「敵?」
近くに置いていた白衣を手に取り袖を通す。とりあえず浮かんだ疑問を胸に小声で問い掛ければ、こんのすけはちいさく唸りながら頭を横に振った。
「敵襲ではないようですが、原因はわかりません」
「そっか。たしかに敵の気配はしないね。とりあえず皆が無事か確かめよう」
なんとなくひそひそと話しながら廊下に出る。外のようすも普段とは違っていて、風の音がしない。ついでに生き物の気配がなく、振っていた雪もやんでいた。空はくもっていて、山と空の境界が赤くなっている。たった今、夕日がしずんでしまったあとのような風景だった。
「こんのすけ、やっぱり変だよ。さっき時間を確認したら、十二時くらいだったのに」
「設定は変えていませんよね」
「うん。なにも」
とりあえずいちばん部屋から近い厨をのぞいてみたが、なかは無人だった。奥に進むと、まな板の上に包丁が放置されている。こんのすけは台に飛び乗り匂いをかいだ。妙な胸騒ぎを覚える。部屋にはさっきまで人がいたような空気があった。ふと腰に手をあてるがいつもの感触がなくてはっとする。
「どうしよう」
「どうされました」
「刀、部屋に忘れてきちゃった……」
狐は全身にさっと視線をめぐらすと、「あ」とひとこと呟いて体をこわばらせた。
「執務室にもどろう」
廊下に出るとさっきよりも闇が濃くなっていて、もう夜の暗さだ。真っ暗といってもよかった。普段はついている庭の灯篭のあかりが今日は消えていて、忍び足になる。はやく部屋につかないと、と焦りが浮かんだ。
足首に何かがあたり下を向くとこんのすけがいた。いつのまにか前を歩いていて、気づかずに蹴ってしまったらしい。
「ごめん、しっぽ踏んだかも」
狐はこたえなかった。両足でふんばって、廊下の先を見つめている。全身の毛が逆立って、いつもの二倍くらいの大きさになっていた。
「主さま、いそぎましょう」
返事のかわりに狐をかかえた。こんのすけは顔をだしてあたりを警戒している。音をたてないよう慎重に走った。廊下は長くて、なかなか元の部屋にたどりつかない。廊下を全力でかけていると、曲がり角から人影があらわれた。男は迷うことなく刀を握る。よけながら反射的に腕で頭を守る。風が横を通り、首の後ろに衝撃がきた。
視界が狭くなっていく。突っ張った小さな四つの脚が床の上で跳ね回っているのがみえた。狐は男の足にかみついている。
「こんのすけ……」
呟いた瞬間におとずれた二回目の打撃で、意識が完全に落ちた。
頭が痛い。心臓が血液を送り出すリズムに合わせて稲妻のような痛みが駆け抜ける。うめきながら身を捩ると額がざりざりとして、手首が軋んだ。力を入れてもびくともせず、拘束されていると知る。意識がだんだんとはっきりとして、目の焦点があってくると、まず視界にはいったのは畳だった。世界が横になっていて、どうやら畳に転がされているらしい。芋虫みたいに体を捩ると、「おきたぞ」という声が聞こえた。真横に人の気配がすると思ったら頬を軽く叩かれ目をあけると、へし切長谷部が覗き込んでいた。
「意識が戻ったか。喋ることはできるか?」
しばられているから体が思うように起こせず苦労していると、男が支えてくれる。畳に座りながらぼんやりと室内を眺めた。部屋の四隅に赤い蝋燭が灯されているだけで、室内は暗い。何人かの人影が奥にいる。男が集まっていて、中心にあるなにかに体をむけていた。よくみるとそれは丸い器で、意味がわからなくて困惑する。あらためて自分の体を確認すると手首と足首が赤い縄で拘束されていた。頭がうまくまわらないまま、隣の男と目をあわせる。
「縛られるより、縛るほうが好きだったの?」
こんな状態でも皮肉は伝わったみたいで、長谷部は額に青筋を浮かべながら、鞘に収まったままの刀をにぎりしめる。ぶたれるかと思い反射的に体を丸めたが予想した衝撃は襲ってこなかった。白い手袋に包まれた男の手が髪の毛をつまむ。へし切長谷部は指で髪を慎重に摘み一本だけ引き抜いた。びっくりして体が跳ねてしまうがそれにはお構いなしに男は立ちあがると、部屋の中心へと足を進めた。
「意志の疎通は問題なくできるようだ。意識もだいぶしっかりとしている」
男は奥にいる人物に向かって淡々と説明する。顔をわずかに傾けて話を聞いていた、また別の男士と目が合い、恐怖で体がすくんだ。金色の瞳がまっすぐに射抜く。
「これからどうなるのかはお前次第だ。俺はお前のことが知りたい」
「私も同意です。何もここにいる全員が、人を憎んでいるわけではない」
小狐丸がそう言った。横にいる三日月がおだやかにうなずく。
「いまの我らには感情がある。この心というものがどうにも難しくてな。頭でいくら宥めようとしても、いうことを聞いてくれんのだ」
「まどろっこしい! だらだら、だらだらと。これだから平安刀は嫌いなんだ。いいか。今から貴様の過去を見せてもらう。自身の本丸で、どんなふうに刀と向き合ってきたのかを。嘘偽りなくな」
三日月の話を打ち切るようにして長谷部が言った。握り込まれた手を見せつけるように掲げる。
「待って! ここには他の審神者が派遣されるから、だから」
「はっ、関係ないね」
鋭い眼光で睨みつけ、男は手のひらを地面に向けたあと、ゆっくりとひらいた。さきほど抜かれた、何本かの髪の毛が垂直に落下していく。畳の上には丸を半分に切ったようなかたちの器が乗せられていた。なかは水で満たされている。あめんぼみたいに浮いた髪の毛は、みるみるうちにとけていった。完全になくなるのと同時に、水の中に映像が浮かぶ。
桜の花びらが舞うなか、廊下をひとりの女が歩いている。何冊か本を抱えていて、うつむき加減で表情はよめない。黙って滑るように歩く姿は、とても元気があるとはいえない。
「いまと随分姿が違うな」
水盆を覗き込んでいた男士がぼそりと呟く。こたえるように水面が波うった。栗色の髪が風にゆれて、追いかけるように現れた男士が挨拶をする。このあとの展開は分かり切っているので顔を顰めた。なかの女は冷たく無視をした。まるでそこらの石ころみたいに。部屋の空気がつめたくなる。
映像はさらに進む。今度は手入れ部屋だった。傷を負った刀が呻いている。腹が裂けて中身が溢れているほど重傷を負っている青年を前にして、女はわずかに体をかたくさせたが、それだけだった。足元にいたこんのすけに指示を出す。
――これ以上は札をつかって
――道具を使えば早く癒えますが、手入れのほうがより肉体が深く癒されますよ
――そういうのいいから
煩わしそうに女が頭を振った。敷居の向こうで聞いていた男士にも伝わったのかわずかに顔を歪めている。女は引き出しにある札を確認すると、無造作に刀に貼り付け、男のようすには目もくれず室内を出ていった。
「なるほどな」
部屋の誰かが口にした言葉には少なからず落胆の色があった。汗が出てきて止まらない。これ以上見たくない。それなのに映像は止まらない。
皆が集まる大広間に主の姿はない。空いた席に視線をやり、刀たちはひっそりとため息をつく。上座に置かれたままの食事は冷え切っている。まいど律儀に出されては、刀たちが無表情に回収していく。昔はいろんなことがあって、冷たい態度をとっていたが、客観的にみるとひどいものだった。それはさておき、あらためてこの状況はまずいと頭の片隅で思い、助けをもとめて周囲を見まわすと、こたえるように鈴の音が響いた。空中からこんのすけが躍り出てくる。彼は畳を踏みしめるように着地すると動物のような鳴声をあげた。
「これ以上は見過ごせません! 主さまをはなしてください。政府に報告をしますよ!」
横にいた男が音もなく立ちあがる。さすが刀剣男士といったところか、衣擦れのおともしなかった。
「こんのすけ、逃げて! 助けをよんで」
長谷部の行動は早かった。一気に踏み込んで部屋の奥に向かうと、目で追えない動きで手を伸ばす。空中に逃げようとしたこんのすけは、あと一秒という所で間に合わず、片手で首をつかまれて、犬みたいに高い声をあげた。胴体が右に左に揺れていた。だが、だんだんと力がなくなり、男が手の力をゆるめると、ぞうきんのように落ちて、ぴくりとも動かなくなってしまう。
男が抜刀したのを見て、地面をけった。手が使えないからバランスがうまくとれず畳に転がってしまう。男と狐の間に体をすべりこませると長谷部は不思議そうに片方の眉をあげた。
「なにを必死になっている」
「管狐を切ったら、刀解だけじゃすまされないですよ」
男は表情ひとつ変えずに刀を構えなおす。
「もうどうでもいい」
刃の表面が光に反射して目に飛びこんで、体をかたくさせる。男が刀を振り下ろした瞬間、頬を何かがかすめていった。体をよじって刀をよけた狐が男の右腕を噛む。長谷部は舌打ちをすると腕をふって狐を落とそうとしたが、狐は煙とともに消えてしまった。長谷部は右手をおさえて動きをとめた。忌々しげに舌打ちをすると、いつのまにか小狐丸がきて、手元をのぞき込む。
「してやられましたね」
「くそっ。なんだこれは。腕がしびれて動かない」
手袋をはずすと牙のあとがくっきりついていた。小狐丸はそれを見ると大声で笑う。
「畜生だと舐めているからですよ」
まわりの目が長谷部に向いている。こんのすけはあのようすだと無事だろう。気づかれないように逃げようと廊下へ足を向けると、死角から細い腕が出てきて肩をおされた。
「おいおい、まだ終わりじゃないだろう。お前には特等席を用意しているんだ」
どこからかあらわれた鶴丸が肩をくむようにしながら部屋の中心へと連れて行こうとする。たいした抵抗もできず膝をつくと水の入った器があった。
「もうすこし過去をさかのぼってみましょう」
横で膝をついた小狐丸が歌うようにいい、人差し指をさしいれ水に触れると、スープをかきまわすように動かした。暗い色の水がぐるぐるとまわり、だんだんと遠くから季節外れの蝉の声が聞こえてくる。
「やめて」
それ以上は見たくない。喉が渇いてひりひりする。
「おい、どうした」
上体が倒れないよう横で支えていた鶴丸国永が耳元でたずねる。声に困惑が含まれていた。だが答えることができない。喉奥でつまって声がでない。しゃべろうとすると、隙間風のような音が喉からもれた。
蝉の鳴き声が過去を呼んで、赤い液体が滲んでくる。それはやがてつま先にとどき、後ろのほうへと流れていった。場面が切り替わり、手入れ部屋がうつる。そこには重症の男士がいた。さっきとはうって変わって、女は泣きそうな顔でなにか叫んでいる。みっともなく取り乱して、手元はおぼつかない。震えて道具をいくつか床に落としていた。布団に寝かされた男士の目から光が消えていく。
あぁ、とため息のような声をもらした三日月が、口元を押さえる。
「よりによって、最初の刀を」
両手で耳をふさぐ。壊したくなかった。ずっと一緒にいたかったのに。
なにも見なくない。聞きたくない。これ以上、心の中に踏み込んでこないで。
息がうまく吸えなくてくるしい。意識が遠のいたとき、なんのまえぶれもなく、空中に、消えたはずのこんのすけが現れた。口に刀をくわえている。あんなちいさな体のどこにそんな力があるのかと唖然としていると、狐は遠心力にまかせるようにして、それを放り投げた。
「主さま!」
とっさに身をよじって避けようとしたけれど間に合わなかった。左肩に勢いよくぶつかって痛みに目をつぶる。手がしばられているから受け取れなかった。刀が床に落ちた音がしないことに気がついて、ゆっくりと目をあけると、庇うように前を陣取っている男がいた。