砂浜がこんなに足を取られるということを、女は初めて理解した。
太陽を遮るようにまがまがしい影が過る。じゃらじゃらと鎖のような音を立てて、大きな生き物が土の中から姿を現した。無数の脚が長い胴にくっついている。体は黒くつるりとしていて、ステンレスのように太陽の光を反射した。
百足の化け物は体をめいっぱい伸ばして空中に躍り出ると、素晴らしい速度で身を翻した。二本の髭が動き、牙が鳴ると、黒い液体が口の隙間から噴き出した。
突っ込んでくる巨体をよけながら刀を振る。すぐに甲冑のような皮膚に弾かれて、体がのけぞった。
ものすごく硬い。刀が嫌な音を立てる。
――駄目だ。折れる。
一瞬のうちに判断し刀を鞘に納めた。転がるように砂浜を逃げると足が柔らかく砂に沈む。陸地と違って走りにくい。笑ってしまうくらいの速度しか出ない。
空気の振動を肌で感じる。右肩に激痛が走った。すぐに衣が裂けて、肉が覗く。
前のめりに土に突っ込んだ瞬間、死が頭をよぎった。
こんな綺麗な場所で死ねるなら、むしろ運が良かったと、妙に冷静な気持ちで考えた。ずいぶんと高い所から、カチカチカチと音がしている。牙と、無数の足が震えて振動する音だ。
こいつさえなかったら最高だった。一人で、孤独な野生動物みたいに死ねただろうに。
いまとなっては遠い。諦めて瞳を閉じる。
遠くで竜巻みたいな音がして、薄目をあける。化け物も警戒してかたまっている。
おかしい、音がどんどん近づいてくる――と、そう考えているうちに突風が吹き荒れ、体が地面にめり込んだ。
生き物の絶叫がふってくる。地響きと共に、土埃が舞った。
虫のように地にはいつくばっていたから、思いっきり口に入ってしまって、咳き込む。煙の向こう側に人影がみえた。
白いざんばらの髪が風に揺れている。赤みがかった黒い瞳がぎらついていて、鬼を連想させた。腰の曲がった老人が立っている。左手の爪先から血が垂れてて、彼の周りには円を描くように化け物の残骸が散らばっていた。
百足の妖怪は一瞬の内にただの肉になり、名残惜しそうにびくびくと動いていた。
「どうして」
醜悪な笑みを浮かべながら近づいてくる老人に向け呟く。
老人は不思議なことに、足をふみだすごとに曲がっていた腰が伸び、肌が再生され、時間が巻き戻るみたいに若がえっていった。最終的に青年の姿で落ち着く。ここにきてやっと、神社で会った男だと理解した。
なぜ助けてくれたのだろう。何も関係が無いはずなのに。そしてもう一つ疑問だったのは、男が前回と違う服を身に纏っていることだった。神社で見たときの白い着物ではなく、臙脂色の旅装束を着ている。
男はどこからか持ち出した布で汚れた左手を丁寧に拭きながら近寄ると、すぐそばにしゃがみ込んだ。手を伸ばすと指先で傷口の近くを押されて、痛みのあまり身を大きく捩って避けた。
おや、と呟きながら男が笑う。
「俺の用事に付き合ってくれ」
拒否を許さない言い方だった。素直に頷くと彼は口角を上げる。手を伸ばし襟元を広げてくるのでぎょっとした。
何をするつもりかと思っていると、どこからか持ち出した布で傷口を拭いてから簡単に止血してくれる。手慣れたようすで襟を合わせた。
「本当はどこかで洗えたらいいがな。そこに海があるけど、因幡の白兎でもあるまいし」
よろける足腰に喝を入れてこちらも立ち上がりお礼を言った。男は地平線を見つめている。
瞳が切れ込みを入れたみたいに細くて、動物みたいな雰囲気を醸し出していた。
「こっちだ。なに、そんなにかからないさ」
くるりと背を向けて海岸沿いを歩いて行くので、慌てて背中を追った。
数メートルの間隔をあけて後ろが歩きながら男を観察した。よくよく見ると手に小さな荷物を持っている。嫌な予感がしたが、まさかありえないと、浮かんだ思考を打ち消した。
砂丘を登りきるとつきあたりが崖になっていて、ところどころに草が生えている。端まで行くと海が見渡せた。遠くから吹いてくる風が心地いい。
男は散歩をするような気軽さで崖のぎりぎりまで近づくと、不意にしゃがみ込む。いつのまにか石が三つ積まれていた。傍らに小さな鳥居がさしてある。
狐の子供を送ったときのことを思い出した。あそこにも、ものすごい数の鳥居があった。大きいのから、小さいのから。
何処からともなく線香を持ち出して――彼の懐は異空間と繋がっているのだろうか――火はどうするのだろう。そんなことを思っていると、男は線香の先に向かってふっと軽く息を吐いた。すると、勝手に先が黒くなって焦げた匂いが鼻を過る。薄く立ちのぼる煙を見ながら、あぁやっぱり人ではないのだなと実感した。
さらさらとした砂に線香を半分ほど埋め込むと、男は静かに手を合わせた。何となく手持無沙汰になって、隣にしゃがみ、同じように手を合わせる。
恐らくこのお墓は、先日神社で見送った女性のものだ。直感でそう思った。
二人がどんな関係だったのかは知らない。
迷ってはいないだろうか。苦しい思いはしていないだろうか。
いつの間にか男は腰を下ろして胡坐をかき、海を眺めていた。弔いの時間は終わったらしい。とてもマイペースな人だ。妖だったらこんなものかもしれない。
ふかふかの砂に腰を下ろしながら広がる海を見つめた。空と海の境目が曖昧だった。どこか遠くにきたような気がしてしまう。
「いい所だね」
お墓を置く場所にここを選んだことは正解だと伝えると、男は楽しそうに肩を震わせた。
「お前のそういう所、気に入ったなぁ」
「そう。でも私は膝丸を傷つけた貴方を好きになれないから。じゃあ、さよなら」
立ちあがりおしりについた砂を叩いてとる。男はため息をつきながら、よっこらしょ、と腰をあげた。
「その大事な膝丸はどこだ? 姿が見あたらないが」
進みかけた足が止まる。くつくつと不愉快な笑い声が背中にささる。
「まぁまぁ。旅は一人では面白くないだろ」
「ひとりでいい。供なんていらない」
何度も口にした言葉だった。反射的に出てきたそれに、男の瞳から光が、すっと消えた。
「勘違いするなよ小娘。俺は彼奴とは違う。……さて、行き方だが海沿いはおすすめしないな。一度町へ戻って迂回したほうがいい。その方がかえって早い」
戻ると聞いて全身が硬直するが相手は感情の動きを一瞬で見抜いてしまう。にやりと笑みを深くすると、思わせぶりに呟いた。
「大丈夫。彼奴はもう遠くに行ってしまった。鉢合わせになることはないよ」
全てを見透かすような紅い瞳に心臓が苦しくなる。
じゃあ行くか、と言いながら隣に来た男は、軽い調子で続きを口にした。
「お前は残酷だな。一緒にいるのが嘘の人物だと気がついたら、どんな気持ちになるのか、少しも考えないのか?」
「感情論はやめて。これで良かったんだよ」
ふぅん、と興味無さそうに呟きながら男は空を見つめる。透明で青い空だった。ずいぶん高い所に羊雲がならんでいて、秋を感じた。
男は楽しそうに流れる雲を眺めながら歩いていたが、唐突に振り返った。
「そうそう。少し歩いたところで友達が店をやっているんだ。夕方に寄ろうか」
ほとんど決定事項のように言うので、反射的に首をふりたくなったけれど、特に断る理由も見当たらなくて、曖昧に頷く。
「何のお店をやっているの?」
「蕎麦屋」
自分から提案したくせに、特に興味も無さそうに彼は答える。そば、と口の中で復唱した。足元で砂がさらさらと音を立てていた。男はまた何か思い出したように口角をあげた。
「俺のことは名前で呼んでくれないか。貴方、なんて言われると気持ちが悪い」
そっぽを向けば、恐ろしい言葉が耳に届く。
「そうか。残念だな。ではお前の本当の名前を白状させ、付喪神に教えてやるとしよう」
「よろしくね白狐」
呆れながら名前を呼べば、彼は満足したように前を向く。
肩の辺りで揺れる髪の毛を眺めながら、なんだか困ったことになったな、と思った。
砂浜を海と反対側にまわって、暫く歩くと少しずつ民家が見えてきた。とはいえ時刻は深夜をとうに過ぎていたので明かりをつけている家は無い。みな寝ているのだろう。
あれから陸のほうへ進み、歩き続けてくたくただった。休もうと訴えるたびに、もうすぐだからと励まされ、しぶしぶ足を進める。もう波音は聞こえない。山の近くに入ってしまったのだ。少し残念に思う。
田舎道を黙々と歩いていると、大きな柳の木が見えた。横には川が流れている。細い枝が夜風に揺れていた。どこか神秘的な空気を醸し出していた。
ぼんやりと夜風に揺れる葉を眺めつつ瞬きをすると――唐突に屋台が姿を現した。
「えっ?」
口から変な声が出てしまう。隣を歩く男はおかしそうに肩を揺らすと迷いもなく足を進めた。
屋台は小さいけれど、天井に提灯が吊るされていて明るい。奥に人影が見える。荷台の下で何かごそごそとしていた。丁度隠れているから分かりにくいけれど、それなりに体格がよさそうだった。
白狐は気取らない声色で、よう、と声をかける。下から何か道具を取り出していた男はすぐに気が付いて、笑顔を浮かべた。人のよさそうな笑顔だった。
見た目は普通の男に見える。三十歳くらいの、少し太った男だ。僅かに垂れ目なので、よけいに柔和な雰囲気がでている。
そこまで考えて頭を振る。油断してはいけない。彼は完璧に人に見えるけれど、きっとそうではない。
だって白狐の友達なのだから。
「商売はどうなんだ?」
「まあまあだよ」
「そうか。たいして美味くも無いのに、たいしたもんだ」
「相変わらず口が悪いなぁ」
散々な言いぐさに男は眉を下げて笑う。少し離れた所で二人のやり取りを眺めていると、太った男の方が慌ただしく手招きした。
「ごめんよ。放って置いて。適当にそのあたりに座ってね」
視線を向けるといい感じに柳の根が張り出している部分があった。礼を口にして素直に腰を下ろすと、当然のように白狐が隣に座る。膝と膝が触れ合うような距離に顔を顰めて抗議しても、男はどこ吹く風だった。
「あぁ。紹介が遅れたな。そこのどんくさい奴が八郎。化け狸だ」
「はちろう……」
なんだか拍子抜けしてしまう。よろしく、と言いながら彼は丁寧に手を拭いて握手を求めてくる。慌てて手を伸ばした。手のひらが柔らかくて、あたたかった。
「お酒飲む? 少しならあるよ」
「飲む」
「お前に聞いたんじゃないよ。そこのお嬢さんに聞いたの」
男は狭い屋台の中で器用に蕎麦を作っている。いい香りが漂ってきてお腹が悲しい音を立てた。小さなおとだったのに、白狐は肩を震わせる。
「そういえば最近巷で噂が流れているよ。妙な存在がちらついている。妖でもない、幽霊でもない異形のモノ。彼ら、お嬢さんを探しているんだろう?」
「すぐに本題に入るなんて。だからいつまで経っても女に好かれないんだ」
一瞬で全身が石のようになってしまったのを横目に白狐はたしなめるように言った。それに、ごめんよと申し訳なさそうに謝りながら出来立ての蕎麦を差し出してくれる。いい器を使っているのか問題なく手で持てた。
蕎麦は文句なしに美味しかった。口の中に香りが広がる。熱い汁に浮かぶようにネギが入っていて、出汁は鴨の味が染みていた。
夢中で蕎麦を箸ですくっていると、男は首元のタオルで汗を拭きながら満足げに笑った。
そのまま二人はよく分からない言語で、何か会話をしていた。よほど聞かれたくないのだろう。
両手を合わせて白狐は何かを聞き出そうとしていた。狸――友達の男の方が、しぶしぶ手のひらに何か文字を書いている。苦虫を噛みつぶすような顔をしていた。
興味が沸いたのは一瞬で、そのまま食事を続ける。不思議な夜だと思った。すぐに器は空になってしまい、満たされた気持ちでお礼を言う。
「気を付けてね。人は脆いから。あんまり無茶をしては駄目だよ」
なんだかお母さんみたいだ。それに、久しぶりに他人から労りの言葉をかけてもらって、すなおに嬉しかった。
別れの挨拶をして柳の木に背を向ける。月明かりに照らされた夜道を怪しい雰囲気を醸し出している男と歩いた。ふと気になって振り返る。遠くで屋台の明かりが見えた。
暫く名残惜しい気持ちで眺めていたけれど、風が強く吹いたので目をつむる。
次に瞳を開けた時には、屋台は初めから無かったかのように消えてしまっていた。
◇
「今日はここまでにしよう」
女は山の向こう側に沈む太陽を見つめながら、疲れた声で呟いた。
砂丘から離れて一度森に入り、丸々二日歩いて、やっと森を出ることが出来た。出口にちょうど、誰も使っていない山小屋があったので、そこで休むことにした。
秋の気配がした。もう夏の暑さは感じない。鈴虫の声がいたる所からしている。
小屋は夜逃げのような跡があり、鍋や農具がひっくり返っていた。簡単に床の埃を払いよけながら畳に腰を下ろす。膝丸は道中疑問に思っていたことを口にした。
「戻りは妖に出会わなかったな」
石のように固まった女の背中に緊張が走る。奇妙な間の後、細く息を吐きながら、伸びた前髪を耳にかけた。
「二カ所も浄化できたから。それのおかげだと思う」
「そうか」
膝丸はなるほど、と頷いた。しかし――胸の奥がざわざわと落ち着かない。集中して気配を探ってみるが、主は別段変ったところが無かった。いつもと同じ香り。力強く心地よい霊力。
女は軽く微笑みながら、水を汲んでくると告げてから外へ向かった。膝丸は了承しつつ周りを見渡した。小屋は酷く埃っぽく、打ち捨てられた雰囲気が漂っている。
さっきから心が落ち着かないのは、この匂いのせいだろうか。置いて行かれた物の悲しみと生活の名残が空気から伝わってくる。
いてもたってもいられずに外に出ると、空に満月が浮かんでいた。輪郭がくっきりとしている。綺麗な月だった。
つめたい夜風に打たれながら、膝丸は、こんな夜は穏やかに眠れるといいと心の中で呟いた。主に触れてもらっとき。そして、知らず知らずのうちに手を握っていた夜。そんなときは悪い夢を見なかった。だが、それ以外は必ずといっていいほど魘された。
悪夢はいつも決まっていた。
場面は海から始まる。潮の香り。そして、血のように濃い錆の匂い。
寒気が襲ってきて、実際に体を震わせる。無意識に腕を擦った。
遅いな。主はどこまで水を汲みに行ったのだろう。と、そこまで考えて、頭の片隅に影が過った。
――まさか。置いて行ったのでは。
全身に鳥肌が立った。さっきとはまた違う意味で腕を擦る。そんなことは無い、と慌てて暗い思考を打ち消した。
道中は和やかだったし、時々笑いながらどさくさに紛れて腕を叩かれたりもした。彼女から、そういった気さくな態度をされることが初めてだったので、膝丸は嬉しくてたまらなかった。
鳥の羽ばたきが聞こえ、川の向こうにある林を見つめた。何もかもを飲み込んでしまいそうな闇が、木々の間から口を広げている。伸びた枝が揺れてまるで手招きしているように見える。
やっぱり探しに行こう。そう思うが否や、腰に下げてある刀を握ると勢いよく前を向いた。
その時、草を踏みしめる柔らかい音が響いて、膝丸は脱力して刀から手を離した。多分客観的に見てかなり気の抜けた顔をしていただろうと思う。それほどに安堵した。
向こう側から女が歩いて来ていた。手に鍋と、何かを抱えている。近くまで来た彼女は、外でぽつんと立っている膝丸に気が付くと、不思議そうに首をかしげた。
「見て。野草が沢山生えていた。全部食べられるよ」
両手がふさがっている女に駆け寄り、水の入った鍋を受け取る。急いで引き寄せてしまったから、水が跳ねて服が少し濡れてしまった。
「魚でも捕ってこようか」
近くを流れている小川を顎でしゃくりながら言うと、女は少し考えた後、頭を振った。
「いい。今夜は早く寝よう。歩き続けて疲れちゃった」
それもそうだなと返事をして、さくさくと草を踏みしめながら小屋まで歩いた。今日は満月なので道が良く見えるので歩きやすい。小屋に着き、ガタガタという扉を苦労してこじ開けると、女は部屋の中心で手際よく火をおこし始めた。
太い木に程よい圧をかけつつ、素早く手を動かす。力はあまり要らない。要は摩擦させればいいのだ。必要なのは力より早さだった。主はいつまでもコツが掴めずに、えんえん木と格闘してやっと火をおこすのだ。
早く手伝ってやろう、と思っているうちに火種が生まれたみたいだった。
膝丸はとりあえず床に鍋を置きながら、内心で驚いたが、それを表には出さなかった。
「ずいぶんうまくなったな。火おこしは俺の仕事だったのに」
少しの間のあと、そうだっけと困ったように笑いながら、小さな口で、空気をふっふと送り込む。するとすなおに火は大きくなった。
火鉢が無かったので囲炉裏に木を台のように組み合わせて鍋を置いた。ぐらぐらとして危ないがすぐに食べ終わってしまうだろうから問題ない。草だけが入った汁は塩の味付けでそっけなかったが、二人の間に流れる空気は和やかだった。
夜はどんどん更けていく。
深夜。膝丸はうなされていた。何度も寝返りを打ち、ごろんと横を向いたところで、何か柔らかなものが扉に当たる音がした。嗅いだことのない獣の匂いが鼻に届く。体の毛の一本一本が警報を発した。
瞬間、素晴らしい瞬発力で傍に置いていた刀を手に取り立ち上がる。目に見えない速さで抜刀する。
息を詰め集中する。心の中で数を数えた。ひとつ、ふたつ、みっ――。
つ、を言う前に、僅かな隙間をこじ開け小さな影が弾丸のように部屋に突っ込んできた。刀を構える。
黒い物体が勢いあまってごろごろと転がり足元で止まる。
膝丸は暫し目を奪われた。
畳の上に、ふわふわとした毛並みに包まれた生き物がいた。目が回っているのか足取りがおぼつかない。よろよろと立ち上がり、あっちこっちに行ったり来たりしている。しまいには同じところをぐるぐると回り始めた。
膝丸は困惑したまま刀を構えていた。いきなり部屋に飛び込んできた此奴が妖だということはすぐに分かった。が、邪気を感じなかったのだ。それに、見るからに非力だ。
だが油断は出来ないと思い直し、神経を張り詰めさせながら妖を観察した。体全体が白と黒の毛でおおわれており、牛のように模様が分かれている。全体的に丸っこいが鼻が少し長い。そして特徴的なのは目だった。――若干、飛び出ている。不規則にぎょろぎょろと動き、あらぬ方を向いていた。やがて二つの目玉が膝丸をとらえると、零れ落ちるのではというくらいに大きくなる。
「よ、よかった。やっと見つけた! 膝丸だ!」
「なぜ俺の名前を知っている」
妖は質問には答えずに口を開いた。
「その女は本当の主じゃない! 式神なんだ!」
何を言っているんだこいつは。呆れながらも反論しようと口を開いたとき、僅かに風が吹いた。
次の瞬間、妖は見えない手に弾かれたように向こう側に飛んでいき、壁に叩きつけられる。ぐえっ、と蛙の潰れたような声を出し空中でもがいていた。今にも潰れてしまいそうな程に体がへしゃげている。
「あ……、がっ」
妖の体がどんどんとねじれて、目玉は真っ赤に充血していった。まるで首を絞められた人間のようだった。目には見えないが圧迫されているのかもしれない。宙に浮きながら、必死に首元に小さな手を伸ばす。だが実態が無いためか手は空しく毛をかいていた。
あっけにとられて見つめていると、横に人の気配がした。
「膝丸。妖の言うことなんて聞いては駄目だよ。あんなの嘘っぱちだから」
いつの間に起きていたのだろう。隣に並んだ女が言う。そのとき激しく壁を叩く音がして、妖と目があった。彼は口を開けて何かを必死で伝えようとしている。
女は無表情に左手を振ると、断末魔のような叫び声が室内に響く。今度は妖の体がねじれていた。ぞうきんのようになっていく。
いたいいたい、と妖が叫び身を捩る。少々やりすぎではないかと思った。
止めようと視線を戻した膝丸は体が石のようになってしまう。
女が笑っていたのだ。振り上げた左手の指がどんどんと折りたたまれ、その度に絶叫が大きくなる。女は若干楽し気だった。
「お前は誰だ?」
かすれた声で問いかけると、無邪気なようすが一転し、女は瞳を揺らめかせた。集中が切れたのだろう。拘束を失った生き物が垂直に落下する。べちゃりと湿った音を立て、ぼろ雑巾のように床に伸びながら口から涎を垂らした。よほど苦しかったのか、瞑られた目から涙が一つ零れた。
狼狽える女の左手首が目に入るがどこか違和感を覚えた。
その正体が何か気が付くと、膝丸は目を驚愕で見開く。手首に巻き付けていた赤い紐が無くなっていた。あれは作った自分しか外せない。ならば。
「主は!? 貴様、主を何処へやった!?」
女はうるさそうに頭を振ると、ため息をつきながら「案外ばれるのが早かったな」と無感情に呟いた。髪を纏めていた紐を緩めてだるそうに首を傾げる。髪の毛が解けて川のように広がった。ぐっと印象が変わる。見たことのない、大人っぽい表情をしていた。
気だるげに息を吐くと、ひたと膝丸と目を合わせる。どこか面白がっているような空気さえ感じた。
「主様は、到底追いつけない場所まで行ってしまった。貴方は元の本丸に戻った方がいい。これは私たちの願い」
足元から崩れ落ちていきそうだった。叫び出したいほどの絶望が襲って来る。
置いて行った。捨てられた。どうして。なぜ。喉の奥が詰まったようになって、息がうまくできない。
「許さない。約束を破ったのか……」
力が入らなくなったのか、膝から崩れ落ちた男は、床に蹲りがりがりと爪を立てる。主にそっくりな見た目をした式神の瞳に恐怖が浮かんだ。何かを感じ取ったのか、数歩後退り距離を取る。
いつでも攻撃できるように印を結んでいるのが分かったが、そんなことはどうでも良かった。
口からは嗚咽しか出てこない。目の前が真っ暗になる。
今の気持ちをどう表現したらいいのか。悲しいとか、悔しいとか、そんなものではなかった。
「くそっ、くそくそくそっ!」
震えている男を気の毒そうに一瞥すると、式神は傍に腰を下ろした。何か慰めのひとつでもかけてやろうと思ったのか恐る恐る手を伸ばす。
しかし肌に触れる直前で指先が止まった。
「え? これ……」
呪詛の言葉を並べていた膝丸はぴたりと静止すると、急に高笑いを始めた。が、次の瞬間には顔から一切の感情が消えた。氷のような冷たい瞳は女を越えて、何もない空間を見つめている。ときどき、ひきつけを起こしたときのように右手が動いた。自分の意志とは関係なく指がぴくぴくと動く。
「ひっ」
女の口から細い悲鳴が飛び出る。膝丸はどこか遠くのほうでその音を聞いた。
象牙色の腕は、薄い鱗でびっしりと覆いつくされていた。細かく薄い、ガラスのような鱗が二の腕まで続く。暗闇の中、てらてらと不気味に光っていた。
男は下を向いたまま人形のように動かない。
「おぞましい」
思わず出てしまった言葉に式神はしまった、と顔を歪ませる。
男は大きく体を震わせると、俯いていた顔をあげた。式神はぞっとして目を逸らす。瞳が絶望に黒く染まっているのに、薄く笑みを浮かべていたからだ。色を失ったそれが開かれるのを、怯えながら待った。
「そうか。俺が化け物だから、主は去ってしまったのだな。今も、あのときも」
いつの間にか外では雨が降っていた。部屋の隅では獏が丸くなって目だけをこちらに向け静かに見守っている。
雨が屋根を打つ。優しい音がしていた。
「どういうこと? 聞かせて。何を話したって、どうせ雨音に紛れて聞こえない」
誘うような言い方だった。式神といえど、彼女から生まれたので姿形や声は本人とうり二つだった。古い記憶を呼ぶために膝丸は静かに目を閉じる。