※お題箱 歌仙兼定が神様っぽい歌さに
隣の席のゆうくんは、いつも日に焼けていた。とりわけ夏になると、休み時間のチャイムと共にグラウンドにくり出し、プールでは常に全力で水しぶきをあげるので、表面を焦がしたパンのようになる。焼けた皮膚は、時間が経つと蛇が脱皮をするように端からやぶれた。それが気になるのか、彼は集中が切れるたびに桃の皮のようにむいてしまう。そして――一度だけ、口に持っていったことを、わたしは知っている。なぜならわたしは、ゆうくんのことが好きだからだ。横目でいつも見ていた。
一番窓際の、最後列の席。学校の窓は大きくて、まるで美術館の絵画のように外の風景を切り取る。彼の向こうには夏の入道雲が浮かんでいる。気持ちの良い夏空だった。
ゆうくんは手に鉛筆を握っていた。授業に飽きたのか、ノートにらくがきをしている。尖った先が紙に滑らかな線を引いた。絵のセンスは無いようだった。なので、よく教科書の挿絵に足す形で落書きをする。漫画のコマのように。
横から観察されていることなど露とも知らずに、彼はもくもくと手を動かす――が、手元に力が入りすぎている。ほとんどグーの形で鉛筆を握っているので、余計な力がかかっていた。このままでは、と、思ったときには遅かった。
ボキ、と人を殴ったような音のあと、ぎゃっと悲鳴があがった。反射的に抑えた手をひらいて中をみると、彼は情けない声をあげる。
「いってぇ」
「大丈夫?」
身を乗り出して覗き込むと、皮膚に黒い線ができて、鉛筆の芯が肌にめりこんでいた。ゆうくんは必死に飛び出た先端を指でつまもうとする。しかし焦っているのかうまくいかない。ちょうど机に影が落ちて、動きが止まった。
「何をしているの」
教室は静まり返っていた。いつの間にかすぐそばまで来ていた先生が、保健室に行ってきなさい、と冷酷に告げる。
無言で立ちあがった彼に付き添おうと反射的に腰をあげるが、
「ひとりでいいから」
とぴしゃりと言い放たれたので、しぶしぶ席に着いた。隣の机を見ると、すこし黒く汚れたノートと、鉛筆の粉が散乱している。
放課後になってからやっと、ゆうくんは帰ってきた。手の甲には包帯が巻かれていて、目があった彼はどこか得意げに左手をあげる。ついでに包帯の中身を見せてもらった。すぐに対処できたのが良かったのか、埋まっていた鉛筆の芯は綺麗にとれていた。赤く腫れた皮膚も時間と共に薄れるだろう。
「怖かったね。すごい音だったし」
ゆうくんは、ほんとな、と笑って、ランドセルを取りにいった。それから鉛筆の芯事件のことはすっかり忘れて、わたしたちは中学校へと進学し、自然と会わなくなっていった。
社会人になった今、どうしてそんなことを思い出したかというと、私の手にも、同じように黒い跡があるからだ。それは生まれたときからあった。ちょうど、小指の下あたりに、黒くて小さな物体がある。指で押すとしこりのように跳ね返すので、すこし気持ちが悪い。普段は気にならないけれど、一度考えてしまうと無性に気になってしまい、高校生になる前に手術で取ろうと思った。
しかし、レントゲンを目にしながら医者は首をかしげる。それらしきものが何も見あたらなかったのだ。たしかに触ればしこりがあるのに。
医者は、脂肪の塊だろう、大人になったら自然と取れると言った。診察時間は五分とかからなかった。
もうひとつ、思い出した理由は、先日、地元に帰った際に同級生と会ったからだ。九州に新店舗をかまえることに決まったので、なかなか会えなくなるかもしれないと電話でもらすと、愚痴に付き合ってくれていた友達はおおいに驚いた。それは大変だと急遽飲み会を開いてくれ、いっそのこと普段会えない人をみんな呼ぼうということになった。飲み会のさなか、たまたま通りかかった知人が加わり、その人がまた別の友達を呼んだので、最終的にすごい人数になってしまう。――私は言えなかった。なかなか会えない、のなかなか、は、せいぜい一ヶ月程度のことで、何年も永住するわけではないということを。すっかり誤解した友人が、目に涙をためて「元気でね」などと言うので、私は神妙に頷くことしかできない。
完全に訂正するタイミングを見失い、二軒目をはしごしてからカラオケに入ったころには、全てがどうでも良くなっていた。どうにでもなれ、という気分である。アルコールが染みた頭の片隅で、ここまでついてくる人たちは、すでに記憶が残っていないだろうとも思った。みんな、体のすみずみまで酔っていた。
「なぁ。俺のこと、覚えてる?」
流行りの曲に耳をかたむけながら、机に放置されているしっとりとしたポテトをつまんでいると、横に男が座った。まわりの喧騒に負けない音量で、でも気をつかいながら話すしぐさにピンときて、
「ゆうくん?」
と、答える。すると男は夏のひまわりのような笑顔を浮かべた。懐かしさが胸に込みあげる。
彼は今、現場監督として働いているらしかった。施工した建物を聞くと、近くにある有名なホテルや、都庁の名を出され驚く。最近まではベトナムに行っていたらしい。
話しているうちに好きだったころの気持ちがぶり返してきて、声が高くなる。音程のずれた歌が遠くなり、かわりに蝉の鳴き声が近づく。せっかく繋がった縁。これっきりにしたくなくて連絡先を聞きたいと思っていると、みすかしたように目の前に紙が出てきた。
「いつでも連絡して」
手の中に収まる名刺を握りながら、しっかりと頷いた。何か始まるような予感に胸が高鳴る。
別れ際、ゆうくんは耳元でこう言った。
「俺、小学生のころ、お前のこと好きだったんだ」
本当さ、と笑う。彼は笑うと口が真横に伸びるのでなんとなく“かっぱ”に似ていて、それが遠い記憶の姿と全く違っていなかったので、わたしはとても嬉しくなる。
そんな運命的な再会をはたしたにもかかわらず、二度目はおとずれなかった。何度か連絡をして、お互い意気投合し会おうとなるのだけれど、なぜか土壇場にタイミングが合わなくなる。やっとのことで予定を合わせた夜に記録的な台風が近づいてきたり、そうかと思えば、相手に急な接待が入ったり。
見えないなにかに邪魔をされている気がしてならない。そうしているうちに、私は出張の日が来てしまい、それきりとなってしまった。また今度の機会に、と言いあって通話を切ったけれど、社会人の告げる今度、が滅多にこないことを、私はすでに知っていた。
初めて降り立った土地で、嫌味なくらいすがすがしい青空をみあげる。今日は朝から土砂降りなのではなかったか。予報が嘘のように晴れていた。
東京から熊本までは、飛行機で三時間くらいかかった。支店となる店舗は形だけ借りていて、備品を準備するところから始める。円滑に業務がまわるようになってから人を募集し業務を教えて、引き継ぎが終わったらまた本社に戻る。簡単にいうと私はつなぎの人材だった。
事務の仕事はルーティンの作業がほとんどなので、覚えてしまえば楽だろう。問題は人間関係だな、と癖のある営業の顔を思い浮かべながら考える。
前乗りで予定より早く来たので、せっかくだから熊本を観光することにした。曇りが多い土地だと聞いていたけれど、空は良く晴れていて、まるで歓迎しているみたいに思える。
あっという間に月日は経ち、夏を飛び越えて、九月になった。真夏の暑さはお盆をすぎたころからぐっとやさしいものになったけれど、まだ残暑が続く。そんな季節だった。
初めて支店のたちあげにかかわったので、一時はどうなることかと思ったけれど、新しい人が来てくれて、めでたく店は動きだした。新人の子はやさしそうな雰囲気をもつ、若い女性だった。
送別会は先日すませた。会社からの帰り道、飛行機のメールを確認しながら道を歩いていると、看板が目に入る。期間限定で何か珍しい展示をやっているらしい。すれ違った人が興奮気味に話している。いましか見られない、という言葉に惹かれて立ち止まった。
引き寄せられるように入り口へ向かう。見慣れない建物は美術館だった。私の人生と美術は遠く離れているので、このような場所に足を踏み入れるのは、本当に久しぶりだった。
中は開放的な作りになっていて、天井に届くのではというほどの窓に、木がうつっている。室内は独特の静寂に包まれていた。人はちらほらといるのに、誰も大声をあげたりしない。異空間に来たみたいだと思った。
展示は別棟にあるらしく、本館ではないところから人がちらちらと出てくる。興奮したように上気した頬。瞳が輝いていた。そんなにすごいのか――と、失礼なことを考えながら中に入る。平日の、しかも閉館間際のためか人は少ない。これならゆっくり見れそうだと安心した。
東京の美術館で開催される、有名な展示は多くの人が押し寄せる。一度だけ、興味本位で教科書にのっている日本画家の絵を見に行ったことがあるけれど、人が多くて鑑賞どころでは無かった。人気の絵師だったみたいで、列には五時間も並んだ。
そんなことを思い出しながら歩いていると、最奥にたどりつく。暗い室内。視線が自然と誘導される。スポットライトに照らされていたのは、一本の刀だった。
硝子にふれないように気をつけながら一歩ずつ近づく。さっきまで人がいたのに、いつのまにか誰もいなくなっていた。壁と同化するようにして学芸員のスタッフがいるだけだ。貸し切りみたい、と思いながら刀と向き合う。圧倒的な存在感。鉄はどこまでも静かだ。
館内を出ると日が落ちていた。普段は使わないけれど、バス停が近くにあったので利用することにする。頭の中でさっき見た映像を反芻した。世界をうつすような鉄。残虐さと美しさを兼ね備えたもの。歴史的背景はあまり詳しくないけれど、満ち足りた感覚で胸がいっぱいだった。
あらかじめ調べていた停留所で降りる。が、風景が調べたものと違ったので、バッグからスマートフォンを取り出して地図アプリを起動してみる。でている地形とまるで違うところがあらわれたので困惑した。画面の中では大通りが表示されているが、ここはどこかというと裏通りだ。カーナビでも変な場所に誘導されることがあるけれど、そんな現象だろうか。不思議に思いながら歩いていると、小さな神社があったので入ってみることにした。すっかり夜になったので恐ろしいが、歩き疲れたのでどこか休む場所がないかと思ったのだ。特にそれらしきものが無かったので、何となく手水舎の前で立ち止まりあれこれ検索していると、じゃり、と砂を踏む音が耳に届く。
「やあ。こんなところで何をしているんだい?」
「少し道に迷ってしまって。良かった。ここらへんに住んでいる人です、か……?」
声がとぎれとぎれになってしまう。顔をあげた先にいた男を目にして、違和感がかけめぐった。
あきらかにおかしい。
まず服。着物を着ている。それはなんら問題がないし、一瞬神主かと思ったが、すぐにちがうと理解した。男は淡い紫の髪色だった。神職につくならこの色は適さない。
目を合わせた途端にぞっとした。硝子玉みたいに無機質な瞳がこちらを見ている。ここで確信した。これは人ではないなにかだ。
顔に出てしまったのか、男は腰のあたりに手を置きながら、困ったように笑う。視線をゆっくりもっていくと、そこには刀があった。
「あのまま帰してあげようと思ったのだけれど、君の顔を見たら、気が変わってしまったよ」
本当に申し訳なさそうに男は言った。動けない私を置いて、さらに言葉を続ける。
「輪廻転生しているのだから、記憶を失うのは仕方ないが、そのような顔をされると寂しいものがあるな。ここへ来る前に、特別な相手が出来たらどうしようと思ったよ。あぁ、でも良かった。それが残っていて」
ひとりで何をべらべら喋っているのだと不審に思いながら、男と同じ場所に視線を落とす。小指の付け根。鉛筆の芯が残っている場所があった。
そこからはあっという間だった。
男が刀を抜く。急に平衡感覚がなくなった。世界がまわる。赤い鳥居。境内。古びた賽銭箱――。体がひっぱられる。視界が暗転する
「いやだ! 斬らないで! 殺さないで!」
悲鳴と共に叫ぶと、遠くで誰かがこたえる。
「殺すなんてとんでもない。これからはずっと一緒さ」
どういう意味、と訊きたかったけれど、それは叶わなかった。喋ろうとも口が無い。体から力が抜け、足元から沈んでいく。地面が溶けて飲まれていく。
悲鳴は音にならない。爆音のように響く耳鳴りの向こう側で、尖った音が届いた。
もしその場に人がいたら、きっと自分は気が狂ったのではないかと思うだろう。
刀を抜いた男が、鯉口を向けると、守るように顔に腕を覆っていた女が鞘に吸い込まれていった。末端から体が溶けて融解する。抵抗するように鞘から指が出ていたがむなしく飲み込まれ、最後に髪の毛が収まると、男は封印するように刀を収めたのだから。