庭はよく晴れていた。起こしに来てくれた短刀は、支度が完了するまで律儀に待ってくれている。軽く布団をたたんでから、迷ったのちに刀を手に取る。短刀の子はわずかに首をかしげたけれど、何も聞いてはこなかった。
「ご案内します」
朝の清々しい廊下を連れ立って歩く。大広間はすぐだった。賑やかな話し声は廊下まで漏れていた。前を歩いていた前田が障子をあける。いくつもの目がいっせいにあつまり、声がぴたりと止んだ。好奇心に満ちたいくつもの瞳に、教師はいつも授業が始まる前にこんな気分を味わっていたのだろうかと、そんなことを思いながら会釈をする。
「こっちこっち!」
女の高い声が響くと、何事もなかったかのように喧騒が戻ってくる。持ってきた刀がぶつからないように注意しながら、人のすきまをぬける。奥に座っていた女は、目が合うと笑ってくれた。挨拶をかわしながら隣に腰をおろすのと同時に、目の前に食事が並べられていく。白いご飯にお味噌汁、そして目玉焼き。普段、朝ご飯はあまり食べないほうだけれど、なぜか空腹を感じた。
「いただきます」
「きのう門の前で倒れていたから、びっくりしちゃった。体調とか平気?」
「うん、大丈夫。急に押しかけたのに泊めてくれてありがとう」
倒れていたというのはおおげさかもしれない。走るのに疲れて地面にうずくまって息を整えていたら、たまたま通りかかった男士に見つかったのだ。だけど、この場に座標を打ち込んだのは無意識だった。彼女には、まえまえから相談していたのだが、詳しい経緯はあとで話すことにしていた。ここは人が多すぎる。
「いいよ、いいよ。ずっといてくれてもいいくらい。それより、顕現は解かないの?」
畳に置かれた刀に指をさしながら言う。
「うん。そういう約束だから」
つめたい言いかたになってしまって申し訳ないと思ったけれど、それ以上踏み込んでほしくなくて、間を埋めるように味噌汁を口にはこぶ。
「……美味しい」
おもわず呟くと、斜め向かいにいた男と目があった。高い位置で髪を括っている。彼は、どうだと口の形だけで問いかけるから、頷いて肯定した。
「食事は彼だけが作るの?」
この本丸には燭台切光忠がいない。というより、全体的に打刀や太刀の数が少ない。逆に短刀は全員揃っていた。
「鍛刀、苦手なんだよねぇ。運がよくないのかな」
なんでもないように彼女は言って、漬物に箸を伸ばした。
「実は全然数も足りていなくて。最近、やっと四つの部隊が組めるようになったよ」
「怒られないの?」
「そんなには。たまに通知がくるけど」
食べ終わった女は静かに箸を置く。こちらもちょうど食べ終わったところだ。彼女は顔を覗き込み、唐突に、
「街へ行こう」
と言った。
食べ終わった男士がちらほらと席を立っていくのがみえた。ひらかれた障子の向こうに昼の庭が広がっている。わずかに顔を寄せて、短くつぶやいた。
「歩きながら話そう」
「もちろん、そのつもり」
そそくさと大広間をあとにして、自室に戻ると、すでに畳に洋服が置いてあった。着のみきのままで飛び出してきたので服の替えがなかったからすごくありがたい。用意してくれた服に着替えて、刀を持って玄関に向かった。玄関にはすでに男士がいた。扉のほうを向きながら腕を組んでいる。
「主は第一部隊の見送りに行っている」
棒立ちでいた大包平は、下駄箱から靴を取り出すと目の前に置いてくれた。そういえば裸足で飛び出したのだった。なにからなにまで申し訳ない。何度目かわからないお礼を言いながら足を差し入れる。少しサイズが大きかったけれど、まぁいいかと思った。
街にいったらついでに靴を買おう。そんなことを思いながら、式台に座り黒いスニーカーの紐を結んでいると、大包平が隣に座り、無言でたたまれた布を差し出してくる。受け取りひろげてみると刀袋で、黒い布地で下に赤い椿が刺繍されている。
「両手があいていたほうがいいだろう」
「ありがとうございます」
柔らかい布に刀を滑り込ませて口の部分をおりこみ紐で縛る。刀の状態で意識があると聞いたことがあるけれど、いまだに信じられない。手のなかにある刀は無言を貫いていて、そこらにある物みたいだ。間違えて模造刀を持ってきてしまったのではないかと、少し不安になる。
刀の状態でどのくらい意識があるんですか。意志の疎通はできますか――と、隣で真っ直ぐに前を向いている大包平に尋ねようと口をひらいたちょうどそのとき、背後からぱたぱたと足音がした。
「お待たせ。大包平の相手をしてくれてありがとう」
「相手をしていたのは俺だ」
男の声には無視をして彼女は左側に座る。ワンピースの裾を正しながら、ブーツに足をすべらせる。
「まえの色だったら、その服、似合ってたね」
黒い髪に視線を向けながら彼女は残念そうに言った。また明るくするには大変苦労するだろう。白いものを黒くするのは簡単なのに、その逆はむずかしい。
「よかったらその服あげるよ」
「ほんとに? ありがとう」
跳ねるようにたちあがった彼女は軽い足取りで外に出た。あたたかい日差しが肌をてらす。日焼け止めを塗っていないことに気がついたけど、たまには日光浴になっていいかとも思った。木漏れ日の中を歩く。のんびりとした清浄な空気は、肺に取り込むたびに内側から綺麗になっていく気がする。
ゲートを通るとすぐに万屋の通りにでた。お金を持っていなかったので、本当に申し訳ないけれど友達に借りて、とりあえず下着屋でいくつか新しいものを買う。洋服は、いらないものをくれると彼女が言ったので、ありがたくもらうことにした。なんでも、捨てられないたちらしく、着ないまま押し入れにしまわれたままの服が沢山あるそうで、むしろ助かるとまでいわれた。
紙袋を手にして、店の外にいた男と合流する。特に相談もせずに路地に入った。飲食店が立ち並んでいる通りは、昼のうちは灯りが消えて人の気配がない。眠ったように静かだった。ビルのひとつに入り、エレベーターに乗る。オンボロのそれはがたがた言いながら上昇した。思わず隣にいる彼女と顔をあわせる。
「落ちたらどうしよう」
「たぶん、その前に緊急停止するよ」
「じゃあ平気だね」
彼女は安心したように前を向く。ぎしぎしとした動きで扉があいて、外に出ると、奥に向かってずんずん歩いた。両側にあるお店はすべて閉まっている。準備中の札を無視して真鍮の取手をつかみ扉を押して中に入れば、室内は薄いが照明がついていた。低く、クラシックが流れている。
カウンターの席に座ると、透明な器に、銀色の包装紙につつまれたお菓子が置いてあった。
「何があったの」
それまでのおちゃらけた調子からうってかわって、真剣な表情で友達が言った。促されるまますべてを話す。目が覚めたら男が跨っていて、首元に刃があったこと。本能のままに起きあがっていたら、いまここにはいないこと。すごい体験をしたと思ったのに、実際に口にしてみると嘘みたいに軽くて、まるで作り話みたいだと思う。ぼんやりとしながらお皿に手をのばしておかしをつまむ。薄い紙をぺりぺりとはがしていると、大包平がなんともいえない声で、「ここが潮時なんじゃないか」と言った。それにすかさず、「そうだよ。もうやめなよ」と友達が言うので顔をあげる。あまりの剣幕に狼狽えた。自分のことのように心配してくれている。
「もうさ、期間が終わるまでうちにいなよ。失敗しましたって言えばいいよ」
どこか怒ったように言い捨てるので、少し笑ってしまった。
「そうだね。中途半端でやめるのは嫌だけど……、このあたりが限界かもしれない」
「やっぱり続けるとかいうのは、なしだからね」
カウンターの向こうでお店の人が屈んで、下から何かを取り出した。差し出されたものを受け取る。それは柔らかい布に包まれていた。大きさはそんなにないのに、ずっしりと重い。
「これは……?」
彼女は口角をあげながら、質問にはこたえずに、「あげる」とだけ言った。テーブルにおいて布の端をめくると、ごろんと鉄のかたまりがでてきた。舌切り雀のおはなしに出てきそうな持ち手のない鋏だ。片手で持ってカチカチと鳴らす。
「それはね。断ち切り鋏」
「たちきり……?」
「縁を切れるの。すごいでしょう。もっとちゃんと、持ってみて」
いわれた通りしっかりと握る。数秒まってみたが、なにも変化が無かった。不審に思って眉をひそめていると、「焦っちゃだめ」と静かな声でつげられる。揶揄われているのだろうかと、無意識に鋏をゆらしたときだった。左手の指に何か糸のようなものがくっついているのが見えた。よく目をこらすと一本ではなく無数に伸びている。小指に何本も糸が絡まっていた。
「なんですか……これ」
蜘蛛の巣をとるときのように左手を動かしてみるが、糸はふらふらとゆれるだけで小指からはなれていかない。ひとつひとつが四方八方に伸びている。
「それは縁よ。これはねぇ、あなたの本丸のぶん。すこし色が違うものがまじっているはず。それは今しがた作られている縁だから、本当に辞めるなら断ち切ったほうがいいよ」
確かに色がちがうものが何本かあった。瞬間的に嫌悪感が沸いて、そっと尖った先をあてる。
「まって! すいぶんせっかちなのね」
にゅっと向こう側から手が伸びてきて、手首をつかまれた。
「いちど切った縁は二度と元に戻らないから、慎重によく考えてね」
子供に言い聞かせるみたいな言いかただった。
今いる場所や男士との縁が消えることに特に迷いはない。だけど、たしかにこの場でやることでもないと思いなおし、鋏を握ったまま指先を眺める。細い靄のような糸はつねにゆらゆらとしていて、注意深く目で追わないと消えてしまう。浮かびあがる一本が後ろに続いているので視線を向ければ、壁際に設置されている刀と繋がっていた。
「おい。それくらいにしておけ」
ぼうっとしていたから、急に声をかけられて驚いてしまい、指先に力が入ってしまった。刃の先が糸に触れる。
照明がふっと暗くなったあと、空気が破裂するような音が響いた。銃声にも似た音に驚いて肩を跳ねさせると、テーブルに置いていたグラスとぶつかって、なかの水をぶちまけてしまう。
慌てて鋏を置いて、借りた白い布巾でテーブルを拭いた。服がびしゃびしゃになってしまった。後片付けが済んだころには何事もなく部屋は明るくなっていて、音も消えていた。
「最近、ラップ音がひどいんだよね……。お祓いにいったほうがいいのかなぁ」
「今のは絶対だめだよ」
怒ったように言いながら友達が鋏を取りあげて、厳重に布にしまうので、
「ごめん」
と、なにに対してあやまっているのかよくわからないまま、頭をさげる。