「なぁ、面白いぜ」
「いい。さっきので充分わかった」
半月をえがくように抜刀した三日月の瞳が光る。鶴丸は笑ったまま動かない。広くて暗い和室の向こうにもいくつか人の影があって、全員こちらを向いていた。何人いるかはわからない。あきらかにこちらには勝ち目がなくて、それを知ってか、刀を持っていないまま体を向けているだけの者がほとんどだった。
前に立っていた和泉守が半歩後退した。もっと壁によれという意味だと理解し、隅の一角に身を寄せ、壁に背をつける。緊張と不安で気持ちが悪く、立っているのがやっとだった。足元にいるこんのすけが袴をひっぱるのでしゃがむと、鼻先を近づけてちいさな声で呟く。
「彼をおとりにして、逃げてください」
「でも」
「それしか、生き残る方法はありません」
無事に逃がしてもらえるとは到底思えないし、この場に残された男はおそらく折れるだろう。決断ができないまま、目の前の背中を見つめると、周囲から失笑がもれた。次々と抜刀していく男士の手元から銀色の光がこぼれ落ちる。
「勝った気になるなよ。戦場にも行っていない、まともな手入れも受けていない、鈍った刀にオレが斬れるのか?」
「和泉守!」
頼むから挑発しないでほしいという意味をこめて名前を呼ぶ。たった一人に対して相手は十名以上で、勝ち目はないことは明白だった。小狐丸にいたっては興味を無くし、膝をついて盆のなかの水をいまだ見つめていた。こんのすけに促されるまま廊下にほんのすこしだけ足を向ける。それが皮切りになってしまったらしく、風が鳴るような音がして、刀がふりおろされた。和泉守は横からすり抜けようとした者を棟ではじき蹴り飛ばす。廊下へ行くにも距離があって、なんとか出ようとしたところに、どこからか刀が飛んできて畳に突き刺さった。
「無理。進めない」
「隙を見て走りましょう」
結局元いた場所からたいして逃げられず、邪魔にならないよう、壁にそうようにしゃがみこんだ。数メートル離れたところでは和泉守が戦っていた。なんとか持ちこたえているけれど時間が経つほど不利になる。死角からきた刃が男の腹を裂いて服に血がにじんだ。男士たちは久しぶりの戦いに高揚した顔をしている。
「お、面白くなってきた」
場違いなほどに呑気な声が響いて、皆の手が止まった。声の主は鶴丸で、彼はもう戦う意思がないのか胡坐をかいている。映像をうつす水の存在を思い出す。
――物事には優先順位がある
――そうですね。刀解しましょう
政府の担当の声が響き、へし切長谷部が眉を寄せた。刀解という言葉に興味を持ったのか、一部の者が刀をおろした。
「主さま! いまです、逃げましょう!!」
こんのすけが訴えかけてくるが、足が動かない。一度経験したから先を知っているのに、まわりと同じように水をながめる。離れていて映像そのものは見えないけれど、瞼のうらに当時のことが浮かんでくるようだった。重症を負った刀が倒れている。畳に散らばった長い髪は、ちょうど目の前で戦っている刀とおなじものだ。
――そんな、珍しくもない刀、いらない
刀を振り回す和泉守の手が止まった。横顔が月の光に照らされる。瞳が限界まで大きくひらかれる。
一部始終を眺めていた三日月が、勝ち誇ったように口の端を吊りあげる。
乱闘のさなか障子が壊れたのか、外の景色が見えた。空に月がのぼっている。銀の筋が男の腹を横に切り裂いた。
悲鳴が部屋に反響する。肩から横腹まで切られた和泉守は崩れ落ちそうになりながら振り返った。その隙に背中へいくつか攻撃を受ける。もう駄目だと判断したのかこんのすけが視界をふさぐように躍り出てきた。視界が暗くなり、何も見えなくなった。前から物があたる感触がして、背中が壁に押しつけられる。誰かに体を抑え込まれていた。状況がよくわからなくて、パニックになり手足をばたつかせると、耳元で低い声が響いた。
「このままじっとしてろ」
「あ、和泉守……?」
「こんのすけ、政府へ助けをよんでこい。あいつら油断してる。だがこっちも、もって数分だ」
「わかりました」
こんのすけが消えたことを確かめると、和泉守は貝のように体を丸める。守るみたいに抱きしめたまま動かなくなった。後ろは壁で、男の心臓の鼓動が聞こえる。まわりの男士たちは動きをとめて観察しているようだった。
「ごめんなさい。違うの。そんなんじゃない。お願いはなして、すぐ刀に戻って」
口からでてくるのは支離滅裂な単語で、襟元を掴んで頼み込んでも、腕に力を込めるだけで男はいうことを聞いてくれない。しまいには髪に顔を押し付けるようにして耐えるようにかたくなる。後ろを斬られているのが振動で伝わってくる。助けがくるまでこうするつもりなのだと気が付いて、なんとか拘束から逃げ出そうとするがびくともしない。ぼろぼろでも相手は男士だった。そうしているうちに首元にあたたかい液体がつたう。つんと鼻を刺激する鉄の匂い。
「中途半端はつらいだろう。いま楽にしてやるからな」
どこからか聞こえてきた声に、和泉守は目を細くすると腕に力をこめた。抵抗するように体をよじると舌打ちをされる。もがいたすきに自由になった両手を無我夢中で男の首元にまわした。まったく意味なんてないのに、首の後ろをおおう。
数秒後、外からの衝撃で男の体がゆれ、さっきとは比べものにならない量の血がふってきた。見ると相手の腹から刀の切っ先が飛び出ていて、じゅっという湿った音たてて抜かれる。信じられないくらいの血が流れて、気が狂いそうになる。たえられないとばかりに、おおいかぶさる男の力が抜けた。雑巾のようにずり落ちる、血まみれの体を受け止めながら必死に名前を叫んだ。
「どうして」
手の中でどんどんと冷たくなっていく体を抱きしめながら呟く。さっきまで刀を振るい守ってくれた。でも今はうそみたいにぐったりとして動かない。
「どうして、こんなことに」
部屋は恐ろしいほどの沈黙で満たされている。すっかり戦意がなくなった男たちは見守っているようにも感じられた。向けられるまなざしには哀れみと、少しの善望が含まれている。
これは悪い夢かもしれない。だって、私が彼を連れてきたのは、約束してくれたからだ。いざとなった私を置いて政府に報告すると。ひとりでなんて勝てっこないから。体力があり、足の早い男に助けを呼ぶ伝達係をしてもらう手筈だったのに。
彼ならそれをやってくれると思った。現にここへくる前に話し合って、たしかに了承してくれた。神様は嘘をつかない。でも、流れる血が止まらなくて、それだけが現実だった。
近くに跪いた男士が和泉守の首元に手を伸ばすのが目にはいる。
「さわらないで!」
「くそっ」
とっさに叩こうとした腕をつかまれ、体を抱えられる。ちょっとした浮遊感と同時に、腕からはなれた和泉守の体が畳にうつぶせにたおれた。そのままどこかに連れていかれそうになるので、視界に入った髪をめちゃくちゃにひっぱる。見えている部分に噛みついても罵声を浴びせても微動だにしない。横向きに抱えられたまま廊下へと飛び出し、いままでいた部屋がみるみると遠くなる。気が付くと、相手の片手には和泉守の本体が握られていた。
「それに触るな! 触ったら殺す!」
「じゃあお前が持っていろ!」
怒鳴るような声に、走っている男がへし切長谷部だと知った。男は舌打ちをすると投げるようにして本体を渡してくる。抗議の声をあげようとしたが、刀に目を奪われ口をつぐんだ。一応鞘に入っているが、いままでみたことがないくらいに破損していて、抜いたそばから崩れおちてしまいそうだった。
「はなして! 早く手入れしないと」
引きちぎる勢いで耳を掴んで手に力を込めると、長谷部が大声をあげた。
「だから! いま手入れ部屋へと運んでやっているんだ! あいつらに追いつかれるまえにたどり着かないと、間に合わなくなる」
指先から力がぬける。言葉だけを受け取れば彼は助けようとしているらしい。抵抗をやめて肩に置いた手に力を込めれば、へし切長谷部はちらと目をあわせ、小さな声で「しっかりつかまっていろ」と呟いた。
廊下の角を何度か曲がると、いちばん奥が手入れ部屋だった。なかに飛び込んだ瞬間、異臭が鼻をつき思わず服の袖で口元をおおった。ねばついた空気が体にこびりついてくる。
「ここへは久しぶりにくる」
抱えていた男がおろしてくれた。迷いのない動きで棚から黒い箱を取り出し、畳の上に順番に置く。つるりとした蓋を持ちあげ中身を確認すると、畳にそめられた布を敷き、細々とした道具を使いやすいように並べてくれた。
廊下から慌ただしい足音が響いてきた。さっきから体がおかしい。魂が外に出てしまい、外側から眺めているような感覚だった。刀がふたたび折れそうになっているという現実を受け止めきれないだけだというのは、頭の片隅でわかっていた。
気を抜くとすぐに呼吸が浅くなる。本体を持ちなおすと、慎重に刀を鞘から抜いた。気を利かせた男が障子をしめて、どこからか持ち出したのか札を梁に張り付けた。
外では雪が降り始めていて、空気は体をさすみたいに冷たい。光がないほど暗かったのに、いまは月明かりがやさしい。体が冷たくなるにつれて、だんだんと頭まで冷静になってきた。金具を取り外す音がやけに大きく響く。ひとつひとつはずしていく。札を貼ったことにより結果が作られたのか、外の物音がしない。
しらないうちに、畳に直接眠っていたようで、体の半分が痛い。
――刀は。
頭に浮かんだ単語にはっとしてあたりを見渡す。が、それらしいものはなかった。
腕をついて上体を起こすと、部屋の真ん中に衝立がしてあった。のろのろとした動きで近づき、声もかけずに回り込むと、布団が一組敷かれていて、そこに和泉守が寝ていた。近くには本体が置かれている。手入れをしたところまでは覚えているが、その先があいまいだった。
ずるずると這いずるようにして限界まで近くに寄り、まじまじと寝顔を見つめる。一見、死んでいるみたいに顔が白いけれど、たしかに生きていた。
助かったのか。実感すると安堵が胸に込みあげて、畳に手をついて下を向いていると、布団がもぞもぞと動いた。男が起きたみたいだ。目が薄くあき、まず天井を眺め、瞳がゆらゆらと揺れる。確かめるみたいに刀のほうを向き、最後に視線があうと、意識がはっきりとしていくようすがみてとれた。
起きあがろうとするので背中を支える。まだ傷が完全にふさがっていないのか、痛そうに顔をしかめていた。男は何も言わない。部屋のすみに置かれた行燈が優しく室内を照らしている。
体は何ともないかと、尋ねようと口をひらいた――が、それは声にならなかった。
不思議に思って喉に手を持っていく。男の手が顔の横に向かう。とっさに殴られるのではと肩をすくめた。長い指先が躊躇するみたいにとまるが、左の頬にふれ、流れるみたいに耳のよこにいき、小さな風を感じた。
碧い瞳が見開かれる。よこをみると、男の指が、鳴らしたかたちであった。