劫火_04 - 2/4

深夜。不思議な気配と物音に目が覚めた。ぼんやりとしながら顔を横に向けると、隣で膝丸が寝ていた。頭のすぐそばに黒い猫のような影が見える。
外から勝手に入ってしまったのだろうか。そう思い体を起こしたが、すぐに猫ではないとわかった。驚いて凝視してしまうが、生き物は全く気が付かない。男の耳元で何かに夢中になっていた。
ぱっちりと目覚めている私とは対照的に、膝丸は深く寝入っていた。しかし悪い夢を見ているようで、うんうんと唸りながら眉間に皺を寄せている。額にはうっすらと汗が浮いていた。
「うまい、うまい」
猫が餌を食べているときのような、ぴちゃぴちゃとした音が室内にひびいている。何度目かの、うまい、で左手を振った。瞼を震わせるくらいの風が吹いて、人影が現れる。私とうりふたつの姿の女が、枕元にぼうっと立っている。
彼女は作り出された式神で、不思議そうに足元の生き物に目を向けている。ちょうど生き物は、じゅるじゅると吸いだす動きをしたので、うえ、と嫌悪感を含んだ声をあげた。
「主様。この下品な生き物は何ですか?」
「獏だよ」
「ばく」
式神は同じように呟きながら静かにしゃがみ込み、こてんと首を傾げた。幼い仕草だった。
獏はちょうどバスケットボールくらいの大きさで、膝丸の耳に細い舌を突っ込んで、何かをすすっていた。見ていて楽しい光景では、決してない。長い舌が出入りするたびに膝丸は苦しそうに身もだえしている。
「うま、うまい」
「美味しい?」
「あぁ! うまい! こんなに質のいい悪夢は、今まで食べたことが無い!」
ぴょん、とその場で飛び跳ねながら獏は叫んだ。間髪入れずに式神の手が伸びて、柔らかな胴体を掴み勢いよく地面に叩きつける。蛙の潰れたような音を立てて、獏は動かなくなった。あたりどころが悪かったのか息が吸えないようで、目をかっと見開き、口をぱくぱくとさせている。
式神が両手で獏を押さえつけているうちに刀を手にして立ち上がる。流れるような動きで振りかぶる。迷いはなかった。
獏は刀の切っ先を目にすると、網の上で焼かれたエビみたいに激しく身を捩った。
「待て! 早まるな! こいつがどうなってもいいのか!?」
きいきいとした喚き声が頭に響いた。ため息をつきながら渋々と切っ先を床へ向けると、獏は安堵の息を吐く。しきりに扉のほうに視線を走らせていた。
刀はまだ抜き身の状態で、小さな窓から漏れている月明かりを受けてぎらぎらと光っている。
ぎょろぎょろと目玉を動かしながら、獏は必死であたりを見渡した。逃げようとしているのが伝わったのか、式神が押さえる手に力を込める。体の中身が出てしまうのではという程に腹がへこんだ。
「主様。私が一思いに始末してみせます」
あいているほうの手をあげながら式神が言う。いつの間にか爪がぐっと伸びていた。凶器のように尖った爪が喉元に食い込み獏は悲鳴をあげる。
「まて! 俺は見たぞ! その顔! こいつの悪夢にお前が居た!」
恐ろしい程の静寂が訪れる。
「聞いてはいけません。どうせはったりです」
「嘘じゃない! お前、こいつが死にかけているのに逃げたんだろう! 膝丸は恨んでいる。心の底から絶望し、お前を憎んでいるぞ!」
内容には覚えがあった。体が震える。出てきた言葉は、自分でも悲しくなるくらい弱弱しいものだった。
「……本当?」
「こんな状況で嘘を吐くと思うのか! 見せたっていい! ……そうだ! いまからこいつの夢を見せてやる!」
動揺した式神は手の力をゆるめてしまった。獏はチャンスとばかりに全身をばねにして飛び上がる。ほとんど垂直に飛んだので、二人はあっけにとられたように空を見つめた。天井に届くほどの場所でくるりと回ると、彼はにやりと笑う。
めいっぱい息を吸い――体が風船のように膨らんだ――数秒ためたあと、鼻から思いっきり何かを吐き出した。
タコが炭を吐き出す動作に酷く似ていた。白い煙が顔を覆って、手で鼻を防ぐ。でも反応が遅れて煙を吸ってしまった。
視界が光に包まれ、段々と端から黒くなっていく。
深い場所にもぐっていくような感覚がした。色が白黒から変化していく。
海が見える。溶けるように、地平線へと夕日が沈んでいった。
唐突に場面が変わる。
血で濡れた視界。黒い煙がどんどんと晴れていき、一本道が見える。万屋へと続く道だった。
少し体を動かすと体に雷が落ちたような衝撃がきた。
全身が痛んだが、特に主張していたのは左半身だった。自分の目線は他人のものになっている。痛みに意識を飛ばしそうになりながらも必死で顔をあげると、泣きそうな顔をした女が目の前にいた。
左腕が燃えるように熱い。視線をそこへ向けると、肘から先が無くなっていた。少し力を入れただけで、肉の断面から血がぴゅうぴゅうと吹き出るので、慌てて付け根を押さえる。
そこかしこで悲鳴が聞こえた。子供が泣く声。大人たちが逃げ惑う足音、土埃。それらを踏み越えて、耳に届いたのは、目の前にいる女の嗚咽だった。
大丈夫だ、と声をかけようとする。だけど、それは言葉にならなかった。
女のようすがおかしい。目があった瞬間、黒い瞳が絶望から悲しみに変わり――そして恐怖の色に染まった。
体が動かない。痛みは限界を超えている。体はどこもかしこも血に染まっていて、鉛のように重い。縋るように腕を伸ばすが、それは空しく弾かれてしまう。
「ば、化け物」
少し触られただけで痛むのに、勢いよく叩かれて意識がとびかける。こらえて前を向いたときには、女の後ろ姿が見えた。みるみるうちに遠くなっていく。リズムよく、脚が地面を蹴り上げる。
逃げた。置いていったのだ。――自分は、瀕死の状態の膝丸を置いて、脱兎のごとく駆けていく。
自分のものではない悲鳴が聞こえた。視界を赤い熱が覆いつくしていく。それは憎しみの炎だった。
――命を賭して守ったのに。これがその仕打ちか!
両手で耳を塞いでも、脳内に直接響いてくる。
ぐるぐると視界が回る。炎が焼き尽くしていく。皮膚がただれ、白い骨が浮かぶ。
体が肉のように崩れていく瞬間、耳元で明るい声が聞こえた。
「なっ? 本当だっただろう?」
目をあけると、見慣れた天井が広がっていた。はぁはぁと荒い息遣いが聞こえる。切羽詰まったようなそれが、自分の口から出ているものだと気が付くのに、それほど時間はかからなかった。
獏は胸のあたりにどっしりと乗りながら、赤黒い目玉で見つめていた。体を勢いよく起こすと、獏はボールのように転がり落ちて壁にぶつかっていった。
「何をするんだ!」
跳ねながら抗議するように手足を振り回しているが、そんなことには構っていられなかった。心臓のあたりを押さえる。汗が出てきて止まらない。
今見たのは夢なんかじゃない。まるで現実にいるみたいだった。
「主様、」
式神が困ったように眉を寄せながら膝丸の枕元に座っていた。いつの間にかうつ伏せになっていた彼は、片方の手を伸ばして白い手を握りしめている。案外力が強いようで、彼女の指先が青くなっていた。
よろよろと膝をつきながら移動して、自分そっくりの姿をした式神と向かい合う。絡まる指を眺めながら、からからになった口を開けた。
「私、やっぱり膝丸とは一緒に居られないよ」
「そうですか。では置いて行くのも良いかと思います――それにしてもこの男、力が強い」
心底嫌そうに眉を寄せて彼女は言った。式神の腕をそっと抑える。
「この人、主である私にものすごく執着しているみたいだから、このまま逃げてもすぐに追ってくると思う。これから南に向かうから、あなたは反対の、そうだな……江戸に向かって欲しい」
「目的地についたら、私はどうしたら」
式神の問いに俯いた。全身がだるくてだるくてしょうがない。
「正体を隠したまま、元の本丸に戻るように説得して。何年かかっても構わない」
「共にいたいと言われたら?」
言いにくそうに彼女は尋ねた。ちら、と握り込まれた右手を見つめる。強すぎる力で握られ、いよいよ指の先が白くなっていた。きっと酷くしびれているだろう。
「うーん。ごめん。今はいい案が考え付かないから、貴方に任せるよ。一緒に暮らしてもいいし」
冗談めかして言うと、彼女は本当に困った表情を浮かべた。
「別にかまいませんが、私に人の真似事が出来るでしょうか。自信がありません」
「大丈夫。膝丸も人ではないから」
「そうですか。では、拝命致しました」
静かに頭を垂れた彼女は、次の瞬間ものすごい速さで左手を振った。ぎっ、と虫の鳴くような音と、床に重いものが落ちた振動が伝わる。
壁際で獏が藻掻いていた。見えない糸に絡みとられたように四肢を縮め、芋虫のように身を捩っている。
「主様。私はこいつが、本当に気に入りません。食べていいですか?」
獏がものすごい叫び声をあげたので、慌てて壁に掛けより口元を押さえた。
「静かにして! 起きちゃうでしょ!」
叱責しながら膝丸のほうを見るが、心配をよそに、とうの本人は穏やかな寝息を立てていた。
「あいつはまだ起きない。俺が夢を喰っているからな」
どこか誇らしげにもごもごと言う獏に、呆れた眼差しを向ける。
「俺が悪夢を喰ってやったから、夢見がいいんだ! ずっと眠れていなかったし、怖がっていた」
体を覆いつくす炎を思い出して、身が震えた。
式神に指示を出すと、彼女は不服そうにもう一度左手を振った。ぶつっと見えない糸が切れ、空中にいた獏が真っ逆さまに落下する。床に叩きつけられる前に受け止めた。
突然のことに獏は身を固くしている。ボールみたいになっていた。
さんざん痛めつけてしまったので今さら申し訳なく感じた。どうにかして逃げねばとカメレオンのように回る目を避けて、額に手を伸ばした。
「さっきは酷いことをしてごめん。悪夢を食べてくれてありがとう」
一度、二度と頭を撫でる。予想通り、猫を撫でている感覚に近かった。つるつるとしている。手のひらをやさしく滑らせると、獏は困惑したように瞬きを繰り返す。
「別に。俺は食事をしていただけだから」
「もう少し食べ方を考えたほうがいいと思う。まるで脳髄をすすっているみたいだった」
離れた場所で行儀よく正座をしていた式神が力強く頷いている。獏は少し悩んだ後、「分かったよ」と答えた。
「けっこう素直なんだね」
目玉が飛び出ていて恐ろしいけれど、まるまるとしていて、慣れれば可愛らしく思えてくる。牛みたいに白と黒の模様があって、体がまるまるとしているので、ぬいぐるみのようだ。
頃合いをみて獏を床においた。彼はいちどだけ身震いすると、ありがと、と呟く。なんの反動もつけずにバッタみたいに跳ぶと、扉をこじ開けて外へ飛んでいってしまった。
隙間から月明かりが漏れている。世界が淡い色に包まれていた。夜明けが近い。
ため息を一つ吐くと、怠慢な動きで立ち上がりぐっと伸びをした。床に固めてあった荷物を手に取り刀を腰に差す。硬質な感触が服越しに伝わると安心した。
自分そっくりの姿をした式神と向き合う。
「じゃあよろしくね」
「はい。どうかご無事で」
そのまま消えようと思ったけれど、思い直した。男の傍まで戻り、そっと頭を撫でる。小鳥のような温かさを感じた。
「さようなら。膝丸」
彼は穏やかな顔をしている。子供のようなあどけない寝顔に口角があがってしまう。寂しさが胸に込みあげたけれど、それには無視をして扉へと足を向けた。
外に出ると、気持ちの良い風が頬を撫でた。白い砂浜が広がっている。遠くには地平線に沿うように海があった。もう少しで朝日が顔を出す。
透明な空気を胸いっぱい吸い込むと、砂浜に向かって足を踏み出した。

瞼の向こう側に光を感じて、膝丸はゆっくりと意識を浮上させた。硬い床に直接寝そべっていたためか後頭部が痛かった。ギシギシと軋む体に呻きながら指先に力を入れる。答えるように握り込まれ、慌てて飛び起きた。
壁に寄りかかるようにして女がぼんやりと扉の方を眺めていた。引き戸は猫が一匹通れるくらいに開いていて、向こうに砂浜が見える。小屋の中は穴蔵のような暗さなのに、外は柔らかい光に包まれていた。
頭がぼんやりとしていた。昨日は良くない夢を見ていた気がする。だがそれも意識がしっかりするにつれて、淡く溶けていった。ふと手元を見ると、己のかさついた指先が未だ白い手を握り込んでいるのが目にはいり、さっと血の気が引いた。
まただ。無意識のうちに主の手を握っていることが多々あった。ひどいときには柔らかい感触に驚いて起きたこともあり、――信じられないことに、抱き枕のような体制で、腰に腕をまわしていた。
咄嗟に手を離しながら謝罪を口にすると、そこでやっと主は自分以外の生き物を認識したように瞳を大きくして、ひとつだけ頷いた。
「そんなに、謝らなくてもいいよ」
たどたどしい喋り方に違和感を覚えつつ、顔をのぞく。笑ってくれたので、ほっと胸を撫でおろした。
そういえば。今朝に見た夢は、最初はとてつもなく恐ろしかったが、あとから幸福なものに変わっていた気がする。柔らかい手が頭を撫でてくれ、それから何か耳元でささやいていた。心の氷を溶かすような、あたたかい声で。
しかし、肝心な部分で、なんと言っていたのか全く覚えておらず、少しの苛立ちと悲しみを覚える。
欠伸をかみ殺していると、壁に力なく背を預けていた女が立ちあがった。奥にある鍋をちらりと見ると、「なにか軽く食べようか」と呟き、てくてくと扉の方に歩いて行った。背中に声を掛けると、彼女は笑いながら、
「少し外に出て食べられるものが無いか探してくるよ」
と答えた。
「主。外は砂浜ばかりだ。先に町に行った方が良くないか」
女は斜め上を覗き込むようにしながら暫く思案すると、にこりと笑った。
「そうだね。そうと決まれば、出発の準備しようか」
「あぁ。それがいい。次はどこへ?」
「江戸」
膝丸は小首をかしげる。江戸から西へと移動して、記憶がただしければどんどんと南へ進むと言っていた。
「戻るのか?」
ただの質問なのに、空気が凍ったように感じた。女は急に感情が無くなったように冷たい声で呟く。
「予定が変わったの。私の予想は間違っていた。振り回してしまって、ごめんなさい」
「いや、責めているわけではないのだ。謝らないでくれ」
慌てて否定したが、聞いているのかいないのか、彼女はさっさと支度を整えていった。帯を締めなおして刀をしっかり腰に収めると、最後に髪をひとつに結んだ。膝丸は自分自身でも準備をしながら、無意識に跳ねる毛先を目で追っていた。
「膝丸。行くよ」
静かに告げ、主は背中を向ける。膝丸は嬉しくてひそかに目じりをさげた。
最近は迷惑がられることが減ってきた。少しは認めてもらえたのかもしれない。そうだとしたら、とても嬉しい――と、心の中で思いながら、土の床を蹴る。
一歩外に出ると磯の匂いがした。一瞬だけ眩暈がする。
正直、江戸に戻ってくれると聞いて心底安心した。
海は苦手だった。嫌な過去を思い出すから。

弾むように飛びながら、獏はにんまりと笑った。
心愉しい。こんなにうまく、事がいくとは思わなかった。
少しばかり女に見せた夢に細工をしたので、屈折した世界を垣間見たはずだ。――憎しみ、怒り、かなしみ――それらは渇望の裏返しだ。夢は心を鏡のようにうつすときもあるが、それほど単純なものでもない。複雑に折り重なる糸のようなものだ。数多の夢を喰ってきた己は知っている。
潮の匂いがする。どこまでも続くような砂丘を、ぽんぽんとリズムよく跳ねながら、獏はふと横を見た。空が白んでいる。
妖は闇に潜む。日の光が苦手なもの多いが、獏は朝が好きだった。とくに今の時間帯が一等好ましく感じていた。夜と朝の境目は、現実と夢の境に、よく似ている。
夜に生きるものなのに、こうも朝に魅了されるのはいったいどうしてだろうと考える。だがすぐに思考を停止した。考えても答えがでないことは、それ以上頭を働かせても無駄なのだ。
放物線を描きながら砂の上を跳ねる。着地した瞬間に、全身をばねのように縮めてから伸ばすと、面白いほど遠くに行けた。
みるみるうちに小屋は遠くなっていく。風を感じながら、獏は過去を思いだしていた。
人間には酷い目にあわされた。悪夢を見る者の枕元に立つときは決まって丑三つ時だ。どろどろと歪んだ夢は恐怖やトラウマを内包している。それらを全て吸い取ってあげた。
性格がひん曲がっている自覚はあるが、昔はこうではなかった。夢を食べさせてもらった代わりに、幸福な夢を分け与えたりもした。人が穏やかな顔をして眠るのを、枕元で眺めるのが好きだった。
価値観ががらりと変わったのは、梅雨にはいる少し前のことだった。いつものように夢を喰い逆に幸せな夢を与えたあと――その人間は、なぜか途中で覚醒してしまった。そもそもの眠りが浅かったのかもしれない。そいつは俺と目が合うと、ぼんやりとした顔から一変して、目を吊りあげて唇を震わせた。
「ばけもの!」
そこから先を思い出すのは少し辛い。体をめちゃくちゃに叩かれて、部屋中を追いかけまわされた。寝起きなのにどうしてこんなに動けるのだろうとどこか感心したのを覚えている。やっとのことで、猫が通れるくらいの隙間が空いた扉から一目散に飛び出す。
その夜は星なんか出ていなくて、おまけに静かな雨が降っていた。
頬を伝う水が、雨なのか、それとも違うものか、よく分からなかった。
先日、古い馴染みの白い狐とあった際に、妙な提案をされ、面白い話だと両手を打った。ずっと人間には復讐したいと思っていた。やり返したい、化け物とののしったあいつらに、同じ痛みを与えたいと考えていたから、二つ返事で頷いた。
さっきの顔は見ものだった。空にのぼるようにしながらほくそ笑む。
結局、肝心な心や想なんて、ひとつも伝わっていない。夢のような嘘を、あの女はまるっきり信じてしまった。
瞳が悲しみに染まる瞬間を初めて見た。井戸の底のように暗い色だった。
明日からは大手をふって外を歩ける。自分は少しばかり人間よりの妖だったから、みんなから疎まれて、もっと怖がらせろと常々言われていた。生きていくには、人々の畏怖の感情が大事なのだと、柳の木が教えてくれた。
前は気が乗らなかったが、今なら出来る気がする。
膝丸のおかげで腹は満たされていた。すぐにこのまま眠りたい。獏は、こと自分自身においては、悪夢というものを見たことが無かった。いつか、一目でいいので見てみたいと思う。
それを見たとき、どんな気持ちになるのだろう。とても知りたい。
全身の筋肉を使って、思いっきり高く飛ぶと、明け方の星が目の前にくる。淡く光っていて美しい。その光を目にうつしたとき、優しい声が聞こえた。
――……、ありがとう。
「あ」
視界がくらりと歪んで着地に失敗してしまう。衝撃を受けて体が砂にめり込む。勢いがつきすぎて、なんどかバウンドしてしまい息が詰まった。
ゲホゲホと咳き込みながら、己の体をよくよく観察する。外側に異常は見あたらなかった。白と黒の、つやつやとした短い毛が全体を覆っている。
この、全身を刺すような感覚は何なのだろう。針で内側を刺すような痛みがある。上半身をぐるんと捩じって背中を見たが、特に変化はなかった。
痛みの根源を探して彷徨う手は、やがて胸へと向かう。
「なんだろう」
心臓の辺りが引き絞られるような感じがする。胸元の毛を握りしめてみるが、痛みは一向に無くならない。
たった五文字の音の羅列。だが、その言葉が頭の中をめちゃくちゃにした。
苦しくて身を捩ると、温かい感触が蘇る。あの女は、感謝の言葉を口にして、頭を撫でてくれた。優しい手だった。表情に乏しいが、笑うとやさしい顔つきになった。最後に無礼を詫びてくれた。きちんと謝罪のできる人間だった。
心の奥底に触れられてしまったような心地がした。
音の余韻が消えてからやっと、砂に埋もれていた獏はようやく立ち上がった。
夜明けが近い。地平線が明るくなっている。
もしかして、自分は大変なことをしてしまったのではないか。膝丸は長い年月をかけ、やっとのことで再会したのだ。
こうしてはいられない。
悲鳴をあげる体を無理に動かして、反対側に跳躍した。ずいぶん遠くまで来てしまった。朝日が顔を出す。光り輝く世界の中心で、獏は己のしてしまったことの重大さに打ちのめされていた。
何度も着地を失敗して地面に体を叩きつけながら、転がるように砂浜を走った。やっと小屋が見えてきたころ、とうに太陽は地平線から顔をだしていた。力が抜けていくが、最後の気力を振り絞る。夜の世界で生きる獏は太陽と相性が悪い。あっというまに体がしぼんでいく。全身が痛んで、肺が焼き切れて、口の中で血の味がした。
木の扉に体当たりするようにして中に入った。ごろごろとボールのように転がりながら室内を見渡すが、中はもぬけの空だった。
勢いあまって壁にぶつかりながら、誰も居ない室内をぐるりと見渡した。喉から変な音がしている。
間に合わなかった。
女は出て行って、そして男も消えてしまった。
もう二人は顔を会わせることが無いだろう。奇跡でも起こらない限りは。
頭の中で、ありがとうの五文字が蘇る。もはや呪いに近い。罪悪感は暴力的な正しさで獏を打ちのめし、久しぶりに頬を伝う水の感触を味わった。
少しだけ開いた扉の隙間から輝く白い砂浜が見える。優しい潮騒の音もしている。
とめどなく涙を流しながら、男のもうひとつの夢を思い出していた。
それは叶わないかもしれない。儚く、淡い、春の野山に降る雨のような夢だったのに。
なんてことをしてしまったのだろう。
獏は心の中で何度も謝りながら、しくしくと涙を流した。