えた瞳で膝丸を見つめる。
「ば、化け物」
その四文字が耳に届いた瞬間に世界が色を無くした。心の砕ける音がする。それは刀が折れる音によく似ていた。主の言葉は心臓の柔らかいところを深く抉り、切り裂いていく。
押し寄せる悲しみと絶望のあとには、鮮やかな怒りの炎が残った。
真正面から見てしまったら目が潰れてしまいそうだった。炎は己の中で形を変えていく。黒くまがまがしい。大きくうねり、鎌首をもたげ――やがて一匹の蛇になった。
主ははっと我に返り何か謝罪の言葉を口にした。ごめんなさい。そんなつもりではなかったの。
声が遠くなる。意識が海の底へと沈んでいく。
頭が痛い。胸が苦しい。
びしびしと腕の所から音が聞こえて、膝丸は体を固くした。
主は鱗に気付かずに手を伸ばしてくる。あの時と同じだった。錆をとってくれた手。美しい刀に似た指先。
頭を覆いつくしたのは欠陥品だとばれてしまうことへの恐怖だった。伸びてくる手を渾身の力で弾き飛ばす。
「俺に、二度と、触れるな!!」
すぐ後ろでは戦闘が続いている。足音が増えている。見方の誰かが敵にとどめをさしたようだ。咆哮のあと、血の雨がふりそそぐ。
「消えろ……! 俺の前から、いますぐに消えろ!!」
濁った色の血がどんどんと髪の毛を濡らしていく。主がガタガタ震えながら腰をあげ、一歩後ずさった。殺すような勢いで睨めば、背を向けて走り去ってしまう。
遠くなっていく背中を見つめる。心は血の涙を流していた。
人間の口というものは不思議だ。心で思っていることと、まるで反対のものが飛び出てしまうのだから。
心臓の辺りで哀れに追いすがる男の声が聞こえる。絶望に似た叫びを聞きながら、膝丸は意識を手放した。

遠くで炎が揺らめいている。暗闇の中、オレンジ色の明かりが地平線に沿って真っ直ぐに伸びている。家が燃えている。馬が燃えている。そして、人ががれきの下敷きになって燃えている。
助けに行かなければならない。そう思っているのに、体がいうことを聞かなった。なぜだろう。せっかく自由に歩ける足をもらったのに。人を守るための腕を貰ったのに。
力を込めるとずるずると腹が擦れる感覚が走る。
刀はどこだ。違和感と共に辺りを見渡したとき、近くに血の池があった。己の姿が目に入り、膝丸は絶叫した。
全身が蛇になっていた。蛇のよう、ではない。蛇そのものだった。腕は消え、体は果てしなく長い。力を込めると全身の筋肉が勝手に伸縮して前進する。さっきから聞こえていたずるずるという音は、己の腹と草が擦れる音だったのだ。
「醜い化け物。あなたは刀なの。それとも悪霊なの? どっち」
空中から声が聞こえたと思ったら、足に痛みが走った。叫びは声にならなかった。空気が口から漏れる音がする。びたびたと体をくねらせたときに、尾の先が無くなっていることに気が付いた。赤い断面から白い骨が覗いている。
風のような音が響いて、また同じ場所に激痛が走る。今度はさっきより少し腹のほうに近かった。膝丸は一瞬で理解する。
体の末端から少しずつ、甚振るように細切れにされているのだ。苦痛のあまりばたん、ばたんと体を跳ねさせていると、暗闇から足が出てきた。
それは一歩前に進むごとに輪郭を濃くしていった。裾が広がった緋色の袴。染みのない白衣。そして胸元まで伸びていている髪の毛。
――違う、俺は化け物じゃない。
必死に訴えたが、口からは意味のない音しか出なかった。シューシューとひたすらに空気が漏れる。
痛みの余り身を悶えさせていると、女は侮蔑の表情を浮かべた。
「さっさと死ね」
術をかけられているのか、見えない糸が生まれて蛇の巨体を空中に吊るす。だらりと垂れた首に刀を当てられ、瞳の端からこらえきれなかった涙がこぼれた。女は両手で刀を握りしめ大きく振りかぶる。
ぶちぶちと皮膚が裂ける音。首が空を舞う。高くなった視点から改めて自分の胴体を眺めた。薄い緑色の鱗に覆われた大蛇が横たわっている。筋肉が痙攣してびくびくと勝手に動いているさまは化け物そのものだった。
「地獄に落ちろ」
女の声が心に刺さる。
どこまでも続く闇の中を落ちていった。

はぁはぁと荒い息が室内で木霊している。高い天井が見えた。鼓動は全力で走ったときのように煩く響いている。体を横に向けて深呼吸をすると、夢が遠くへ行ってしまった。
手入れ部屋というのは不思議だ。中に入れば何となく体が癒えていく。主の手にかかれば一瞬で傷は癒えるのだろうが、とうとう最後まで姿を現さなかった。
どこかの本丸の審神者が手入れをしてくれて、丁寧に転送ゲートで送ってくれた。感謝を述べるのと同時に深く絶望した。
遠ざけたのは自分なのに、いざ見捨てられたと実感すると涙が滲む。
目の端を軽くぬぐって上体を起こす。まだかなり体がだるかった。傷は癒えたが関節が痛い。ぼんやりと霞んだような頭で、あることを思った。
――主に本当のことを言わなくては。
これ以上秘密にはできない。それによって刀解されるなら、甘んじて受けいれよう。最後を思うと心が絞られるような感覚が襲ってくるが、感情にはそっと蓋をした。
そうと決まれば早い方がいいだろう。時間をおけば足は遠ざかり、口に出来なくなってしまう。こういうことは勢いが大切だ。震える足を叱責して立ち上がると、廊下へと足を踏み出した。
穏やかな午後だった。外では見事なひまわりが咲いている。空の青と黄色のあざやかなコントラストを見ていたら少しだけ元気になった。
死など怖くはない。
ほんとうに僅かな間だったが、幸せな時間だった。
角を曲がると騒々しい雰囲気が辺りを満たしていた。廊下を駆けていく短刀とぶつかりそうになったので身を捩って避ける。彼はわき目もふらずに奥へと走っていった。
どうしたのだろう。疑問を抱きながら足を進める。執務室が見えてくると、中で加州清光とこんのすけが言い争う声が聞こえた。
「どういうこと!? 主はどこに消えたの?」
「問題はございません! すぐにかわりを用意いたしますので」
「そういう意味じゃなくって!」
足が石のように動かなくなった。消えた。本当に? いつ。どうして。頭の中がぐちゃぐちゃのまま、無言で障子に手をかけた。
「ちょっと、何勝手に入ってきてんの」
興奮したようすの加州清光が睨みながらすごむ。それには構わずに、畳の上で小さくなっている狐を一瞥した。
「さっきの話は本当か」
「……はい」
「何処へ」
「そこまでは、分かりません……」
「いつ消えた」
おろおろとしていた管狐は膝丸と目をあわせると小さく悲鳴を上げた。一時間ほど前です、という囁きが耳に届くと同時に床を蹴っていた。
一度部屋に戻り本体を手に取る。心臓が早鐘を打っている。脳内麻薬のようなものが出ているのだろうか。あれだけ苦痛を訴えていた肉体から信じられないほどの力が出た。腹の内は不安で荒れているのに外側はやけに静かだった。どうして置いて行ったのかと、通り過ぎる部屋から怒号とも悲鳴ともとれる声が聞こえる。
それらを背景にしながら廊下を闊歩した。
数分後、膝丸は転送ゲートの前にいた。これは数回しか利用したことがない。そっと近くを調べると微かに気配が残っていた。神経を研ぎ澄まして痕跡をさぐる。
きっと場所は東京で間違いないだろう。問題は時代だった。
鳥居に触れながら息を詰めた。候補が三つ浮かぶ。震える指先で場所を指定したあと、吐き戻しそうな程の緊張が襲ってきた。
本当にこの年号であっているのか。もうひとりの自分が尋ねる。
間違っていたら大変なことになる。一つ数字が狂うだけで数十年、または数百年というズレが発生する。
膝丸はいい。問題は主の方だ。
彼女には寿命がある。間違いは許されない。
犬のように浅い呼吸を繰り返していると、枯れ木を踏み抜く音が響いた。
「誰だ!」
歯をむき出して唸った膝丸は、奥から現れた人影を認めるとみるみるうちに力を抜いた。美しい玉砂利の上を、散歩をするような気軽さで近づいてくるのは、もっとも敬愛する兄刀だった。
「不安で、辛いでしょう。僕って結構、勘が当たるんだ。……そうだ、せーの、で予想した時代を言おう」
なんの前触れも無く髭切は言う。続いた掛け声に慌てて乗った。
「「江戸時代」」
二つの声が綺麗に重なって、兄弟は思わず顔を見合わせた。兄は悪戯をした子供のように笑い、膝丸もつられたように顔を緩める。ついでのように予想した年号を言えば、それもぴたりとはまった。
「離れ離れになっちゃうね」
声に寂しさを滲ませて兄刀は言った。俯くことしか出来ない膝丸に、ここにいればいいじゃないと、優しい誘惑がふってくる。
「ここで、みんなで楽しく暮らせばいいじゃない。勝手に消えてしまった女のことなど忘れて」
言いたいことはよく分かる。辛いのは自分だけじゃない。兄は主の不誠実なやり方に腹を立てているのだ。怒りを向ける相手もいないということは、とてもむなしい事だった。
「兄者。すまぬ。俺はあの人を守ると決めたのだ」
迷いなく言いきった膝丸に、髭切は大きく目を見開いて笑う。
「たとえ化け物だったとしても、お前は僕の大切な弟だよ、膝丸」
震える男の肩を抱いて髭切が魂に刻み込むように言う。やさしさが心に染み渡るようだった。泉のように力が湧いてくる。体を離しとき、もう膝丸は震えていなかった。
「きっと主に会える。大丈夫」
「兄者」
鳥居をくぐる瞬間、兄が背中を押してくれる。
膝丸は時空を超えるために、光へと身を投げた。

過去に飛んでから、早いもので二年が経った。
この時代に主はいるのだろうか。その不安はずっとぬぐえなかった。
逸話に引っ張られすぎている自分はやはり他者から見つけることが難しいのか、政府とも他の刀剣男士とも会うことは無かった。
辛い日々だった。ときどき、発狂しそうな程の不安に襲われる夜がくる。負の感情は呪いを助長させるから押さえるのに必死だった。
闇に押しつぶされそうになったとき、いつも兄の顔を思い浮かべた。そして心の奥で呟く。
心が砕けそうになるたびに呪文のように繰り返す。
大丈夫、だいじょうぶ――きっと会える、と。
そうして西から東へ歩いているうちにぽつぽつと手がかりを掴めるようになってきた。妖怪を退治しながら町を転々としている女がいるらしい。その人物は霊感があり、時々巫女の真似事もしている。
直感で主だと思った。だから己も妖怪退治をすることにした。今までは影から影を移動するように生きてきたが、主と少しでも接点がもてるよう人間の真似事をした。髪を黒く染め、旅装束に身を包む。
旅を続ける中で、何度も絶望に突き落とされた。似ていると思ったら他人の空似だったことなんてざらだった。なぜか女が寄ってきて、その探し人は自分だと言われることもあった。
日を重ねるごとに希望の光は小さくなっていく。
季節を二度めぐらせて、月が輪郭を濃くする秋がやってきた。そこで土蜘蛛の化け物の話を耳にする。村人が、屋敷に呼ばれた際に女がいた。妖怪を相手にするのに馬鹿だ、と言っているのを耳にして、そこらの宿をしらみつぶしに調べてまわった。
足が棒のようになるまで探し回ったが、とうとう主を見つけることはできなかった。金が惜しかったから一番安い宿に泊まる。その宿はここらで一番値段が手ごろで、だから訳ありの者が多く利用している。
こんな場所に主は居ないだろうと、床に転がる男を跨ぎながら食事処へ進んだ。
一番奥まで足を進めたとき、ふと前が気になって俯いていた顔をあげた。壁に背をあずけてぼんやりと前を向いている女が目に入った瞬間、全ての音が消える。
主がいた。
心臓が杭で打たれたように一度跳ね、脚に根が生えたように動かなくなった。
姿はほとんど変わっていなかったが髪の毛が伸びていた。黒い髪の毛を後ろで一つに結んでいる。隅々まで疲れている雰囲気をまとっているが涼しげな目元は記憶のままだった。
感動で胸が震えた。
地面を確かめるように歩き、一段上がった床板に足を乗せる。挙動不審にならないようにしながら、ごく自然に傍による。ひと一人分を開けた場所に腰を落ち着けた。そして全身を耳にする。
まだ確証を得たわけではない。他人の空似だって大いにあり得る。膝丸は今まで何度も期待をして、そして地面に落とされてきた。浮かれていしまっては地獄に足元をすくわれてしまうのだ。
半身に神経を集中させていると、女は通りすがりの男と何か話しているようだった。その声が耳に届いた瞬間、体が雷に打たれたように震えた。
――本物だ。
頭巾のようにかぶっていた布を手繰り寄せ顔をかくす。人工的に染めた黒髪は不自然だし女が必要以上に声を掛けてくるから、最近では布を被っていた。これでは山姥切のようだといつも思っていたが、この時ばかりはこれに感謝したくなった。涙が溢れて止まらなかったから。
いきなり隣で見知らぬ男が泣きだしたら流石に不審がられるから、必死に全身に力を込めて声が漏れないようにした。それは酷く体力を有する行動だった。
主が異変に気が付いて、そっと腰を上げる。
階段に消えていく後ろ姿を慌てて追った。すれ違いざまに店の者を刀で脅して同じ部屋に案内をさせる。土気色の顔をした男は最初こそ酷く狼狽していたが、無言で金を握らせると途端に大人しくなった。
部屋に入るとき、主と改めて対面する。情けなく叫んで抱擁してしまいたい衝動に駆られたが、必死で己を抑え込む。背を向けて布団に寝ころぶと、女は警戒し刀を抱く。
夜は更けていく。心臓が内側から体を叩いている。規則的な寝息が聞こえてくるころになって、やっと布団から抜け出した。
ざりざりと足の裏を畳が擦る。畳は、何年も変えていないのかささくれ立って皮膚をさし、痛かった。が、この時はそんなこと、少しも気にならなかった。
膝を折って上から覗き込む。女はかすかに横を向いていて、薄く息をしていた。呼吸に合わせて肺が上下に動く。黒い髪の毛が白い肌を一層雪のように輝かせている。寝ているのに無意識であたりを警戒しているのが雰囲気で伝わってきた。
姿を見て、懐かしい香りをかぐと体と心が喜びを叫ぶ。突き動かす衝動のままに顔を寄せる。頬にひとつだけ口付けを落とした。
「やっと会えた」
手を伸ばし髪の毛を撫でる。無意識なのだろう。女は眠りながら甘えるみたいに身をよせる。そのあどけないしぐさを見ていると心が痛んで、我慢していた涙がこぼれてしまった。
月が室内を優しくてらしている。濡れた頬を拭うことも忘れたまま、女の心臓に押しあて、血潮の音に耳をすました。

「それが、俺が主を探していた理由だ」
すべてを話し終えたとき、外では朝日が昇り始めていた。開いた扉から光が細く差し込む。雨はいつの間にか止んでいて、草木が濡れて輝いていた。
膝丸は重い荷物を肩から下ろした時のようにすっきりとした表情を浮かべていた。対照的に式神の顔は暗い。感情を押し殺すように唇を歪ませていた。部屋の隅では、獏が丸くなって事の成り行きを見守っている。
「どこへ行くの」
刀を腰に差し、立ち上がった膝丸に気が付くと、切羽詰まった声で女が言った。
式神は主からの命令と感情の間で揺れていた。先ほど聞いた話で心は嵐のように荒れ狂っている。
「会えない。絶対に」
膝丸は遠くを見つめる。まるでそちらのほうに主がいる、と信じているような瞳だった。
「そうかもしれない。だが、少しでも望みがあるのなら、手足をもがれても進みたい。……話を聞いてくれてありがとう。兄者以外に話したのは初めてだったから、とても楽になった」
白い歯を見せて男は笑う。そしてそのまま背を向けると、朝日のほうへと歩いていった。
「待って!」
近くにあった荷物をひっつかみながら式神は外へ飛び出した。男は怪訝な表情をしている。近くまで走り寄ると、一息でこう言い放った。
「案内する。私はあの人から生まれたから、本物がどこにいるかなんて、目をつぶっていても分かる」
膝丸は瞳をこれでもかと大きくさせた。しかし、と言い淀む男の腕を白い手が掴む。
「いいの。これは私が勝手に決めたことだから」
力強く腕を引いて女は歩く。酷く懐かしい気持ちになった。前を行く女の背中は静かで儚い。
遠くの記憶がよみがえって、主と同じ温度の手を握りしめた。