深夜。友達と二人で風呂に入った。男士の数が少ないことと、夜も遅いこともあって、時間を気にせずのんびりしていいと言われた。入浴中の札をかけながら、彼女は「たまに間違って入ってきちゃう人がいるんだよね」と笑った。
扉をひらくと檜のいい香りがした。体を軽く洗ってから湯に体を沈ませる。体が浮く感覚。硝子の向こう側には裏庭があって、灯籠の光が木を優しく照らしている。つい今後のことを考えて鬱々としていると、彼女は楽しそうに、
「露天風呂にいかない?」
と言った。ふたつ返事で頷いて、ざぶんと湯から出る。外に出ると冷たい風が吹いて体を冷ました。石でできた通路を渡ると露天風呂はすぐそこで、湯は熱いくらいだったけど、外気にさらされた体にはちょうどよかった。うえを向くと、砂をばらまいたような星が広がっている。隣にいる彼女も必死に空を見つめていた。
「何をしているの」
「流れ星がながれないかなって」
つられて空をみあげる。しばらくじっとまってみたけれど、とうとう星は落ちてこなかった。
明日本丸に戻ることを決めた。友達はもっといたらいいと言ってくれたけど、これ以上ここに居てはいけないと、頭のどこかで思う。本丸に置き去りにしてしまったこんのすけのことも気になった。おそらく身を隠しているのだろうけれど、無事を確かめたい。
夜になると心がざわついて眠れない。本音をいうと戻りたくなかったし、ほんとうの本丸に帰りたい。畳に置いたままの刀に手を伸ばす。
「ねぇ、おきてる?」
口をきいてこないのをいいことに、たまにこうして握りしめる。刀はほとんど精神安定剤のような役割をはたしていた。布団に引き込むようにして目を閉じたとき、障子の向こう側からカリカリと変な音がした。小さい針で木をひっかくような音に布団から抜け出すと、下のほうに黒いかげがある。三角の耳と小さな前足がゆれていた。
障子に手を伸ばすと一匹の黒い猫が体を滑り込ませてくる。毛が濡れたように夜の闇にとけこんで綺麗だった。手を伸ばすと、たいあたりをするように頭を押し付けてくるので、「かわいい」とおもわず呟く。
「私は雄なので、可愛いは違いますよ」
と返事がかえってきて、若い男のような声に、近くにあった刀を手に取り体をおこす。視線を下ろしていくと、行儀よく座った猫と目があった。意思を持った瞳で見つめ返した猫は、目を糸のように細くする。
「こんばんは」
「こ、こんばんは……」
猫が喋った。刀を握る手に力がこもる。猫は不思議そうに首をかしげる。
「別に変なことでもないと思いますが。普段、異形のものを相手にしていても、そのように驚かれるのですね」
「えっと、まぁ。はい」
なんとなく正座をしながらこたえる。やけに紳士的な口調の猫だ。最初のころよりリラックスしたのか、「失礼。ゴミが目に」と言いながら前足で顔を洗っている。
「化け猫……?」
「うーん、そういう呼びかたになるんでしょうねぇ。私の命は九回目なので。喋ることもできるし、この世界にも存在できるのです」
淡々と言いながら、今度は顔をかたむけて胸元をぐいぐい舐めている。
「あの、あなたはどうしてここに」
「ここの主と私は、古くから付き合いがありまして」
身を乗り出した猫は、うったえるように前足を畳におきなおした。
「なにか困ったことがあったとき、ぜひご相談下さい。必ず助けになります。いいたかったことはそれだけです」
尾をぴんと立てた彼はていねいに頭を下げて、あいたままの障子から、すっと外へ出てしまった。隙間から顔をだして廊下を眺める。夜も深いせいもあって、猫の姿はわからない。
「なんだったんだろう」
猫に頼ることなどおこらないと思う。でも不思議な雰囲気の猫だった。そこで、変な現象を無自覚に受け入れてしまっていたことに気づいて、布団の中でため息をつく。
▽
玄関にはいったとたんに斬りかかれるかと警戒したが、予想に反して廊下は静かだった。両手で抱えている刀を、ゆっくり左手に持ちかえる。何かあったらすぐに抜刀して顕現しないといけない。なるべく足音をきしませないようにして歩く。執務室までの道のりが遠くに感じた。いつもより周囲からの視線を感じる。刀の素行は共有されているみたいだ。あるいは全員が共犯なのかもしれない。それは大いにあり得る、と執務室の障子をあけた瞬間、空中で一回転をするようにしてこんのすけが現れた。彼は目が合うとほっとしたように力をぬく。
「無事でなによりです」
「こんのすけも。胴体が真っ二つにされて転がっていたら、どうしようかと思った」
「この通り、私は元気です! ……と、さっそくですが。どうしますか。任務続行できそうですか」
静かに首を振ると、こんのすけはかなしげに耳をさげた。
「ある程度は予想しておりました。場所の浄化はおかげさまでほとんど完了しております。今のところはそれで充分です。すぐに政府に報告いたします」
「ありがとう。この本丸はどうなるの?」
空中に出現した透明な画面に手を押しあてながら、こんのすけは首を傾げた。
「おそらく待機本丸となります。新しい審神者を就任させるにしても、危険要素が多すぎる。しかし彼らは神。おいそれと刀解はできません。練度もある程度ありますから、政府としても確保しておきたいはずです。なので、後日、残りの場の浄化のため、そしてできれば、刀剣男士の皆さんがまた力を貸してくださるよう、力の強い審神者を派遣します」
狐は淡々とした口調で話し、本丸のコードを入力した。左から反対へすべるように前足を動かすと、報告完了と文字が浮かぶ。つづけて、画面に“未達成”とでかでか表示されてしまい苦い気持ちになる。あまりいい言葉ではない。
視線を下にやると、こんのすけは私が落ち込んでいると勘違いしたのか、ぽつりと呟いた。
「これで良かったと思います」
「そうかな」
「えぇ」
ほんとうによかったのかと考えているうちに、もともと返事をさほど期待していなかったのか、狐は、「三分で報告してきます!」と早口で喋り、消えてしまった。
「いってらっしゃい……」
障子のむこうに雪のかげがちらついている。季節は前の審神者が決めたものらしく、変更できないか試してみたが、結局冬のまま変えられなかった。なにもかもが中途半場だ。
畳に横になると、刀を握りしめながら目を瞑る。
「これで、よかった」
こんのすけの言葉を口にだす。急に疲れがやってきて、すこしだけ眠ろうと意識を手放した。
目が覚めると知らない田舎道にいた。そこかしこから鈴虫の声が聞こえる。黄昏時で、世界が、オレンジと青をまぜたような色に染まっている。空は絵の具をといたような群青色で、いちばん高い場所に星が光っていた。
ここはどこだろう。ぼうっとしながら考えていると、頭のほうで物がぶつかる音がした。街灯にぶつかった蛾の羽先が燃えている。悲しい習性か、虫は何度も熱の塊に体当たりしていた。そうしているうちに、とうとう飛ぶことすらできなくなったのか、くるくると回りながら落ちて、地面にぶつかってしまう。一部始終を眺めていたら、虫は、ぐっと重そうに丸い胴体を持ちあげて、またすぐに力を抜いてしまった。
死にかけの蛾を跨ぎ越し歩く。アスファルトの道路が続いている。左側には家がたっていた。現代的な建築の、二階建ての家を横目に進む。明かりもついていて人の影が窓越しにゆれているのに声がしない。先にはほとんど街灯がなくて、日が落ちて時間がすぎるごとに道は影を濃くしていく。
あぜ道から水の音がしていて、のぞきこむと堀があった。静かな音を聞きながらもくもくと歩く。腕を振るたびに白衣がさらさらとこすれた。田舎の風景は歩いてもあまり変化がない。ただひたすらに山と田があった。
暫く歩いていると、左手に影が見えて足をとめる。ゆるやかな登り坂になっていた。昔、田んぼだった場所の跡地みたいで、いまは使っていないのか、草がぼうぼうと生えている。
頂上まではすぐだった。地面は平たく整えられていて、奥は森に続いているようだったけれど、藪で阻まれているし真っ暗なので行くのはやめた。
振り返るとさっきの家がすこし小さくみえた。空が広い。風が奥から渡って下のほうへ流れていくのが葉の動きでわる。
「静かで、風がきもちいい」
「ほんとうに。いい夜ですね」
夜風とともに穏やかな声がとどき、悲鳴をのみこんでふりかえると、大きな男が佇んでいた。白い髪が発光したように闇から浮かびあがる。
「うまく会えてよかった。安心してください。ここは誰も立ち入ることができない」
いつのまにか男は隣に来て地平線を眺めている。東の空、山の境目から欠けた月がのぼろうとしていた。半分もでないうちに、また別の山の淵から月が顔をだしている。反対の方角をみると空のすこし高い場所には、まったく同じかたちのものがのぼっていて、これ以上増えたら嫌だなと思ったら、考えを読み取ったかのように星たちは動きをとめた。あたりはすっかり夜になっていた。
あまり隣をじろじろ見ないように注意しながら、考える。彼は男士で、大広間にいた小狐丸だった。
「ここは夢のなか?」
「さぁさぁ、こちらへ」
いっそ気持ちがいいくらいに無視をされた。伸ばされた手を掴むことはしなかった。静かに首をふると、さほど気にしたようすもなく、男は目を細めて足を動かす。丘を下っていく背中を追いかけた。田舎の夜は暗いしふけるのが早い。星が怖いくらいに輝いている。いちばん終わりまで下りきると、男は振り向き目を合わせる。ちゃんとついて来ているか確認してから、田のほうへと歩いて、あぜ道をおりると足をとめた。
「ごらんなさい」
隣に立ち、言われるがまま下に視線を落とす。水が張った田に空がうつっていた。
「星が見える」
男は答えるかわりに刀に手をかける。とっさのことに体が動かない。待てといわれた犬のように固まりながら挙動を見つめる。風もさほど吹いていないのに、男の袖や髪がなびいている。片手で持った刀を垂直にすると、ぴんと張った水に突き立てる。透明な鈴の音が響いた。切っ先を起点にして波紋が生まれる。じっとまっていると、水のなかの風景が揺らいでいった。
気がつくと、半径一メートルくらいの水が鏡のようになっていた。相手はいまだ刀を持っている。若干緊張しながら淵に近づくと、そこには本丸の風景がうつしだされていた。天井の辺りから見下ろす位置で、大広間を俯瞰している。多くの男士が正座して主をまっていた。
「これも夢?」
「いいえ。過去の映像です」
男は刀でぐるりと水をかきまわす。また景色が変わった。暗い部屋に男が蹲っている。光が落ちていてだれかわからない。しかし部屋は、審神者のだとすぐに分かった。物であふれている印象があるが、忙しいときは自分もこうなると心のなかでかばいながら見守っていると、次の映像に言葉を失った。
足元でさきほどの男が唸っていた。二つの影が動いている。手前にいるほうが、床にのびているものに向かって足を動かしていた。蹴るたびに体が連動して動く。数分間、そのような映像が続いていたが、ふとスイッチを切ったような奇妙の間のあと、床に伸びている影に重なる。背中を撫で、女の声が謝罪を繰り返した。
ふさふさの草に腰をおろすと、男はそばで片膝をつけた。もう刀は手に持っていない。次に浮かんだのはまた同じ部屋で、今度は別の男が部屋の隅に転がっていた。それ以上は見ていられなくて、そっと目をそらした。
「これは彼の尊厳にもかかわりますから、これくらいにしましょう」
「まだ続くの」
こたえのかわりに浮き出てきたのは焼却炉だった。乱暴な動きで足元の塊を投げ込んでいく。さっきより明るい場所だったから、どんな人か確認することができた。若い女性だ。だけど、顔つきや全体の雰囲気が幼い。彼女は黒くすすけた破片を全て焼却炉に投げ込むと、ひと仕事終わったとばかりに手をぱんぱんと叩いて息をつく。そうして、取っ手を奥に押し扉をしめようとしたが、あと少しの所で閉まらない。押したり引いたり、苦労しているすきにすこし扉がひらいた。
本当に一瞬だったけれど、みてしまった。丸い鉄板のような扉。熱を外に逃がさないよう、鉄を元の液体に戻す頑丈な檻の奥。中は空洞で余裕があるはずだけど、山のようになっているのは黒い塊だった。固い物質がうずたかく積まれている。その形には見覚えがあった。女はなんとか渾身の力をこめて扉を閉めると、足早に去ってしまう。
「ちゃんと見えるのですね」
感情のよめない声で小狐丸が言った。こたえにつまっているうちにまたもや映像に変化があった。同じ場所、焼却炉の前で佇む男がいる。明るい髪の毛が漏れ出る炎の光に照らされていた。表情はみえないがただならぬようすだった。握りしめた刀が震え、指の間から血が滴って地面に染みを作っている。
「さて、これでお終いです」
空気をうちけすように、穏やかな声色で男が水面を軽く叩いた。ばしゃんと水のはじける音とともに風景が嘘のように消えてしまう。
「立てますか」
先に立ちあがっていた男が手を差し出す。こんどは遠慮せずに手を取った。なにがおかしいのか、くすくすとひかえめに笑いながら引きあげてくれる。
「私はとりわけ物としての意識が強いように思います。それゆえ、一期殿の本当の気持ちは分かりかねますが、心境を思うと、この心臓は痛みをおぼえます。前の主は未熟な人でした。私としては、持ち主が変わることは、正直なところどうでも良いのです。しかしそれよりも苦しいことがある」
「それはなに?」
話の続きをうながす。振り向くと真っ赤な瞳と目が合った。口調だけは丁寧でたのしげなのに、じっさいの表情には色がなく、無そのものだった。
「無かったことにされること。ただ、それだけです」