歌仙と見習い

歌仙兼定は笑わない。とはいえ仏頂面というわけでは決してなく、むしろ逆で、つねに淡く微笑んでいる。彼のことをやさしい刀だと人の子は言うが、それは全くの間違いだと彼自身は思っていた。
庭に咲き誇る花に目を細め、口角をほんの少しあげる。――目で、耳で、からだで。風雅を感じることは、何よりの喜びだった。
春の風にまつ毛をふるわせながら歌仙は考える。この、心にあいた穴のようなものは何なのだろう。好奇心のまま、心の淵を外側から覗くも、底は暗く果てがない。
指定された中庭の片隅で、彼は審神者を待っていた。現在の持ち主は男だが、元の主とは似ても似つかない。虫も殺せない、心優しい男だった。いるだけでまわりの人の緊張をほぐしてしまえるような、そんな魅力を持っていた。なので彼のまわりにはいつも誰かがいる。まるで、日向を求めて近寄る猫のように。
白い玉砂利を踏むと清い音が鳴る。眼前には池が広がっていて、太った錦鯉が水底をなめるように泳いでいた。池の水は深い大地と空を混ぜたような濃い群青で、鯉が跳ねると波紋が広がりながら足元まで届いた。水面にうつった雲を眺めているうちに、ばたばたと忙しない足音が耳に届く。待ち人がやっと来たのだ。
「こら。足音をたてない」
「ごめんごめん。待った?」
朱色の太鼓橋を走ってきた審神者は、ほど近い場所まで辿り着くと、顔の前で手を合わせ、何度も謝った。ため息を吐きながら向き合う。彼は時間に大雑把なところがある。初期刀として見過ごせないと、これまで幾度となく悪癖をなおそうとしてきたが、努力は身を結んでいない。
「それで話とは」
審神者は手に持っていた紙を広げて見せてくれる。肩を寄せるようにして上から覗き込めば、見慣れない文字がおどった。
「研修制度?」
声に棘が混じってしまうのは致し方ないと思った。見習いとして本丸に新人が来る可能性がある、ということは、風の噂ですでに知っていた。だがこの本丸にはありえないだろうとたかを括っていた。戦績がすこぶる良いほうでもなく、悪いわけでもない。ランクをつけるとすれば上の下といったところだった。
白い紙を手にしたままかたまる歌仙に苦笑しつつ、審神者は言葉を続ける。
「俺が既婚者だからかな。若い女の子が送られてくるみたい」
「まさか。その調子だと、受けるのか」
「なーんか、拒否権ないみたいなんだよねぇ」
審神者の言葉には楽しむような響きさえ感じられ、歌仙は顔をこわばらせる。刀ならまだしも、部外者を本丸に受け入れることはできない。
「すっごく嫌そう」
「そりゃそうさ。今からでも辞めることはできないのかい」
「無理なんだな、これが」
審神者は池を眺めるようでいて、横目で歌仙を観察していた。どこか面白がっているような空気を感じ、歌仙は嫌な予感に身構える。
「お前、見た目は柔らかくて印象がいいからさ。教育係やってよ」
「御免だね」
他人の面倒などできないと思った。男ならまだしも、見習いは若い女だ。遠慮してしまうだろうから、満足に着付けだって出来やしない。初期刀でもあり部隊長でもある歌仙は近侍も兼任しているので、審神者が教えている傍、常に控えていることになる。よく知らない女と四六時中顔を合わせる日々を想像しただけで、心に雨雲がかかるようだった。
「もちろん審神者の仕事は俺が教えるから。無事に終わったら好きなものを褒美としてやるよ。この際、値のはるものでもいい」
「……本当に?」
わずかな迷いを感じ取った審神者は、じゃあそういうことでと手を打つ。はじけるような笑顔を浮かべている男を見て、深いため息をついた。
研修期間はきっちり半年間。短いようで、とほうもなく長い。

一週間後、見習いとしてきた女はいたって普通だった。広い玄関の壁際に飾られた豪華な花を見て女は目を丸くする。こいつが生けたんだよ、と審神者が肩を押すので、歌仙は顔を顰めたくなったが、初日で怖がらせてはいけないと思い笑みをつくる。女はすごいですね、と定型文を口にした。まるでセリフみたいに耳に届く。声に表情があまりでない娘だと思った。
執務室まで談笑しながら歩く主と女の背中を眺める。暗い髪の毛が風にゆれている。庭に目を向けると桜はほとんど散りかけていて、花びらが雨のように舞っていた。歌仙は、桜は散る間際が一番好きだった。せいぜい一週間程度、世界に春を届けたあと、ある日をさかいに、名残惜しげもなく散ってしまう。その潔さが好ましい。もし自分が戦場で散るときがきたら、桜のようにありたいと思った。
「きれいですね」
審神者に説明されながら庭に目をやった女が言った。目を細めて「今の時期が一番好きです」と呟く。今自分が考えていたことと同じことを女が言ってのけたので、歌仙は少しだけ驚いた。
「そうそう。この庭さ。なんだっけ。枯山水様式ってやつなんだ」
少し褒められただけで調子に乗り出してあれこれ説明しだす審神者に、見習いの女は嫌がりもせずにうんうんと頷いた。二人の話が終わるまで一歩引いたところで静かに待っていると、廊下の先、部屋の影、至る所から視線を感じる。仲間たちのものだった。本丸に見習いの女が来ることは周知されていたが、女性がこの本丸にきたことは審神者の妻以外になかったので、どことなく空気がさざめいていた。見習い制度について説明した際の仲間の反応はまちまちで、興味を持ち、喜んでいる者もいれば、歌仙ほどではないにしろよく思わない者もいた。
足音が再開されたので顔を前に向ける。この短時間で審神者は女の笑顔を引き出すことに成功したようで、優しい声が空気をふるわせる。少し低くて、やさしい声だった。

初日は本丸の説明と、仲間との顔合わせだけで一日が終わった。翌日から本格的な研究が始まったが、一週間が経つ頃には歌仙はまいってしまっていた。歌仙が教えることといえば本当に基本的な所作や教養についてで、それらは生まれによって癖があるものだし一日で身に付くものではないから、花を育てるように、ゆっくりじっくりと取り組む必要があった。
その日は午前中に戦場へ行き、午後から近侍の仕事を行いながら、手入れ部屋で刀の説明をした。蔵にあった魂の宿っていない刀を持って来て鞘から抜き、分解する。
「まず基本から教える。これが刀身というんだ。ここからここまでが茎。恥が茎尻。この小さな丸が目釘の穴だ。これは普段見えないけれどとても大切な部位だから、よく覚えておくように」
柄のない丸裸にされた刀を見下ろしながら歌仙は淡々と説明していく。指をさしながら、これが自分だったら嫌だなと思った。体のすみずみまで暴かれて観察される。持ち主にならいくらやられても構わないけれど、と心の中で付け足した。
「ちなみに、覚えることは刀の部位だけはないよ。刀身は作者や年代、地域によっても形状が少しずつ違うんだ。ゆくゆくはそれも分かるといいね」
畳に膝をつきながら、女は紙にメモをとっていく。はい、はいと答える声がどこか切羽詰まっていて、情報の洪水に混乱しているのだと伝わった。一言も漏らさないよう、懸命に学ぼうとする姿勢は評価できる。全てを説明し終わると沈黙がおとずれ、これだ――と歌仙は思った。この瞬間が嫌だった。何か気の利いた雑談をしないといけないという気になってくる。主なら、自然な雰囲気で話をするだろうし、そうしている姿をなんども見てきた。メモを取り終わった女もひとここちついたのか息をついて両手を膝に置いている。そのまま目を合わせてきたあたりで、気まずさが上限に達した。
「あー、貴殿は、どうして審神者になろうと思ったんだ」
あまり知らない相手に投げかける質問としては妥当なのではないか。やっと絞り出した言葉も「政府に引き抜きされました」と、実にそっけないものでおわる。
またもや沈黙が訪れてしまった。
それからはあまり覚えていない。どこか相手からの会話を待っているような女の態度に苛つきつつ、なんとか話題を投げかけた。居心地の悪い空気が流れるのがとにかく嫌で、とはいえ相手にこれといって興味もなく、仕方がないので自分のことばかり話してしまった。言葉がすべり、どこか空まわっている気がするが、歌仙は必死だった。
時間を置いてから後悔が襲ってくる。自分は変ではなかっただろうか。退屈してはいないだろうか。嫌な思いをしていたりは。思い返しても浮かんでくるのは女の真面目な瞳で、感情が滲まないので本当はどう思っていたのか、よく分からなかった。
変に気をはって緊張しつづけているので、夕方、指導が終わり自室に戻るとぐったりして、何もやる気が起きない。座布団に腰をおろして机に肘をつく。だらけた態度も今は許して欲しい。
自分には教育係など向いていないのだとつくづく思う。あらかじめつくっておいた、半年先までの計画表を取り出し、何度目か分からないため息をついた。のろのろとした動きでペンを取りだし、今日の日付の下にチェックを入れた。まだ半分も埋まっていない。かるい絶望が胸を満たした。

ある日の雑談から、研修は本人から辞退できると知り、歌仙は遠慮を捨て本気で指導することにした。嫌ならやめてしまえばいい。むしろ、その方が好都合とさえ思った。
憎いのでは決してない。よく知りもしない相手にそこまでの感情は抱かない。この胸から湧きあがるものにもっともらしい名前をつけるとしたら、それは憐憫だった。
娘はまだ若く、このさきに限りない可能性と自由が広がっている。段々と観察する余裕が出てくるうちに、歌仙はこの子は審神者になるべきではないと感じた。そもそも女に刀を握らせるなんてと苦い気持ちも湧いてくる。
娘はとりわけ飲み込みが早いわけではなかったが、学んだことは忘れないように、また歌仙に同じことを言わせないようひたむきに努力していた。たまたま部屋を通り掛かったときに障子が少しあいていて、あれだけ言ったのにと呆れながら注意しようと伸ばした手がとまった。女は畳に座り何かつぶやいている。散らばった黒い塊が光に反射して、歌仙は目を細めた。
それは魂のない刀で、女はメモを見ながら指をさし必死にぶつぶつと呟いていた。
「これは巾木。こっちがめぐき」
耳に届いた単語に驚いて耳をすませる。よほど集中しているのか、相手は歌仙に気づくことが無かった。念仏のような呟きは止まらない。細い腰や流れる髪の毛を眺めていると、胸に不思議な感覚が湧いてきた。
歌仙は表情をあまり変えないまま、そっと障子をしめて廊下へと戻っていく。来る時よりも足取りが軽かったが、とうの本人は気づかない。

それからも歌仙の指導はつつがなく行われた。だが彼の女を見るまなざしは格段に良くなった。それは先日の練習している姿を知ったからだ。女としての幸せを追ったほうがいいという考えは変わらないが、同時に情も湧いてきて、それに比例して教育は厳しくなっていった。彼女が本気でこの世界に足を踏み入れるなら、こちらも全力で鍛えないといけない。そうしないとすぐに闇へと飲まれてしまう。この世界は辛くて厳しい。死を間近で見続けることになるし、昨日まで笑いあっていた仲間が翌朝にはいないということも、悲しいことだが、たしかにある。
持ち主が心を病み、それに伴い道を踏み外した刀剣を彼は知っていた。そうなって欲しくない。いま辛い思いをしておいたほうが、いざ自分の本丸を持ったときに楽になる。スポンジのように吸収できる柔軟な時期に、血で濡れた僕らの世界を知っておいた方がいい。
そんな思いがあって、刀の特性についての覚えが悪い見習いに対して自然と声が鋭くなった。季節はいつのまにか梅雨に入り、外では雨が降っていた。
本丸に慣れてきたのか、緊張しっぱなしだったころとは少し力も抜けてきた彼女の目に、一瞬だけ反抗的な色が滲んだ。どうしてそれほどまでに言われないといけない、とそれは語っている。
「その目はなんだ」
口から出た言葉には自分でも驚くほどに温度が感じられず、低くて恐ろしいものだった。女ははっとしてすぐに謝った。
気がつくと彼女の手元に用紙がない。最初の頃はメモを取っていたのに、怠慢が透けて見え歌仙は落胆した。指先が冷たい。雨が途切れなく地面を打っている。
「もういいよ。やる気がない者に教えるほど、僕は暇じゃないから」
「待ってください!」
女はショックで声が震えている。目を合わさずに立ち上がり歌仙は部屋をあとにする。廊下に出てから、自室を使っていたので、自分が退出しては行くあてが無いと気が付いた。だがまぁいいかと思い直し、雨の降りしきる庭を横目に奥へと進む。意図せず辿り着いたのは執務室で、当然のように主がいた。歌仙の顔を見て審神者はニヤリと笑う。この人には叶わないな、と思いながら室内に入った。
「すまない主。僕には向いていないみたいだ」
「そうだと思った。でもね、だから頼んだんだよ」
意味がよく分からずに聞き返すが、主は頬杖をつきながら庭を眺めていた。
どういう意味だと重ねて尋ねることは簡単だったけれど、主は黙ったままだから、歌仙から口をひらくことはしなかった。二人で雨に濡れる庭を眺める。今ごろ、見習いの子はどうしているだろうか。時間を置くと、たしかに言いすぎだったような気もしてくる。一度話した方がいい。重い腰をあげる。
「頑張れ」
ため息をつく歌仙に、口角をあげながら主がいう。曖昧に頷き廊下へとでた。

まず自室へと戻ってみたが、女の姿はなかった。どこかほっとする自分がいたが、重い足を廊下に向ける。探し人は意外な場所にいた。短刀たちの部屋だ。障子があいており中から話し声が聞こえる。声をかけようとしたが、自分の名前が出てきたので、障子にかけたままの手が止まった。
「歌仙は、あぁ見えて冷たいところがあるので。よく言うでしょう。芸術を好むものは、へそ曲がりが多いと!」
きんきんと叫んでいるのは鳴き狐のお供だ。歌仙は眉を寄せた。と、同時に本質を見抜いていたのだと感心していた。
昔から気になっていたことがあるのだ。歌仙は昔から感情の起伏があまりなかった。もちろん美しいものを愛でる心は持っている。雪どけのあいまに顔を出す花。水彩画のようににじむ空。感動に震えるのは自然に触れたときが断然多かった。
とりわけ分からないのは、恋や愛についてだった。そして心そのもの。歌は人がつくるものなのでとりわけそれらを題材にすることが多かった。だが考えれば考えるほど形が掴めない。いっそ紛い物のように思えてしまう。
見た目だけで判断し、人は歌仙のことを、やさしく穏やかな刀だという。だけどそれは真実じゃない。とりわけ自身は文系を名乗っているのに人の心がわからない劣等感で、殻をつくるように笑顔で武装して過ごしていた。本当の自分はどこか欠けていて、それを他人に知られたくなんてなかった。
そのような理由から一人でいることが多い。苦痛というほどではないが、他人と共に過ごしていると必要以上に気をつかって疲れる。気遣いが空回りして、あとで後悔することなど日常茶飯事だった。あのときの言葉で傷ついていないだろうか、適切だったろうかと、なめくじのようにぐじぐしと悩み夜がふけていく。そんなとき、なぜうまく立ち回れないのかと恥ずかしくなる。
「本心がみえないんだよな。いっつも笑ってるし。隠してるっていうか。何を恰好つけてるんだか」
日頃思っていたことをつぎつぎと口にする彼らの言葉を耳にして、眩暈がした。彼らはちゃんと気づいていた。隠せていると思っていたのは自分だけだった。
「一兄にしたらどうかな。教育係だったら、歌仙さんよりずっといいよ」
女子の風貌をした短刀が邪気なく告げた一言に、自分でも驚くほど狼狽した。室内が期待と緊張で静まり返る。女は身じろぎし、迷っているようなそぶりをみせた。
それ以上は聞いていたくなくて、歌仙はそっと踵をかえした。

「歌仙くん、絶好調だね」
「まあね」
片手をふるたびに肉をたつ感触が伝わる。刃が食い込んだ瞬間に勝敗がわかってしまうから、倒れ込む相手の挙動は追わない。健が浮き出るほどの力で刀を握り振りかぶれば、数秒後、敵の首が放物線を描いて飛んでいく。
無表情に敵を薙ぎ倒していく男を見て、光忠は目を丸くしていた。
怒りは力に変えることができると、歌仙兼定は実感した。引き出された攻撃性。その鮮やかさに目がくらくらとした。先日の会話を思い出すと気持ちがいいくらいに刀が肉に入り込んでいく。体が軽くて、気持ちが良かった。
何度めかの首を飛ばしたあとに唐突に理解する。僕は正真正銘、刀だ。

油断を全くしていなかったといえば嘘になる。難易度の低い場所だったし、敵も強くはなかった。敵の短刀が捨て身でぶつかってきたのを拳で払い除けた瞬間、上から影が落ちる。顔をあげれば大剣を振りかざした大太刀がいた。全身の毛が逆立つ。仲間の悲鳴。反射的に受け止めたけど、競り合いで負けてしまった。腹部に流星のような太刀傷が生まれ、体が燃えたかと思うほどに熱くなる。
すぐに目が見えなくなり、暗闇のなかで痛みの波にのたうちまわる。床をかく爪は黒く剥がれて、いたるところから血が噴き出た。折れたほうが楽だとすら感じ始めたころ、痙攣し硬直した背中に手のひらがあてられた。
その手はあたたかくて、触れてくれた瞬間から引き潮のように痛みが薄くなる。目が見えないので姿は確認できない。だけど、それが誰なのか、直感でわかった。
体のすみずみに触れる癒しの手。背中を這いまわっていたそれが腹の大穴に向かったところで力を抜いた。傷がふさがる感覚がした。さっきより楽に呼吸ができる。薄く目をあけると、離れたところに女の後ろ姿が浮かんでいた。
まとめられた黒髪が手を動かすのに連動してゆれている。背中が伸びていて花のようだった。白い手が血で濡れた刀を布で拭う。指先が黒く汚れてしまったのを目にして、申し訳ない気持ちが心にわいた。
意識が混濁しているから気を抜くと夢を見てしまう。高い場所から落ちる水音が闇に反響している。その前には炎がゆらいでいた。焼き尽くすような炎ではなくて、柔らかく包み込む火の光だった。痛みと苦痛に焦がされる肉体は人の手によって癒されて鎮められる。それは圧倒的な快感だった。
作業が終わった女はすぐに別の刀にとりかかる。そっちは軽症のようだった。軽口をたたく男に笑いながら鞘から刀身を抜く。ちらと見えた横顔には疲れが滲んでいた。
「きみ」
口の中だけで呼べば、女は振り向いて目を大きくさせた。黒い瞳の中に己が映っている。重傷寸前までいったのか服はボロボロで、必死な形相でぎらついた目をしていた。風流とは程遠い姿にしばし絶望しながら目を閉じる。一人ぼっちの闇の中へと戻っていった。

額に冷たい感触がして反射的に瞼を震わせる。大雑把に前髪を流したあと額に濡れた布がべしゃりとのせられた。もう少し丁寧にできないのか。少々苛立ちを覚えながら歌仙は意識を浮上させた。
「お、起きたか」
布団の横で胡座をかいていたのは主だった。顔に落胆が表れていたのか、彼は笑いながら肩を叩く。まだ完全に癒えていない傷に響いたので顔を顰めた。持っていたタオルを桶に投げ入れながら主は口を開いた。
「お前の手入れ、あの子がやってくれたんだよ」
「……知ってる」
「完璧だったろ」
寝ている間に汗をかいていたのか背中の表面が濡れていた。襟元を少しゆるめながら風を送る。楽しげな雰囲気に辟易としながらも頷き、放置された桶に手を伸ばすと、男はいいことを思いついたとばかりに顔をあげた。
「おっさんに体拭かれるより、女の子にやってもらったほうが嬉しいだろ」
「え、いや。そんなことは。待ってくれ主!」
よいしょと腰を上げると、男は障子をあけて外に向かって呼びかける。廊下にあった影が動いた。そんなところにいたのか。息を呑んで見守っていると、俯いた女が入室してきて、そのまま主の隣に正座した。
「僕はいい! もう少ししたら自分で湯あみに行くから」
「まぁまぁこれも勉強だから。協力してよ。――大太刀だと何十時間も寝込むから軽く拭くんだよ。病院と同じでさ、末端から拭いてって。患者だったら色々気にしないといけないけど、相手は男士だし別に難しく考えなくていいからね」
「はい」
かたい声で女がこたえる。主はまじめなようすで手順を教えている。これも指導の一環なのか。だとしても別の者のほうがいい。混乱のあまりかたまっていた歌仙が口をあけたタイミングで、主はたちあがる。
「申し訳ないけどあとよろしくね。報告書まとめないといけないから」
「分かりました。後ほどお手伝いにいきます」
いいよいいよ、と手をひらひらとさせながら障子に手をかける。そういえば、と振り向いた。
「手入れ、良かったって。あれだけ練習したかいがあったね」
空気がこもっているからと、障子を少しだけあけたまま主は消えてしまった。痛いくらいの沈黙が落ちる。女は畳に視線を落とし、太もものうえに乗せられた指を隠すようにしながら、難しい顔をしている。辛そうな横顔だった。見ているこっちが哀れに思ってしまうくらいに。
「そこまでやらなくていい。それを貸してくれないか」
長いこと眠っていたので声が掠れていた。ここへきてやっと女は目を合わせてくれる。黒い瞳の下に隈があった。心が妙に軋んでしまう。
「主にはきちんとやってくれたと、口をあわせておくから」
「嫌です。やらせてください」
強く言われて驚いてしまった。責任感の強い女だ。
「いや。こんなことやらなくていいんだよ」
「私は研修に来ているので、審神者様の指示が最優先です」
かたく絞ったタオルからぼたぼたと水が垂れていく。本当にやる気だろうかと歌仙はおそるおそる伺い見るが、意志の強い目でねめつけられ、仕方なく腹の帯を緩める。腕を抜くとき痛みが走ったので顔を歪めていると、いつのまにか背中側にまわった女が手伝ってくれた。
次にどうしたらいいのか分からないのか、女は狼狽してとりあえず背中に手を伸ばす。歌仙は苦笑いを浮かべて声をかけた。
「最初は腕からやるんだ。背後から急に触れると驚いてしまうからね。作業する前に声をかけて」
肩を跳ねさせた女が前に座る。消え入りそうな声で謝罪の言葉を口にした。
「謝らなくていい。最初は皆、分からないことだらけなのだから」
「ありがとうございます。腕をお借りしても良いですか」
黙って腕を差し出すと、女はそっと指先をつまむ。おそるおそる触れられるとくすぐったい。笑ってしまいそうになったけれど、ぐっと堪えた。
顔は必死の形相に近い。首筋には汗が浮いている。あれから結局話は出来なかった。触れている所から緊張が伝わってくる。必死に本心を隠しているようすが哀れで、それでいて意地らしく思えてしまう。
「うん、いいね」
嘘ではなかった。女はほっと息をつき背中にまわる。熱い布が皮膚をすべる。清い香りがする。それに、力を込められると視界がぐらつくほどに気持ちがいい。これは一体どういうことだと考え、すぐに彼女の霊力のせいだと悟った。
「私に素質はありますか」
心を読んだかのような質問に、歌仙はどきりとしたが、平静を装ってこうこたえた。
「目利きには自信があるんだ。君は骨董品ではないけれど。そうだね、いい審神者になると思うよ」
「やけに優しいですね。この前とは違う人みたい」
桶にタオルを広げながら女は呟く。お湯が熱すぎるのか指先が赤くなっていた。もう終いにしていいと言うと、今度は素直に頷いてくれた。
歌仙は必死に頭を働かせていた。用事の無くなった女は数分後には部屋を出ていってしまうだろう。なごりおしい気がして、そんな自分に驚きつつ横を向けば、女はちらちらと下のほうを見ていた。同じように視線を落とせば投げ出された腕がある。手のひらをわずかに動かせば、恥ずかしそうに視線をそらした。
「変なところでもあるのかな」
「い、いや。ただ……」
ただ、なんなのだろう。そこで言葉を切られると非常に気になる。じっと見つめて続けていると、堪忍したように女が顔をあげた。
「予想よりとても、がっしりしているなって」
「あぁ」
そんなことかと拍子抜けした。重症になってから目が覚めるまで風呂に入っていなかったので、臭いと言われたらどうしようかと内心でひやひやとしていた。見た目が女性的なのに体躯がいいと他人から何度か言われたことがある。歌仙自身も鏡を見るたびにどこかアンバランスだと思っていた。だけどこういう造形で作られたので仕方がないし、持ち主だった男の影響もあるのだろう。
女は未だに視線を落とし続ける。そんなに物珍しいのかと腕を布団から浮かせれば、女は小動物みたいにびくついた。浮きあがる血管に目がとまったのか黒い瞳が大きく開かれるのが面白くて、歌仙はつい「どうぞ」と口にした。
「いいんですか」
「あぁ。減るものでもないし」
細い指がまず手の甲にふれる。いったん腕を布団にねかせてから見聞するように上向きにかえすと、指先が中心にある健をなぞった。詰まった筋肉を確かめるように女の手のひらが腕を包む。
「凄い」
「そうかな」
「刀を握る人の手だ」
最後に人差し指にふれて動きがとまった。その指はいつも人を殺しているものだ、と伝えようかと思ったけれど、同時に花を愛でる指でもあると気がついて口を閉じる。
「すまなかった」
今がチャンスだと思った。歌仙は緊張でまた汗をかいてしまいそうになりながら、勇気を出して謝罪の言葉を口にした。顔をあげた女は小さく首をふる。
「いいんです。私も悪かったし」
無意識に握られた指に力がこもる。体に電流のようなものが走り、体をおおっていた怠さや苦しみは綺麗に消え去った。
歌仙は女に向きなおり、あらためて礼を言った。
手入れが完了したのだ。もう彼女は素人ではなかった。

仲直りをした翌日、見習いの女は歌仙のもとには居なかった。夕食を囲む席、遠くにある後ろ姿を眺める。女は一期一振の隣にいて、その周りを短刀が守るように固まっている。彼らのまとう空気は華やいでいて、反比例するかのように歌仙の周りの空気は沈んでいた。
「一期がさ、あの子のこと気に入ってるんだって」
学生のような無邪気さで主がいった。皿の上にはホッケの開きが乗っている。白い身に箸を割り入れながら男は呟く。
「もったいないことしたね」
「何が」
不機嫌を隠さずに返すと、審神者はそれには答えずに、「あー逃した鯛はでかいよ」なとどのたまう。段々と歌仙はいらいらとしてしまったが、次の言葉で怒りの炎が鎮火された。
「あの子、明日非番なんだけど。休みの日にひとりでどこかへ行っているみたいなんだ。歌仙さ、こっそりあとを追って、さりげなく注意してよ」
色々とあぶないからさ、と、独り言のようにいいながらお猪口に口をつける。空の杯を反射的に満たしてやりながら、歌仙は疑問をそのままぶつけた。
「どうして僕が」
「俺が一番信頼してるから」
なんでもないことのように男はいって、次に日本酒の旨さについて話は流れていった。だけど歌仙はもう聞いていなかった。内側で滲むような喜びを噛み締めていたのだ。

翌日、防具や外套を外した状態で、刀だけを腰に差して歌仙は外へ出た。さりげなく見習いの部屋へ寄ったが中は無人で、本丸のどこを探しても姿はなかった。主の言っていたことは本当のようだった。てっきり酒の飲み過ぎで適当なことを喋っているのかと思っていたので、少し反省した。
散歩がてら庭を一周する。おもての庭には花が咲き誇っていて、奥に行くにつれて落ち着いた印象の庭園へと変化していった。初夏に入ろうという季節は緑がいっそう輝きを増す。太陽の光をいちばん喜んでいるのは草木のような気がしていた。吹き渡る夏風に目を細めながら、歌仙はゆっくりと歩みを進める。
池を越えると畑に通じる道があり、横には裏の山へと続く道がある。分かれ道だ。片側は森に続くので薄暗い。
どちらへ行こうかと考え、なんとなく右のような気がしたので進路を変えた。特に深い理由はなく、ほとんど勘だった。
こちらの道が正解だったと知ったのは、木で囲まれた道の先をでたときだった。坂は傾斜がきつく、ちょっとした登山のようだ。頭上を覆っていた枝が薄くなりふたたび光のもとへおりる。視界がずいぶんと開けていた。眩しさに目を細めてあたりをみわたすと、女の後ろ姿が目に入る。木の根元に座りながら、ぼうっと景色を眺めていた。奥は崖のような斜面になっているので、彼女の向こう側には連なる山と空が見える。
無防備な後ろ姿だ。放任主義の主が頼んできたのにも納得してしまう。そんなことを思いながら草を踏むと、石のようだった女に動きがあった。右手に持っていた何かを口元にもっていく。水面をのぞくように体をかたむけると、大きく息を吸って、次の瞬間、歌仙は動けなくなってしまった。
木の間を二匹の鳥が飛んでいく。高い音が鼓膜を満たした。女は笛を吹いていた。木でできたそれは、彼女の手にかかると驚くべき威力を発揮した。伸びやかな音がまわりの世界を柔らかく変えていく。空も風もいっとき動きをとめ、彼女の音色に耳を澄ましているように思えた。
どのくらい経ったのかわからない。最後の余韻を残して音が風にとけたとき、歌仙の両手は勝手に称賛を送っていた。急に拍手をされて驚いた女は振り向き兎みたいにかたまってしまう。
「な、なんでここに」
「今の曲は? 初めて耳にしたよ。とても良かった」
女の顔がみるみるうちに赤くなっていく。たちあがりかけたので手で制して、隣に座っていいかと問い掛ければ、渋々と頷いてくれた。
腰を下ろすとなるほどそこは居心地が良かった。視界はひらけていて空がほんとうに広く見える。はてに草原のようにゆれているのは、育つ前の稲だった。
「さっきのをもう一度、聴かせてくれないか」
俯いている女にたずねれば、勢いよく顔をあげ、もげるのではというほどに左右にふった。それでもめげずに頼み込むが、彼女がふたたび笛を鳴らすことはなかった。
歌仙は残念に思いながら、ここにきてやっと当初の目的を思い出す。
「敵はいつあらわれるか分からない。ひとりでここへ来てはいけないよ」
あからさまに落胆しながら、女は小さく返事をした。頑なな横顔を眺める。きっと、もう彼女はここへこないだろうと思った。
「良かったら、僕が護衛をつとめるよ。お望みなら物として振る舞う。口もきかないし、いないものとして扱っていい」
「でも」
「そのかわり、僕に曲をきかせてくれ」
女は黙っていた。ながいながい沈黙のあとに小さく頷いたので、歌仙は心から安堵する。

奇妙な関係が始まった。物のようにふるまうと言ったが、歌仙は女が、ありのままでいていいと言ってくれるのではと期待していた。だがその予想は外れることになる。
休みの日、裏山に行きたくなると女はまず歌仙の部屋に顔を出す。今日は予定がありますか。ないよ。そこで会話は終了だ。裏庭にある橋の前で待ち合わせ、獣道に似た山道をふたりでのぼる。
最初のころ、話しかけたほうがいいのではと思ったけれど、自分で伝えた提案を思い出し歌仙は黙っていた。女は歌仙のことなど見えていないみたいに自分のペースで歩いていく。これは気が楽だと思ったけれど、たまに、猛烈に約束を破りたくなってしまう。それは道中というより、目的地についてからよく思った。
空がよく見える定位置に腰掛ける。乾いた地面に、着物が汚れるのもかまわずに女の隣に胡座をかいた歌仙は、細い指先が濃い紫の布から細長い笛を取り出すのを眺めていた。不調がないか確かめるように触れて、何度か試しに音を出す女の横で、楽器の付喪神もいいものだと考える。
首を僅かに傾けて、口づけをするように笛に顔を寄せる。その瞬間だけ胸がざわついたけれど、あとは押し寄せる音の前で動けなくなる。風となめらかな音が絡まり複雑な色を見せてくれる。歌仙はため息をついて脱力し目を閉じた。不思議なことに、視界が遮られても音楽は瞼のうらに風景をうつすのだ。日によって見える世界は違っていた。ある日は花畑、またある日は女と男が踊る姿。どの世界も透き通っていて美しく、いつまで見ていても飽きない。
こうして過ごせるのは彼女と歌仙の休みが被った日だけで、おまけに天気が悪いとそれも取りやめになってしまう。歌仙はいつしかカレンダーを見るのが癖になっていた。次の非番をしっかりと確認するようになり、主は不思議がっていた。理由をたずねられたが、歌仙は笑って誤魔化した。秘密にしておきたかった。ふたりだけの、共通の隠しごとだ。
次の休みが被る日に、主にばれないよう、こっそりと赤丸をつけながら、歌仙はあることに気がついてしまう。一ヶ月後の日曜日に大きく丸がついていた。これは歌仙がつけたものではない。主がつけたものだ。見習いの研修期間がもうすぐ終わってしまう。それを視覚的に実感して、歌仙は静かに絶望した。胸がざわついて、心臓が絞られるような感覚が襲ってきたが、理由はわからなかった。だが、数日後、その痛みの理由に気付くことになる。

廊下を歩いていた歌仙は、突然耳に入ってきた笑い声に顔をあげる。庭の奥、花に隠されるようにふたつの人影があった。片方は女の姿をしていた。もう片方は明るい髪をした男だった。彼の指導は周りからも好評で、彼女自身もみるみると力をつけていった。一期一振が地面に咲く花を指差し何かを呟くと、聞き取りにくかったのか女が顔を寄せた。
次にみせた男の行動に、歌仙は持っていた資料を廊下に落としそうになってしまった。彼は自然な動きで、女の瞼に口つけた。女は当然のように体をかたくし、猫のように目を丸くした。一期はそんな女を笑い、何事か耳打ちする。
跳ね除けてくれたら、もしくは突き飛ばしてくれたら、心はまだ救われたかもしれない。床に囚われたように動けない歌仙は心の中で見るなと忠告する己の声に無視をして、まっすぐに見つめる。
女は顔を真っ赤にすると、真摯に男と向き合った。そして次の瞬間、滲むように笑った。心をほぐすようなやさしい笑顔だったが、そのとき歌仙の心はずたずたになった。彼が一度も見たことのない表情だったからだ。彼女はそのとき確かに、愛想ではなく心から笑っていた。

一期一振があの花畑で何をしていたのか、噂好きな刀剣たちのお陰で歌仙はすぐに知ることができた。やっと想いを告げたのだ、と短刀がはしゃいでいう。結果は怖くて聞けなかった。歌仙は曖昧に笑いながら、喧騒から抜け出し自室に戻る。なるべくいつもの行動を心がけた。うまく孤独に戻れるように、風呂に入り丁寧に身を整えて、少しだけ本を読み布団にすべりこむ。
考えないように努力をしたのに、灯りを消した途端にそれは襲ってきた。波のように押し寄せてくるのは焦燥だった。瞼を閉じれば音楽が耳の奥で鳴る。切なさで胸がどうにかなってしまいそうだった。心臓のあたりを手で握る。どきどきとして落ち着かない。こんなに喚いているのは戦場にいるときくらいだった。
暗闇の中に女の姿が浮かぶ。必死に手を伸ばしてみるけれど、あと少しのところで届かない。
「きみ!」
声をあげて呼び掛ければ、振り向いた女と目があった。
気がついてもらえた。歌仙が口を開けるのより早く、女が息を吸う。
「私この人と行くの」
いつのまにか隣には男がいて、みせつけるように細い腰を抱く。女ははにかむように笑い、歌仙のことなどすっかり忘れてしまったように背を背ける。小さくなる背中を呆然と見つめていた。手をついた地面にある砂を握る。爪の間に小石が入り、針で刺すような痛みが走った。歯を食いしばり漏れ出る声を封じる。

また傷を負ってしまった。今度は中傷だった歌仙は手入れを後回しにされた。だがそんなことは気にならなかった。それよりも彼の心を蝕んだのは、敷居の向こう側にいる男女の声だった。男のほうは見知ったものだった。隊員として戦地に赴いた男のものだ。
「私たちは、いつ死ぬかもわかりません。明日が無い。まさに暗闇といえましょう」
夢の中にいるみたいだった。眠りのなかに逃げようとするたびに、ふたりの声が邪魔をする。まるで蠅のようだ。ぶんぶんと羽音に似た話し声に仕方なく耳を傾ける。
「心は決まりましたか」
こんな場所で何を言っているのか。そう思うと同時に、だがそれは致しかたないことだとも思った。つい数時間前まで戦場で刀を振るっていたのだ。自身の手のひらを見つめる。爪の先に赤黒いカスのようなものがこびりついていた。戦った後はいっそうのこと命について考えるようになる。そして、死についても。肉体は魂の乗り物で、ほんの少しのことで泥屑のように崩れてしまうということを、武器である男士は誰よりも深い部分で理解している。
空気が張り詰めている。歌仙と一期一振は、女の第一声を、全身を耳にして待っていた。敷居の向こう側で衣擦れの音がする。たまらなくなって、歌仙は寝返りを打つと、自身の手で両耳をふさいだ。

時間とはあっというまのもので、研修期間もあと一週間を残すばかりとなった。練習の成果か、研修の見極めとなるテストにも、女は無事に合格した。もう習うことは何もない。あとは実戦あるのみだった。
桜は散り雨の降り続ける梅雨もすぎ、夏の暑さも和らいだころ。歌仙は山道を登っていた。何度もふたりで来た道を、こんどはひとりで歩いていた。草木が空気を清めてくれるのだろうか、ここはいつも清々しい風が吹いていた。
頭上を取り囲んでいる木がなくなり、光のふりそそぐ地面に足を踏み出す。視線の先にはひとりの女性の姿があった。伸びた背筋。まっすぐに空と向き合っている。
「急に呼び出してすまないね」
柔らかい声を作る。緊張で喉の奥が鳴った。振り向いた女は、目が合うとほっとしたように笑ってくれる。
「いいえ。もう研修も終わって、暇でしたから」
「隣に座ってもいいかい?」
「もちろん」
静かに腰を下ろすと、歌仙は深呼吸をした。袂をさりげなく確認する。かたい感触が伝わった。
一期一振が見習いに振られてしまったと彼の耳に届いたのは、つい昨日のことだった。本人は酷く落ち込んでいたが、主は楽しそうに笑って一期の肩を叩いた。いい経験をしたなといい、夜遅くまで励ます会と称し酒を飲んだ。普段から酒をたしなんでいる刀や、全く関係のない者たちもそれらに加わり、ある種の宴会のようになってしまった。燭台切と歌仙は出しては無くなる酒のつまみを作るのにてんてこまいになった。
袂にある髪飾りは、先日小夜と万屋に行ったときに買ったものだ。珍しく小夜が小物屋に寄りたいといい、特に断る理由もなくついて行った。ぼんやりと棚を見ているうちに、すみのほうでひっそりとそれはあった。黒い枝の先に桜の花びらが咲いている。しだれ桜を想像して作られたのか、涙のように雫が零れていた。光を受けて輝く簪に、歌仙は暫し心を奪われた。
「それ、いいですね」
いつのまにか隣にきた小夜が呟く。もうすぐ見習いの研修が終わり、会えなくなるので記念になるような物を渡したいのだと言って頼まれて万屋に来たが、歌仙も同じようなことを考えていた。
大きな猫のような瞳を瞬かせて、彼はじっと歌仙を見つめる。
気が付いたときには桜の花びらは手の中にあった。
「あの」
「歌仙様」
同時に声を発した二人は、目を合わせ、はにかむように笑う。女は俯きながら伝えたいことがあるのだという。歌仙が先を促すと、女は握った拳に力をこめた。
「短い間でしたが本当にありがとうございました。途中から変わってしまいましたが、歌仙様に教えてもらったこと、大事に胸に刻んで、審神者業にいそしんでいきたいと思います。そして、報告があるんです」
顔を赤くしながら女が言う。歌仙は愛らしいなと思うと同時に心臓がさざめく感覚がした。第六感が警報を発していたいた。嫌な予感はあたることになる
「先日、初期刀を歌仙兼定に決めて、政府に報告してきました」
「なんと、言った……?」
「貴方は最初、私にこう教えてくださいました。『僕たちは妖怪に近いが神だ。心を許してはいけない。でも、唯一それを許せる存在があるとすれば、それは初期刀だ』――と。私は貴方と出会い、歌仙兼定という刀を、いっとう好きになりました。本当にありがとうございます」
段々と理解していくとともに、世界の色が崩れていく。深々と頭を下げる女のつむじを眺めながら、歌仙はそんなことを言ったなとぼんやりと考えていた。本当に最初のころ、私室で膝を突き合わせて話をした。とっくに忘れていた言葉を、彼女はずっと覚えていたのだ。歌仙が思っていたよりもずっと、女は真剣に指導を受け止めていた。
「次は、歌仙様の番です」
内側は嵐のように荒れていたが、きっと外には出ていないだろう。歌仙が必死に口をひらいた。
「君と出会えて、本当に良かった。君に顕現された刀は幸福だ」
「うれしい。やっと認めてもらえた」
このあと別れの挨拶をしないといけないからと、女は腰をあげた。歌仙は動くことができなかった。指先に温度が無い。ふりしぼるような気持ちで、
「先に戻っていてくれ。僕はもう少し、この景色を眺めていたいから」
と言った。女は彼の精一杯の強がりにはまるで気がつかずに、背を向けて足を踏み出す。
耳の奥で音が鳴っている。それは過去に耳にした音の調べで、彼の心と共鳴し、たかくたかく鳴っている。
空は青く高い。見あげれば白い雲が風とともに流れていく。草木が風に揺れている。世界はこんなにも美しいのに、心の奥を覗いてみれば、暗闇が口をあけていた。塗りつぶすような爆音が耳の奥で響いている。もう清らかな調べはきこえない。
歌仙は胸に沸く衝動のまま、渡せなかった簪を握りつぶした。