馬刺しよりも美味いもの

父は、言葉を選ばずにいうと、クズと呼ばれるような男だった。仕事は鉄工場の作業員。毎日埃臭い作業着を身にまとい、重い作業靴をはいていた。父という人間の引き出しをあけてみると、酒、たばこ、女しか入っていない。おまけに趣味はパチンコで、三十代前半にして借金が五百万円強あった。ポストに放置されていた一枚の督促状を手にして怒鳴っていた母は、数日後に古びたアパートから姿を消した。

父は顔だけは良かったから、女には困らなかった。こんな生活力のない男の元に子供を置いて行くなんてどうかしている、と思ったけれど、成長した今は母の気持ちがすこし分かる。遺伝子の力はすさまじく、私は父にそっくりだったのだ。特に目元なんてうりふたつだ。人によっては憤慨するかもしれないが、くっきり二重が憎らしいと鏡の前で強く思った。

他の子どもが当然のように口にする、週末のお出かけも、残念ながら記憶にない。――いや、一度だけあった。私と父の、唯一の思い出と呼べる記憶。

その日は猛暑で、早起きをした私は庭で土いじりをしていた。隣には黄色いバケツが準備されていて、なかには澄んだ水が満杯に入っていた。さらさらの砂は、水を少しだけ流すと粘り気をおび、あらゆるものに形をかえることができる(ただし細長いものを作るのにはむかない)。今日は何を作ろうと考えながら、とりあえず砂をかき集め、うず高くしていると、頭上から声が響いた。

「おい、馬を見に行くぞ」

顔をあげれば、すぐそばに父が立っていた。太陽を背にしていて、完全な逆光になっており表情が見えない。めずらしく、汚れた作業着ではなく、白いポロシャツにスラックスを着ていた。足元はゴルフ用に買った、何十万もするスニーカーだった。靴底に鋲が入っているので、歩くとこつこつ音がなる。

「動物園?」

無垢な問いかけに、父はにやりと笑いながら頷いた。幼い私は歓声をあげ、砂場の道具をしまうことも忘れ、家の中にすっ飛んでいった。ラピュタのドーラでさえ目を見張るだろうスピードで手を洗い、服を着替え、すっかり余所行きの恰好で玄関に出る。そんな私を見て、父は笑いながら車のドアを開けた。

しかし、期待は打ち砕かれることになる。数時間後、ついた場所は動物園ではなく――競馬場だった。動物なんて一匹もいなかった。周りにはおじさんしかいない。みんな手に細長い新聞紙を持って、赤いペンでなにか書いている。

ここで待っていろ、と言って、父は早々にいなくなってしまった。残された私は暇を持てあまし、そこらにあった尖った小石で地面に絵を描いた。すると知らないおじさんが近づいてきて飴をくれた。小さなそれを受けとりながら固まってしまう。笑顔よりもなによりも、驚いたのは口だった。男には歯が三本しか残っていなかった。驚いた私は、お礼も忘れ、その場から逃げ出した。

たどりついたのはグラウンドに似た場所で、みんなが柵の外から内側を見つめていた。何かを待っているかのような、張り詰めた空気。あっけにとられていると、銃声の音が響いた。

生まれて初めて、レースというものを見た。ゲートが空き、押し出されるようにして馬が駆け抜けていく。風になびくたてがみ。首がまちきれないとばかりに前へと向かうのに、胴の重心は決してぶれない。細い足が地面を蹴り上げて土が飛ぶ。筋肉が躍動する。

どの馬も美しかったが、ひときわ目を引いたのは先頭を走っていた馬だった。コーナーをまがり直進に差し掛かると、馬は一本の矢のように突き進む。息を飲むのも忘れ、知らずに拳を握りしめた。

実況者が「あと二百メートル!」と叫んだとき、事件が起こった。踏み出した前足がくにゃりと曲がる。首からつんのめるようにして馬はよろけ、あとに続いていた馬たちもつぎつぎと巻き添えになった。落下した人間は馬の脚に踏み潰され、ピクリとも動かない。絶叫。波のように呻き声が広がり、沈んでいく。

「あぁ。やっちまったな」

いつのまにか隣に父がいた。私は父と馬と、交互に視線をめぐらせる。やっとのことで声を絞り出した。

「あのお馬さん、どうなるの?」

人間はすでに担架に運ばれていったあとで、レース場には馬だけが残されていた。馬は、変な方向に曲がった脚を無理に地面にめり込ませながらも、なんとか立ちあがろうとし、どうっと真横に倒れる、ということを繰り返していた。

「馬刺しになるのさ」

こともなげに父はいい、小さな手をひいた。当時、言葉の意味が分からなかった私は数年後に理解をする。

去り際にもう一度振り返ると、馬の黒い眼とあった気がした。

細い鳴き声が響いている。断末魔のような嘶きが、いつまでも耳にこびりついていた。

 

 

 

「なんで今、そんな話を俺にした?」

和泉守兼定が、ぐっと上体をおこしながら呟いた。痛そうに顔を歪めているが、助けることはしない。腹のあたりでぐるぐる巻きにされた包帯を冷たく眺めながら、淡々とこたえる。

「さぁ。撤退を指示したのに敵地に突っ込んで、あまつさえ重傷を負って帰ってきた貴方を見ていたら、そんなことを思い出しました」

手入れ部屋は薄暗い。配慮された場所に設置されているためか生活音がほとんど聞こえず、静かなものだった。わざと包帯に巻かれた腕を押す。まだ傷が完全に癒えていないのか、男は眉間に皺をよせ、呻き声を出した。

ため息をつきながら視線をあわせる。

和泉守は出陣させるたびに無茶をする。力量の差が明確で、とうていかなわないと思われる敵を前にしても全くひるまず、逆に鉄砲玉のように突っ込んで行ってしまう。その度にひやひやとするし、重症になって帰ってくると卒倒しそうになる。ぐたりと意識がなく、骨が折れた腕を見ると、否応がなくあの夏の日を思い出してしまう。

やはり一度きつく叱っておかないといけない。そう思い口を開いたとき、ちいさな声が鼓膜をふるわせた。

「あんたは、ドンケツの馬を覚えているか?」

独特の言い回しに首を傾げつつ、しかしなんとなく言いたいことは伝わったので、頭を振った。鮮明によみがえるのは、風を切りさくように先頭を突き進む一頭だけだった。私の心を読んだかのような顔をして、男は神妙に頷いた。

「ここにはたくさんの男士がいる。こうでもしないと、あんたは俺を見ない。一番にならないと、意味がねぇんだ」

なんと答えたらいいか分からず、きまりがわるくなり視線を畳に落とした。そんなことなどお構いなしに、男は言葉を続ける。

「俺は、馬刺しになんかならねぇぞ」

今に見ていろよと、宣言するようにいい、和泉守は痛いと呻きながら立ちあがる。最後に振り返ると、にっと口角をあげ、廊下へと出ていった。

蝉の合唱を全身にあびながら、はっとわれにかえった。手入れ道具を漆の黒い箱にしまい、胸に抱える。

開け放たれた障子の向こう側にひろがる庭を眺めた。緑の草木が夏の光をうけて輝いている。空はこれ以上ないくらいに晴れていて、かたそうな入道雲が浮かんでいる。

 

 

 

数日後、彼は宣言通り、一番になって帰ってきた。桜の花びらをまとわせながら、これ以上ないくらいの笑顔を浮かべて。

その日の夕餉は、馬刺し――にはしなかった。

そのかわり、私の手で、彼の好物をたくさん作ってあげた。和泉守はたいそう喜んで、二回もおかわりをした。