すくわない(10)

 深夜、ある部屋の前で立ちすくんでいた。灯りはとっくの昔に消えている。中の人物は眠っているため、物音ひとつしない。女の指が折れていたことを知ったのは翌日のことだった。あれから自分は、気がつくと自室でうつ伏せになっていた。どうやって戻ったのか記憶がないが、手にしっかりと刀が握られていた。滑らかな鞘を見ていると女の怯えた顔が頭に浮かんだ。あれは夢だったのだろうか。幻だといいと思ったが、鞘でぶった感触は生々しく手の中に残っていて、現実だと伝えてくる。掌で瞼をおさえると世界が暗くなった。女は何もしていない。最低なことをしてしまった。翌日、廊下で見かけた女の右手に包帯が巻かれていて、胸の奥が痛んだ。夜がふけたころに足を運んだが執務室の障子は閉めきられており、人影だけが動いている。細い枠に指をすべらせて、声をかけようと口をひらいたとき、ちょうど狐の声が響いた。「政府に報告しましょう。あまりに扱いにくい刀は譲渡できません」「言ったら、どうなるの」「何を分かりきったことを」気のない返事で答えた女は迷っているようだった。数秒待ったが答えはない。続きを聞く前に、そっと場をあとにする。夜がふけたころ、長谷部は厨にいて、ひとり自己嫌悪に陥っていた。流しに手をついてじっとしている。男はいつも飲んでいる珈琲にこっそりと睡眠薬を混ぜたばかりだった。本丸に慣れて油断していたのか、女は特に疑問も持たずに口にする。長谷部は足が早いので、審神者が席を外すタイミングで執務室に忍び込み、薬を混入させることなど動作もなかった。「何を迷っているのですか」暗闇から声がする。ゆっくりとした足取りで近づいてくる影は、深夜にも関わらず戦装束を着ている。足を踏み出すと外からの光で姿が濃く見えた。あらわれた青年は柔らかい笑みを浮かべていた。だが瞳は凍っているように冷たい。

返事をしない男に、一期一振は呆れたように笑う。

「情が移ったんですか」

そんなことはないと噛み付きたかったが言葉は出てこない。たった数日ともに過ごしただけだ。特に思い出があるわけでもない。だが、ふとした姿がちらついて心を騒つかせる。女は心から心配してくれた。肩に触れる手のひらはあたたかった。

一期は、力なくのびた男の腕をそっと握った。

「実は喜んでいたのではないですか? 今はほら、人間の体に入っているでしょう。我々には欲がありますから」

「黙れ。殺すぞ」

「今の弛み切った貴方にあの女は殺せない。だけど覚えていてください。私には出来る」

長谷部は諦めたように脱力して手に取った刀を腰に戻した。弱々しい声で「俺は協力したからな」と呟く。

 

 

 

疲れて眠っていると、どこか遠くで男の人の声がした。意識が中途半端に引き戻される。不快感に眉を寄せて、身じろぎをする。遠くで虫みたいに響く声に耳をすませると、なんとか言葉が聞きとれた。それはたったひとこと、起きるな、と言っていた。

首に冷たい感触が伝わる。とっさに逃げようと身をよじると、金縛りにあったように体が動かなくなる。体が重い。何かが腹部に乗っている。薄目を開けると、男の影があった。夜の闇のなかでシルエットが浮かぶ。意識がはっきりとしてくるのと同時に心臓が跳ねあがった。

男の手には刀が握られていて、それは真っ直ぐに首へと向かっている。

目があった男は僅かに目を細めた。

「起きてしまいましたか。失敗しました。私は術をかけられているので、審神者である貴女を直接殺せない。だから自滅してもらおうと思ったのに」

薄い肉に刀が触れている。少し動かせば頸動脈が切れて大変なことになる。

「自分から起きてください、ほら」

目を見開いていると、どこからか枝を割ったような音が鳴った。早くしろと男は急かすが、部屋の隅で響く音に気を取られる。一期一振も同じだったようで、体を捩って振り向く。自然と壁際に視線があつまる。そこには一振りの刀があった。この本丸のものではない、自身の本丸から持ってきたものだ。

「なるほど。あれが助けてくれたのですか。先に処理しておくべきだったか」

男の意識は完全に壁側へと向いていた。すっかり油断したのか、ほんの少し刀が浮き空間が生まれる。チャンスだった。右手を思い切り突き出したが、男のほうが数枚上手で、手首を捻るようにつかまれ、頭上で固定される。

「私は貴方が嫌いなのではありません」

耳元に顔を寄せた男は、低い声をだした。

「人間が、憎いのです」

 

心臓の音がやけに煩く響いている。わずかにあいたままの障子から、まっすぐに光がさしこんでいる。夜が明けたのだ。だが気づいていないのか、うえに乗ったまま男は動かない。静かに伸びる光の筋が体の近くにきて、外の景色が目にはいる。地平線近くが赤くなっていた。今まさに、太陽が山の向こう側から出てこようとしている。

庭へ顔を向けた男の瞳が大きく見開かれる。

「燃えている」

震えた声でそう言った男は顔を手で覆い、衝動を紛らわすように髪の毛を握りつぶす。人が変わったような反応に混乱した。頭がついていかない。体が動かない。ただ、自分の内側からする、血が逆流するような、心臓の音が聞こえていた。

また部屋のすみで物音がした。はっとわれに返り、渾身の力で体を捻る。自由になった右足で男を蹴りあげた。続けて横腹に叩きつける。良い場所に入ったみたいで、男は畳に崩れ落ちた。布団を飛ばすようにして起き、壁際にある刀をひったくる。あとは廊下をひらすらに走った。

外に出るともう完全に日がのぼっていて、眩しさに目を細める。運動不足の体はすぐに息が切れた。吐く息が白く染まり、空気にとけていった。頬が冷たくて、反射的に指先でふれて自分で驚いてしまう。私は泣いていた。理由はわからない。だけど胸に浮かんだのは誰にたいしてかわからない怒りで、手のなかにある刀を強く握りしめた。